第四十八話
王家の馬車は、ゆっくりと大通りの先へと遠ざかっていった。
途絶えていた人々の話し声が、少しずつ街に戻ってくる。
人々は再び歩き出し、言葉を交わし、それぞれの日常へと戻っていく。まるで先ほどの出来事など、穏やかな昼下がりのほんの一場面に過ぎなかったかのように。
だが、そのずっと前方――
王家の馬車の中は、たった今通り過ぎてきた賑わいが嘘のように静まり返っていた。
車輪が石畳を転がる微かな振動が床越しに伝わり、開け放たれた窓から差し込む昼の陽光が、薄い白いカーテンを風に合わせてゆるやかに揺らしている。
少女は、なおも外を見つめていた。
いや、正確には――
先ほどまで視界に映っていた、その場所を。
「……」
もちろん、そこにはもう誰もいない。
馬車はすでにかなり進んでいる。
人で賑わっていた大通りも、今では色と影が重なり合う曖昧な景色へと変わりつつあった。
それなのに、心だけはまだ少しだけ、あの場所に取り残されたままだった。
名前すら知らない、一人の見知らぬ青年のもとに。
「ベル。」
柔らかな女性の声に、少女は小さく肩を震わせた。
ベルは慌てて振り向く。
向かいには、緩やかに波打つダークブラウンの髪を肩より長く垂らした女性が腰掛けていた。落ち着いたワインレッドのドレスは上品でありながら華美ではなく、その鮮やかな赤い瞳が、興味深そうな微笑みを浮かべながらベルを見つめている。
「は、はい、お母様?」
「ふふ……」
女性は手の甲に顎を乗せたまま、しばらく娘を眺めていた。
やがて、口元に小さな笑みを浮かべる。
「どうしてそんなに顔が赤いの?」
ベルは固まった。
「……えっ?」
「自分でも気づいてる? ほっぺた、真っ赤よ。」
反射的に、ベルは自分の頬へと手を当てた。
温かい。
いや――
それ以上に熱かった。
「そ、それは……」
慌てて手を膝の上へ戻す。
何と答えればいいのか、一瞬まったく分からなくなってしまう。
馬車の隅では、細い口ひげを蓄えた年配の執事が、まるで馬車の調度品の一つであるかのように背筋を伸ばして立っていた。
その視線が、ほんの一瞬だけベルへ向けられる。
表情はいつも通り、非の打ちどころなく冷静だった。
――あまりにも冷静すぎる。
長い付き合いだからこそ、ベルには分かる。
今の彼は、何かを必死にこらえている。
「エドガー。」
母が老執事へ視線を向ける。
「私ごときが意見を申し上げるなど、とてもできません、奥様。」
返事はあまりにも早かった。
母はくすりと笑う。
「それはつまり、聞きたいことが山ほどある人の返事に聞こえるわね。」
「それでも、お嬢様には申し上げられません。」
ベルは本気で、馬車の床がぱかりと開いて、そのまま自分を飲み込んでくれないものかと思い始めた。
「お母様……」
「なあに?」
「お母様が考えているようなことではありません。」
「まあ?」
むしろ、その声はますます興味を帯びる。
「その……」
ベルは言葉を詰まらせた。
気づけば視線は再び窓の外へ向いている。
あの大通りは、もうとっくに後方へ遠ざかっていた。
「その、何なの?」
好奇心に満ちた視線を受け、ベルはついに観念する。
「さっき外に、一人の男の子がいたんです。」
母はわずかに眉を上げた。
「男の子?」
「はい。」
「それで?」
「その子が、私を見ていたんです。」
「それは普通のことでしょう?」
そう言って少し間を置き、くすっと笑みを深める。
「もしかして、それで恥ずかしくなったの?」
ベルは勢いよく母を見た。
「そんな単純な話じゃないんです。」
「まあ?」
彼女はすぐに、どこか意味ありげな笑みを浮かべた。
「何がそんなに違ったのかしら?」
「それは……」
ベルは言葉に詰まる。
そう聞かれると、かえって説明が難しくなってしまう。
母は急かすこともなく、じっと待っていた。
あまりにも辛抱強く。
その口元に浮かぶ穏やかな笑みも、まったく助けにはなっていない。
「それで?」
「うまく説明できなくて……」
思っていたよりも早く、その言葉が口をついて出た。
ベルは慌てて口を押さえる。
すると母の笑みは、さらに深まった。
「ますます気になってきたわ。」
「お母様。」
「なあに?」
「そんなに楽しそうにしないでください。」
「楽しんでなんていないわ。」
「すごく楽しそうです。まるで私をからかっているみたいです。」
馬車の隅から、小さな咳払いが聞こえた。
「……ごほん。」
ベルは勢いよく振り向く。
「何ですか!?」
「私は何も申し上げておりません、お嬢様。」
「今のは何も言ってない人の反応じゃありません。」
「ごほん。」
