第五十四話
「その手紙、誰からなの?」
カエラの隣に立っていたケイルは、彼女の手にある白いカードへと視線を向けた。
三人はすでにポラリスの人波へ戻っていた。街では人々の話し声が絶えず響き、メインストリートを走る小型馬車の車輪が軋む音や、街角で奏でられる音楽が混ざり合い、昼の賑わいをいっそう際立たせている。
カードをじっと見つめていたシルヴィアが、先に口を開いた。
「私が気になってるのは、差出人じゃないの」
そう言って、カードを指差す。
「書き方のほうよ」
ケイルは顎に手を添えた。
「確かに、ちょっと変だよな」
「『奥様がお会いしたがっています』」
シルヴィアはわざと真面目ぶった口調で読み上げる。
「これじゃまるで、私たちと昔から親しい人が書いたみたいじゃない?」
「うーん……言われてみれば、そうかも」
ケイルが小さく呟く。
「少なくとも、そんな感じはするよな」
シルヴィアは満足そうに何度も頷いた。
「でしょ? そう思うよね!」
「せめて、どこの『奥様』なのかくらい書いてほしいわよ。いきなり来いって言われても、私たちだって暇じゃないんだから」
ケイルは首を傾げる。
「俺たちって、何か忙しかったっけ?」
「えっと……」
シルヴィアは途端に勢いを失った。
「忙しくて……」
人差し指を立てたまま、答えを探すように視線を泳がせる。
「とにかく忙しいの」
「……」
ケイルの表情がすっと崩れた。
「はぁ……」
なぜだろう。あれほど自信満々に言われたせいで、かえって説得力がまるでなかった。
(この子、本当に適当だな……)
カエラはもう一度カードへ目を落とした。
「私にもわかりません」
「本当に心当たりはないの?」
「はい」
いつもと変わらない穏やかな返事だった。
「ですが……」
虎の耳がぴくりと小さく動く。
「この手紙を書いた方は、本当に私たちに会いたいと思っている気がします」
「じゃあ、本当に偉い人からなのかな?」
シルヴィアが身を乗り出すように尋ねる。
「かもしれません」
カエラは少しだけ間を置いてから続けた。
「なぜかはわかりませんが……結局、私たちはそこへ向かうことになる気がします」
ケイルはコートのポケットへ両手を突っ込んだ。
「だったら、行ってみてもいいんじゃないか?」
「そうですね」
「せっかく街を見て回ってる最中だし」
肩をすくめながら気楽に言う。
「本当に大事な人で、悪い用事じゃなかったら、そのまま会えばいいだけだし」
シルヴィアは首をかしげた。
「でも、ただのいたずらだったら? それとも敵の罠とか?」
まだ何も起きていないというのに、その丸い瞳はすっかり疑いの色を浮かべている。
ケイルは数秒考え込んだ。
「そのときは、ポラリス観光を無料で楽しめたってことで」
シルヴィアは片眉をぴくりと上げる。
「何その発想。全然話がつながってないんだけど」
「ああ、違う違う。もし罠でも、カエラがいるだろ」
そう言って、何かを思い出したように隣を向く。
「そうだよな、カエラ?」
カエラは柔らかく微笑んだ。
「はい、若様」
迷いのない返事だった。
「私が皆様のおそばにいる限り、安全は必ずお守りいたします」
その穏やかな笑みは少しも変わらない。
「もし本当に罠だったとしても、その方たちは私が返り討ちにします」
シルヴィアは何度かぱちぱちと瞬きをした。
「……カエラって、戦えるの?」
「もちろんです」
相変わらず落ち着いた口調だった。
だからこそ、カエラが本気で戦う姿を想像したシルヴィアは、思わず背筋に小さな寒気を覚えた。
「えっと……なんだろう。その笑顔で言われると、想像してたよりずっと物騒に聞こえるんだけど……」
「その点はご心配なさらなくても大丈夫です、シルヴィア様」
