第五十五話
彼らはそのまま地区を貫く大通りを歩き続けた。
商業区へと足を踏み入れるにつれ、通りの両側には店や食堂、さまざまな商業施設が目立つようになっていく。
先ほどまでのエリアとは比べものにならないほど賑やかだった。
客たちの談笑。開放的な食堂から聞こえてくる調理器具の音。呼び込みをする商人たちの声。
絶え間なく行き交う人々の流れの中で、それらが重なり合い、街全体に活気を与えている。
真鍮の装飾が施された石造りと鋼鉄の建物が道沿いにびっしりと並び、店ごとのキャノピーが広い歩道を覆っていた。建物の壁面には細い蒸気管が這うように伸び、時折ぷしゅっと白い蒸気を吐き出しては、昼の風に溶けるように消えていく。
目的の場所が見えるよりも先に、食欲をそそる香りが彼らを迎えた。
香ばしく焼かれた牛肉。
刺激的な香辛料。
熱した鉄板の上で溶けるバター。
そして、それ以外にも空腹を一瞬で呼び覚ますような匂いが幾重にも混ざり合っている。
ぐぅぅぅ――。
「……」
ケイルは隣へ視線を向けた。
「本当に腹が減っているんだな」
「えへへ……たぶんそうみたい」
シルヴィアは照れくさそうに後頭部を掻きながら笑う。
「お腹が空くと、どうしても静かにしてくれなくて」
「それは誰でも同じだと思うが」
相変わらず淡々とした返答だった。
さらに数歩進んだところで、カエラが言っていた店がようやく見えてきた。
人通りの多い交差点の角に、その店はあった。
建物自体もそれなりの大きさだったが、食事スペースの大半は屋外に設けられている。黒い鋼鉄製の柱が広い屋根を支え、その屋根は大通りの縁まで張り出しており、下には整然と木製テーブルが並んでいた。
二人用の小さな席もあれば、行政職員らしき集団や商人たちが昼食を楽しんでいる長テーブルもある。
通りに面した側には高いスツールが一列に並び、その正面にはオープンキッチンが設けられていた。
何人かの客はそこで料理人の仕事ぶりを眺めており、まるで調理そのものがこの店の名物であるかのようだった。
賑やかではあるが、窮屈さは感じない。
客たちの笑い声。厨房から響く金属音。時折レジの方から飛んでくる注文の呼び声。
それらがポラリスの大通りの喧騒と自然に混ざり合っている。
「北部地区の鉱山契約、結局ヘリオール・マイニングに決まったらしいぞ」
「本当か? 先月の入札じゃ負けてなかったか?」
「さあな。でも株価がまた上がってるのは確かだ」
別のテーブルでは、フォーマルな服装の男たちが別の話題で盛り上がっていた。
「今年のアスピラント・トーナメントのメインスポンサーが決まったって聞いたぞ」
「またマシュフォード家か?」
「いや、それが違うから皆驚いてるんだ」
少し離れた場所では、ルーメン・ハイム魔法学院の制服を着たままの学生たちが、他の客よりもずっと騒がしかった。
濃紺のアクセントと金糸の刺繍が施された一年生用の白いロングコートは、人混みの中でもひときわ目立っている。
「だから言っただろ。今年の実技試験にアーサーとセレニーが出るなら絶対に大騒ぎになるって」
「そんなわけないだろ」
「なんでだよ?」
「本当にあの二人が本気で参加したら、他の受験者なんてただの脇役になるからだ」
「おい、声が大きいって。誰かに聞かれるぞ」
「間違ったこと言ってるか?」
その言葉をきっかけに、テーブルからどっと笑い声が上がった。
漂う料理の香りに刺激され、シルヴィアの腹は列に近づく前から再び小さく抗議の声を上げる。
だが、その意識はすぐに店の中央へ向けられた。
いや――
正確には、そこで働いている存在へ。
赤みを帯びた巨大なイカが、長い調理台の向こう側に立っていた。
頭には黒いコック帽がちょこんと乗せられており、正面にはフォークと触手が交差した小さな紋章が縫い付けられている。
十本の触手は休むことなく動いていた。
二本は熱を帯びてじゅうじゅうと音を立てる焼き台の上で串を返し、
一本は大鍋の蓋を持ち上げ、芳しい湯気を立ち昇らせる。
さらに二本はまな板の上を目にも留まらぬ速さで動き回り、食材を正確無比に刻んでいた。
それと同時に、残る触手たちは調味料を取り、皿に料理を盛り付け、受け取り口へと滑らせていく。