今度はエドガーがもう一度咳払いをする。
「失礼いたしました。」
先ほどよりも控えめな声だった。
なのに、なぜだか余計に怪しく感じられる。
母はとうとう、くすくすと笑い出した。
ベルは、自分が二人がかりでからかわれている気分になってくる。
小さく息をつき、背もたれへ身を預けた。
それでも、自分でも何が引っかかっているのか、うまく言葉にできない。
「さっき見た子は……」
先ほど目にした少年の姿を思い返す。
「深緑色のマントを着ていました。」
「商家の子どもか、それとも地方貴族の子でしょうか。」
「それで?」
「目が青かったんです。」
母は黙って続きを待つ。
エドガーも同じだった。
だからこそ、ますます言葉が出てこない。
「それで……」
「それで?」
ベルは小さく眉を寄せる。
ぴったりの言葉を探すように。
「変に聞こえるかもしれません。」
「そういう前置きの後は、大抵面白い話なのよ。」
「お母様。」
「ええ、続けて。」
ベルは短く息を吸った。
「たぶん、私と同じくらいの歳でした。」
「ええ。」
「でも、あの人がこっちを見たとき……」
少しだけ声が小さくなる。
「まるで大人に見られているような気がしたんです。」
馬車の中に、短い沈黙が落ちた。
微動だにせず立っていたエドガーも、わずかに眉を上げる。
向かいに座る母も、数秒ほど考え込むような表情を見せた。
「大人に?」
「はい。」
「見た目は子どもなのに?」
「はい。」
母はゆっくりとうなずく。
「それなら、確かに少し不思議ね。」
どうしてだろう。
誰かにそう言ってもらえただけで、胸につかえていたものが少し軽くなった気がした。
少なくとも、自分だけがおかしいと思っていたわけではなかったのだ。
「ですよね?」
ベルはすぐに何度もうなずく。
「だから、私もずっと気になっていて……」
もう一度、先ほど見かけた少年の姿を思い返す。
黒い髪。```
深緑色のマント。
きちんとした立ち姿。
そして――
ベルはふいに瞬きをした。
(待って……)
まるで今になって、記憶の奥に埋もれていた細かな光景が浮かび上がってきたようだった。
「ベル?」
表情の変化に気づいた母が、不思議そうに声をかける。
「どうしたの?」
「思い出したことがあります。」
「何かしら?」
「あの子のマントに家紋があったんです。」
女性はわずかに首を傾げた。
「家紋?」
ベルは頷く。
「マントについているのが見えました。」
記憶をたどるように目を伏せる。
あのときはすべてが一瞬の出来事だった。
馬車が近づいていく前に、ほんの一瞬目に入っただけだ。
「確か……」
ベルは小さく眉を寄せる。
「王冠みたいな形でした。」
「王冠?」
「はい。」
ベルは一度目を閉じ、記憶に残る輪郭を慎重に組み立てていく。
「普通の王冠じゃありません。」
再び目を開く。
「黒い王冠で、その周りに銀色の棘……というか、装飾のようなものが付いていました。」
その言葉を聞いた瞬間、向かいに座る母はわずかに口を閉ざした。
変化はほんの一瞬。
息をつくほどの短い間だった。
けれど、ベルにははっきりと分かった。
「……ああ、それね。」
ベルは目を瞬かせる。
「お母様、その家紋をご存じなんですか?」
「ええ。」
女性の口元がゆっくりとほころぶ。
それは、懐かしい名前を思い出した人のような笑みだった。
「今回は、ほぼ間違いないと思うわ。」
「ほぼ?」
隣では、それまで黙っていたエドガーも静かに顔を上げる。
まるで、どの家のことなのかすぐに察したようだった。
ベルは二人を交互に見つめた。
「待ってください。」
「お二人とも、本当に誰なのか分かったんですか?」
母は薄く微笑む。
その問いは、娘が思っているよりもずっと簡単なものだと言わんばかりに。
「ああいう家紋を使う家は、それほど多くないの。」
ベルは小さく首を傾げた。
「じゃあ、本当に貴族なんですか?」
「ええ。」
母は静かに頷く。
「北部でも指折りの、由緒ある商業貴族の一つよ。」
ベルは今度こそ目を丸くした。
てっきり王家か、少なくともポラリスで名の知れた上級貴族の一門だと思っていた。
だが、その答えは予想とはまったく違っていた。
「商人……ですか?」
「それだけではないわ。」
窓際で静かに控えていたエドガーが、そこで初めて口を開いた。
「お嬢様のお話どおりであれば、おそらくラインマー様のお家でしょう。」
「ラインマー家……」
ベルはその名をゆっくりと繰り返す。
初めて聞くようでいて、不思議とどこか懐かしい響きだった。
幼い頃に何度も耳にしたことがあるのに、長い年月の中で記憶の片隅へ埋もれてしまった――そんな感覚だった。