「今ので確信したわ。やっぱりカエラって普通のメイドじゃないでしょ」
その言葉を聞いた瞬間、この会話が始まってから初めて、カエラの微笑みがわずかに揺らいだ。
ほんの一瞬だけ。
だが次の瞬間には、いつもの穏やかな笑みに戻っていた。
その小さな変化に気づいたケイルは、頭の後ろをぽりぽりと掻く。
(……そういえば、普通のメイドって、あんなに自信満々に「叩きのめします」なんて言わないよな)
以前、隊商の旅で盗賊たちと遭遇したときのことを思い返せば、なおさらだった。
「まあ、それは最悪の場合の話です」
「そうですね」
カエラは小さく頷く。
「もしそうなった場合は、できる限り効率よく対処いたします」
シルヴィアは目を細めた。
「効率よく?」
「はい」
「つまり、できるだけ早く倒すってこと?」
「その通りです」
カエラは微笑みを崩さない。
シルヴィアは数秒じっとその顔を見つめると、それ以上は追及しないことにした。
「……まあ、効率的ってことにしておくわ」
三人は再びポラリスのプロムナードを歩き始めた。
広々とした歩道には大勢の人々が行き交い、両側には商店やカフェ、そして優雅な石造りの建物が立ち並んでいる。
数分ほど歩いたところで、ケイルがふと思い出したように口を開いた。
「そういえば、本当ならここで立ち止まる予定じゃなかったよな」
「はい。シルヴィア様があの人だかりを気になさって立ち止まり、近づいてみて初めて、あれがマシュフォード家のパレードだとわかりました」
ケイルは頷いた。
「シルヴィアがあそこまで気になってなかったら、今ごろはもう別の地区にいたかもしれないな」
シルヴィアはすぐに振り返った。
「ちょっと待って」
そう言って眉を上げる。
「それって、今の流れだと私のせいってこと?」
「いや、別にそういうわけじゃない」
「じゃあ何よ?」
ケイルは小さく息を吐いた。
「説明するのが難しいんだけど」
「それ、説明になってないわよ」
「ただ、立ち止まりたいって言い出したのがシルヴィアじゃなかったら、たぶん今もトラムに乗ってたかなって」
「私はただ気になっただけ」
「そう。それで?」
「それだけ」
ケイルはじっと彼女を見る。
「その肝心なところは認めないんだな」
「気になったことは認めるわ」
「すごく気になった、のほうは?」
シルヴィアは一度だけぱちりと瞬きをした。
「すごく気になった?」
そして自分を指差す。
「私が?」
「そう。他に誰がいるんだよ」
ケイルは呆れたように返す。
「気になったって言ったのは自分だろ」
「気になったらダメなの?」
「いや、別に」
「じゃあ、なんでその話をするのよ」
「そこじゃないんだって」
シルヴィアは腕を組み、ふっと口元を緩めた。
「ほら、やっぱり」
「何が?」
「ケイルだって気になってたんでしょ?」
「俺は――」
言いかけて、口をつぐむ。
そして少し考えた。
(……いや)
(ちょっとくらいは、気になってたか)
「……」
「……」
シルヴィアの笑みが、ゆっくりと深まっていく。
「ほらね」
そう言って、ケイルをびしっと指差した。
ケイルは目を細める。
「なんで急に俺を指差すんだよ」
――その目だ。
(しまった……)
その視線には見覚えがあった。
議論の相手のほころびを見つけたときの、それだ。
「やっぱり」
シルヴィアは指先をゆらゆらと揺らしながら、得意げに言った。
「本当は言い訳を探してただけなんだから」
「何の言い訳だよ?」
「別にぃ?」
シルヴィアの笑みはますます怪しくなる。
「さっきの、図星だったんでしょ? 正直に言いなさいよ」
「俺、まだ何も言ってないけど」
「んー?」
シルヴィアは小首を傾げた。
「本当に?」
ケイルの目つきはさらに冷ややかになる。
「また面倒くさいモードに入ったな」
