第五十七話
カエラは、注文受け取りカウンターの前に静かに立っていた。
厨房と客席を隔てる長いカウンターの向こうでは、調理器具が軽やかな音を立て続けている。焼きたての料理に溶けたバター、香辛料の香りが混ざり合い、店内の空気を心地よく満たしていた。
頭の上にある一対の虎耳は、あちこちから聞こえてくる物音に合わせて時折ぴくりと動く。背後に伸びた縞模様の尻尾も、ゆったりとしたリズムで左右へ静かに揺れていた。
焦る様子はない。
ケイル様とシルヴィアはまだ席で待っている。料理が出来上がるまでは、彼女の役目はただ一つ。
待つことだった。
しばらくすると、厨房の受け渡し口の奥から、巨大なイカの料理人の一本の腕がぬっと現れる。
「ご注文、お待たせしました」
カエラはすぐに歩み寄った。
最初に差し出されたのは、大きな黒い四角形のトレー。
続いて、一皿目の料理が置かれる。
ハニー・バター・ポテトチップス。
真っ白な皿の上には、黄金色に揚がった薄切りのポテトが小さな山を作るように美しく盛り付けられていた。表面には溶けた蜂蜜とバターが艶やかに絡み、淡い黄金色のシーズニングパウダーが一枚一枚に均一にまぶされている。皿が完全に置かれる前から、優しい甘さと温かなバターの香りがふわりと漂ってきた。
続いて別の腕が二皿目を運んでくる。
ゴールデン・チーズ・コロッケ。
こんがりと揚がった丸いコロッケが白い皿に並べられ、横にはディップソースが添えられている。衣は驚くほど香ばしく揚がっており、昼間の光をわずかに反射していた。表面の隙間からは細い湯気が立ち上り、揚げたてのじゃがいもとチーズの香りを運んでくる。
その次に運ばれてきたのは、クリスピー・カラマリ・バスケット。
白いペーパーを敷いた小さなバスケットいっぱいに、衣をまとったイカリングが盛られている。黄金色は先ほどのコロッケより少し濃く、横には冷たいタルタルソースと、切り分けられたレモンが添えられていた。ほのかな磯の香りと揚げ物の香ばしい匂いが重なり、食欲を誘う。
そして最後は――
ブルーベリー・アイスフロート。
透明なグラスの大半を青紫色の飲み物が満たし、その中では氷がきらきらと輝いている。表面にはバニラアイスが一玉浮かび、冷たさのせいでグラスの側面には早くも細かな水滴が浮かび始めていた。
カエラはトレーいっぱいに並んだ料理を数秒眺める。
「……シルヴィアお嬢様は、本当によく召し上がりますね」
虎の尻尾がゆるやかに揺れる。
それでも、その表情はいつも通りほとんど変わらなかった。
一つ目のトレーの準備が終わると、巨大なイカの料理人は続けて二つ目のトレーに取りかかる。
慎重に置かれたのは、大皿に盛られたチキンステーキ・マッシュルームソース。
こんがりと焼き色の付いた鶏肉が皿いっぱいを占め、表面には美しい焼き目がくっきりと刻まれている。濃い茶色のマッシュルームソースがたっぷりとかけられ、その中には形を残したままのマッシュルームが散らばっていた。立ち上る湯気とともに、旨味のある温かな香りがふわりと広がる。
付け合わせには、ローストポテトと数種類の温野菜。
続いて運ばれてきたのは、一杯のレモンジュース。
鮮やかな黄色が見るだけでも爽やかで、グラスの縁には薄切りのレモンが飾られている。透き通った氷がゆっくりと液体の中を漂っていた。
そしてカエラ自身の分は、アイスベリーティーが一杯だけ。
赤紫色のフルーツティーは透明なグラス越しに澄んで見え、小さなベリーの果肉が、グラスの半分近くを満たす氷とともに静かに浮かんでいる。
ほどなくして、食器一式も二つのトレーへ並べられた。
チキンステーキ用のナイフとフォーク。
カラマリ・バスケット用の箸。
