第四十九話
アストラヴェル南部港湾地区の昼には、この場所ならではのリズムがあった。
ポラリスのように郷土文化や行政庁舎が集まり、人であふれているわけではない。だが、かといって静まり返ることもない。
倉庫街の方角からは、荷役用クレーンの軋む音や作業員たちの掛け声が、ときおり潮風に乗って届いてくる。埠頭に面して並ぶ建物の合間を縫うように、その音はゆるやかに流れていた。
そこから数ブロック先には、港とともに長い年月を歩んできた三階建ての建物がある。
丁寧に手入れされた濃い木造の外壁に、黒みがかった金属のフレームが大きな窓を縁取っている。入口の上には精巧な彫刻が施された看板が掲げられ、海上交易に長く携わる者なら誰もが見覚えのある名を刻んでいた。
――《The Golden Tide》。
この店は、港湾地区の大半が改修されるよりも前から、ずっとこの場所にあり続けている。
だからこそ、古くからの商人たちは今でも自然と足を運んでしまうのだ。
木製の扉が開くと同時に、焙煎したてのコーヒーと温かな紅茶の香りがふわりと迎えてくれた。
ラインマーは静かに息を吸う。
「ほとんど変わっていないな」
店内は記憶にあるままの賑わいを保っていた。落ち着いた話し声が空気を満たし、ときおりカップが受け皿に触れる澄んだ音が混ざる。給仕たちはテーブルの間を行き交っているが、慌ただしさを感じさせることはない。
右手には、歳月を重ねて艶を増したダークウッドのカウンターが、昔と変わらぬ場所に構えていた。天井から吊るされた円筒形のランタンもまた、見慣れた黄金色の光を静かに灯している。
エレノア・ローゼンタイドは店内をゆっくりと見渡した。
視線は二階のバルコニーへ向かい、新聞を広げたり商談用の書類に目を通したりする客たちを映す。それから大通りに面した大きな窓へ移ると、午後の日差しがガラスを淡く染め始めていた。
「まあ……」
口元に小さな笑みが浮かぶ。
「港にある酒場の中じゃ、やっぱりずっと綺麗ね」
「ここは港の酒場じゃないからな」
「それもそうね」
二人はカウンターへ歩み寄る。
近づけば近づくほど、見覚えのあるものが次々と目に入った。背の高い椅子は昔と同じように並び、木製カウンターの縁についた小さな傷まで、そのまま残っている。
まるで誰かが、消えることを頑なに拒み続けてきたかのようだった。
ラインマーは椅子を一つ引く。
エレノアもその隣に腰を下ろし、なおも店内を眺めていた。
席に着いて間もなく、ボトル棚の向こうから低く太い声が響く。
「おやおや……」
「……どうやら、本格的に目が悪くなったらしいな」
二人が振り向く。
布巾を片手に、一人の老人が姿を現した。
大柄な体格は記憶のまま。灰色の髪は後ろへ撫でつけられ、立派な白い口ひげが顔の半分ほどを覆っている。歳月は確かに彼にも刻まれていたが、衰えという言葉はあまり似合わなかった。
細められた目が――次の瞬間、大きく見開かれる。
「まさか」
エレノアは思わず吹き出した。
「それが昔のお客への挨拶?」
「七年近くも姿を見せなかった客なら、そうもなるさ」
エリアスは布巾をカウンターへ置き、二人を指差す。
「本気で別の大陸へ移住したのかと思ってたぞ」
「そこまで遠くへは行っていない」
「俺からすれば同じことだ」
そう言うと、視線はエレノアで止まる。
表情が少しだけ柔らいだ。
「……不思議なもんだな」
エレノアは眉を上げる。
「何が?」
エリアスは自分を指差した。
「俺は歳を取った」
続いて店内へ視線を巡らせる。
「この店もな」
そして今度はエレノアへ指を向けた。
「なのに、お前さんはほとんど変わらん。相変わらず綺麗だ」
エレノアはくすりと笑う。
「褒め言葉として受け取っておくわ」
「最初から褒めてる」
エリアスは迷いなく頷くと、親指でラインマーを示した。
「隣の年寄りとは大違いだ」
「おい」
ラインマーは即座に抗議する。
エレノアは俯き、笑いを堪えた。
「そのこめかみを見てみろ」