「ほら、やっぱり。その顔がもう答えを教えてるじゃない」
「教えてない!」
「じゃあ、なんでそんな顔してるの?」
「顔だけで勝手に証拠扱いするの、やめてくれないか?」
「じゃあ――」
シルヴィアは数歩後ろへ下がりながらも、こちらを向いたまま歩く。
「もしかして、さっき馬車に乗ってた金髪のお姫様のこと、まだ考えてたりして?」
ケイルは黙って彼女を見た。
シルヴィアには怖がる様子など微塵もない。
それどころか、このやり取りを心の底から楽しんでいるようだった。
「その話はやめろ」
「なんで?」
「どう転ぶか、もうわかってるから」
「じゃあ当ててみて?」
ケイルは額を軽く叩きながら、大きくため息をつく。
「まったく、シルヴィアは……」
「それとも、あの子が誰なのか気になってる?」
「マシュフォード家の人間だってことくらい、見ればわかるだろ」
「それは聞いてないわ」
「じゃあ何だよ」
「もし向こうも、あなたのことが気になってたら?」
ケイルは数秒黙り込んだ。
そして、もう一度ため息をつく。
「どこの作り話だよ、それ」
「作り話?」
「本屋に並んでる安っぽい恋愛小説みたいな話じゃないか」
「ってことは、想像はしたのね?」
「そんなことは言ってない」
「じゃあ、目の色は覚えてる?」
「シルヴィア」
「着てたドレスは?」
「シルヴィア……」
「それとも――」
「お前なぁ……」
とうとうシルヴィアは満足そうに笑い出した。
「あはははは!」
「はいはい」
ケイルは長く息を吐く。
もうこの子の相手をする気力は、ほとんど残っていなかった。
「本当に負けず嫌いだな」
「もちろん!」
返事は一瞬の間もなく返ってくる。
シルヴィアは得意満面に小さな胸を張り、両手を腰に当てた。
「女の子はね、いつだって正しくて、いつだって勝つものなの」
「……」
ケイルは諦めたように両手を上げる。
「絶対に……」
表情はどこまでも無表情だった。
「……勝てないな」
「それでよろしい」
シルヴィアは勝ち誇った笑みを浮かべる。
「こんな子の相手を最後までできるの、たぶん俺くらいだぞ」
「今ならわかる気がするよ。商船にいたとき、誰もお前に近寄ろうとしなかった理由が」
「大人でも距離を置きたくなるだろうな」
「きゃははは!」
シルヴィアは誇らしげに笑う。
「だって、みんな弱いんだもの」
それまで黙っていたカエラが、静かに口を開いた。
「いいえ。大人が弱いわけではありません」
「シルヴィア様のお人柄には敵わないと理解しているからこそ、退くべき時を知っているだけです」
そう言って一拍置き、続ける。
「それにシルヴィア様は、かつて名を馳せた冒険者のお母様を持つお嬢様ですから」
「ああ、そうだった」
ケイルはそこで思い出したように頷く。
「お母さんって、うちの父さんの知り合いだったんだよな」
「そう!」
シルヴィアは元気よく頷いた。
「だからなの」
「別に私が相手にしづらいわけじゃないわ」
肩をすくめながら、どこか得意げに言う。
「みんな、口げんかで私に勝てないだけなんだから」
「はいはい」
ケイルは両手を下ろした。
「降参だよ」
「よろしい」
シルヴィアは満足げに頷く。
その隣では、カエラが慌てたように顔を背けていた。
肩が小さく震えている。
ケイルは片目を細める。
(……お前も笑うのを我慢してるんだな)
その視線に応えるように、カエラの虎の耳がぴくりと小さく動いた。
まるで、言葉にしないまま認めたようだった。
一方のシルヴィアは、ますます自信満々な様子だ。
「ふふん」
顎をついと上げる。
「もう一回言うわ。女の子は、いつだって正しいの」
「それ、もう一回言う必要あるか?」
「もちろん」
「そこは譲れない?」
「譲れないわ」
ケイルはこめかみを揉んだ。
「はぁ……」
