第五十六話
シルヴィアの抗議する声は、会計のある場所を離れてからもしばらく途切れることなく続いていた。
ちょうど昼食時ということもあり、店の外に設けられた席はほとんどが客で埋まっている。
休憩時間を利用しながら、それでも仕事の話を続ける行政職員たち。別のテーブルでは、遠方から戻ってきたばかりと思しき貴族商人たちが腰を下ろしていた。旅鞄や装備はまだ腰に提げられたままか、椅子の脇に立てかけられている。
テラス一帯を覆う木製の天蓋の下では、談笑する声と笑い声が、厨房から漂うできたての料理の香りに溶け合っていた。
ケイルはシルヴィアの肩に手を添えたまま、並ぶテーブルの間を歩いていく。
別に逃げ出そうとしているわけではない。
ただ、何か面白そうなものを見つけた途端、急に立ち止まらないと信じ切れるほどには信用していなかった。
「ケイル」
「ん?」
「私、一人で歩けるよ」
「知ってる」
「じゃあ、なんでまだ押してるの?」
「いいから、そのままついてこい」
「むぅぅぅっ!!」
シルヴィアは不満そうに鼻をひくつかせる。
その直後には、拗ねた子どものように頬をぷくっと膨らませていた。
もっと文句を言おうと口を開きかけたそのとき、ケイルは天蓋の端に近い場所に空いている席を見つける。
四脚の椅子が囲む、ごく普通の四角いテーブル。
広くはないが、三人で座るには十分だった。
「あそこだ」
そう言ってテーブルを指差す。
「あそこで食べよう」
「うん」
二人はそのまま席へ向かった。
着くと、ケイルはシルヴィアの肩から手を離し、一脚の椅子を引く。
シルヴィアはすぐに向かい側の椅子へ腰を下ろした。
その隣の席だけは、わざと空けられている。
まだ注文の品を待っているカエラのためだ。
周囲では相変わらず客たちの話し声が絶えない。
時折、開放された厨房から金属の触れ合う音が響き、バターと焼き立ての肉の香りが風に乗って漂ってくる。
ようやく腰を落ち着けたケイルは、椅子の背にもたれかかった。
「はぁ……」
自然と長いため息が漏れる。
向かいに座るシルヴィアが小首を傾げた。
「どうしたの?」
「あとでいくら払うことになるのか考えてた」
「ケイルみたいな人でも、お金のこと気にするんだ?」
その一言に、背もたれへ預けていた体がぴくりと起き上がる。
片眉がわずかに上がった。
「……俺みたいな人?」
「だって、ケイルって優しいでしょ? だから、そういうことはあんまり気にしない人なのかと思ってた」
あまりにも迷いなく返ってきた答えだった。
どういう理屈なのかさっぱり分からない。
ケイルが言葉を返す前に、シルヴィアは気楽な調子で続ける。
「それに、そんなに高くはならないよ、きっと」
その瞬間、ケイルのこめかみがぴくりと引きつった。
「そんなに高くない……だって?」
「えへへ……」
シルヴィアは小さく笑いながら、右手の人差し指を一本立てる。
視線はもう別の方へ向いていた。
「料理を三つ頼んで、それに飲み物もあるから……全部で四つだね」
一瞬、テーブルに沈黙が落ちた。
シルヴィアは照れくさそうに頬をぽりぽりとかく。
「うーん、でも改めて考えると……」
少し間を置いてから、
「ちょっと多いかも」
(ちょっと、だと……?)
