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第五十話

しばらくの間、誰も口を開かなかった。


二人の会話は、これ以上無理に先へ進めようのない行き止まりにたどり着いていた。


ラインマーのカップに残っていたコーヒーは、白い磁器の底に薄く黒い液体を残すだけとなり、向かいに座るエレノアもまた、空になったティーカップを静かにテーブルへ置く。


ふと視線が重なる。


だが、それも束の間ですぐに逸れた。


今日一日で明確な答えを得ることはできなかった。仮に何かを掴めたとしても、それは以前よりもさらに厄介な疑問を生み出しただけだ。


そして、そのすべての疑問が向かう先は一つしかない。


アストラヴェル。


あの都市の裏側では、何かが静かに動き始めている。


その姿を理解しようとすればするほど、輪郭はかえって曖昧になっていくばかりだった。


やがてラインマーは長く息を吐き、椅子から立ち上がる。


「……今日はこの辺で十分だろう」


エレノアは小さく頷いた。


「ええ。このまま続けても、同じところを堂々巡りするだけだもの」


木製の椅子が静かに床を擦る音を立てる。


カウンターの向こうでは、エリアスが洗い終えたグラスを片付けていた。ラインマーが立ち上がっても、老人は顔を上げようともしない。


そこへ数枚の硬貨が、カウンターの上へ落とされた。


――カチン。


――カチン。


その手が止まる。


年老いた目が一度だけ硬貨へ向き、


そして、もう一度見直した。


片眉がゆっくりと上がる。


「……多すぎるな」


ラインマーは金額を見返そうともしなかった。


「七年も顔を出さなかった遅れの埋め合わせだと思ってくれ」


「ふん」


エリアスは目を細める。


「ひどい言い訳だ」


「なら、気まぐれで奮発したと思えばいい」


「そっちのほうがもっとひどい」


ラインマーの口元にかすかな笑みが浮かんだ。


「臨時収入が欲しかったんじゃないのか?」


その言葉に、エリアスはようやく振り向く。


「……どこでそんなことを知った?」


「長い付き合いだからな」


「答えになってない」


一方、カウンターの上に置かれた硬貨の量へ目をやったエレノアは、小さく息をついた。


「自分の分くらい、自分で払えるって知っているでしょう?」


「もちろん知っている」


「それなのに、どうして全部払うの?」


ラインマーはそのまま扉へ向かって歩き出す。


「たまにはいいだろう」


「前の答えよりひどいわね」


「俺がこういう人間なのは知っているだろう」


「ええ、知ってる」


エレノアは苦笑をこらえながら、小さく首を振った。


「本当に頑固なんだから」


「礼を言う言葉には聞こえないな」


「だって、お礼じゃないもの」


そう言いながらも、呆れたような表情を浮かべる。


背後では、エリアスが鼻を鳴らした。


不思議なことに、今日はいつものような長い小言は飛んでこない。


老人は硬貨を拾い集め、レジの引き出しへしまうと、しばらく黙り込んだ。


その視線は、店を出ようとする二人の背中を追う。


ほんの一瞬だけ。


「……あの時みたいなことがまた起きても、死ぬんじゃねえぞ」


ラインマーの足が、ほんの半拍だけ止まる。


それから短く笑った。


「そいつは、さっきの歓迎よりずっと温かいな」


「今は帰るところだからだ」


「面白い理屈だ」


「ここは俺の店だ」


エリアスは静かにレジの引き出しを閉めた。


「俺の理屈を誰かに説明する義理はねえ」


その言葉に、今度こそエレノアは柔らかく微笑む。


「体に気をつけて、エリアス」


一度言葉を切り、それから静かに続けた。


「また会えるといいわ」


老人は振り向きもせず、片手をひらりと上げる。


別れの挨拶というより、追い払うような小さな仕草だった。


だが、その本当の意味を理解するには、二人は十分すぎるほど長い時間を彼と過ごしてきた。


扉の上のベルが、木製のドアが開くのに合わせて軽やかに鳴る。


外の暖かな空気が、二人を迎え入れた。


昼の陽光が入口から店内へ流れ込み、コーヒーと古い木の香りはゆっくりと背後へ遠ざかっていく。


港の通りは、相変わらず活気に満ちていた。


商人たちの荷馬車が石畳を行き交い、作業員たちは照りつける日差しの下で木箱や麻袋を運んでいる。あちこちから聞こえる話し声や威勢のいい掛け声が混ざり合い、この交易地区ならではの喧騒を形作っていた。


