第四十四話
「すごい!」
「やっと来た!」
ケイルは小さく首をかしげた。
「どうしたんだ?」
シルヴィアはすぐに彼のほうへ振り向く。
「この船には、同い年の友達がほとんどいないの。」
「いるのは乗組員か護衛、それに商人ばっかり。」
そう言うと、大げさなくらい困り果てたような表情を浮かべた。
「しかも大人ってつまらないんだもん。」
「……」
「つまらない?」
「うん!」
シルヴィアは勢いよくうなずく。
「話しかけても、お金の話ばっかり。」
「お金じゃなかったら仕事。」
「仕事じゃなかったら商売。」
「商売じゃなかったら会議。」
「会議じゃなかったら――」
その言葉を遮るように、母親がそっと目を閉じた。
「言いたいことは分かったわ。」
「でも、大人ってそういうものなの!」
シルヴィアはお手上げとばかりに両手を広げる。
「誰も遊んでくれないんだよ。」
「私が行くたびに『あとで』『そのうち』『仕事が終わったら』って言うの。」
「なのに、その仕事が終わることなんて一度もないんだから。」
ラインマーは思わず小さく咳払いをした。
なぜだろう。その言葉が妙に自分へ向けられたもののように聞こえてしまった。
「でも、これでやっと新しい友達ができた!」
シルヴィアは再び嬉しそうにケイルを指さす。
「それに、君は大人っぽく見えないし。」
「……」
ケイルは黙り込んだ。
一秒。
二秒。
静寂が流れる。
「……ありがとう、と言っておこうかな。」
「ほらね?」
シルヴィアは満足そうにうなずいた。
「大人ならもっと回りくどく返事するもん。」
「それに、いつも何か難しいこと考えてそうな顔してるし。」
「ただ遊ぶかどうか聞いてるだけなのに。」
ケイルは再び沈黙する。
その表情は、ゆっくりと無表情へ変わっていった。
なぜなら、その説明は一瞬だけ――自分のことを言われているように聞こえたからだ。
「どうしたの? そんな顔して。」
「いや。」
「ん?」
「何でもない。」
シルヴィアは不思議そうに首をかしげる。
少し離れた場所では、ラインマーが笑いをこらえ始めていた。
一方のエレノア・ローゼンタイドは、こめかみを軽く押さえながら静かにため息をつく。
「シルヴィア……」
「なあに!?」
「そんなふうに大人をひとまとめに判断してはいけません。」
「でも、本当だもん。」
「シルヴィア。」
「じゃあ……ほとんどの大人。」
「それでもあまり変わっていません。」
「それなら……大多数?」
「シルヴィア。」
「はーい、はーい。」
そう返事をしながらも、少女の満面の笑みは少しも薄れなかった。
そのとき、カエラが半歩前へ進み、ケイルへ軽く一礼する。
「では若様、改めてご紹介いたします。」
視線を目の前の女性へ向けた。
「こちらは、エレノア・ローゼンタイド様です。」
「東方海域を治める冒険者であり、ブラックウェイク・コンソーシアム艦隊の艦隊長でもあります。」
「さらに、アストラヴェルでも最強クラスと称されるアスピラント・グランドマスターのお一人として知られております。」
カエラの声音は、いつもと変わらず落ち着いていて実に事務的だった。
だからこそ、その一言一言にはより重みが感じられる。
「SSSランク保持者。」
「そして、アストラヴェルの冒険者ギルドに所属する現役冒険者の中でも、上位十名に数えられるお方です。」
ケイルはわずかに眉を上げた。
さっきまであれほど賑やかだったシルヴィアでさえ、その説明を聞くとどこか誇らしげに胸を張る。
「すごいでしょ!」
「お父さんが言ってたの! お母さん、若い頃に嵐の大波を一太刀で真っ二つにしたことがあるんだって!」
「シルヴィア。」
「えっ、なんで?」
エレノアはとうとう長いため息をつき、自分のこめかみを軽く揉んだ。
「そんなに大げさに言わないでちょうだい。」
「カエラも。」
「私は、この世界の歴史に記された事実を述べたまでです。」
「その言い方が、かえって大げさに聞こえる原因なのだけれど。」
そう言いながらも、エレノアの口元にはかすかな笑みが浮かんでいた。
その一方で――
ケイルは先ほどの説明の中にあった、別の言葉が気にかかっていた。
ゆっくりと視線をカエラへ向ける。
「……アスピラント?」
カエラは静かにうなずいた。
「はい、若様。」
「『アスピラント』とは、レプリカ・ツリーを通じて世界のシステムとレゾナンスを築くことに成功した者へ与えられる称号です。」
ケイルはわずかに首をかしげる。
「レゾナンス?」
「簡単に申し上げますと、この世界を流れる法則と力に、自らを同調させる能力のことです。」