ケイルは、注文した料理の値段すら見ていなかった。
店先に掲げられていたメニューには料理名が細かな文字で並んでいたが、さっき立っていた場所からでは読み取れなかったのだ。
つまり今になっても、自分の財布からいくら消えるのかまったく分かっていない。
ケイルはそっと目を閉じる。
両手を口元の前で組み、そのまま数秒間じっと黙り込んだ。
だが、不思議なことに、それで少しも心は落ち着かなかった。
やがて目を開けると、視線は真っすぐシルヴィアへ向く。
「……本当に、お金は持ってないのか?」
シルヴィアは首を横に振った。
「うん」
「少しくらいも?」
「私、お金は持ち歩かないから」
「なんで?」
その問いに、シルヴィアはきょとんとした表情を浮かべる。
まるで答えなど最初から決まりきっていると言わんばかりに。
「だって、必要ないもん」
「えっ!?」
ケイルは思わず目を細めた。
「なんで今の話、金持ちっぽいのは俺じゃなくてお前なんだ?」
「関係あるの?」
「はぁ……」
ケイルはこめかみを押さえる。
「じゃあさ、一人で出かけてるときにお腹が空いたら、どうやってご飯を買うんだ?」
「違うよ」
シルヴィアはもう一度首を横に振った。
「一人で出かけるなら、その前にお母様からお金をもらうもん」
「じゃあ、一人じゃないときは?」
「一緒にいる人に払ってもらう」
「本気で言ってるのか?」
ケイルは信じられないものを見るような目で彼女を見つめる。
「それがお前の考え方なのか?」
シルヴィアはぱちぱちと瞬きをした。
「だって、いつもそうだもん」
「いつも?」
「そういうこと、自分でしたことないから」
その口調には何の迷いもなかった。
「何か欲しいものがあったら言えばいいし、あとはお母様が全部やってくれる」
ケイルは言葉を失う。
「……それ、普通じゃないぞ、シルヴィア」
「そうなの?」
「そうなの、じゃない」
シルヴィアは少しだけ考え込む。
「たぶん、考える必要がなかったからかな」
そう言って、店の外の賑わいへ視線を向けた。
「どこかへ行くときは、いつもお母様について行くだけだったし」
「欲しいものがあったら言えばいいし」
「お腹が空いたら食べればいい」
少し間を置いてから、続ける。
「それに、私はアストラヴェルへ遊びに来たんだもん」
「お金のことを考えに来たわけじゃないし」
あまりにも無邪気な答えだった。
言い訳をしているわけではない。
本当に、彼女にとって世界はそういうものなのだ。
その話を聞いているうちに、ケイルは少しずつ理解し始めていた。
少なくとも、どうしてシルヴィアが何の違和感もなくこんな行動を取れるのかは。
「じゃあ、さっきなんで俺を指さしたんだ?」
「ん?」
「会計のとき」
ケイルは後ろのレジを親指で示す。
「なんで俺が払うって思った?」
シルヴィアは考え込んだ。
本当に、真剣に。
「んー……」
数秒が過ぎる。
「一緒に来たから?」
「それだけか?」
シルヴィアはこくりと頷く。
「ケイルがごちそうしてくれるって思ってた」
ケイルは固まった。
妙なことに、その答えは理屈では否定できなかった。
最初からシルヴィアは、彼と同じ理屈で物事を考えていないのだから。
「それだけで、そう決めつける理由にはならないだろ」
「そうなの?」
シルヴィアはゆっくりと瞬きをする。
まるで、そんな考え方を初めて知ったかのようだった。
ケイルは口を開きかけ――
結局、何も言わずに閉じる。
最後には、長いため息をつくだけだった。
「……もういい」
おかしい。
その理屈はやっぱりどこか間違っている。
それなのに、シルヴィアが言うと妙にしっくりきてしまう。
ケイルがそんなことを考えていると、不意にシルヴィアが身を乗り出してきた。
今度は彼女の瞳が好奇心で輝いている。
「じゃあ、私も聞いていい?」
「なんだ?」
「なんでケイルはお金持ってるの?」
ケイルはぱちりと瞬きをする。
「いや、持ってちゃ駄目なのか?」
「だって、私たち同い年でしょ?」
「ああ。それが?」
シルヴィアは自分を指差した。
「私は女の子で、お金持ってない」
それから、その指をケイルへ向ける。
「でも、ケイルは持ってる」
小さく首を傾げる。
「なんで?」
単純な問いだった。
けれど、その答えは決して単純ではない。
意識は自然と、アストラヴェルへ来た本来の理由へと向かう。
お父様との旅。
家を出たときから考えていた目的。
そして、その後に起きた数々の出来事。
「うーん……」
ケイルは椅子の背にもたれかかった。
ケイルの視線は、天蓋の向こうに広がる賑やかなプロムナードへと向けられた。
「実は俺がアストラヴェルへ来たのは……」
そこで言葉が途切れる。
眉がわずかに寄った。
気づけば今日はいろいろなことが起こりすぎて、本来の目的さえ一瞬忘れてしまっていた。
「……その……」
言葉は宙に浮いたままになる。
視線はなおも天蓋の外へ向けられていた。
プロムナードでは人の流れが絶え間なく続いている。行政職員たちは書類やファイルを抱えて行き交い、そのさらに向こうでは、一台のヴォルタリス・トラムが大通りの線路を静かに滑っていった。耳を澄まさなければ聞き逃してしまいそうなほど、小さな駆動音だけを残して。
どこを見ても、生き生きとしている。
穏やかで――そして、ごく当たり前の日常だった。
「……本当は、お土産を買いに来たんだ」
「お土産?」
シルヴィアの目がぱっと輝く。
「うん」
「誰に?」
「屋敷のみんなに」
「もともとは、お父様の仕事について来ただけなんだけど」
「それで?」
「せっかくアストラヴェルまで来たんだから、何か持って帰ろうと思ってさ」
「誰に買うの?」
「まずはカエラ」
シルヴィアは隣の空席へちらりと目を向けた。
「そっか」
「それから、屋敷で働いてくれてるメイドにも二人」
その瞬間、見慣れた二つの顔が脳裏に浮かぶ。
穏やかなエアリン。
そして、なぜか屋敷をいつも何倍も賑やかにしてしまうアステリア。
名前を思い浮かべた途端、その声まで頭の中によみがえってきた。
(ケイル様、お食事のご用意ができました)
(ケイル様、お薬をお忘れなく)
(ケイル様、まだお休みにならないのですか?)
