第四十七話
しばらくの間、誰も口を開かなかった。
大通りの両脇には、依然として大勢の市民が整然と並んでいる。昼の日差しを避けるために小さな折りたたみ傘を手にしている者もいれば、家族や仕事仲間と静かに言葉を交わしている者もいた。
その数は数百人に及ぶはずなのに、不思議なほど騒がしさはない。
歓声が上がることも、人波が押し合って見やすい場所を奪い合うこともなかった。ただ穏やかな忍耐だけがそこにあり、街全体が忙しい日常の手を少しだけ止め、この瞬間を見届ける価値があると自然に思っているかのようだった。
シルヴィア・ローゼンタイドは少し背伸びをしながら、大通りの先へ目を細める。
まっすぐ伸びる大通りの先は、見渡せる限りまだ何も現れていなかった。
「まだ何も見えない」
「まあ、まだ何も来てないからね。でもこれだけ人が集まってるなら、もうすぐ着くはずだよ」
「うーん……こうやって待つのって退屈」
ケイル・ラインマーは返事をしなかった。
返したくなかったわけではない。ただ、その気持ちは自分も同じだったからだ。
代わりに視線を周囲の人々へ向ける。
集まっている市民の服装は実にさまざまだった。質素な仕事用のコート姿の者もいれば、ロングジャケットや繊細な刺繍入りのベストを身につけ、胸元から装飾品を覗かせた、きちんとした装いの者もいる。
だが、そんな違いがあっても、一つだけ共通していることがあった。
誰もが時折、同じ方向へ視線を向けるのだ。
大通りの先。
そこから何かが姿を現すのを待ちながら。
「もうすぐだな」
不意に、すぐ横から男の声が聞こえた。
「一行も、そろそろ角を曲がる頃だろう」
ケイルはそちらを振り向く。
数歩離れた場所には、中年の男性が懐中時計の鎖を指先でくるくる回しながら気楽な様子で立っていた。その隣では、若い女性がクリーム色の手袋を整えている。
「誰が来るの?」
シルヴィアが尋ねると、男は少し意外そうな顔をした。
「まだ聞いてなかったのか?」
シルヴィアは首を横に振る。
「今週、この街に迎えられる名誉ある客人さ」
その口ぶりに、仰々しい敬意は感じられなかった。
どちらかといえば、街の話題に時折名前が上る有名人について語るような、そんな気軽さだった。
隣の女性がかすかに微笑む。
「東部地区のブティックなんて、先週から飾り付けを始めていましたもの」
シルヴィアはすぐに首を傾げた。
「ブティックって何?」
ケイルが振り向く。
「知らないの?」
「知らない」
「服を売る店だよ」
「あ、そうなんだ」
シルヴィアは数秒考え込む。
「でも、どうして服屋さんが飾り付けするの?」
男は肩をすくめ、小さく笑った。
「繊維業界の流行や変化は、あの一族から始まることが多いんだ。だから、どんな家族なのかみんな興味があるのさ」
「繊維業界?」
「布、生地、服、素材、それにデザイン」
男は指を折りながら数えていく。
「服に関わるものなら、だいたい全部だな」
「へぇー」
ようやくシルヴィアは納得したように頷いた。
「つまり、服の世界では有名な人たちってこと?」
「そこまで簡単に言ってしまうと――」
男は笑みを浮かべる。
「まあ、大きくは間違ってない」
それまで黙って話を聞いていたカエラが、わずかに眉を上げた。
「繊維業界……ですか」
「そうだ」
「それで、ブティックまで飾り付けを?」
男は頷く。
「ああ。何か思い当たることでもあったか?」
カエラはしばらく黙り込んだ。
今聞いた話と、頭の中にある情報を一つずつ照らし合わせているようだった。
やがて静かに顔を上げる。
「……それでしたら、お話しされているのは、マシュフォード家のことでしょうか」
その言葉に、中年の男はわずかに目を見開いた。
「ほう?」
隣にいた女性も、思わず目を瞬かせた。
「ご存じなんですか?」
「名前を聞いたことがある程度です」
カエラは落ち着いた口調で答える。
