第五十一話
青みがかった灰色の岩壁が細い道の両脇にそびえ立ち、まるで決して完全には塞がることのない古傷のように、谷を深く裂く天然の回廊を形作っていた。
岩肌には濃い赤色の亀裂が幾筋も走り、その奥で淡く脈打つような光を放っている。その様は、地の底深くに埋もれた巨大な血管が静かに鼓動しているかのようだった。
黒いローブをまとった男は、歩みを緩めることなく先へ進む。
先ほどの少女が足取りを見失った場所から十分に距離を取ると、その身を覆っていた擬装はゆっくりと薄れ、冷たい風に吹き散らされる霧のように空へ溶けていった。
やがて、本来の姿がはっきりと姿を現す。
それでも歩き方は何一つ変わらない。
静かに。
揺るぎなく。
まるで異質な岩石に満ちたこの道さえ、幾度となく通ってきた帰り道でしかないかのように。
谷の曲がり角を抜けた先で、朽ち果てた古い集落の跡がゆっくりと姿を現した。
半ば崩れ落ちた石造りの家々は、長い年月をかけてずれた地形に合わせるように傾き、中にはひび割れた壁と、ほとんど土埃に埋もれた土台だけを残した建物もある。
そこには、かつての営みの痕跡が今もなお残されていた。
崩れ落ちた市場の露店。
あちこちへ傾いた朽ちた木柱。
風に揺られる、破れかけた天幕の切れ端。
そして塗装が剥がれ落ち、もはや文字すら判読できなくなった看板。
男の視線は、その一帯を静かになぞる。
この場所は、かつて確かに生きていた。
商人たちの呼び声が響き、子どもたちが駆け回り、夜遅くまで灯りが絶えることのなかった場所。
今ここに残るのは、ただ静寂だけだった。
戦争のせいではない。
飢饉のせいでもない。
地の底から静かに這い上がり、際限なく増殖し続ける〝何か〟によって、この地は命を失ったのだ。
道端に崩れた建物へ視線を向けたところで、男はようやく足を緩めた。
今にも崩れ落ちそうな屋根の上には、赤い結晶が木の根のように岩や木材を貫きながら、無秩序に広がっている。
その規模は異常だった。
本来あるはずの量をはるかに超えている。
精製も安定化も施されていない、純粋な原鉱。
結晶の内部で脈打つ赤い光が、黒いフードの奥をかすかに照らした。
男は何も口にしない。
だが、その視線だけがわずかに長く留まる。
あの種の鉱物は、本来、生のまま扱われることを前提としてはいない。
世界の深層で眠り続けるべき〝何か〟と、あまりにも容易くレゾナンスを起こしてしまうからだ。
そして、その共鳴が起きるたび――
必ず代償が生まれる。
人間。
獣。
……そして、カストディアンでさえも。
――ガリッ……
不意に、耳障りな擦過音が静寂を切り裂いた。
男の足が止まる。
廃墟を吹き抜ける風が、わずかに質を変えた。
次の瞬間、崩れた建物の陰から黒い影が飛び出す。
一体。
続いてもう一体。
さらに二体が、ほぼ同時に姿を現した。
四体の魔物が、ひび割れた石畳へ重々しい音を立てて着地する。
その姿は、ぱっと見こそヘイナの面影を残していた。
だが、それだけだった。
全身の皮膚には赤い結晶が肉を突き破るように寄生し、首から尾へと赤く光る亀裂が走っている。前脚の一本に至っては、筋肉の動きに合わせて脈動する、鋸のような結晶塊へと変貌していた。
何より異様だったのは、その瞳だ。
濁った赤。
虚ろな眼差し。
そこには、獣としての本能はもはや一片たりとも残されていなかった。
最初の一体が動く。
放たれた矢のような速度で一直線に駆ける。
速い。
あまりにも速い。
だが、黒いローブの男は微動だにしなかった。
その手が、ごく自然な動作で背中へ伸びる。
あまりにも淀みのない所作は、まるで気負いすら感じさせない。
――キィン。
背負われていた長剣が静かに抜き放たれる。
銀色の閃光が、一瞬だけ宙を走った。
それは、一瞬の出来事だった。
