第五十三話
「それで、次は?」
アインが再び口を開いた。
最初から浮かべていた薄い笑みは今もそのままだ。むしろ先ほどよりもわずかに深くなり、どんな報告であろうと、耳にするたびに興味が増していくかのようだった。
その背後では、ストーカーが数秒だけ視線を伏せると、静かに報告を続ける。
「連中は今後七日から九日以内に、捜索範囲を第三十六階層まで拡大する予定です」
そう言ってから、一拍置く。
「ですが、あの本の魔物が持ち帰った情報により、ハイペリアルの介入が確認されたことで状況が少々変わりました」
「ほう?」
アインは小さく首を傾げた。
「あの四名は、平均的な冒険者を大きく上回る実力を有しています。公式にはアストラヴェル学院で第四位の戦力とされていますが、その能力を侮ることはできません」
ストーカーは顔を上げる。その呼吸は終始乱れていなかった。
「正直なところ、彼らが投入されるとは予想していませんでした」
「それで?」
「通常の調査隊と比べ、重要な手掛かりへ辿り着く可能性が大きく上昇しています」
アインは片眉を上げる。
「どれほどだ?」
「作戦全体を脅かすほどではありません」
返答に迷いはなかった。
「ですが、第七十三階層へ到達し、今回の事件の原因に繋がる痕跡を発見する可能性は、はるかに高くなっています」
部屋は数秒の静寂に包まれた。
オルガニストでさえ読んでいた資料から目を上げ、手元の紙へ落としていた視線をゆっくりと前へ向ける。
「第七十三階層、か……」
アインは静かに呟いた。
その口元がゆっくりと吊り上がる。
「十分に深いな」
「ええ」
ストーカーは頷く。
「ほとんどの冒険者は、そこへ辿り着くよりずっと前に引き返します」
「だが、連中は違う?」
「これまでの実績を見る限り、危険を理解していてもなお先へ進み続けるタイプです」
アインの口から小さな笑いが漏れた。
「身の程知らずの集まりだ」
その声音はどこまでも軽い。
まるで他愛もない冗談を楽しんでいるかのようだった。
「まあ……学院の連中というのは、昔からそういうものだ」
「自信過剰なんだよ」
そう言うと、低い椅子から立ち上がり、先ほどまで腰掛けていた長机を降りる。
黒い靴底がタイルの床を軽く叩き、控えめな足音が響いた。
数歩進んだところで足を止めた先には、床から天井まで続く巨大なガラス窓がある。
その向こうには、闇に沈んだ工業地帯がどこまでも広がっていた。無数の鋼鉄製の煙突が、淡い灯りの海の中に巨大な影のようにそびえ立っている。
ガラスには自身の姿が鮮明に映っていた。
それなのに、その鏡像のほうが、本物の自分よりもはるかに危険な存在に見えた。
「死に挑む覚悟がなければ、頂には辿り着けない」
笑みがわずかに深まる。
「せめて死ぬ前に、あいつの音楽を聴く機会くらいはあればいいがな」
チェリストはかすかに微笑んだ。
目は閉じたまま変わらない。
「だからこそ、ああいう人間は軍隊よりも厄介なんです」
ストーカーは静かに続ける。
「彼らは常に次の可能性を追い求め、今の自分たちの限界を越える方法を探し続けています」
そこで一度言葉を切った。
「それと……」
声色が変わる。
先ほどまでとは打って変わって、明らかに重みを帯びていた。
「こちらが警戒すべき人物が二人います」
アインは半身だけ振り返る。
「誰だ?」
「その二人は、つい最近アストラヴェルで再会しました」
ストーカーはまっすぐ顔を上げた。
「私が集めた情報を総合すると――」
一瞬、言葉が途切れる。
「あの二人は、かつてアストラヴェル最強の座に立っていた人物です」
部屋を沈黙が包み込んだ。
誰一人として口を開かない。
壁の向こうで唸る機械音だけが、先ほどよりも鮮明に耳へ届いていた。
「ラインマー」