フロート用の小さなスプーン。
そして二つの冷たい飲み物にはストロー。
どれ一つ欠けることなく、きちんと揃えられていた。
注文に不足がないことを確認すると、カエラは二つのトレーを同時に持ち上げる。
右手にはシルヴィアのトレー。
左手には、自分とケイル様の分。
その動きは実に安定していた。
手が震えることもなければ、
迷うこともない。
まるで二つのトレーの重さなど、ほとんど感じていないかのようだった。
もっとも、この程度の仕事は、彼女にとって何度も繰り返してきた日常なのだから。
カエラはそのまま受け取りカウンターを離れた。
賑わう店内へ視線を巡らせると、それに合わせて一対の虎耳が小さく揺れる。
探しているのは、すぐに見つかる一つの席。
財布を持たずに店へ来たお嬢様と、そんな彼女に振り回され続けている青年が、料理の到着を待っているテーブルだった。
受け取りカウンターから数卓離れた場所では、シルヴィアが自分のお腹を押さえながら座っていた。
肩は力なく落ち、
表情にも覇気がなく、
ぼんやりとした視線だけがテーブルへ向けられている。
今の姿を見た者がいれば、重い病にでも苦しんでいる令嬢だと勘違いするかもしれない。
だが、理由はずっと単純だった。
お腹が空いている。
とても、とても空いているのだ。
その向かいでは、ケイルもほとんど変わらない格好のままだった。
顔の半分を木のテーブルに預けたまま、
じっと動かない。
さきほどのやり取りから、まだ立ち直っている最中だった。
「……」
「……」
しばらくの間、二人の間に沈黙が流れる。
そのとき、不意にシルヴィアの鼻がぴくりと動いた。
「ん?」
一度、くんと匂いを嗅ぐ。
そして、もう一度。
まるで誰にも聞こえない何かを捉えたかのように。
ゆっくりと顔を上げると、鼻先が左へ、右へと動き――
次の瞬間、その瞳がぱっと輝いた。
「カエラ!」
さっきまでしおれていた体が、まるで嘘のように一瞬で元気を取り戻す。
それを聞いたケイルも、すぐにテーブルから顔を上げた。
「ん?」
振り返ると、
案の定、カエラが両手に大きなトレーを抱えてこちらへ歩いてきていた。
「おお……やっと来たか、カエラ」
「はい、若様」
カエラはいつも通り穏やかに微笑む。
料理と飲み物でいっぱいになったトレーを二つも運んでいるというのに、その表情には疲れ一つ見えなかった。
テーブルに着くと、まずはシルヴィアのトレーをそっと置く。
「こちらがシルヴィアお嬢様のご注文です」
シルヴィアの目が一気に丸くなった。
「わぁぁぁぁ……!」
両手がふわりと持ち上がり、
ぱしぱしと勢いよく擦り合わせられる。
上へ。
下へ。
また上へ。
そして下へ。
まるで宝物を見つけた子どものようだった。
バターの香り。
チーズの濃厚な香り。
揚げたての料理の香ばしさ。
そしてブルーベリーの甘い香り。
それらが一緒になって、テーブルの周囲を幸せそうな匂いで満たしていく。
「ほぉぉ……」
シルヴィアはうっとりと息を吸い込む。
その表情は、この上なく幸せそうだった。
視線は次から次へと料理を行き来し、一瞬たりとも止まらない。
その間に、カエラは残りの料理を並べ始める。
チキンステーキをケイルの正面へ置き、
その横にレモンジュースを添えた。
「そして、こちらが若様のご注文です」
ケイルは小さく頷く。
「ありがとう」
続いて、カエラは自分のアイスベリーティーを置いた。
空になったトレーは、テーブルが窮屈にならないよう少し脇へ寄せておく。
温かなマッシュルームソースの香りが、すぐにケイルの鼻をくすぐった。
目の前のチキンステーキをしばらく眺め、
「香りだけでも十分うまそうだな」