「アストラヴェルでも、特に大きな影響力を持つ名門貴族の一つですよね?」
「その通りだ」
男は頷いた。
「影響力だけで言えば、おそらく指折りだろうな」
シルヴィア・ローゼンタイドはすぐにカエラのほうを向く。
「じゃあ、有名なの?」
「ええ。それなりには」
「いや、それどころじゃない」
男はくすりと笑った。
「特に商売に携わる者なら、その名を耳にしたことがない者はいないだろう」
ケイル・ラインマーはわずかに眉を上げる。
「どんな一族なんですか?」
「マシュフォード家か?」
男は再び大通りの先へ視線を向けた。
「一言で説明するのは難しいな」
隣の女性が小さく微笑む。
「無理に簡単に言うなら――」
一度言葉を区切ってから続けた。
「アストラヴェルで商人をしている人なら、直接か間接かを問わず、一度は必ず関わったことがある。そんな家です」
シルヴィアはますます興味を引かれたようだった。
「ふーん」
顎に指を添えながら考え込む。
「お母さんも知ってるのかな」
「おそらく」
カエラは静かに答えた。
「エレノア・ローゼンタイド様のお立場を考えれば、マシュフォード家と面識があっても不思議ではありません」
「へえ」
シルヴィアの目がさらに輝く。
「やっぱり有名なんだ」
それまで話を聞いていたケイルも口を開いた。
「じゃあ、お父様は?」
「え?」
「ラインマー様です」
カエラはわずかに首を傾げる。
「お父様も、マシュフォード家をご存じなんですか?」
「もちろんです」
その答えに迷いはなかった。
「ラインマー家とマシュフォード家は、昔から良好な関係を築いています」
シルヴィアは目をぱちぱちさせる。
「本当に?」
カエラは頷いた。
「もっとも、エレノア・ローゼンタイド様ほど親しい間柄というわけではありませんが」
「それでもすごいね」
シルヴィアは素直に感心したようだった。
「ってことは、やっぱりお互い知り合いなんだ」
「そういうことになります」
カエラは再び大通りへ視線を戻す。
「私はまだ直接お会いしたことはありませんが、両家の交流自体は長く続いているそうです」
「……となると」
ケイルは黙り込んだ。
なぜだろう。
胸の奥を、嫌な予感がふいにかすめる。
今はもう、シルヴィアがいる。
もし本当に両家の関係が深いのだとしたら――
(……面倒なことになりそうだな)
その声は小さかった。
ほんの小さく漏れただけ。
それでも、確かに耳には届いていた。
カエラはぱちりと目を瞬かせる。
「若様?」
ケイルははっと我に返った。
「ん?」
「今、何かおっしゃいましたか?」
「……いや」
「何かおっしゃったように聞こえましたが」
「独り言だ」
「それでは何の説明にもなっていません」
ケイルはカエラの視線から逃れるように顔を背けた。
「そもそも、そうなるとは限らないし」
「何が、ですか?」
「それが問題なんだ」
短く息を吐く。
「はぁ……」
そして右手をひらひらと振った。
「気にしなくていい」
「若様」
「今度は何?」
「気にしているのは、むしろ若様のほうではありませんか?」
「……」
ケイルは答えなかった。
「それでは否定になっていません」
「この話は終わり」
そうして――
周囲の話し声が、少しずつ静まっていった。
突然ではない。
一斉でもない。
まるで水面に広がるさざ波のように、ごく自然に静けさが人々の間へと伝わっていく。
一人、また一人と、人々の視線が同じ方向へ向けられた。
先ほどの中年の男も、懐中時計の鎖を弄ぶ手を止める。
「おっ」
目を細めながら口を開いた。
「見えてきたな」
シルヴィアはすぐさま振り向く。
「どこ?」
隣の女性も姿勢を正した。
「あそこです」
その指が、大通りのはるか先を指し示す。
昼の陽光を浴びて輝くポラリスの街並みの向こうから、一つの影がゆっくりと姿を現していた。
まだ遠い。
だが、それでも十分に見分けられる。