ラインマーとエレノアは港湾地区を離れ、石畳の歩道を並んで歩いていた。


しばらくの間、どちらも口を開かない。


聞こえるのは、足音と、ときおり二人の外套の裾を揺らしていく潮風だけだった。


やがて、ラインマーが静かに口を開く。


「それで?」


エレノアが顔を向ける。


「それで、って?」


ラインマーは両手をコートのポケットへ入れた。


「俺はポラリスへ向かう」


次に出てくる名前を聞く前から、エレノアには話の続きを察していた。


「ケイルに、カエラ」


「それとシルヴィアだ」


彼女は静かに頷く。


当然だった。


互いに自分の子どもが関わる話となれば、ラインマーがいつまでも動かずにいるはずがない。


再び、短い沈黙が二人の間に落ちる。


何人もの通行人が脇を通り過ぎ、交差点の向こうをヴォルタリス・トラムが走り抜けていく。遠くでは、埠頭の上を旋回するカモメの鳴き声が風に乗って聞こえてきた。


エレノアは前を見据えたまま、小さく口を開く。


「本当は……」


静かに息をつく。


「私も行きたいの」


ラインマーは横目で彼女を見た。


その表情はほとんど変わらない。


まるで、その答えを最初から予想していたかのようだった。


「そうか」


「私も、シルヴィアが無事かどうか、この目で確かめたいもの」


その声は穏やかだった。


けれど、コートの陰では、指先が無意識に固く組み合わされている。


あれほど穏やかな形で別れたのは、久しぶりだった。


だからこそ、胸の奥に引っかかったまま消えない違和感を拭うことができなかった。


シルヴィアの名を口にしたとき、その声音は少しだけ柔らかくなる。


短い間が流れた。


歩調もわずかに緩み、それでも視線だけは前方の道から逸らさない。


「でも……」


再び、小さく息を吐く。


「この噂が、どうしても気になるの」


ラインマーは口を挟まなかった。


ただ隣を歩きながら、彼女が自分の考えを言葉にするのを静かに待つ。


「考えれば考えるほど、おかしい気がしてくる」


「しかも、危険だ」


潮風が大通りを吹き抜け、エレノアの頬にかかる髪をそっと揺らした。


「何がそこまで私を引っかからせているのか、自分でもよく分からないの」


「勘かもしれないな」


「あるいは、単に君の好奇心が強すぎるだけか」


エレノアは小さく鼻を鳴らす。


「それ、ずいぶん手厳しい言い方ね」


「そのつもりで言った」


エレノアの口元にかすかな笑みが浮かぶ。


だが、その笑みも長くは続かなかった。


「もう私が首を突っ込むべき問題じゃないのかもしれないわ」


「その可能性はある」


「ギルドに全部任せるべきなのかもしれない」


「それもあり得るな」


エレノアはそっと目を閉じた。


「あなたって、賛成するときのほうが性格悪いわね」


「五分前には、もう答えを決めていただろう」


その言葉に、エレノアは今度こそ小さく笑った。


面白かったからではない。


ラインマーは昔から、驚くほど簡単に自分の心を見抜いてしまうのだ。


再び目を開いたとき、先ほどまで残っていた迷いはもうどこにもなかった。


代わりに宿っていたのは、はるかに揺るぎない意志だった。


「この噂について、もう少し調べてみるわ」


「そう言うと思っていた」


「まだ私に借りを返していない情報屋が何人かいるの」


「その言い方は、ずいぶん物騒に聞こえるな」


「みんな自分から協力してくれてるって言ったら?」


「もちろん信じない」


二人は小さく笑い合う。


張り詰めていた空気が、ようやく少しだけ和らいだ。


店を出てから初めて、肩の力を抜けるような穏やかな空気が流れる。


「子どもたちのことは俺に任せろ」


エレノアは静かに頷いた。


その瞳に迷いは欠片もない。


「ええ。そのことに関しては、何も心配していないわ」


一拍置いてから、続ける。


「その代わり、私はこの噂の出どころを突き止めるまで追いかけてみる」


「当てはあるのか?」


「地下界よ」


ラインマーはわずかに眉を上げた。


「ずいぶん久しく聞いていない名前だな」


「だからこそ、あまり変わっていないといいんだけど」


「もし変わっていたら、本当に世界の終わりだな」