ストーカーが最初の名を口にする。
そして続けて、もう一人。
「エレノア」
会議が始まって以来初めて、アインは完全に振り返った。
肩に掛けた黒いロングコートが、その動きに合わせてゆるやかに揺れる。
先ほどまでガラスの向こうを見つめていた視線は、今は真っ直ぐストーカーへ向けられていた。
そこに先ほどまでの気楽さはもうない。
明らかに意識を向けていた。
「ラインマー……」
その名は、ほとんど独り言のように零れ落ちる。
ゆっくりと持ち上がった指先が、顔の下半分から首元まで覆う黒いカーボン製の顎当てへ伸びた。
金属の継ぎ目を、無意識のような手つきでなぞっていく。
顎から。
首元へ。
そして再び顎へ。
まるでその名前が、自分でも忘れていた過去の記憶を静かに引きずり出したかのようだった。
やがて、薄い笑みがゆっくりと形を成す。
「……ああ」
短く息を吐いた。
「つまり、あのくたびれた年寄りはまだ生きていたのか」
アインは再び巨大なガラス窓へと視線を戻す。
そこに映る自分自身を見つめながら、静かに口を開いた。
「名前を聞くのは、本当に久しぶりだ」
その笑みはいっそう深くなる。
穏やかな笑みではない。
何年も前に失くした大切な思い出を、ようやく見つけ出した者の笑みだった。
「呪いの女王と戦った時に死んだものだと、危うく思い込むところだった」
指先は顎の下でぴたりと止まる。
「……そうじゃなかった。そして今――戻ってきたというわけか」
ストーカーはわずかに眉を上げた。
アインがその名を知っていること自体は予想していた。
だが、ここまでの反応は想定外だった。
「さらに興味深い情報があります」
ストーカーは続ける。
「そのうちの一人が、地下界へ向かっています」
アインの視線が再び彼へ向けられた。
「目的は?」
「レッドランタンの連中に、この件について話を聞くためです」
短い沈黙が流れる。
だが次の瞬間、アインの笑みはさらに深まった。
「レッドランタンか」
どこか愉快そうな声だった。
「確かに、あいつらは頼りになる」
小さく首を振る。
「だが、それだけではまだ足りない」
ストーカーは数秒のあいだ、その表情を見つめていた。
「では……」
報告を始めて以来初めて、その顔に迷いが浮かぶ。
「あなたは彼らをご存じなのですか?」
アインはすぐには答えなかった。
その代わり――
**ドンッ。**
片足を勢いよく目の前の大きな机へ乗せる。
重厚な机は黒いタイルの床を数センチ滑り、その衝撃音が部屋中へ響き渡った。
中央の机の陰では――
「きゃっ!」
タイニー・アーカイブの一体が、抱えていた書類の束を反射的に取り落とす。
紙が宙を舞い、辺りへ散らばった。
残る二体のタイニー・アーカイブは慌てて頭を伏せる。
一方、リビング・アーカイブの動きはさらに素早かった。
本の頭を持つその魔物は、騒ぎが大きくなる前に三体をまとめて机の陰へ引き寄せる。
誰も姿を現そうとはしない。
誰も声を上げようとはしなかった。
ここで長く働いてきた者なら、皆ひとつだけよく理解していることがある。
アインが感情を露わにした時、最善なのは決してその注意を引かないことだ。
もっとも、アインは彼らに一瞥すらくれなかった。
「まるで普通の人間でも相手にしているような聞き方だな」
その視線は再びストーカーへ向けられる。
「だが、お前自身が言ったはずだ。あの二人は、かつてアストラヴェルの頂点に立っていたと」
机へ軽く体重を預ける。
「なら、相手がどんな連中かくらい、想像はつくだろう」
「ですが――」
「彼がいる限りは」
ストーカーが言い終える前に、アインが遮った。
「すべては制御できる」
あまりにも自然に発せられたその一言は、
まるで議論の余地すらない事実であるかのようだった。