まるでその一連の流れが頭の中に完璧な図面として描かれているかのようだった。
不思議なことに、そのどれ一つとして慌ただしく見えない。
すべてが自然だった。
整然としていて。
正確で。
まるで何年も同じ仕事を続けてきた職人のように。
丸い目は時折のんびりと瞬きをするが、その間も触手は休みなく働き続けている。
シルヴィアは思わず足を止めた。
「わぁぁぁ……」
感嘆に目を丸くする。
「手がいっぱいある……」
ケイルもしばらくその様子を眺めた。
「一、二、三……」
本当に数え始めた。
「……十本」
「十本?」
シルヴィアも数えようとしてみる。
縦横無尽に動き回る触手を目で追っていたが、
数秒もしないうちに諦めた。
「途中でわからなくなっちゃった」
「十本で合ってる」
「どうしてあんな生き物が料理人をしてるの?」
「さあな。仕事が必要だったんじゃないか」
「そっか」
シルヴィアはその答えを素直に受け入れた。
数歩歩いたところで、ふと眉を寄せる。
「うーん……」
「どうした?」
「……今気づいたんだけど」
「何に?」
「私、あれが何の生き物なのか知らない」
ケイルは彼女へと顔を向けた。
「巨大なイカを見たことがないのか?」
「うん」
「お母様と一緒に商船によく乗っていたんじゃないのか?」
「そうだよ」
「それでも見たことがないのか?」
シルヴィアは小さく首を振った。
「一度もないよ」
再び忙しそうに働くイカの料理人へ視線を向ける。
「あんなに手がたくさんある生き物も初めて見た」
その答えは、あまりにも素直だった。
――素直すぎた。
ケイルはしばらく黙り込むと、小さく息をつく。
「……じゃあ、航海中は普段何を見ていたんだ?」
「え? いつもの?」
シルヴィアは首を傾げ、顎に手を添えた。
「うーん……」
本気で思い出そうとしているらしい。
眉を少し寄せ、人差し指で頬を軽く叩く。
しばらくして、
「あ」
目を少し見開いた。
「思い出した」
人差し指をぴんと立てる。
「船より背中が大きい、細長い生き物はよく見たよ」
ケイルは瞬きをした。
「……船より大きい?」
「うん」
シルヴィアは何の疑問も抱いていない様子で頷く。
「目がいっぱいあるのもいたし」
それまで黙っていたカエラが、ゆっくりと彼女へ視線を向けた。
「嵐のときによく現れるのもいたよ」
シルヴィアは指を折りながら、ごく普通の海の生き物を挙げるような調子で続ける。
「動くと周りの海まで盛り上がるのとか」
「すっごく遠くまで鳴き声が聞こえるのもいたし」
「あ、それから角が生えてるのも」
聞けば聞くほど、何かがおかしい。
ケイルの目がゆっくりと細められる。
「まさか……」
嫌な予感が胸をよぎる。
だが、その言葉を言い終える前に、シルヴィアがぴたりと指を止めた。
「あ」
宙で止まった指先。
「名前思い出した」
ケイルは、その答えを聞きたいとは思えなかった。
「リヴァイアサン」
「あ、そうそう。リヴァイアサン」
ようやく思い出せたことに満足そうに頷く。
「お母様がね、私たちの航路にはいろんな種類のリヴァイアサンがいるって言ってた」
その場の空気が、一瞬で静まり返った。
ケイルの表情から感情が消える。
(本気か……)
(今こいつ、魚とかイルカでも話すみたいな調子でリヴァイアサンって言ったぞ)
「……それは普通じゃないぞ、シルヴィア」
「え?」
シルヴィアは心の底から驚いたような顔をする。
「そうなの?」
「当たり前だ」
「でも普通だよ?」
小さく首を傾げる。
「私たち、けっこうよく見かけたもん」
「そこが普通じゃないんだ」
シルヴィアは少しだけ考え込んだ。
そして、悪びれもなく付け加える。
「お母様もよく倒してたし」
ケイルは虚ろな目で前を見つめた。
数秒の沈黙。
やがて大きく息を吐く。
「はぁぁぁ……」
肩まで力なく落ちた。
「どうしてそんなにぐったりしてるの?」
「……いや、もういい」
ケイルは自分の顔を軽くこする。
「お前とお母様がどういう人たちなのか、少しわかってきた気がする」
少し離れたレジの近くでは、中くらいの大きさの赤い注文帳が木製の台の上に開かれたまま置かれていた。
――いや。
正確には、その後ろに誰かが隠れていた。