エレノアは苦笑した。


ラインマーは数秒ほど考え込み、それから口を開く。


「本気で行くつもりなら、レッドランタンの連中を訪ねるといい」


エレノアが振り向く。


「レッドランタン? まだ活動していたの?」


「しているはずだ。そう簡単に消えるような連中じゃない」


「分かったわ」


「あそこに知り合いがいる」


「あなたって、本当にそういう怪しい場所に知り合いが多いのね」


「風評被害だ」


「いいえ、事実よ」


ラインマーは小さく舌打ちした。


「セシリア・ヴェイン」


その名前を聞き、エレノアはわずかに首を傾げる。


記憶に刻み込むように、静かにその名を反芻した。


「そこのリーダー?」


「ああ」


「信用できる人なの?」


「地下界で生きる人間として信用できる範囲では、な」


その答えに、エレノアは思わず笑みを漏らした。


「なんだか安心できるような、できないような返事ね」


「俺にとっては最大級の賛辞だ」


二人は再び歩き出し、数歩進んだところでラインマーが続ける。


「必要なら俺の名前を出せ」


「どうして?」


「セシリアなら覚えている」


その口調はあまりにも自然だった。


自然すぎるほどに。


だからこそ、エレノアはじっと疑わしげな視線を向ける。


「……へえ?」


ラインマーは気づかないふりをした。


「変な勘繰りはするな」


「まだ何も言ってないわ」


「顔を見れば分かる」


エレノアの笑みがさらに深くなる。


だが、それ以上からかうことはしなかった。


「分かったわ。本当に必要になったら、その人を訪ねてみる」


ラインマーは頷く。


「街の水面下で何かが動いているなら、ああいう連中の耳には誰より早く入っているはずだ」


しばらく歩くと、大きな交差点へたどり着いた。


大通りはそこで二つに分かれている。


一方は東部地区へ。


もう一方は、ポラリスの中心部へと続いていた。


二人は足を止める。


ほんの短い間だけ。


「向こうでも、頼れる連中だといいんだが」


「言いたいことは分かるわ」


「じゃあ……」


エレノアはコートの裾を軽く整える。


「また会いましょう」


「ああ、気をつけて」


大げさな別れの言葉はない。


そんなものを交わす歳は、とっくに過ぎていた。


エレノアは東部地区へ向かい、


ラインマーはそのまま中心部へと歩いていく。


互いに、一度も振り返ることはなかった。


やがて二人の姿は、大通りを埋め尽くす人波の中へゆっくりと溶け込んでいく。


――だが、港湾地区にいる誰もが、いつも通りの一日を過ごしていたわけではない。


《The Golden Tide》の建物の外、通りに面した大きな窓の近くに、一人の男が静かに立っていた。


濃い色のローブをまとい、深く被った黒いフードが顔の大半を隠している。


紋章はない。


目を引く色もない。


行き交う旅人たちに紛れてしまえば、誰も気に留めないほど平凡な姿だった。


男は、ただそこに立っていた。


ずっと前から。


港の喧騒を眺めながら、暇を潰しているだけの旅人。


そんなふうにしか見えない。


だが、フードの奥に隠れた淡い紅の双眸だけは、ラインマーとエレノアが人混みの向こうへ完全に消えるまで、その背中を静かに追い続けていた。


ポーション。


部隊の移動。


ギルド。


そして、ゆっくりと広がり始めた噂。


男は何一つ反応を示さない。


表情も変わらず、身じろぎひとつしない。


そこに立つ姿は、生きていることすら感じさせないほど静かだった。


しばらくして、一台の大きな隊商が建物の前を横切る。


鉄の車輪が石畳をきしませながら進み、長い車体が歩道を覆い隠し、男の立つ場所への視界を遮った。


隊商はそのまま、


ゆっくりと遠ざかっていく。


そして、再び視界が開けたとき――


そこに男の姿はなかった。


まるで最初から、誰一人そこには立っていなかったかのように。


通りは変わらず賑わっている。


荷馬車は行き交い、


商人や荷運び人たちの声が、港特有の喧騒を絶え間なく作り続けていた。


はるか頭上では、太陽だけが何事もなかったように空を巡り続ける。