数秒後、静かに息を吐き、身体をゆっくりと起こす。
「それに――そうだ」
笑みが再び浮かぶ。
今度のそれは、先ほどよりもずっと穏やかだった。
「私は彼らを知っている」
口調はあくまで軽い。
だが、その奥には言葉では言い表せない何かが潜んでいた。
どこか懐かしさにも似た響き。
「俺たちが今の規模になる、ずっと前からな」
「名前を聞くだけで、大陸中が落ち着きを失っていた時代を、今でも覚えている」
アインはしばらく黙り込む。
口元にはまだ笑みが残っていた。
だがその表情は、目の前の会話を楽しむ者というより、遠い昔へ思いを馳せる者のそれだった。
「氷の剣で、体の半分を凍らされたこともあった」
自らの黒い義顎を、指先で軽く叩く。
「そのまま凍った体は粉々に砕けた」
くすりと笑いが漏れる。
「それでも、なぜか生き延びてしまったんだ」
ゆっくりと首を振る。
「あれは実に楽しい戦いだった」
その話の真偽を疑う者は誰もいない。
この世界で、アインがあんな口調で自分自身の過去を語る相手など、そう多くは存在しないのだから。
チェリストは、ずっと閉じていた瞳をようやくわずかに細め、かすかな笑みを浮かべた。
「音楽が、燃え尽きた灰のように響く時――」
その囁きは、壁の向こうで唸り続ける機械音に溶け込むほど静かだった。
「すべての喪失の果てに残された苦しみを喰らうものが、やがて姿を現す」
部屋は再び静寂に包まれる。
そして長い沈黙の末、ようやくオルガニストが口を開いた。
「この世界に生きる者なら、あの時代を知らぬ者はいないでしょう」
その声はいつも通り平坦だった。
あまりにも静かで、感情の起伏はほとんど感じられない。
まるで何度も読み返した古い書物を、淡々と開き直しているかのようだった。
「アスピラント・グランドマスターたちが、なお世界と世界の狭間を歩いていた時代です」
指先が紙に記された記録の上をゆっくりとなぞる。
「あの頃は、今とは比べものにならないほど多くの者が存在していました」
「ある者は大国へ身を置き」
「ある者は、どの地図にも記されることのなかった土地へ姿を消し」
「またある者は、宇宙の各地へその名を刻みました」
視線を手元の資料へ落とす。
「ですが、アストラヴェルについて語るのであれば――」
そこで一度言葉を区切った。
「ほとんどすべての記録に、何度も繰り返し現れる名があります」
「エレノア」
「ラインマー」
「マリアーネ」
再び静寂が訪れる。
ほんの束の間。
やがてオルガニストの口元に、かすかな笑みが浮かんだ。
「そして、もう一人」
しかし、その笑みはすぐに消え去る。
「皮肉なことに、その名だけは最後まで見つけることができませんでした」
その時初めて、彼の声にわずかな揺らぎが宿った。
戸惑いにも似た響きだった。
「人は皆、何かを残します」
「足跡を」
「記憶を」
「歴史を」
「残響を」
「どれほど自らの存在を消し去ろうとしても、それだけは避けられません」
ゆっくりと視線を上げる。
「ですが、その人物だけは違いました」
「何も見つからなかったのです」
「過去にも」
「現在にも」
「まだ訪れていない可能性の中にさえ」
指先の動きが止まる。
「まるで、その存在そのものが記録されることを拒んでいるかのようでした」
「リビング・アーカイブですら、その人物に関する記録を一つも保有していません」
少し間を置き、静かな声で付け加える。
「本来、それはあり得ないことです」
ストーカーは何も言わなかった。
その伝説を耳にしたことはあった。
だが、オルガニスト本人の口から語られると、その重みはまるで違う。
より現実味を帯び、不気味さすら感じさせた。
オルガニストは立ち位置をわずかに整え、再び話し始める。
「とはいえ、それらはすべて過去の話です」