牙が届くよりも早く、一体目のヘイナの身体は真っ二つに断たれる。
黒い血飛沫と砕け散る赤い結晶が宙へ舞い上がった。
間髪入れず、残る二体が襲いかかる。
一体は左から。
もう一体は右から。
男は半歩だけ身体をひねった。
慌てることもなければ、無理に力を込めることもない。
その動きに合わせるように、剣先が低く弧を描く。
――ガキンッ。
一体のヘイナの前脚が、根元から鮮やかに断ち切られた。
均衡を失った身体が大きく傾く。
だが、地面へ倒れ込むよりも早く、同じ軌道を描いていた剣閃がそのまま返された。
切っ先は下顎を貫き、
頭蓋を突き抜け、
頭頂から姿を現す。
「GRAAAッ!!」
三体目が横合いから肩へ激突した。
並の岩石なら砕け散るほどの衝撃。
それでも男の身体は、わずかに揺れただけだった。
受け止めるのではない。
その衝撃さえ利用する。
身体は勢いに合わせて自然に回転し、
左肘が先に走る。
――ドゴッ。
ヘイナの頭部が大きく弾き飛ばされた。
顔面を覆う結晶には、一瞬で無数の亀裂が走る。
体勢を立て直す暇すら与えず、剣が真上から振り下ろされた。
一直線に。
何の躊躇もなく。
深紅の刃は背中を覆う結晶ごと肉体を断ち割り、そのまま反対側まで貫き抜ける。
砕け散る結晶の音が、廃墟の静寂へ鋭く響き渡った。
最後の一体だけが、その場で動きを止める。
結晶によって歪められた野生の本能にも、まだ一つだけ残っていたものがあった。
危険。
濁った赤い瞳が三体の骸を見回したかと思うと、次の瞬間には迷いなく踵を返していた。
逃げることを選んだのだ。
黒いローブの男は、その背中が廃墟の奥へ遠ざかっていくのを静かに見送る。
そして、小さく息を吐いた。
その吐息には、わずかな疲労が滲んでいる。
「いつも通りだな」
指先がわずかに動く。
握られていた剣が手を離れ、一直線に飛び出した。
深紅の刃は空中で一回転しながら風を切り裂き、瓦礫と土煙の向こうへ消えていく。
次の瞬間――
――ガッ。
逃走していたヘイナの身体が、不自然に跳ね上がった。
剣は背中の中央を正確に貫き、そのまま勢いごと身体を数メートル先まで吹き飛ばす。
やがて地面へ叩きつけられると、二度と動くことはなかった。
再び静寂が訪れる。
聞こえるのは、人気のない建物の間を吹き抜ける風の音だけ。
男は急ぐことなく歩き出した。
靴底が、道に散らばる結晶の欠片や砕けた石を静かに踏みしめていく。
骸の前まで来ると、突き立ったままの剣の柄を握る。
一息に引き抜く。
深紅の刃が再び姿を現し、黒い血がわずかに滴る。
その雫は、ひび割れた地面の隙間へ吸い込まれるように消えていった。
男の視線が、骸から生えた赤い結晶へ落ちる。
以前見たものより、明らかに大きい。
厚みも増している。
侵食の勢いも、さらに激しい。
その目がわずかに細められた。
レゾナンスは、確実に悪化している。
報告書も数値も必要なかった。
外縁部を徘徊する野生の魔物でさえ、以前よりはるかに速い速度で変異を始めている。
(……面倒だ)
地上へ向かうたび、この場所を通らなければならない。
そして通るたびに、何かが噛みつき、襲いかかり、命を奪おうとしてくる。
まるでこの一帯そのものが、まだ自分を排除することを諦めていないかのようだった。
軽く剣をひるがえすと、深紅の刃は吸い込まれるように背中の鞘へ収まった。
背後に転がる骸を振り返ることなく、男は再び歩き始めた。
岩だらけの道は、最初こそ野生の草木に覆われていたものの、進むにつれて次第に幅を狭めていく。
草木は少しずつ姿を消し、
代わりに両側の岩壁がゆっくりと迫ってきた。
空気はさらに冷たく、
さらに湿り気を帯び、
風の音も、いつしか耳から消えていた。
やがて、その先に巨大な裂け目が姿を現す。
洞窟の入口。