遠目には、その赤い注文帳が後ろにいる小さな体をほとんど隠してしまっている。
見えているのは、小さな帽子と、落ち着きなく左右に揺れ続ける長いリスの尻尾だけだった。
さらさらとペンを走らせる音が、注文帳の向こうから聞こえてくる。
やがて、その場によく通る声が店中へ響き渡った。
「十四番のお客様、お待たせしましたー!」
何人もの客が一斉に振り向く。
「シーフードクリームスパゲッティ一つと、グリルド・テンタクル・シュプリーム一つ、お受け取りくださーい!」
少し待つ。
だが、誰も来ない。
すると、再び声が響いた。
「三分以内に取りに来なかったら――」
ほんの少し間を置いて。
「……私が食べちゃいます」
レジの周囲が一瞬しんと静まり返る。
シルヴィアはそっとケイルのそばへ寄り、一方の手で口元を隠しながら小声で囁いた。
「……本気?」
「ん?」
「あれ、一人で食べるつもりなの?」
心の底から不思議そうな声だった。
ケイルは何も答えない。
ただ前を見つめたまま。
今日はもう、何を見ても驚く気力すら残っていない――そんな顔だった。
「それほど多くはないと思うけど」
横からカエラがぽつりと言う。
「一人前としては普通なんじゃない?」
シルヴィアはすぐに振り向いた。
「本当に?」
「たぶんね」
その直後、一人の男性が席から慌てて駆け寄ってきた。
「す、すみません! トイレに行ってました!」
三分の期限が実行される前に、慌てて自分の料理を受け取っていく。
赤い注文帳の向こうでは、リスの尻尾がまだゆらゆらと揺れていた。
だが今度は、その動きがどこか力なく見える。
小さく舌打ちする音が、いかにも残念そうに聞こえた。
三人もそのまま列の最後尾へ並ぶ。
前には年配の夫婦が一組。
旅装束のままの冒険者が二人。
さらに昼休憩中らしい行政職員の一団が並んでいた。
厨房へ近づくにつれ、料理の香りはいっそう食欲を刺激してくる。
シルヴィアは何度も背伸びをしながら、上に掛けられたメニューを懸命に読もうとしていた。
初めて見る料理名を目で追い、視線があちこちへ忙しく動く。
ぐぅぅぅ――。
また腹の虫が鳴いた。
ケイルが横を見る。
シルヴィアはさっと顔を逸らし、何事もなかったかのようにメニューを読み始めた。
「うーん……」
視線がゆっくりと動く。
「シーフードクリームスパゲッティ……」
さらに下へ。
「ローストビーフカレーライス……」
そしてまた別の段へ。
「チキンステーキ・マッシュルームソース……」
何度か瞬きをする。
「変なの」
「何が?」とカエラが尋ねる。
「どれも美味しそう」
「それがメニューの役目だから」
「あっ」
列は少しずつ進み、やがて三人の番になった。
ケイルは少しだけ顎を上げる。
近くまで来てみると、注文カウンターは列の後方から見えていたよりもずっと高かった。
その向こうにはオープンキッチンが見え、巨大なイカの料理人が今もなお数多くの調理器具を同時に操っている姿が目に入る。
一方で――
シルヴィアから見えるのは、カウンターの天板だけ。
いや。
正確には、そのほんの少し上だけだった。
先ほどまで他の客の注文を書き込んでいた小さなリスは、赤い注文帳をぱたんと閉じる。
「おっ、新しいお客さんだ」
緑色のベストを整えながらこちらへ歩いてくる。
「ドドリトへようこそ!」
視線がケイルからカエラへ移り、
そして下へ。
ぴたりと動きが止まった。
カウンターの向こうから見えているのは、琥珀色の瞳と、赤みがかった茶色の髪がほんの少しだけだった。
シルヴィアはきょとんと瞬きをした。
リスは小さくため息をつく。
「それで、注文は?」
ケイルがもう一度メニューを見上げようとした、その時だった。
シルヴィアが先に勢いよく手を挙げる。
「ハニーバターポテトチップス!」
「ゴールデンチーズコロッケ!」
「クリスピーカラマリバスケット!」
「それから、冷たいブルーベリーアイスフロート!」
リスはゆっくりとシルヴィアへ顔を近づけた。
「……全部、君一人で?」
「うん」
「ちゃんと食べきれる?」
シルヴィアは力強く頷く。
リスは目を細めた。
「お金は持ってるの?」
シルヴィアは首を横に振る。
「ううん」
「……」
じっと見つめる。
数秒後。
両手で勢いよくカウンターを掴んだ。