部屋中の視線が再び彼へ集まった。
「記録された情報を総合する限り、彼らはすでに長い間、第一線から退いています」
「ラインマーは軍の指揮官としての人生を終えました」
「今では剣を振るうより、商いに携わることのほうが多いようです」
「そしてエレノア」
わずかに目を細める。
「“太陽の槍”は、その大半の時間を世界中の海を巡る航海に費やしています」
手にしていた資料を静かに閉じた。
「二人とも、かつて立っていた頂からは、すでに長く離れています」
「客観的に見れば、彼らはもはや全盛期と同じ脅威ではありません」
すると、アインは不意に笑い声を漏らした。
「はっ……」
短い笑いは次第に大きくなっていく。
肩が小さく震える。
片手を顔へ添え、指先でこめかみから額を押さえる。
込み上げる愉快さを抑えきれない、とでも言うように。
「ふふっ……ははは……」
低い笑い声が部屋に響いた。
嘲笑ではない。
まして怒りでもない。
長年待ち望んでいた知らせをようやく耳にした者だけが浮かべる、純粋な歓喜だった。
「……そうか」
指の隙間からでも、その笑みははっきりと見えた。
「今のあいつらは、ただの年寄りというわけだ」
ゆっくりと手を下ろす。
その瞳の奥で、淡い紅い光が静かに揺らめいた。
「……なら、もうすぐ消える」
そこでチェリストが静かに口を開く。
その顔はなおも巨大なガラス窓へ向けられたままだった。
その瞳は、相変わらず閉じられたままだった。
「そこが一番いいところです」
チェリストの声はどこまでも穏やかだった。
「彼らの最良の日々は、とっくに過ぎ去っています」
「そして、私たちには彼らが持たなかった贅沢がある」
かすかな笑みを浮かべる。
「時間です」
アインは静かに頷いた。
「もしあいつらがまだ全盛期のままだったら、少しくらいはがっかりしていたかもしれないな」
視線は窓の外へ向けられる。
はるか眼下まで続く闇の中へ。
「だが、今は?」
その瞳に、少年のような無邪気さすら感じさせる高揚が宿った。
「もう一度、あいつらに会いたい」
短い沈黙。
「そして今度は――」
口元がゆっくりと吊り上がる。
「絶対に負けるつもりはない」
部屋は再び静まり返る。
だが、その空気は先ほどとは明らかに違っていた。
ストーカーでさえ、その変化をはっきりと感じ取っていた。
アインは、この話を心の底から楽しんでいる。
その時、ストーカーの脳裏に一つの疑問が浮かんだ。
まだ触れられていない人物がいる。
「……実は、一つ気になっていることがあります」
アインはすぐに振り向いた。
「あの魔女は来ているのか?」
あまりにも自然に放たれた問いだった。
ストーカーは一瞬だけ目を瞬かせる。
「魔女、ですか?」
「おそらく、マリアーネのことだろう」
オルガニストが顔を上げることなく答えた。
「ラインマーの妻です」
ストーカーはすぐに首を横へ振る。
「いいえ」
「アストラヴェルでは、その姿を確認していません」
少し考え込んでから続ける。
「南部地区で彼らを監視していた間も、彼女の名が人々の会話に上ることはほとんどありませんでした」
アインはすぐには答えなかった。
その眼差しが、わずかに変わる。
ほんの些細な変化だった。
それでも違いははっきりと伝わってきた。
鋭く。
そして、より慎重に。
チェリストが淡く微笑む。
「遠くから見守っているのかもしれません」
囁くような声だった。
「あるいは、何が起きているのかを知るために、姿を現す必要すらないのかもしれない」
わずかに首を傾ける。
「そして、おそらく……彼女はすでに見ています」
「それでも、あえて沈黙を選んでいる」
指先が膝の上をゆっくりとなぞる。
「その痕跡を感じます」
「残された静寂を」