カエラはよどみなく答えた。
「その段階へ到達した者は、世界のシステムから正式な力の使い手として認められます。」
「それゆえに、彼らはアスピラントと呼ばれるのです。」
「言い換えれば、すでに常人の域を越えながらも、なおさらに高次の存在へ至る道を歩み始めた者たちでもあります。」
ケイルはしばらく黙ったまま、その説明を頭の中で整理する。
「……つまり、最初の段階みたいなものか。」
「そのようにお考えいただいて差し支えありません。」
カエラは穏やかにうなずいた。
「アスピラントは、決して終着点ではありません。」
「むしろ、そこからようやく本当の道が始まるのです。」
ここまで黙って聞いていたラインマーも口を開く。
「そう説明されると簡単そうに聞こえるな。」
「だが実際は、一生をかけてもその境地へ辿り着けない者がほとんどだ。」
「その通りです。」
カエラは再びうなずく。
「レゾナンスは、鍛錬や才能だけで無理に到達できるものではありません。」
「一人ひとりが、自らの道を見つけなければならないのです。」
「そして、エレノア様はその道を大きく切り拓いたお一人です。」
するとシルヴィアが勢いよく手を挙げた。
「とにかく、お母さんはすごいの!」
「あなたの結論は、いつもそこに戻るわね。」
エレノアは小さくため息をつく。
「だって本当にそうなんだもん!」
「……」
「ほら?」
エレノアは目を閉じ、そのまま数秒じっとしていた。
こういうやり取りには、もうすっかり慣れているのだろう。
ラインマーはくすりと笑いを漏らす。
一方のケイルは二人を見比べたあと、改めてエレノアへ視線を向けた。
話を聞けば聞くほど、この女性がただの冒険者ではないことを実感させられる。
だが、その場が再び静けさに包まれようとした、そのとき――
シルヴィアがぱちりと瞬きをした。
「……あれ、待って。」
その場にいた全員が彼女を見る。
シルヴィアはすぐにケイルを指さした。
「私たち、さっき友達になるって約束したよね?」
「ああ。」
「それでね、すっごく大事なことに今気づいたの。」
ケイルは少し首をかしげる。
「何だ?」
「私、まだ君の名前も知らない!」
「……」
束の間の沈黙が流れた。
やがてケイルは小さくうなずく。
「……そうか。それもそうだな。すまない。」
そう言って、ゆっくりと片手を差し出した。
「改めて自己紹介しよう。」
「僕はケイル・ラインマー。」
「よろしく。」
シルヴィアは迷うことなく、その差し出された手を握り返した。
「シルヴィア・ローゼンタイド!」
そう名乗るなり、シルヴィアは勢いよく手を振ったものだから、ケイルの腕まで軽く揺さぶられた。
「よろしくね!」
ケイルは一度だけ瞬きをする。
「……ずいぶん元気なんだな。」
「それって褒めてる?」
「たぶん。」
「やった!」
シルヴィアはたちまち満足そうな笑みを浮かべた。
その様子を見たエレノアは、小さく首を横に振る。
「まだほんの数分しか経っていないのに。」
「もうすっかり仲良くなっているのね。」
「いいことじゃないか。」
ラインマーが気楽な口調で答える。
「少なくとも、気は合っているみたいだ。」
「ええ。」
エレノアの口元にも、かすかな笑みが浮かんだ。
「私もそう思うわ。」
シルヴィアはすぐさま勢いよくうなずく。
「私も賛成!」
「ここには変な人もいないし!」
「ずいぶん高い評価をありがとう。」
「お礼なんていらないよ。」
「……」
ケイルはしばらく黙り込んだ。
なぜだろう。
今、遠回しに何か失礼なことを言われた気がした。
その表情を見て、ラインマーは思わずくすりと笑う。
エレノアもまた、笑みをこらえるように目を細めていた。
だが数秒後――
彼女の視線はゆっくりとラインマーへ向けられる。
表情は穏やかなままだったが、その眼差しだけがわずかに色を変えていた。
「実は、今日はシルヴィアを連れて遊びに来ただけではないの。」
ラインマーも、その声色の変化をすぐに察する。
口元の笑みは静かに消えた。
「……そうか。」
「前にも話したでしょう。少し相談したいことがあるの。」
「できれば、子どもたちの前では話さないほうがいいと思うわ。」
さらりと、オータム・ヴェールの葉を揺らした風が再び運河を吹き抜けた。
「分かった……。」
ラインマーは短く息を吐くと、ケイルとカエラへ視線を向ける。
「それじゃあ、お前たちは先にアストラヴェルを見て回ってくるといい。」
「お父様はここに残るの?」
ケイルは少し眉をひそめた。
「急にどうしたんだ?」