「お金ないのに、なんでそんなに注文するのーーっ!?」
シルヴィアは一切ためらうことなく片手を上げると、隣に立つケイルをびしっと指差した。
「この人が払ってくれるから」
ケイルは勢いよく振り向いた。
「はぁ!?」
目を大きく見開く。
「なんで俺が払うんだ?」
「奢るなんて一言も言ってないぞ」
シルヴィアはぱちりと瞬きをした。
「あれ?」
小さく首を傾げる。
「てっきり奢ってくれるのかと思ってた」
「なんでそうなる」
シルヴィアは数秒間じっと彼を見つめる。
すると、表情がゆっくりと変わっていった。
瞳がうるみ、
唇が少し尖り、
耳までしょんぼりと垂れ下がる。
「……本当に奢ってくれないの?」
今にも泣きそうな声。
少なくとも、そう聞こえるようには演じていた。
ケイルはじっと目を細める。
「そんな安っぽい芝居で俺が折れると思ったのか?」
「……」
短い沈黙。
次の瞬間。
シルヴィアの悲しそうな表情は跡形もなく消えた。
最初から存在しなかったかのように。
代わりに頬をぷくっと膨らませる。
「むぅぅぅぅ!」
その直後、両手が勢いよく伸びた。
「おい」
指先がケイルの髪をわしっと掴む。
「ケチ!」
「おい!」
「ケチ! ケチ! ケチ!」
「髪を引っ張るな!」
シルヴィアはまるで聞いていない。
髪を放したかと思えば、今度はその両手がケイルの頬へ移る。
左へびよん。
右へびよん。
「離せ」
「やだ」
「シルヴィア」
「やだ」
「シルヴィア」
「やだ」
隣にいたカエラは静かに顔を背けた。
何が起きていようと、自分には関係ない。
そう判断したらしい。
一方、カウンターの上にいる小さなリスは、ただ呆然とその光景を眺め、
やがて自分の顔を手で覆った。
「はいはい、わかったよ」
シルヴィアの動きがぴたりと止まる。
「ん?」
「僕が奢ってあげる」
シルヴィアの瞳がぱっと輝いた。
「本当に?」
「ただし、一つ条件がある」
ケイルは人差し指を一本立てる。
さっき散々引っ張られたせいで髪は乱れていたが、その表情はいつも通り淡々としていた。
「なに?」
ケイルは数秒、まっすぐ彼女を見つめる。
「自分のやりたいことだけで、周りを振り回すな」
シルヴィアはぱちりと瞬きをした。
それから黙り込む。
本気でその言葉を考えていた。
本当に、真剣に。
しばらくして。
こくりと力強く頷く。
「約束する」
「おぉ……」
小さなリスは感心したように首を傾げた。
リスはシルヴィアとケイルを交互に見比べた。
やがて腕を組む。
「つまり、この親切なお坊ちゃんが本当に払ってくれるってこと?」
「うん」
シルヴィアは迷いなく答えた。
「へぇ」
リスの尻尾がゆらりと揺れる。
「お金持ちなの?」
「違う」
ケイルの返事はあまりにも早かった。
「嘘だよ」
シルヴィアがすぐに口を挟む。
ケイルは彼女を見た。
「嘘はついてない」
「こんなにきれいなメイドさんがいて、お金持ちじゃないなんて無理があるよ」
「普通の人間は使用人を雇えないとでも思ってるのか?」
「そういう意味じゃなくて」
リスは両手をひらひらと振る。
それからケイルを頭の先から足元まで眺め回した。
「たださ……」
着ているコートを指差す。
「その服、生地だけ見ても高そうだし」
「それはそう」
シルヴィアもすぐに大きく頷いた。
「それに、お父様なんて――」
ぱしっ。
その口を、一つの手が素早く塞いだ。
「むぐっ!?」
一瞬でシルヴィアを自分の横へ引き寄せる。
片腕で肩を押さえて逃げられないようにしながら、もう片方の手で口を塞ぎ、余計な情報が飛び出す前に封じ込めた。
「むーっ! むーっ!」
「すまない」
ケイルは薄く笑みを浮かべる。
人の口を塞いでいるとは思えないほど穏やかな笑顔だった。
「こいつは少し口が軽くてな」
「むーっ!」
「言わなくていいことまで、すぐ喋る癖がある」
「むーーっ!!」
「大抵は誰の得にもならない話ばかりだ」
「むぐーーーっ!!」
ケイルは再びリスへ視線を向けた。
「だから気にしないでくれ」
シルヴィアは必死にその手を引き剥がそうとする。
だが聞こえてくるのは、意味にならない抗議の声だけだった。
「むーっ! むーっ!」
少女の頬が少しずつ赤く染まっていく。