「力から漏れ出したレゾナンスを」
誰も反論しなかった。
この場にいる全員が、その意味を理解していたからだ。
マリアーネは、自ら姿を現さなければ状況を動かせないような存在ではない。
ただ存在しているだけで十分だった。
アインは静かに息を吐く。
「もし本当に、あいつが関わっているなら……」
言葉は一瞬宙に浮かぶ。
「少し厄介だな」
口調は変わらず軽い。
だが、ラインマーとエレノアの名を聞いて以来、初めてその胸に警戒の色が宿っていた。
ごくわずかに。
ほとんど気づかないほど微かに。
それでも、確かに。
彼が警戒するに値する相手がいるとすれば――
マリアーネは、間違いなくその一人だった。
それでも、その笑みが消えることはない。
「問題はない」
「連中が同じパーティーにさえいなければな」
なぜだろう。
その一言は、この会議で交わされたどんな脅し文句よりも、不気味な響きを帯びていた。
チェリストが再び静かに口を開く。
「失われた残響は……」
その声はどこか遠くから聞こえてくるようだった。
まるで、誰にも聞こえない音へ耳を澄ませているかのように。
「音楽は、いつだって彼らにとって美しく響くでしょう」
束の間の静寂が流れた。
やがて、指先がかすかに動いた。
「たとえ、それが彼らの人生で最後に耳にする音色だったとしても」
チェリストの最後の言葉に、誰も応じることはなかった。
その意味を掘り下げようとする者もいない。
そこに込められた意味を、この場にいる全員が理解していたからだ。
あるいは――今はまだ、それについて考えたくなかったのかもしれない。
沈黙を破ったのは、アインだった。
「巣の状態はどうだ?」
ストーカーは再び視線を落とす。
「成長は予想以上に安定しており、その速度も加速しています」
「鉱石の消費量は、先月比で十二パーセント増加」
「孵化に伴うレゾナンスも上昇を続けています」
「ダンジョンの生態系も、卵の急速な成長へ適応し始めています」
オルガニストはリビング・アーカイブの体内から新たな記録を取り出した。
「さらに、複数の階層においてモンスターの行動変化も確認されています」
「中には、自ら魂を差し出し、それらの卵に喰われることを選んだ個体もいます」
アインは表情一つ変えず、その報告に耳を傾けていた。
「ふむ……」
わずかに口元が動く。
「なかなか貪欲じゃないか」
だが、その思考はすでに別の方向へ向かっていた。
レゾナンス。
成長。
環境の変化。
そのすべてが、一つの結論を示している。
孵化は、当初の予測よりも早く進んでいる。
そして孵化が早まるほど、彼らの存在が露見する可能性も高くなる。
「進捗率は?」
「当初の予測を上回っています」
今度はオルガニストが答えた。
ストーカーが次の報告へ移るよりも早く、その言葉を引き継ぐ。
「約九十三パーセントです」
その数字を聞いた瞬間、アインは静かに目を細めた。
閉じた瞳のまま座っていたチェリストでさえ、その数値には意識を向けたようだった。
九十三パーセント。
このまま成長速度が維持されれば、計画は想定よりもはるかに早く次の段階へ移行することになる。
「いいな」
ゆっくりと笑みが浮かぶ。
「早く地上へ出て、幕開けを迎えたいものだ」
オルガニストは手元の記録を閉じる。
そして本棚の前を離れ、静かな足取りで歩き出した。
その歩みは落ち着いていて、一切の無駄がない。
やがて中央の机のそばで足を止める。
「では、本日の会合はここまでにしましょう」
「私はカントルのもとへ向かいます」
その言葉は、ごく自然に告げられた。
許可を求める響きでもなければ、報告でもない。
この会議が始まる前から、すでに決まっていた予定を口にしただけだった。
「次の段階の準備も、間もなく始まります」