(言い争いだけで戦に負ける人がいるって話、ちょっとわかる気がしてきた……)
そのとき――
ぐぅぅぅ……。
シルヴィアの足がぴたりと止まる。
カエラが瞬きをした。
ケイルもつられて瞬きをする。
賑やかなプロムナードの中でも、その音は思いのほかはっきり響いていた。
「……」
「……」
「……」
シルヴィアは何事もなかったかのように、すっと顔を逸らした。
まるで何も起きていない。
彼女にとって今この瞬間、ポラリスで一番興味深いものは空らしい。
小さく口笛まで吹き始める。
ケイルはしばらくその様子を見つめると、ゆっくりと背を向けた。
「んっ」
一度咳払いをする。
もう一度。
肩が小さく震えかけたものの、慌ててコートを整え、大きく深呼吸をしてから振り返る。
その顔には、あまりにも完璧すぎて逆に不自然なほど穏やかな笑みが浮かんでいた。
もちろん、何事もなかったかのように。
シルヴィアは目を細める。
「……今、笑おうとしてなかった?」
「何のことかわからないな」
返事があまりにも早すぎる。
それがかえって怪しかった。
隣では、カエラが慌てて口元を押さえる。
その頬には、かすかな笑みが浮かんでいた。
「どうやら、お腹を空かせている方がいらっしゃるようですね」
少し間を置いてから続ける。
「そして、その方がどなたなのかは、皆様ご存じかと」
「うーん」
ケイルは納得したように頷いた。
「俺も気になるな……誰なんだろう?」
シルヴィアは勢いよく空を指差した。
「見て、あの雲!」
ケイルとカエラは反射的に視線を向ける。
澄み渡る青空が街の上いっぱいに広がり、その彼方にはアストラヴェルが雄大な姿で空に浮かんでいた。
「すごくいい景色ね」
「ええ」
カエラは微笑みながら頷く。
「今日のアストラヴェルは、とても美しく見えます」
「ほらね?」
シルヴィアはほっとしたような顔になる。
「みんな賛成してくれたじゃない」
「残念だけど」
ケイルは再び彼女へ向き直る。
「それで、さっきのお腹の音がここまで聞こえた事実は変わらないぞ」
「……」
シルヴィアは固まった。
ついにカエラも堪えきれず、小さく笑い声を漏らす。
その柔らかな笑いは、人々で賑わう通りに静かに溶けていった。
「いずれにしても」
まだ微笑みを浮かべたまま、カエラは続ける。
「先に食事ができる場所を探したほうがよさそうですね」
そう言ってケイルを見る。
「若様も、今朝はあまり召し上がっていませんでしたし」
「そうだな」
ケイルは顎に手を当てた。
言われてみれば、その通りだった。
朝は軽く口にしただけで済ませてしまった。
それからずいぶん歩き回ったせいか、今では空腹をはっきりと感じ始めている。
「俺も腹が減ってきたみたいだ」
「でしたら、食べに行きましょう」
カエラはすぐに頷いた。
「ポラリスには評判の良いオープンテラスの食堂があります。料理長のお料理が人気で、多くのお客様が訪れるそうです」
「それは良さそうだな」
「じゃあ、そこへ行こう」
だが、歩き出そうとしたその瞬間――
シルヴィアは後頭部をぽりぽりと掻いた。
目を細め、照れ笑いを浮かべる。
「えへへ……」
ケイルはすかさず彼女を指差した。
「ごまかさなくていいぞ」
「え?」
「さっきの、お前のお腹だろ?」
シルヴィアは口を開く。
だが、そのまま閉じてしまった。
反論できなかったからだ。
ケイルは小さく首を振る。
「口は達者なのに」
淡々とした目でシルヴィアを見る。
「隠し事になると、急に演技初心者みたいになるんだな」
シルヴィアは数秒黙っていた。
そして最後には、悪びれる様子もなく満面の笑みを浮かべる。
その笑顔を見た瞬間、ケイルは改めて確信した。
――この子は、普通のやり方では絶対に勝てない。