二騎の騎馬。
一行の先頭を行く彼らは、落ち着いた速度を保ちながら、街の大通りを寸分の乱れもない足並みで進んでくる。
跨る黒馬はいずれも大柄で、よく訓練されていることが一目で分かった。整えられたたてがみが風に揺れ、白銀の馬具が石畳を踏みしめるたび、陽光を受けてきらりと輝く。
シルヴィアは何度か瞬きを繰り返した。
そして少し身を乗り出し、自分の見間違いではないことを確かめる。
「……わぁ」
その反応も無理はない、とケイルは思った。
一行を先導する二人の護衛は、それほどまでに人目を引く存在だった。
アストラヴェルの白と青を基調とした制服は、それだけで見る者の視線を奪う。
とりわけ、ケイルの目にはそう映った。
ことさらに威厳を見せつけるような仕草はない。
相手を威圧するような鋭い眼差しもない。
それでも、その姿勢と歩みに滲む規律が、大通りを包む空気を少しずつ静めていく。
コツ、コツ、と馬の蹄が石畳を打つ音だけが静かに響く。
乱れなく。
力強く。
まるで一歩一歩が、この街へ入るより前から決められていたかのようだった。
そして、その数メートル後方には――
一台の馬車が姿を現す。
王族仕様の馬車だった。
車体は上品なアイボリーホワイトを基調とし、銀細工のフレームがアストラヴェルの建築を思わせる優雅な曲線を描いている。高く設えられたクリスタルガラスの窓には、青空と遠くにそびえるポラリスの塔影が映り込んでいた。
前方では、一対の白馬が落ち着いた足取りで馬車を曳いている。
正式な知らせなど何一つなくとも、その一行が大通りへ姿を現した瞬間、人々の意識は自然とそこへ吸い寄せられていた。
残っていた話し声も、いつしか消えていく。
一行が近づくにつれ、何人かは無意識のうちに背筋を伸ばしていた。
先頭を進む二頭の黒馬は、変わらぬ歩調で石畳を踏み鳴らし、そのたび護衛たちの白銀の装具が昼の光を受けて淡く輝く。
距離が縮まるほど、後方を進む馬車の細部も鮮明になっていった。
シルヴィアは思わず半歩前へ出る。
「すごく眩しい……」
今度の声には、好奇心よりも純粋な感嘆の色が濃く滲んでいた。
「あれが馬車?」
「ええ、あちらです」
カエラは小さく頷いた。
「私がこれまで見てきた貴族の馬車とは、ずいぶん趣が違いますね」
それにはケイルも同感だった。
馬車の外装には、富を誇示するための過剰な彫刻や華美な装飾はほとんど見当たらない。
それでいて、不思議と質素には見えなかった。
洗練されていて、無駄がない。
まるで豪華さを見せつけるのではなく、職人の技術そのものを語らせようとしているかのようだった。
車体の両側には、銀色の孔雀を模した紋章が刻まれている。
長く広がる尾羽は、満開の花びらを思わせる優雅な意匠になっていた。
シルヴィアはすぐにそこを指差した。
「あれ、何の鳥?」
「孔雀だよ」
「……おおー」
ゆっくりと頷く。
理解しようと一生懸命考えているのが、その表情から伝わってきた。
そして数秒後――
「なんで孔雀なの?」
ケイルは即座に答える。
「家の人に聞いてくれ」
「それ、全然答えになってない」
カエラは思わず笑みをこらえた。
シルヴィアは少しだけ頬を膨らませると、不満そうに息をつき、再びゆっくり近づいてくる馬車へ視線を戻した。
その頃には、馬車との距離はもう数十メートルほどまで縮まっている。
立っている場所からは、開かれた窓越しに車内の様子も見えるようになっていた。
ケイルも最初は、それほど気に留めていなかった。
ほんの一瞥。
大通りに並ぶ何百人もの見物客へ向ける視線と、何も変わらないはずだった。
――だが、その視線がふと止まる。
開いた窓際に、自分と同じくらいの年頃の少女が姿勢よく腰掛けていた。
金色の髪は左右で整えられたツインテールに結われ、その髪を束ねる深いワインレッドのリボンは、身にまとったドレスの色と美しく調和している。