手元の資料へ一度だけ目を落とす。
「この知らせは、私から直接伝えるべきでしょう」
再び、数秒の静寂が流れた。
やがて短い鼻息が響く。
アインは興味なさげに右手をひらりと返した。
その表情は、露骨に不機嫌そうへと変わる。
「あぁ……」
背中を巨大なガラス窓へ預ける。
「また、あの自分だけが敬虔だと思い込んでる年寄りか」
まるで顔も見たくない知人の名を思い出したような口調だった。
「会いたいなら勝手に行け」
気怠そうに手を振る。
「私はあいつと顔を合わせる気はない」
チェリストは相変わらず薄く微笑むだけで、何も口を挟まなかった。
オルガニストもまた、大げさな反応は見せない。
アインの愚痴など、あまりにも聞き慣れすぎて、今さら気に留める価値もないと言わんばかりだった。
そのすぐ脇で、不意に空間が軋む。
青白い一本の縦線が、何もない空間に浮かび上がった。
その亀裂はゆっくりと左右へ広がり、内側では光の渦が静かに回転している。
――ポータルだった。
オルガニストは誰一人振り返ることなく、
無言のまま、そのポータルへ足を踏み入れた。
部屋の隅では、先ほどまで机の陰に身を潜めていたリビング・アーカイブが、びくりと身を震わせる。
本のような姿をしたその魔物は、慌てて飛び出した。
三体のタイニー・アーカイブも、すぐ後を追う。
一体は自分の衣の裾に足を取られそうになり、
もう一体は抱えていた書類の束を落としかけた。
それでも、立ち止まる者はいない。
置いて行かれるのを恐れる子どものように、一目散にポータルへ駆けていく。
最初に飛び込んだのはリビング・アーカイブ。
続いて一体目のタイニー・アーカイブ。
さらに二体目。
最後の一体は危うくポータルの縁へぶつかりそうになりながらも、ぎりぎりのところで中へ滑り込んだ。
数秒後、青い亀裂は静かに閉じていく。
その場に残ったのは、アインとチェリスト、そしてストーカーだけだった。
静寂がしばらく続いた後、再びアインが口を開く。
「それと……あいつは、卵の最新の状況も把握しているのか?」
ストーカーは静かに頷いた。
「報告はすでに送っています」
チェリストはかすかに微笑む。
「報告書が書かれる前から、あの方はすでにご存じですよ」
誰の名も語られなかった。
肩書きも。
それ以上の説明もない。
だが、この場の誰一人として驚く様子はなかった。
アインでさえ、それを否定しない。
まるで、それがごく当たり前のことであるかのように。
まるで、その存在にはもはや説明など必要ないかのように。
アインはゆっくりと顔を上げた。
「よし。十分だ」
視線が部屋全体をゆっくりと見渡す。
先ほどまで浮かんでいた気楽な笑みは静かに消え去り、
そこに残ったのは、より冷たく揺るぎない意志だけだった。
「監視体制を強化しろ」
「開幕の準備として、さらにヴァンガードと他のストーカーを地上へ投入する」
「連中の調査は好きに続けさせろ。忙しくしているほうが都合がいい」
そこで一度言葉を切る。
「私の命令があるまで、アストラヴェルには手を出すな」
視線がストーカーへ向けられた。
「それと、本当に必要な場合を除いて、誰も殺すな」
声を荒らげることはない。
それでも、その一言一句には拒むことのできない重みがあった。
「巣は必ず隠し通せ」
「承知しました」
ストーカーは深く頭を下げる。
方針は決まった。
命令は下された。
あとは、それを実行するだけだ。
「よし」
アインは再び巨大なガラス窓の向こうへ視線を向ける。
工業地帯に灯る無数の淡い明かりが、その瞳に静かに映り込んでいた。
「待つのにも飽きてきたな」
誰も答えない。
そして部屋は、ゆっくりと再び静寂に沈んでいく。
その静けさは、先ほどまでよりもなお、不穏だった。