エリアスが続ける。
「まるで自分はまだ三十代だと言わんばかりだ」
「そんなこと、一度も言った覚えはない」
「それでも俺より若いのは確かだ」
「ずいぶん低い基準だな」
「このジジイめ」
「それはお互い様だろう」
二人はしばらく顔を見合わせ――ほぼ同時に笑い声を上げた。
店へ入ってからどこかに残っていた気まずさは、その笑いとともにすっかり消えていく。
エリアスは両肘をカウンターに預けた。
「そういえば」
エリアスの視線が再びエレノア・ローゼンタイドへ向く。
「旦那さんはどうした? あいつがお前さんを一人でふらふらさせるなんて、いまだに信じられん」
エレノアの微笑みがふっと柔らかくなった。
その名を口にされただけで、自然と温かな色が表情に宿る。
「今は航海に出ているの」
「またか?」
「ええ」
エリアスは天井を仰ぎながらため息をついた。
「だろうな」
「今回は東の海よ」
「東?」
「自分の目で見てみたい場所があるんですって」
エリアスは小さく鼻を鳴らす。
「いかにもあいつらしい話だ」
口ひげを撫でながら苦笑した。
「古い海だけでも十分目が回るってのに、わざわざ新しい海を探しに行く奴の気持ちは、一生わからん」
「もしあの人がそれを追いかけなくなったら、そのほうが心配になるわ」
「それもそうだな」
心地よい沈黙がしばらく流れる。
エリアスはもう一度エレノアを見つめた。
「もう七年か」
「六年と十一か月よ」
「それでも七年だ」
エレノアは両手を軽く上げて降参した。
「はいはい、私の負け」
「相変わらず細かいな」
「この店の主人だもの。細かくなるのも仕事のうちよ」
エリアスはわざとらしく胸を張る。
「気に入らないなら、出口はあそこだ」
ラインマーが鼻で笑った。
「来てまだ五分も経ってないのに、もう客を追い出す気か」
「長いこと姿を見せなかった客に文句を言う資格はない」
「冗談だろう?」
エリアスは首を傾げる。
「本音が聞きたいか? それとも気休めの答えがいいか、ラインマー様?」
エレノアはまた小さく笑った。
「本当に昔のままね」
「それはお互い様だ」
エリアスは肘をカウンターにつく。
視線がラインマーからエレノアへ移った。
「聞くまでもないな」
「何が?」
「南の倉庫街に寄ってきたんだろう」
ラインマーが眉を上げる。
「俺たち、港の作業員にでも見えるか?」
「いや」
返事はあまりにも早かった。
エリアスは軽く舌を鳴らす。
「面倒ごとを一つ片づけてきた顔に見えるってだけだ」
ラインマーとエレノアは互いに目を合わせる。
その反応だけで十分だった。
エリアスは満足そうに笑う。
「よし。まだ勘は鈍っちゃいないらしい」
ベストのポケットから、角の擦り切れた小さなメモ帳を取り出した。
「さて、と。七年も音沙汰なしだった二人に聞こう。何を飲む?」
「紅茶を」
エリアスはすぐに片眉を上げた。
「本気か?」
「何か問題?」
「聞き間違いじゃないか確認しただけだ」
エレノアは目を細める。
「今日はお酒の気分じゃないの」
「アストラヴェルへ戻ってきたことより驚いたぞ」
「エリアス」
「正直に言っただけだ」
ラインマーは笑みを隠すようにわずかに俯いた。
エレノアをここまで遠慮なくからかえる人間は、もうほとんど残っていない。
昔から、エリアスはその数少ない一人だった。
老人は手帳にさらさらと何かを書き込む。
「よし。船乗りのお嬢さんには紅茶を一杯」
「私は船乗りじゃないわ」
「船で来たんだろ?」
「それで船乗りにはならないわ」
「普通の人間からすれば、大差ない」
エレノアは何か言い返そうと口を開いたが、結局は小さく息を吐いた。
「……もういいわ」
「賢明な判断だ」
エリアスは実に満足げだった。
それからラインマーへ向き直る。
「で、お前さんは?」
「北部産のコーヒーはまだあるか?」
エリアスは呆れたように舌を鳴らす。
「何だ、その質問は」
「七年も経ってるからな」
「だから?」