と呟く。
「私もそう思います、若様」
カエラは小さく微笑み、その隣へ腰を下ろした。
一方、その反対側では――
シルヴィアの忍耐は、すでに限界寸前だった。
両手は料理の上で今にも飛びつきそうに浮かび、
指先は獲物を狙うようにそわそわと動いている。
瞳は期待にきらきらと輝き、
口元には、ほんの少しだけよだれまで浮かんでいた。
ケイルはフォークとナイフを手に取る。
そして小さく息を吐き、
「それじゃ――」
「いただき――」
最後まで言い終えるより早く、
シルヴィアが弾かれたように動いた。
「はうっ!」
コロッケを一つ、あっという間に手に掴み取る。
一口目。
まだ熱い。
湯気も立っている。
それでも、シルヴィアの勢いはまったく止まらない。
「はぐっ!」
二口目。
まだ飲み込む前だというのに、
もう手はカラマリ・バスケットへ伸びていた。
「はぐっ!」
続けてブルーベリー・アイスフロートを一口。
ごくっ。
そして今度はポテトチップス。
「はぐっ」
またカラマリ。
「はぐっ」
さらにポテトチップス。
「はぐっ」
もう一度ブルーベリー・アイスフロート。
ごくっ。
食べる順番など、まるで存在していなかった。
しかも、もっとひどいことに。
用意されていた箸には、一度たりとも手を伸ばさない。
全部、素手で食べている。
カエラは少しだけ俯き、
握った拳を口元に添えた。
肩が小さく震える。
「……ふふっ」
笑いを堪えているのが丸分かりだった。
一方のケイルは、その光景をしばらく眺めたあと、
長く息を吐く。
「もう少しゆっくり食べられないのか?」
「無理」
返事は即答だった。
シルヴィアはケイルの方を見ようともしない。
頬は食べ物でいっぱいに膨らんでいる。
「お腹空いてるんだから」
「はぐっ」
「細かいこと言わないで」
「はぐっ」
そう言うと、手に持っていたカラマリを持ち上げ、
何のためらいもなく、そのまま口へ放り込んだ。
ケイルはそんな彼女をしばらく見つめる。
以前なら、この光景を見ればきっと文句を言っていただろう。
どうしてそうなるのかと問い詰め、
理解しようと頭を悩ませていたはずだ。
だが、今は違う。
この数時間で起きた出来事。
交わしてきた数々の会話。
なぜか次々と巻き込まれる妙な騒動。
そして、シルヴィアがそばにいるからこそ生まれる、あの不思議な時間。
そのすべてを経て、ケイルは一つの単純な結論へ辿り着いていた。
シルヴィアという存在を、完全に理解することはきっとできない。
そして――それでいい。
口元に小さな笑みが浮かぶ。
「まあ、いいか」
そう呟くと、チキンステーキをナイフで切り分ける。
「好きなだけ食べろ」
シルヴィアは振り向きもせず、親指だけをぐっと立てた。
口いっぱいに頬張ったまま、まだもぐもぐと噛み続けている。
その様子に、ケイルは苦笑を浮かべるしかなかった。
そして、自分も最初の一切れを口へ運ぶ。
その隣では、カエラがアイスベリーティーをゆっくりと味わい始めていた。
再び、穏やかな空気が三人のテーブルを包む。
大事な話はない。
揉め事もない。
頭を悩ませるような厄介事もない。
ただ三人で、賑やかなアストラヴェルの街の中、昼食を楽しんでいるだけだった。
時間は、気づけば静かに流れていく。
五分。
十分。
十五分。
そして二十分。
プロムナードの賑わいは変わらず遠くから聞こえてくる中、テーブルの上の料理は少しずつ姿を消していった。
ケイルのチキンステーキはすでに空になり、
レモンジュースも残るのはほんの数滴。
カエラのアイスベリーティーも、ほとんど飲み干されている。
そしてシルヴィアの大盛りの料理は――
驚いたことに、