闇に包まれ、物音ひとつない。
男はためらうことなく、その中へ足を踏み入れた。
足音が、岩盤を穿ってできた天然の坑道に静かに反響する。
一分。
二分。
五分。
どれだけ歩いても景色はほとんど変わらず、その回廊は、侵入者を呑み込むためだけに造られたかのように奥へ奥へと続いていた。
旅路に寄り添うのは、自らの足音だけ。
やがて、遥か前方に淡い光が浮かび上がる。
近づくにつれ、その光は少しずつ強さを増し――
次の瞬間、男は坑道の出口へと歩み出た。
冷たい風が黒いローブを打つ。
裾が静かにはためく。
男は崖の縁で足を止めた。
その眼前に広がっていたのは、多くの者が言葉を失うほどの光景だった。
谷ではない。
先ほど通り過ぎた廃村でもない。
もっと古く。
もっと巨大で。
そして、静寂ゆえに、なおさら底知れぬ不気味さを放つ場所。
崖下には、まるで世界の胎内へ埋め込まれたかのような、広大な工業地帯が横たわっていた。
濃い灰色の霧が一帯を低く覆い尽くし、まるで時の流れさえ止まった死んだ雲海のように、その場へ張り付いている。
幾年もの歳月が流れても、
その霧が消えることはなかった。
遠くへ流れ去ることもない。
ただ、この地を不自然な静寂で包み込み続けている。
眼下の大半は、その霧に呑まれて見えない。
それでも、高所からなお確認できるものがいくつかあった。
とりわけ目を引くのは、赤い光。
巨大な赤い結晶群が洞窟空間の各所からそびえ立ち、まるで地下世界の天井を貫こうとする天然の巨柱のように伸びている。
あるものは岩壁を這うように横へ広がり、
あるものは世界そのものに刻まれた傷口から生え出たかのように、巨大な紅の塔となって真っ直ぐ天へ向かっていた。
その結晶の森の合間には、古びた工業施設の残骸が今なお残されている。
巨大な鉱物貯蔵タンクが各所に点在し、その外壁には大きな亀裂が走っていた。それでも、本来ならとっくに停止しているはずの金属製タンクの内部では、なお淡い赤い光が脈打っている。
加工施設は半ば崩れ落ち、
屋根は失われ、
壁もところどころ時の流れに削り取られていた。
それでも建物を支える黒い鋼鉄の骨組みだけは執拗にその姿を保ち、霧の中へ鋭い輪郭を刻み込んでいる。
中には、いまだ細い煙を吐き続ける古い煙突さえあった。
ほんのわずか。
注意して見なければ気づかないほど微かな煙。
だが、それだけで胸の奥に嫌な疑問が芽生える。
あそこでは、今も機械が動いているのか。
それとも――別の何かが、この施設を動かし続けているのか。
途中で途切れた物流用の線路は、大地に刻まれた長い傷痕のように工業地帯を横断している。
各所には巨大なクレーンが沈黙したまま立ち尽くしていた。
錆びつき、ひび割れた鋼鉄の躯体は、最期まで空を見上げたまま息絶えた機械仕掛けの怪物の骸を思わせる。
遥か彼方では、いくつもの冷却塔がなお高くそびえていた。
傾き、
ひび割れ、
今にも崩れ落ちそうでありながら、
なぜか倒れずに立ち続けている。
この場所全体が、完全な消滅を拒み続ける旧世界の亡骸のようだった。
今ではヴァーミリオン・ホロウの新しい地図にも記されていない場所。
とっくの昔に、ただの廃墟となったはずの場所。
――少なくとも、表向きには。
現実は違う。
男の視線は、なおも眼下へ向けられたままだった。
古びた建造物の間を漂う灰色の霧を貫くように。
そのさらに奥へ。
霧と廃墟のさらに深く、そのすべてに隠された場所へ。
そこには、今なお命がある。
今なお営みがある。
そして、ヴァーミリオン・ホロウの住民のほとんどが知ることもないまま、密かに――
誰かが、この場所に根を下ろしている。
冷たい風が再び洞窟の底から吹き上がる。
黒いローブが静かにはためいた。
眼下では、灰色の霧の合間に赤い光がいくつも揺らめいている。