貴族の令嬢だとひと目で分かる装いだった。
それでも決して華美ではない。
人目を引く宝飾品も、必要以上の飾りもない。
だからこそ、その姿は気品ある車内の中でいっそう鮮やかに映えていた。
そして、それが偶然だったのか、それとも別の理由があったのか。
ちょうどその瞬間――
少女もまた、窓の外へ目を向けていた。
人々で埋め尽くされた大通りへ。
彼らのいる方角へ。
そして。
ケイルのほうへ。
青い瞳と、青い瞳が重なる。
ほんの一瞬。
行列は歩みを止めることなく進み、大通りの景色も流れ続けていく。
それでも、その刹那だけは、お互いにはっきりと相手の存在を認識するには十分だった。
「……」
「……」
ケイルはわずかに眉を寄せる。
胸の奥に、説明のつかない違和感がふと残った。
ごく薄く、曖昧で。
本来なら何気ないはずの光景なのに、なぜか心のどこかに引っ掛かって離れない。
……いや。
いつまでも見つめ続けていた自分のほうがおかしいのかもしれない。
先に視線を逸らしたのはケイルだった。
道端へ目を向け、小さく首を振る。
まだ形にもなっていない考えを追い払うように。
一方、馬車の中では――
少女もまた顔を背けていた。
少しだけ、急ぎすぎたように。
スカートのひだの上で指先が小さく動き、それから何事もなかったかのように窓の外へ視線を戻し、街並みを眺め始める。
馬車は進み続ける。
止まることもなく。
速度を落とすこともなく。
それでも、そのわずかな一瞬だけが、不思議と二人の胸のどこかに静かに残っていた。
「若様?」
隣からカエラの声が聞こえる。
ケイルは振り向いた。
「どうした?」
「お加減でも悪いのですか?」
「ん?」
「先ほど急に首を振っていらっしゃいましたので」
「ああ、いや」
ケイルは、ちょうど横を通り過ぎようとしている馬車へ一瞬だけ目を向ける。
「何でもないよ」
カエラは小さく首を傾げた。
「では、どうされたのですか?」
「俺はただ見て――」
「おおーっ」
その瞬間、ケイルは思わず目を閉じた。
シルヴィアの声色が一変した。
そして、その変化は決して良い兆候ではない。
(……この声はまずい)
シルヴィアは腕を組み、自信満々の表情を浮かべる。
「分かった」
「何が」
「さっき何があったか、全部分かった」
「分かってない」
「分かってる」
「分かってないって!」
「馬車の中に女の子がいた」
「……」
「二人で見つめ合ってた」
「……」
「それで、お互い慌てて何もなかったふりをした」
カエラは小さく目を瞬かせる。
「本当ですか?」
「その通り」
「違うから」
「もちろん」
シルヴィアは大きく頷いた。
その妙に納得したような表情が、かえって何一つ信じていないことを物語っている。
「そういう時って、みんな決まって『違う』って言うんだよね」
ケイルは深々とため息をついた。
「どんな理屈だよ、それ!?」
「すごく説得力のある理屈」
「全然ない」
「私は十分、説得力があると思います」
カエラが穏やかな口調で付け加える。
ケイルはじっと彼女を見た。
「カエラまで乗るな!」
カエラの口元がわずかに緩む。
一方のシルヴィアは、ますます満足そうだった。
「意外だったなあ」
「何が?」
「ケイルにも照れることってあるんだ」
「照れてない!」
「じゃあ、照れてたのはあの子のほうかな」
「それも俺には関係ない」
シルヴィアはすぐさまケイルを指差した。
「ほら」
「今度は何?」
「やっぱりちゃんと見てたんだ」
「……」
シルヴィアの顔に勝ち誇った笑みが浮かぶ。
「はい、認めた」
ケイルはこめかみを押さえた。
「大人が君と話すとぐったりする理由が、少し分かった気がするよ」
「ありがとう」
「褒めてない」
「褒め言葉として受け取っておくね」
そして、いつものことだった。
シルヴィアと言い合っても、体力だけが減って、得られるものは何もないのだから。