そしてアストラヴェルもまた、


何も知らぬまま、いつも通りの日常を刻み続けていた。


古びた一軒の店で交わされた、ほんの短い会話が。


聞かれてはならない相手に聞かれていたことなど、誰一人として気づかぬまま。


その情報は今、この街よりもさらに深い闇へと運ばれていく。


――より危険な場所へ。


     ◇ ◇ ◇


アストラヴェルの遥か地下。


都市を支える石造りの基礎を越え、


無数のインフラ設備を越え、


地上で暮らす大半の人々すら存在を知らない古い坑道を越えた、そのさらに先。


そこには、静かに呼吸を続けるもう一つの世界があった。


地上から認められることなど望みもせず、


それでも確かに生き続ける世界。


**ヴァーミリオン・ホロウ。**


そこに空はない。


頭上を覆うのは、果てが見えないほど巨大な岩盤の天蓋だけ。


地下であることを忘れてしまいそうなほど高く広がるその岩肌には、無数の天然の亀裂が走り、その隙間からは赤い鉱物群が姿を覗かせていた。


まるで世界の心臓から逆さまに伸びた、巨大な結晶の根のように。


拳ほどの大きさしかないものもあれば、


建物ほどの高さまでそびえるものもある。


鉱石が放つ淡い紅の輝きは洞窟全体へと広がり、工業用照明や古びたランタン、建物の間を縫うように張り巡らされた電線の灯りと溶け合っていた。


すべての闇を払いのけるには足りない。


それでも、この街が完全な暗闇へ沈むことだけは決して許さなかった。


通りには絶えず人の営みが流れている。


荷車の車輪が石畳を鳴らし、


狭い露店では商人たちが威勢よく客を呼び込み、


子どもたちは入り組んだ路地を笑いながら駆け回り、人混みに紛れては、少し先からまた姿を現した。


焼きたての料理の香ばしい匂い。


熱せられた金属。


機械油。


そして休むことなく動き続ける機械が吐き出す煙。


それらすべてが混ざり合い、この地下都市だけの空気を作り出している。


古びた建物は洞窟の地形に沿うように密集して建ち並び、


岩壁へ直接張り付くように造られたものもあれば、


今にも崩れそうなほど無理な形で積み重なり、それでも何十年もの間、その姿を保ち続けている建物もあった。


無数の鉄橋が様々な高さで空中を繋ぎ、


工業用パイプは建物と建物の間を巡りながら、地下都市全体へ生命を送り込む金属の血管のように張り巡らされている。


アストラヴェルほど壮麗ではない。


地上の各地区ほど美しくもない。


それでも、この街にはどこか飾り気のない、生々しい息遣いがあった。


地下界と地上を結ぶ巨大昇降機の一つ、その近くでは、いつものようにアストラヴェル軍の兵士たちが検問所を警備している。


赤い鉱石の光を浴びた鎧は鈍く輝き、


姿勢は正しく、


規律も乱れていない。


だが、その存在に大きな意味はなかった。


この街では誰もが知っている。


ヴァーミリオン・ホロウの奥へ進めば進むほど、


アストラヴェルの法は、その力を急速に失っていくということを。


そんな地下都市の大通りの一角では、多くの人々が簡素な木製ステージを囲んでいた。


舞台の上には、口髭を生やした初老の男が、自信に満ちた笑みを浮かべながら、一つの光る品を高々と掲げている。


「さあ、よくご覧あれ!」


張りのある声が、街の喧騒を突き抜けた。


「第六遺跡層から発掘された本物のアーティファクトだ!」


男の手の中で、それはゆっくりと回転する。


形状はクナイにも似た短剣。


金属の表面には精巧な紋様が隙間なく刻まれ、その中央には、小さな紅色の結晶核が埋め込まれており、淡い赤い光を静かに放っていた。


「レプリカではない!」


男は人差し指を立てる。


「偽物でもない!」


続いて二本目の指を立てた。


「そして何より――」


老人は集まった観衆をぐるりと指差す。


「その辺の詐欺師どもが売り歩いてるガラクタなんかじゃ断じてない!」


その言葉に、あちこちから露骨な鼻で笑う声が上がった。


最前列にいた大柄な冒険者が腕を組む。


「本物だっていうなら、力を見せてみろよ」


「もちろんですとも!」


商人の笑みはさらに深まる。


「これから皆さんに、お見せするのは――」


――ガァン!!