まるで、とっくに燃え尽きたはずの大火災に残された熾火だけが、今なお消えずに燻り続けているかのようだった。
男の立つ崖縁から少し離れた岩壁には、大型の貨物用リフトが設置されている。
巨大な金属製レールは崖の底まで真っ直ぐ伸び、この地下深くに眠る工業地帯へと続いていた。
まだ動いている。
今も整備され続けている。
濃霧の中でも、表示灯はかすかな明かりを灯していた。
だが、黒いローブの男は一瞥すらくれない。
最初から、その存在など選択肢に入っていないかのように。
そのまま一歩、前へ踏み出す。
さらにもう一歩。
そして躊躇なく、崖から身を躍らせた。
冷たい風が黒いローブを激しく打ち、身体は洞窟を満たす灰色の霧を突き抜けながら落下していく。
黒い布地が周囲で大きく翻る。
さらに深く。
さらに速く。
岩壁がぼやけた影のように脇を流れ去り、
壁面へ取り付けられた古い鋼鉄構造物が、一瞬だけ姿を見せては再び霧の中へ消えていく。
耳元では風が唸りを上げていた。
それでも男の表情は変わらない。
緊張の色はなく、
落下を和らげようとする素振りすら見せなかった。
数十メートルもの高低差など、一段ずつ下りるのが面倒な階段程度にしか思っていないかのように。
数秒後――
――ドォンッ!!
地面が鈍く震えた。
土煙と砕けた岩片が四方へ弾け飛ぶ。
着地点を中心に細かな亀裂が蜘蛛の巣のように古びた舗装の上へと広がっていった。
黒いローブはなおもしばらく風を孕み、
やがて静かに揺れを収める。
男は土煙の中心に立っていた。
傷ひとつ負わず、
体勢を崩すことさえない。
そして着地など何事でもなかったと言わんばかりに、そのまま次の一歩を踏み出した。
地上から見下ろした時よりも、この場所の霧は遥かに濃い。
古びた建物は黒い影となってわずかに姿を見せたかと思えば、すぐ灰色の帳へ呑み込まれていく。
ひび割れたコンクリート柱が道路脇で傾き、
太い工業用パイプが地中や建物の壁から伸びては、廃墟の奥へ消えていた。
巨大な貯蔵タンクが各所に横たわっている。
その側面は大きく引き裂かれ、人間が造ったどんな機械よりも巨大な何かに抉り取られたような傷跡を晒していた。
ときおり、古びた鋼材の隙間から伸びる赤い結晶の奥で光が灯る。
淡く輝き、
やがて弱まり、
再び脈打つ。
まるで不規則に鼓動する心臓のように。
この工業地帯全体へ、どこか歪んだ生命感を与えていた。
男は、ひび割れ、長い歳月に削られた舗装路を黙々と歩き続ける。
採掘車両は何年も前に動きを止めたまま路肩へ放置され、その多くは埃と結晶片に埋もれていた。
少し先では、途中から折れ曲がった鋼鉄製クレーンが霧の中で傾き、さらにその奥には、小さな倉庫が並んでいる。
扉はとうの昔に蝶番から外れ、内部は空っぽだった。
この場所は、ほとんど音を立てない。
聞こえるのは、ときおり建物の間で反響する自分の足音だけ。
それすら、すぐに霧の中へ吸い込まれていく。
だが、だからこそ奇妙だった。
この静寂は、決して空虚ではない。
割れた窓の奥で、二つの赤い光がゆっくりと灯る。
続いて、別の場所にも。
四つ。
六つ。
十数。
数十。
赤い視線が細い路地から、
崩れた建物の陰から、
暗い屋根の上から、
光の届かない影の隙間から、
次々と姿を現していく。
ただ見ている。
黙って。
声もなく。
身じろぎひとつせずに。
まるで、この工業地帯そのものが男の歩みを見守っているかのようだった。
黒いローブの男は、一度たりとも視線を向けない。
その必要はない。
そこにいることは知っている。
そして向こうもまた、今ここを歩いているのが誰なのかを理解していた。
近づいてくる者はいない。
襲いかかろうとする気配すら見せない。