腹を立てているからなのか。
それとも、大勢の前でこんなふうに押さえつけられていることを今さら意識したからなのか。
そんな様子にも構わず、ケイルは終始落ち着き払っていた。
まるで何も問題はないと言わんばかりに。
リスは小さく頷く。
「払えるなら問題ないね」
「俺もそう思う」
そこでようやくケイルはシルヴィアを解放した。
彼女はすぐに半歩後ろへ下がる。
頬はまだほんのり赤いまま。
そのままぷいっと顔を背けた。
「ふんっ」
ケイルは見なかったことにした。
「それじゃ」
改めて注文係へ向き直る。
「チキンステーキ・マッシュルームソースを一つ」
続いて飲み物のメニューへ目を向けた。
「それとレモンジュースを一つ」
「はい。他には?」
ケイルは隣を見る。
「カエラ」
「はい、若様」
「お前は?」
「若様にお任せします」
ケイルは無言で見つめる。
カエラも黙った。
数秒後。
ぱちりと小さく瞬きをする。
何かに気づいたようだった。
「失礼いたしました」
小さく頭を下げる。
「アイスベリーティーを一つお願いします」
その返答に、ケイルの表情がほんの少しだけ柔らいだ。
「それでいい」
「以上で」
「かしこまりました」
リスは再び赤い注文帳へ戻る。
手にしたペンがたちまち走り始めた。
さらさら。
さらさら。
さらさら。
料理名が、あっという間にページを埋めていく。
「はい、できた」
紙をぴっと切り離すと、高く掲げた。
「リトー!」
「新しい注文だよー!」
すると、オープンキッチンの方から一本の長い触手がすっと伸びてくる。
注文票は流れるような動きで受け渡された。
――正確には、手ではなく触手へ。
リトはそれを調理場の上にある小さなボードへ貼り付ける。
丸い目が注文票へ一度だけ向けられた。
次の瞬間、すべての触手がほぼ同時に動き始める。
あるものは食材を取り、
あるものは調理器具に火を入れ、
また別のものは同時進行で別の料理を作り始める。
それでも、その動きは終始落ち着いていて、実に整然としていた。
まるで十本の触手それぞれが、自分の意思を持っているかのようだった。
「料理はだいたい十分ほどでできますよ」
リスは注文帳を閉じながら言った。
「あれだけ手があれば、それも納得ですね」
カエラが答える。
それからケイルへ視線を向けた。
「でしたら、ここは私がお待ちしております、若様」
「若様とシルヴィア様は先にお席をお探しください」
「料理はこちらからお持ちしますので」
「わかった」
ケイルは頷く。
そして踵を返した。
「行くぞ。席を探そう」
まだ少し頬を膨らませたままのシルヴィアも、その隣を歩き出す。
だが、ほんの数歩進んだところで、
ケイルは再び腕を上げると、その手を少女の肩へ乗せた。
そのままレジから少し離れるように押していく。
「へ?」
「念のためだ」
「何が念のためなの!?」
「また変なことを口走られないように」
「それは濡れ衣だよ!」
「俺からすれば予防だ」
「濡れ衣ー!」
二人の声は、客たちのテーブルの間を縫うように、少しずつ遠ざかっていった。
その場にはカエラとリスだけが残る。
リスはしばらく二人の後ろ姿を眺め、
やがて小さく首を振った。
「変わった新規のお客さんだなぁ」
「こほん」
その一声で、体がぴたりと固まる。
ゆっくりと隣を向くと、
カエラはまだそこに立っていた。
穏やかな眼差しはいつも通り。
薄く浮かべた微笑みも変わらない。
それなのに、なぜだかリスは急に落ち着かなくなる。
「い、いえ……」
小さく咳払いをする。
「その……仲がいいんだなって」
「そうですか」
カエラは柔らかく微笑んだ。
リスは口を開き、
そしてまた閉じる。
なぜなのか自分でもわからなかったが、これ以上余計なことは言わない方がいい気がした。
その頃には、客たちの賑わいの向こうから、シルヴィアの抗議する声がまだかすかに聞こえてくる。
「ケイル! 離して!」
「余計なことを話さないと約束するならな」
「それ、すごく不公平!」
「俺は十分公平だと思うが」
「むぅ!」
リスはその声のする方を少しだけ見つめ、
もう一度、小さく首を振った。
「本当に変なお客さんだ」
そして、その日初めて――
ふっと笑みをこぼした。