母は静かに頷く。
「現当主は、とても有名な方よ。」
「商売で、ですか?」
「それよりも前のお話ね。」
今度はエドガーが答えた。
「ラインマー様は、かつてアストラヴェル軍でも最高位に近い地位を務められた軍司令官のお一人でした。」
ベルは思わず目を見開く。
「司令官……?」
「はい。」
エドガーは小さく頷いた。
「現役時代、任務の中で力を失いかけたことがある――そんな話も耳にしたことがあります。」
母は静かに背もたれへ身を預けた。
その口調は終始穏やかなままだったが、その言葉の端々には、わずかな敬意が滲んでいた。
「それでも今なお、あの方は力を扱えると言われています。」
「もっとも、その代償は決して小さくありませんが。」
エドガーが淡々と付け加える。
ベルは黙り込んだ。
アストラヴェルの歴戦の軍人。
元軍司令官。
そして巨大商家を率いる当主。
そのすべてが一人の人物だなどと、にわかには信じがたい。
まるでまったく異なる二つの人生が、一つの人間の中で重なり合っているようだった。
「驚きました。」
「そう思う人は多いわ。」
母は穏やかな笑みを浮かべる。
「でも、私たちの家とあちらのお付き合いは、もうずいぶん長いのよ。」
ベルは母へ視線を向けた。
「本当ですか?」
「もちろん。」
母は静かに頷く。
「両家の商取引は何年も続いているもの。」
そこで一度言葉を切り、それから続けた。
「それに、お父様とも親交があるわ。」
その一言で、馬車の中の空気がわずかに変わった。
外の景色は何も変わらない。
車輪の音は変わらず木の床越しに響き、街の喧騒も窓の外を流れ続けている。
それでも、ベルは何も言わなかった。
膝の上に置いていた指先が、ゆっくりと力を帯びる。
ほんの一瞬。
気づかない者なら見逃してしまうほど、わずかな変化だった。
だが、母の表情はさらに柔らかなものになる。
エドガーもまた、その変化に気づいていた。
「お嬢様。」
いつもと変わらぬ穏やかな声が響く。
「旦那様は、ラインマー家のことをいつも高く評価しておられました。」
ベルは一度だけ俯く。
長い睫毛が静かに揺れ、それから小さく頷いた。
「……知っています。」
薄い沈黙が、数秒ほど馬車の中を包み込む。
やがて母は静かに息を吐いた。
先ほどまで浮かんでいた穏やかな笑みは少しずつ消え、代わりに落ち着いた真剣な表情がその顔に宿る。
「エドガー。」
「はい、奥様。」
「お会いしたい方がいるの。」
エドガーは驚く様子も見せなかった。
その言葉が最後まで告げられる前から、何を意味しているのか理解していたかのように。
「ラインマー家の方々でございますか?」
「もしあの子が本当にそのご子息なら、まだ街に滞在しているはずよ。」
視線を窓の外へ向ける。
石造りの建物と賑やかな街並みが、ゆっくりと後ろへ流れていく。
「隊商は、今頃南部中央倉庫にいるはずだわ。」
エドガーは静かに頷いた。
「かしこまりました、奥様。」
そう言って片手を上げる。
すると、一枚の真っ白なカードが音もなく指先に現れた。
最初は何も書かれていなかったその表面に、数秒もすると、見えない誰かが筆を走らせるように黒い文字が次々と浮かび上がっていく。
エドガーはその内容に一通り目を通した。
そして二本の指でカードを軽く挟む。
次の瞬間、わずかな指先の動きだけで、その白いカードは馬車の窓から外へ放たれた。
風に煽られることもなく。
空中で回転することもなく。
まるで自ら行き先を知っているかのように、大通りの人混みを真っ直ぐ滑るように飛んでいく。
その頃には、街の営みもすっかりいつもの姿へ戻っていた。
ケイル、シルヴィア・ローゼンタイド、そしてカエラは、すでにパレードの大通りを離れていた。
人通りで賑わう大通りをゆっくり歩いていた、そのときだった。
一枚の白いカードが、空から静かに舞い降りてくる。
最初に気づいたのはカエラだった。
わずかに目を細め、そのまま片手を上げる。
――ぱしっ。
白いカードが、吸い寄せられるようにその指先へ収まった。
「これは……?」
興味を隠そうともせず、シルヴィア・ローゼンタイドがすぐ隣から覗き込む。
「何それ?」
カエラはカードを裏返した。
真っ白だった表面に、ゆっくりと黒い文字が浮かび上がっていく。
『行政庁舎へ来なさい。』
『奥様がお会いになりたいそうよ。』
「……」
シルヴィア・ローゼンタイドはぱちりと瞬きをする。
ケイルは片眉を上げた。
一方のカエラは、しばらく無言のままカードを見つめ続ける。
まるで、自分が読み間違えたのではないかと確かめるように。