手帳を半分閉じながら、口元に笑みを浮かべる。
「うちの一番いいメニューを、そう簡単に外すわけないだろ」
ラインマーの口元がわずかに緩む。
「なら、まだあるんだな」
「当たり前だ」
「それなら北部産のコーヒーを。砂糖抜きで」
エリアスは小さく鼻を鳴らした。
「相変わらずだな」
「今さら変わるには歳を取りすぎた」
「悪くない理由だ」
そう言って、手帳を閉じる。
「五分ほど待ってな」
エリアスはカウンターの奥へ向かって歩き出した。
だが、数歩進んだところでふと足を止め、もう一度だけ振り返る。
視線はエレノア・ローゼンタイドからラインマーへとゆっくり移った。
短い間を置いてから口を開く。
「それにしても……」
白い口ひげの奥に、穏やかな笑みが浮かんだ。
「お前さんたちが元気でいてくれて、何よりだ」
エレノアは思わずくすりと笑う。
「その挨拶、年々変わってきてない?」
「お前さんたちみたいなのがいるから、必要になったんだ」
今度こそエリアスは店の奥へ消えていった。
しばらくすると、厨房の方から薬缶をコンロへ載せる音が聞こえてくる。
ラインマーは椅子の背にもたれた。
年季の入った木製の椅子が、その体重を受けて小さく軋む。
向かいでは、エレノアが窓の外へ目を向けていた。
商隊の荷馬車は絶え間なく行き交い、商人たちの呼び声が通りへ響く。
人々はそれぞれの目的地へ向かい、街は七年という歳月の間に誰が去り、誰が戻ったのかなど気にも留めず、変わらぬ営みを続けていた。
二人はしばらく、その空気に身を委ねる。
やがて、エレノアの指先がテーブルを一度だけ軽く叩いた。
コツ、と。
「さて」
ラインマーは視線を向ける。
その一言だけで十分だった。
先送りにしていた話を始める時が来たのだと。
ほどなくして、エリアスが飲み物を運んで戻ってくる。
エレノアの前には紅茶、続いてラインマーの前には黒いコーヒーが置かれた。
馴染み深い苦い香りが静かに立ち上る。
「相変わらず、いい香りだ」
ラインマーはカップを少し持ち上げる。
エリアスは鼻を鳴らした。
「ちゃんとした店のやり方を知ってるからな」
「歳を取ると、人はもっと謙虚になるって聞いたが」
「人類史に残る大嘘だ」
ラインマーはつい小さく笑った。
エリアスはその場を離れたが、決して遠くへ行ったわけではない。
カウンターの向こうでグラスを磨きながら、ときおり店へ出入りする客へ目を向けている。
……少なくとも、そうしているようには見えた。
老人の姿が十分離れたところで、エレノアは改めてラインマーを見る。
「ギルドの知り合い何人かに話を聞いてみたの」
先ほどまでの柔らかな調子は消えていた。
ラインマーはカップを静かにテーブルへ戻す。
「例の件を担当していた連中か?」
「一部はね」
エレノアは紅茶の表面へ息を吹きかけ、一口だけ口に含む。
「残りは正式な調査とは関係ない人たち」
「ほう?」
「避難の最中、たまたま現場にいた人たちよ」
カップをソーサーへ戻した。
「でも、話を聞けば聞くほど、嫌な予感しかしなくなってきた」
ラインマーは口を挟まない。
ただ黙って続きを待つ。
「あのパーティーは、実力もないのに無茶をするような若手じゃない」
エレノアは一瞬だけ紅茶へ視線を落とした。
「その中の一人とは面識があるの」
「今の若い冒険者たちが魔法や剣を学び始めるよりずっと前から、ダンジョンへ潜っていた人よ」
「そんな人が、初心者みたいな失敗で命を落とすなんて考えられない」
ラインマーの目がわずかに細くなる。
「……嫌な話だな」
「ええ」
エレノアの声は終始落ち着いていた。
「しかも、その人だけじゃないの」
静かに首を横へ振る。
「あのパーティーの大半は、前に出るべき時と退くべき時をちゃんと知っている、経験豊富なランクA冒険者ばかりだった」
ラインマーはゆっくりと椅子へ深くもたれかかった。
「それは……もっと厄介だな」
エレノアは静かに頷いた。
「それに、もっと重要なのは……」