(ケイル様、ご一緒にお風呂で――)
ぱしん、とケイルは自分の額を軽く叩いた。
いや。
最後のだけは思い出さなくていい。
手ぶらで帰ったときのことを想像するだけで、二人がどんな反応をするか容易に想像できてしまう。
「じゃあ、そのお金はそのためなんだ」
「まあ、そんなところ」
シルヴィアは小さく頷いた。
ようやく納得できる答えが見つかった、とでも言いたげに。
けれど、ケイルの意識はすでに再び外へ向いていた。
正直に言えば――
お土産を買うつもりだったのは本当だ。
だが、今いちばん心を占めているのは、それではない。
もう一度、プロムナードへ視線を巡らせる。
その景色は、あまりにも活気に満ちていた。
だからこそ、目を離せなかった。
人々は笑い合い、
子どもたちは人混みの間を駆け回る。
商人たちは行き交う人々へ声をかけ続け、通りの一角では大道芸人ではなく街角の音楽家たちが楽器を奏で、軽やかな旋律が地区全体へと溶け込んでいた。
緊張感などどこにもない。
そこにあるのは、ただ当たり前の日常だけだった。
ケイルは静かに息を吐く。
「正直……」
「アストラヴェルって、家にいた頃に想像してた場所とはずいぶん違った」
シルヴィアは小さく首を傾げた。
「どう違うの?」
「もっと……」
ケイルは少し考え、言葉を探す。
「堅苦しい場所だと思ってた」
「もっと……物語に出てくるような街というか」
「物語?」
「大都市で、魔法学院があって、冒険者ギルドもある」
「貴族たちは政治に追われてるし」
「強い人たちがあちこちで騒ぎを起こして」
「そんな偉い人ばかりがいる街なんだろうって」
「でも、それは間違ってないよ?」
シルヴィアは気楽に答えた。
「ケイルが言ったものは、全部ちゃんとあるし」
「まあ、それはそうなんだけど」
ケイルは顎で外の人混みを示す。
「でも、あの人たちを見てみろ」
プロムナードには、川の流れのように人々が絶えず行き交っている。
仕事へ急ぐ者もいれば、
ただ気の向くまま歩いている者もいる。
「みんな、ごく普通なんだ」
シルヴィアもその視線を追った。
「普通じゃだめなの?」
「ああ」
ケイルは小さく笑った。
「そういうこと」
だが、そのかすかな笑みも長くは続かない。
再び視線は店の外の賑わいへ――とりわけ、プロムナード沿いに立ち並ぶ建物へ向けられる。
どこを見ても穏やかだった。
あまりにも――静かすぎるほどに。
「でも……」
ぽつりと呟く。
「今見えてるのは、まだ表側だけなんだろうなって気がする」
アストラヴェルは、今なお世界最大の首都だ。
世界各地から貴族、商人、冒険者、そして魔法使いたちが集まる都市。
そんな場所が、目の前に広がる景色だけで語り尽くせるはずがない。
まだ見ていない一面が、きっとある。
この何気ない日常の奥に隠された、別の層が。
二度目の人生を歩んでいる今でも、時折忘れてしまうことがある。
世界は、いつだって争いに満ちているわけではない。
曲がり角の先に、必ず脅威が待っているわけでもない。
時には――
街は、ただ街であればいい。
人が暮らし、
働き、
笑って過ごす場所として。
「言うなれば……」
ケイルは静かに呟く。
「ここって、スチームパンクとヴィクトリア時代、それにマジテックが混ざったような感じなんだよな」
シルヴィアはぱちりと瞬きをした。
もう一度。
さらにもう一度。
「……今、何て言ったの?」
ケイルの動きが止まる。
シルヴィアは返事を待っている。
だが、ケイルは黙ったままだった。
「スチー……?」
シルヴィアの眉が少し寄る。
「あと、マギ……テック?」
その瞬間、ケイルの心臓がひやりとした。
今になってようやく、自分が何を口走ったのかを理解する。
スチームパンク。
ヴィクトリア時代。
マジテック。
どれも、この世界には存在しないはずの言葉。
少なくとも――
七歳の子どもが口にするような言葉では、決してない。
「ケイル?」
シルヴィアが真っすぐこちらを見る。
「今のって、何のこと?」