それもすべてなくなっていた。
本当に、きれいさっぱり。
コロッケも、
カラマリも、
ポテトチップスも、一つ残らず。
ブルーベリー・アイスフロートでさえ、空のグラスだけが残っている。
シルヴィアは椅子の背にもたれかかる。
少しだけ膨らんだお腹。
満ち足りた表情。
半分閉じられた瞳。
その姿は、大好物を食べ終えて満足しきった猫そのものだった。
「ふぅ……」
カエラは慣れた手つきで空いた皿をまとめ始める。
一方、ケイルは席に座ったまま、
静かにアストラヴェルの賑わいを眺めていた。
昼食を終えたあとの穏やかな時間を、急ぐことなく味わうように。
シルヴィアは相変わらず満ち足りた顔で椅子にもたれている。
お腹はいっぱい。
料理も完食。
今の彼女にとって、世界はこれ以上ないほど平和だった。
その傍らで、カエラは空いた皿を手際よく重ねていく。
ケイルはテーブルの上へ視線を落とし、小さく首を振った。
「やっぱり、全部食べ切れる理由だけは、いまだによく分からないな」
「才能だから」
「何の才能だよ、それ」
「食べる才能」
ケイルはじっと無表情のままシルヴィアを見る。
対するシルヴィアは、なぜか自信満々に見返してきた。
そのやり取りが妙に可笑しかったのか、カエラはまた笑いを堪えるように肩を震わせる。
ケイルはとうとう背もたれに体を預けた。
食事を終え、少し休んだことで、意識はゆっくりとアストラヴェルへ来た本来の目的へ戻っていく。
「そういえば……」
「ん?」
「まだ三つ、探さなきゃいけないものがあるんだ」
シルヴィアは小さく首を傾げた。
「三つ?」
「エアリンの本」
シルヴィアは頷く。
「それならすぐ見つかりそう」
「それから、アステリアへのアウリエリスのペンダント」
「うん」
「最後に、カエラの旅用ナイフ」
その瞬間、カエラの虎耳がぴくりと跳ねた。
そのまま耳は妙に落ち着かない様子で立ち、緊張しているわけではないのに、どこか意識してしまっているようだった。
椅子の後ろに伸びた尻尾も、隠そうとしているのか諦めているのか分からないまま、不規則に揺れている。
「……まだ覚えていてくださったのですね、若様」
「当たり前だろ。君が頼んだことなんだから」
カエラは嬉しそうに小さく微笑んだ。
「そう言っていただけると、嬉しいです」
ケイルは軽く頷くと、再び考え込む。
「でも、どの店に行けば全部揃うのかがまだ分からないんだよな」
「本とペンダント、それに旅用ナイフでしたら……」
カエラは少し考えてから答える。
「このプロムナード沿いを探せば、すべて見つかると思います」
それまで黙っていたシルヴィアが、不意にすっと手を挙げた。
「私、いいこと思いついた!」
その一言で、ケイルの警戒心が一気に高まる。
「君がそう言う時って、大抵ろくでもないことが起きるんだよな」
「私は問題なんて起こさないよ」
「その自覚がないところが一番心配なんだ」
ケイルは深いため息をついた。
そして椅子から立ち上がる。
「さて、シルヴィアの名案に付き合って道に迷う前に……」
軽く服を整えながら続ける。
「先に会計を済ませよう」
シルヴィアも立ち上がった。
「じゃあ、この後はプレゼント探し?」
「ああ」
「それと、また何か食べる?」
「……さっき食べ終わってから、まだ二十分しか経ってないぞ、シルヴィア」
ケイルはしばらく彼女を見つめる。
シルヴィアはしゅんと視線を落とした。
「じゃあ、先にお会計だね」
だが次の瞬間には、ぱっと顔を上げる。
「うん! 今は素直についていく!」
いつもの明るい笑顔が戻っていた。
それから間もなくして、三人は席を立ち、会計カウンターへ向かって歩き出した。