この話を始めてから初めて、その声にわずかな硬さが混じる。
「……あの人たちは、無茶をやめるべき時を知っていたということよ」
ラインマーの口元がかすかに緩む。
ほんの一瞬だけ。
だが、その笑みはすぐに消えた。
それが事実だと、二人ともよくわかっていたからだ。
経験を積んだ冒険者が何年も生き残れるのは、力があるからだけではない。
退くべき時を知っているからだ。
そして、生きて帰る術を知っているからこそ、生き延びてこられた。
「それでも死んだ」
エレノアは、湯気が薄れ始めた紅茶へ視線を落とす。
「ええ」
その返事は、ため息のようにも聞こえた。
「誰一人として戻らなかった」
ラインマーは指先でテーブルを一度軽く叩く。
「最初に発見したのは?」
「次に潜った学院のパーティーよ」
「なるほど」
エレノアは少し黙り込んだ。
ここ数週間で耳にした数々の証言を、一つひとつ思い返しているようだった。
「報告の内容は、それぞれ少しずつ違っていたわ」
「でも、一つだけ共通していたことがあるの」
ラインマーは黙って続きを促す。
「遺体の状態よ」
「どういう意味だ?」
「立ったまま見つかった人もいれば」
「倒れていた人もいた」
「武器を握ったままの人もいたわ」
そこで一度言葉を切る。
「……なのに、どれも噛み合わないの」
ラインマーは眉をひそめた。
「戦った形跡がないのよ」
沈黙が落ちる。
「……ない?」
「ええ。まったく」
エレノアの声は終始平静だった。
だからこそ、その言葉はかえって不気味に響く。
ラインマーは肘をテーブルについた。
「そんな話があるか」
「私もそう思ったわ」
エレノアは静かに頷く。
「これまで、それなりの数の遺体を見てきた」
その口調は落ち着いていた。
静かすぎるほどに。
「毒なら毒の痕跡が残る」
「呪いなら呪いの痕跡が残る」
「魔物なら傷を残す」
「自滅なら、もっと間の抜けた経緯が残るものよ」
ラインマーの口元がわずかに動く。
だが、それも一瞬だった。
「必ず『これが原因だ』と指し示せる何かがある」
エレノアの指先がカップの縁で止まる。
「でも、今回は違う」
話し始めてから初めて、エレノアの表情にははっきりとした困惑が浮かんだ。
眉間に薄い皺が寄る。
「まるで……」
言葉を探すように小さく間を置く。
「……誰かが明かりを消したみたいだった」
ラインマーは黙って見つめる。
エレノアはゆっくり首を振った。
「いいえ」
「それでもまだ優しすぎる表現ね」
再び手元の紅茶へ視線を落とす。
「命だけを、そのまま引き抜かれたみたいだった」
カウンターの向こうで、グラスを磨く音がふいに止まる。
エリアスは二人へちらりと視線を向けた。
口を挟むことはない。
だが、話に耳を傾けていることだけは明らかだった。
ラインマーは静かに息を吐く。
「ダンジョンのシステムに異常があった可能性は?」
「それが最初に疑ったことよ」
エレノアはカップを少しだけ手前へ寄せる。
「ダンジョンの中で傷一つない遺体が見つかったなら、普通は真っ先にそこを疑うものだから」
ラインマーは黙ったままエレノアを見つめていた。
「システムの異常か? それとも、何らかの侵食でも起きているのか」
その声は淡々としている。
「まだ断定はできないわ。レプリカ・ツリーのネットワークに問題が起きているんじゃないかって考えた人もいたくらいよ」
「レプリカ・ツリーが?」
「ええ」
短い沈黙が流れる。
「でも、それを裏付けるような兆候は何もなかった」
「なるほど……」
「それに、マリアーネ様ですら何もおっしゃっていない。だとしたら、未来視で捉えられる類のものでもないのかもしれないわ」
「そこが厄介なんだな」
「もしダンジョンそのものに変化があったなら、冒険者ギルドが必ず痕跡を見つけているはず」
「構造の変化はなし」
「魔物の変異もなし」
「システムレポートにも異常は見つかっていない」
エレノアは手元の紅茶の水面をしばらく見つめる。
「まるで何かが起きたのに……」