「い、いや、何でもない。ただ……」
「ただ?」
「言葉の選び方を間違えただけだ」
するとシルヴィアの目はますます好奇心に輝いた。
「じゃあ、それってどういう意味?」
ケイルは一度息を止める。
そして観念したように、小さく咳払いをした。
「んんっ……」
「じゃあ、一番分かりやすいところから説明するか」
彼は遠くへ伸びる線路を指差す。
「さっき乗ってきたヴォルタリス・トラム」
「うん?」
「あれは乗り物だ」
「うん」
「でも、馬は引いてない」
「そうだね」
「普通の機械で動いてるわけでもない」
「うん」
「それでもちゃんと走ってる」
シルヴィアは少し考え込む。
「それで?」
「そういうのを、俺はマジテックって呼んだんだ」
「ああ」
「魔法で動く技術ってこと」
「あー、なるほど」
シルヴィアは大きく頷いた。
いかにも「分かった」という顔をしている。
だが、その様子を見たケイルは、なぜだかまったく信用できなかった。
「それから、スチームパンクっていうのは……」
今度は建物の外壁を這う金属製の配管を指差す。
「あれを見て」
「パイプ?」
「そう」
「ああいう機械や金属、歯車や蒸気みたいなものが街中にあふれてる世界を想像してみてくれ」
「へぇ」
「そんな雰囲気のことだ」
「面白そう」
今度の頷きは、さっきよりもさらに力強い。
だからこそ、ケイルはますます「絶対ちゃんと分かってないだろ」と思ってしまう。
「それで、ヴィクトリア時代っていうのは……」
そこまで言ったところで言葉が止まった。
シルヴィアはすっと目を細める。
「きっと、それが一番分からないやつだよね」
「……そうだな」
ケイルは苦笑する。
「たぶん」
「それって何?」
ケイルは自分の顔を軽くこする。
これ以上怪しまれないような説明を、必死に頭の中で探した。
「昔読んだ本に出てきた街の雰囲気だと思ってくれ」
「ああ」
シルヴィアは素直に頷く。
「でも、ケイルが読んだ本なんて私知らないよ?」
ケイルはさっきより少し強めに額を叩き、そのまま視線を落とした。
「……それもそうだった」
幸い、シルヴィアはそれ以上深く追及してこなかった。
あるいは、そこまで興味がなかっただけなのかもしれない。
数秒後、彼女は小さく微笑む。
「分かった」
ケイルは勢いよく顔を上げた。
「何が?」
シルヴィアは黙り込む。
視線はテーブルへ落ち、
次に天蓋の向こうの空へ向き、
そしてまたケイルへ戻ってきた。
「えっとぉ……」
数秒の沈黙。
「忘れちゃった」
ケイルはそっと目を閉じる。
口元に浮かびかけていた苦笑は、そのまま何とも言えない脱力した表情へ変わっていった。
ほんの数秒前まで、あれだけ一生懸命説明したのだ。
それらしく聞こえる理由まで考えて、
全部を自然に取り繕ったというのに。
……そうだった。
相手はシルヴィアだ。
たとえ妙なことを口にしたところで、この子がそこから何かを勘繰ることはまずない。
ケイルは何も言わず、そのまま机へ顔を倒した。
ぺたん。
頬も、鼻も、額も、そのまま木の天板へ張りつく。
まるで体に残っていた力が一瞬で全部抜けてしまったかのようだった。
右手だけが力なく宙へ上がる。
人生に降参した人間そのものの姿だった。
「……じゃあ、気にしなくていい」
「うん」
シルヴィアは嬉しそうに頷く。
まるで大きな問題が、たった今きれいに解決したかのように。
助かった。
相手がシルヴィアで本当に良かった。
もし別の誰かがあの妙な説明を聞いていたら、きっと根掘り葉掘り質問攻めにされていただろう。
テーブルの向こうで、シルヴィアはにこりと微笑んでいる。
いかにも「ちゃんと分かったよ」と言いたげな笑顔だった。
――もっとも。
実際には、何一つ理解していない。
だからこそ、どう反応すればいいのか分からず、とりあえず笑っておくことにしただけなのだ。
しばらくの間、二人の間に会話はなかった。
あるのは昼のアストラヴェルの空の下、地区を包む穏やかな喧騒だけだった。