突如、通りの先にある大きな建物から、金属が激しくぶつかる音が響いた。


続いて、中から割れんばかりの歓声が巻き起こる。


舞台の周囲にいた何人もの客が一斉にそちらを振り返った。


中には何の未練もなく、そのまま人混みを離れていく者までいる。


老人の表情がみるみる引きつった。


「お、おい!」


誰も足を止めない。


「おい! まだ話は終わってないぞ!」


さらに人が減っていく。


こめかみの血管がぴくりと震えた。


「……まったく、賭け事中毒どもめ」


だが、その直後。


建物の中から再び大歓声が轟く。


先ほどより、さらに大きく。


そして今日もまた、人々の興味は闘技場へと奪われていった。


その巨大な建物の中は、外の通りとはまるで別世界だった。


怒号。


歓声。


飛び交う賭け声。


安酒と汗が入り混じった濃い空気。


言葉よりも速く金が動いていく。


建物の中央には、高い金属柵に囲まれた円形の鉄製リング。


その中では二人の闘士が、一切の容赦なく拳をぶつけ合っていた。


一人が顔面へ強烈な一撃を受け、そのまま床へ崩れ落ちる。


巨体が鉄柵へ叩きつけられ、鈍い音を響かせた。


観客席が一斉に爆発する。


「立て、この野郎!」


「俺の五百コインがかかってるんだぞ!」


「顎を狙え!」


「ぶっ潰せぇ!」


何十もの怒鳴り声が入り乱れ、


何百人もの歓声が渦となって響き渡る。


その狂騒の中で、勝者そのものに興味を持っている者など一人もいない。


彼らが見ているのは、賭けた金の行方だけだった。


そんな熱狂に包まれた観客席の一角で、一人の若い少女だけが片手で頬杖をついていた。


琥珀色の瞳は眼下のリングを眺めている。


感情の起伏はなく、


退屈そうですらある。


まるで、こんな光景にはもう見飽きてしまったと言わんばかりだった。


会場が再び歓声に包まれる。


闘士の一人が渾身の一撃を叩き込んだのだ。


だが少女は、小さくあくびを漏らすだけだった。


短く切り揃えられた黒髪が首の動きに合わせて揺れる。


黒髪に紛れた数本の赤い髪が、ヴァーミリオン・ホロウを照らす赤い鉱石の光を受けるたび、かすかに輝きを帯びた。


琥珀色の瞳はなおもリングを見下ろしている。


静かで、


どこまでも無関心そうに。


一人の闘士が再び拳を振り下ろす。


歓声はさらに大きくなる。


そして、その瞬間。


少女は席を立った。


濃い色のロングジャケットが歩みに合わせて静かに揺れる。


衣服に取り付けられた金属の装飾が、闘技場の灯りを受けて鈍く光りながら、彼女は観客席の階段を下りていく。


勝敗が決する瞬間を待つことすらしない。


その必要はなかった。


彼女の中では、この勝負は数分前にはすでに終わっていたのだから。


ほとんどの観客は新たな賭けに夢中で、少女が立ち去ったことにすら気づかない。


やがて彼女は闘技場を後にした。


外へ出ると、少し冷えた空気が肌を撫でる。


背後ではまだ歓声が響いていたが、今では洞窟の岩壁に反響するかすかな残響となって届くだけだった。


少女は片手をジャケットのポケットへ入れる。


そのまま、不意に足を止めた。


少し先を、一人の人物が歩いている。


黒いローブ。


深く被ったフード。


一見しただけでは、何の変哲もない。


だが、何かが彼女の注意を引いた。


琥珀色の瞳が細められる。


(……向かう先が違う)