理性の大半を失った魔物でさえ、踏み越えてはならない境界だけは理解していた。
工業地帯の中心へ近づくにつれ、同じ紋章が目につくようになる。
最初は、ひび割れたコンクリート壁に描かれた小さな印だった。
次は鋼鉄の支柱。
さらに道路の上へ傾いて吊るされた古びた金属板にも。
まるで誰かが、この一帯すべてへ同じ印を刻みつけたかのように。
やがて遠方の高層建造物から、一枚の大きな旗が垂れ下がっているのが見えた。
色褪せた赤い布が、ゆっくりと風に揺れる。
その中央に刻まれた紋章は、男にとって見慣れたものだった。
**オーケストラ。**
布はところどころ裂け、
紋様も年月とともに色褪せていた。
それでも、その紋章だけは遠目にもなお鮮明だった。
何ひとつ説明することなく、そこが誰の領域なのかを静かに告げるように。
灰色の霧は、少しずつ薄れていった。
やがて、その影の向こうから、この工業地帯で最も巨大な建造物が姿を現す。
行政庁舎。
周囲のどの建物よりもひときわ巨大で、
コンクリートの外壁は今なお原形を保ち、
建物を支える骨格も微動だにしていない。
まるで時そのものが、この場所だけは触れずに通り過ぎたかのようだった。
外壁の各所では淡い赤い灯が静かに揺れている。
何年も前に息絶えたはずの建物へ、かろうじて生命の錯覚を与える程度の明かり。
正面へ続く通路には、いくつもの見張り所が並んでいた。
入口や建物の角には金属製のランタンが吊るされ、
その中には赤い結晶を光源としているものもある。
鈍く赤い光が、くすんだ鋼材と湿ったコンクリートの床をゆっくりと照らしていた。
そこには、いくつものローブ姿が静かに立っている。
**ディソナント・ストーカー。**
物音ひとつ立てず、
ほとんど身じろぎもしない。
生き物というより、建物を守る彫像のようだった。
男が近づくと、そのうちの一体がゆっくりと顔を上げる。
続いて、ほかの個体も同じように視線を向けた。
それだけだった。
これほど大きな施設への来訪者に向けられるはずの挨拶も、
形式的なやり取りも存在しない。
数秒後。
彼らの背後から重々しい金属音が響いた。
巨大な鋼鉄製の扉が、ひとりでにゆっくりと開き始める。
古びた金属が擦れ合う音が静かに辺りへ広がった。
扉は少しずつ開き、
道を譲る。
護衛たちは命令を受けるまでもなく左右へ退いた。
黒いローブの男は、そのまま歩き続ける。
歩調は変わらない。
頭を垂れる護衛たちへ視線を向けることもなく、
検問所を抜け、
鋼鉄の扉をくぐり、
そのまま建物の内部へ入っていった。
途端に、温かな空気が身体を包み込む。
外を満たしていた冷気とはまるで別世界だった。
正面には長い廊下が真っ直ぐ伸びている。
壁面へ等間隔に埋め込まれた赤い照明が、淡く行く手を照らしていた。
天井や壁際には古びた配管や太いケーブルが無数に張り巡らされている。
中には数十年は経っていると思われるものもあった。
それでもなお、機能し続けている。
建物のさらに奥からは、機械の駆動音がかすかに響いてきた。
一定のリズムで。
止まることなく。
男はそのまま廊下の突き当たりまで歩いていく。
そこでは、一基の古びたエレベーターが静かに待っていた。
鉄製の扉には幾重もの傷が刻まれ、
無数のへこみと長年積み重なった錆が残されている。
それでも脇の操作盤には、なお明かりが灯っていた。
今もなお、その役目を果たし続けている証のように。
男は音もなく乗り込む。
鉄扉がゆっくりと閉じ始めた。
廊下から差し込む光は次第に細くなり、
さらに狭まり、
やがて完全に消え去る。
――カチッ。
静かな施錠音が響いた。
その直後、年季の入った駆動機構が小さく震える。
エレベーターはゆっくりと上昇を始めた。
暗い下層を後にし、この建物の最上部へ向かって。