「……ダンジョンそのものには、一切触れていないみたいなの」
カップを持ち上げる。
だが、そのまま一口もつけずに静かに戻した。
「ギルドは何度も現場を調査したわ」
「それでも、確かなことは一つも掴めなかった」
可能性を一つ潰すたびに、状況はかえって深刻さを増していく。
答えが減れば減るほど、
説明できることもまた減っていくからだ。
「つまり、そのダンジョン自体は正常だったと」
「ええ。完全に」
二人は再び黙り込んだ。
二階から椅子を引く音が聞こえる。
誰かが新聞のページを静かにめくった。
近くでは客たちが行き交い、店内にはいつも通りの時間が流れている。
だからこそ、その対比が妙に胸に引っかかった。
この穏やかな日常の裏側で、地下では理解の及ばない何かが起きている。
「ポーションの備蓄が減っている」
エレノアが顔を上げる。
「軍も外縁地区へ戦力を回し始めた」
口を挟まず、続きを待つ。
「ギルドも高ランク冒険者の募集を増やしているはずだ」
「そこまで見ていたのね」
「当然だ。あまりにも目立ちすぎている。それに俺は、ここで元指揮官を務めていた人間だからな」
ラインマーはコーヒーカップをゆっくりと回す。
黒い液面が静かに渦を描いた。
「そして今度は、この噂か」
再び沈黙が落ちる。
今度は先ほどよりも重かった。
エレノアは指先でテーブルを軽く叩く。
コツ。
コツ。
コツ。
短く、規則正しい音。
そして、止まる。
「全部、偶然だと思う?」
その問いだけが、二人の間に残った。
ラインマーはすぐには答えない。
普段なら何かしらの考えがある。
少なくとも、議論の土台になる程度の推測くらいは口にする。
だが今回は違った。
「……わからない」
思っていたよりも小さな声だった。
エレノアはしばらくその表情を見つめたが、何も言わない。
その沈黙を破ったのは、カウンターの向こうから聞こえたエリアスの声だった。
「一つ口を挟んでもいいか」
二人が振り向く。
老人は相変わらずグラスを磨いている。
「似たような話を、何人かの船長から耳にしてな」
エレノアは眉を上げた。
「アストラヴェルだけじゃないの?」
「いや、そういう意味じゃない」
エリアスは磨き終えたグラスを棚へ戻す。
「ここほど深刻だとは言わん」
「だが、物資を溜め込み始めた街はいくつかある」
「ポーションを大量に買い集めているところもあるし」
「ある船長は、特定の物資の値段がここ数か月で妙に早く上がってるってぼやいていた」
ラインマーは目を細める。
「最近の話か?」
「ああ。この数か月のことだ」
エリアスは肩をすくめた。
「関係ない話かもしれん」
「かもしれんな」
口調はあくまで軽い。
だが、その言葉を本気で信じているようには聞こえなかった。
「ただな、妙なことがいくつも同じ時期に重なる時は――」
そこで言葉を切る。
「……たいてい、偶然じゃ終わらん」
静寂が再び店内を包む。
今度は誰も、その沈黙を破ろうとはしなかった。
ラインマーは目の前のコーヒーへ視線を落とす。
窓から差し込む光が、黒い液面に小さく揺れていた。
ポーション。
軍の配置転換。
ギルド。
ダンジョン。
死亡報告。
物流。
一つひとつなら、それぞれ説明はつく。
少なくとも、そのはずだった。
だが、情報が集まれば集まるほど、それらがもっと大きな何かの断片なのではないかという感覚だけが、次第に強くなっていく。
まだ誰にも、その全体像は見えていなかった。
「何か考えているの?」
エレノアの声が、ラインマーの意識を現実へ引き戻した。
「少しな」
「何を?」
ラインマーはしばらく黙り込んだ末、小さく首を横に振る。
「……わからない」
軽く舌打ちする。
その答えは、自分で口にしていてもひどく歯がゆかった。
「普段なら何かしら当たりはつけられる」
「でも今回は違う」
「あるのは……ただの嫌な予感だ」
エレノアはすぐには返事をしなかった。
ラインマーとは長い付き合いだ。