その人物は、ヴァーミリオン・ホロウのさらに奥へ向かっていた。


旧区画。


地下界の住人でさえ、よほどの理由がなければ近づこうとしない場所だ。


「……ん?」


少女はわずかに首を傾げる。


「誰だ、あいつ」


少女の視線は、なおも黒いローブの人物を追っていた。


「……怪しい」


先ほどまで顔に浮かんでいた退屈そうな色は、いつの間にか消えている。


代わりに宿ったのは、新たな興味だった。


少女は歩く方向を変える。


相手との距離を詰めすぎず、


かといって離れすぎることもなく。


一定の間隔を保ちながら、その背中を追い始めた。


黒いローブの男は、一度も後ろを振り返らない。


古びた路地を抜け、


人気の少なくなった石畳の道を進み、


放棄された倉庫群の脇を通り過ぎ、


長らく使われていない物流用トンネルへ入っていく。


一つ目の角。


まだ見える。


二つ目の角。


まだいる。


三つ目の角――


……消えた。


少女の足がぴたりと止まる。


「……え?」


目を見開き、すぐさま視線を路地の奥へ走らせた。


右。


左。


頭上まで見上げる。


――誰もいない。


少女は反射的に振り返る。


背後にも人影はなかった。


遠ざかる足音も聞こえない。


閉まったばかりの扉もない。


ほんの数秒で身を隠せそうな場所すら見当たらなかった。


「……嘘でしょ?」


少女はすぐに歩調を速める。


ブーツが石畳を軽く打ち鳴らしながら、路地の奥まで駆け抜けた。


だが――


結果は変わらない。


痕跡はない。


人影もない。


まるで、目の前でその存在だけが世界から切り取られたかのようだった。


少女は立ち止まる。


「……まさか、こんなあっさり見失ったっていうの?」


返ってくるのは沈黙だけ。


数秒が流れる。


やがて小さく舌打ちした。


「……気に入らない」


「次に会ったら覚えてなさい」


それでも少女は、しばらくその場を動かなかった。


じっと待ち、


周囲を観察し、


何か見落としがないか探し続ける。


しかし、何も見つからない。


やがて諦めたように長く息を吐き、


くるりと踵を返して歩き出した。


足音は少しずつ遠ざかっていく。


次第に小さく、


さらに小さく。


そしてついには、路地から完全に消えた。


静寂が戻る。


音はない。


数秒が過ぎる。


そのときだった。


石壁の一角で、空気が水面のように静かに揺らぐ。


目に見えない指先が、水をそっとなぞったような波紋。


何もない空間に、淡く透明な輪郭が浮かび上がる。


薄く、


注意して見なければ気づけないほどに。


それはゆっくりと、人の形を結んでいった。


黒いローブの男だった。


男はどこへも行っていない。


最初から、一歩たりともその場を動いてはいなかった。


ただ周囲の景色へ完全に溶け込み、


影と石壁と一体化することで、その存在をほとんど知覚できない状態にしていただけだった。


微動だにせず、


静かに佇みながら、


男は少女が去っていった方向をしばらく見つめる。


やがてゆっくりと視線を移し、


ヴァーミリオン・ホロウのさらに深部――禁域へと続く通路へ向き直る。


そして、


足音ひとつ立てることなく、


男は静かに歩き始めた。

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