だからこそ、その一言を軽く聞き流すことはできない。
彼は勘だけを頼りに動くような男ではない。
そんな彼がわざわざ口にしたということは、まだ言葉にできていない何かが胸の内にあるのだろう。
エレノアは窓の外へ目を向けた。
相変わらず街は賑わっている。
何一つ変わってはいない。
それなのに、数時間前とはどこか違って見えた。
まるで街そのものが、何かを隠しているかのように。
そして二人は、ほんのわずかにその影を垣間見た。
だが、それが何なのかはまだわからない。
少なくとも今のアストラヴェルは、いつも通りの姿を保っていた。
通りには人が絶えず、港は忙しく動き続け、人々は何事もなかったかのように日常を過ごしている。
だが、ここまで交わしてきた話を思えば、その当たり前の光景さえ素直には信じられなくなっていた。
「もう一つだけあるの」
エレノアが静かに口を開く。
ラインマーは顔を上げた。
その声は先ほどまでよりもさらに低く、口にすべきかどうか迷っているようにも聞こえた。
「別の噂を聞いたわ」
「噂?」
「まだ確認は取れていない」
空になったカップを指先でゆっくり回す。
「だから今まで話さなかったの」
ラインマーは急かさなかった。
ただ黙って待つ。
数秒の沈黙を挟み、エレノアは続きを口にした。
「何人かの冒険者が、あの事件の前に何かを見たと言っているの」
「何を?」
エレノアは眉間に小さく皺を寄せる。
「それが問題なの。誰も、はっきり説明できないのよ」
影を見たと言う者もいれば、
人だったと断言する者もいる。
何も見ていないと言い張る者までいた。
「それで?」
エレノアは短く息を吸う。
「音が聞こえたそうよ」
「音?」
「音楽」
その一言で、場の空気が静まり返る。
カウンターの向こうでは、エリアスの手も一瞬だけ止まった。
口を挟むことはない。
だが、話を聞いていることは明らかだった。
「音楽……?」
ラインマーが静かに繰り返す。
エレノアは小さく肩をすくめた。
「だから私も、あまり信じていないの。港でそんな話を聞かされたら、お酒を飲みすぎたんでしょうって思うはずだもの」
「なるほど」
「証言にも統一性がないわ。女の声だったという人もいれば、楽器の音だったと言う人もいる。何の音だったのか思い出せない人までいるくらい」
ゆっくりと首を振る。
「共通点らしい共通点は見つからない」
「それでも?」
エレノアはまっすぐラインマーを見た。
「その話だけは、全部事件が起きる前に出てきているの」
再びテーブルを静寂が包む。
音楽。
影。
傷一つない死。
何も変わっていないダンジョン。
減り続ける備蓄。
動き始めた軍。
どれも互いに結び付く証拠はない。
結論を導けるだけの材料も足りない。
それでも、だからこそ無視できなかった。
エレノアは残っていた紅茶を飲み干し、静かにカップをテーブルへ置く。
「私たちで調べる?」
「いや」
ラインマーはためらいなく答えた。
エレノアが思っていた以上に、その返事は早かった。
彼女は小さく目を瞬かせる。
「俺たちじゃない」
ラインマーは窓の向こう、遠くにそびえる中心地区へ視線を向ける。
「もし本当に何かがおかしくなり始めているなら……ケイルやシルヴィア、それにカエラまで、俺の目の届かない場所へ置いておきたくない」
「まずはあの子たちのところへ行く」
エレノアはしばらくその横顔を見つめ、それから静かに頷いた。
その意味は十分に伝わっていた。
それは答えを追い求める冒険者としての判断ではない。
家族を何より優先する、一人の人間としての決断だった。
エレノアは再び窓の外へ視線を戻す。
人々は相変わらず行き交い、街は何事もなかったように息づいている。
それでも、胸の奥に引っかかる違和感だけは消えなかった。
むしろ、その輪郭は少しずつ鮮明になっていく。
何かが、ゆっくりと近づいてきている。
まだ誰の目にも映らない。
それでも、その影だけは、すでにこの街の上へ静かに落ち始めていた。