エレノアは穏やかに微笑む。
「大人同士の話があるのよ。」
「それに、信じてちょうだい。」
「……街を見て回るより、ずっと退屈だから。」
「今はまだ、あなたたちが知らなくてもいいこともあるわ。」
ケイルは二人をしばらく見つめ、それから軽く肩をすくめた。
「……分かった。」
「その通りだよ!」
シルヴィアがすかさず口を挟む。
「その分野なら私、経験豊富だから!」
「何年も苦労してきた人みたいな言い方だな。」
ケイルはいつもの調子で淡々と言う。
「実際、何年も苦労してるもん。」
シルヴィアはあっさりと、その悲しい現実を受け入れていた。
「周りは商人だらけだし。」
「そのへんにしておけ。」
ラインマーがすぐに抗議する。
だがシルヴィアは聞こえなかったふりをした。
「とにかく、街を見に行こう!」
その瞳は再び期待に輝く。
「船の上から見えたんだけど、上の地区にすっごく大きな木があったの!」
「きっと面白いよ!」
ケイルは数秒ほど彼女を見つめ、
やがて軽く肩をすくめた。
「……そうだな。」
もともとアストラヴェルへ来た目的は、この街を自分の目で見ることだった。
ベテランたちの真面目な話に付き合うためではない。
シルヴィアは満面の笑みを浮かべる。
「よしっ!」
「出発ー!」
ようやくラインマーも安堵したような表情を浮かべた――その瞬間。
ケイルが何気ない口調で付け加えた。
「でも、お父様。浮気はしないでくれよ。」
「……は?」
ラインマーは信じられないといった顔で勢いよく振り向く。
ケイルはただ肩をすくめただけだった。
「二人とも、ずいぶん仲が良さそうだから。」
「そんなこと、するわけないだろう!」
ラインマーの返事はあまりにも早かった。
そのあまりの即答ぶりに、エレノアは思わず小さく吹き出す。
「マリアーネ様は未来まで見通せる方だからな。」
ラインマーの声には、今や少し焦りすら混じっていた。
「もしマリアーネに知られたら、一か月は馬車の外で寝る羽目になる。」
「一か月だけですか……。」
カエラがぽつりとつぶやく。
「カエラ!?」
シルヴィアはたまらず吹き出した。
その笑い声は、商業地区の石造りの建物の間へ軽やかに響いていく。
エレノアでさえ、笑みをこらえながら小さく首を横に振っていた。
やがて彼女はカエラへ視線を向ける。
「もし迷惑でなければ、シルヴィアをお願いしてもいいかしら?」
「もちろんです。」
カエラは軽く頭を下げた。
「お二人は私がお守りいたします。」
「シルヴィアが見つけたお菓子を片っ端から買わないように見ていてちょうだい。」
「お母さん!?」
「それから、ケイルが妙な騒ぎに巻き込まれないようにもね。」
カエラはほんの一瞬だけ沈黙し、
ちらりとケイルへ視線を向けた。
「……善処いたします。」
「今、遠回しに僕まで問題児扱いされなかったか?」
「されたよ。」
シルヴィアは一切ためらうことなく答える。
「ずいぶん寝返るのが早いな。」
再び小さな笑い声がその場に広がった。
だが、そのまま会話が続くより早く――
チン――
チン――
金属製のベルが鳴り響く。
商業地区の大通りを走る線路の向こうからだった。
青銅と白を基調とした一両のヴォルタリス・トラムが、運河沿いの線路をゆっくりと滑るように走り抜けていく。
窓には昼の陽光がきらりと映り込み、
足元の機械仕掛けの車輪は、ほとんど音も立てずに回転していた。
シルヴィアの目がぱっと輝く。
「あれだ!」
「ヴォルタリス・トラム!」
「早く!」
ケイルが反応するより早く、シルヴィアは彼の腕をぐいっと引っ張った。
「おい、待て。」
「引っ張るな。」
「のんびりしてたら行っちゃうよ!」
「まだ乗るかどうかも決めてない。」
「でも私は決めたもん。」
「それは多数決の決め方じゃないだろ。」
「今はそうなの。」
「……」
ケイルは無言で彼女を見つめる。
シルヴィアは悪びれる様子もなく、満面の笑みを返した。
カエラは小さく息をついた。
「急がなければ、シルヴィア様は本当に走って追いかけかねません。」
「ほら!」
「カエラも私に賛成してる!」
「そういう意味ではありません。」
カエラは一拍置いてからラインマーへ向き直る。
「ラインマー様。」
「しばらく若様とシルヴィア様をお連れして、中心地区をご案内してまいります。」
ラインマーは軽くうなずいた。
「ああ、頼む。」
「特に、その二人をな。」
「どうして僕まで見張られる側なんだ?」
ケイルはいつもの調子で淡々と尋ねる。
「お前は、何か問題が起きる直前ほど落ち着いて見えるからな。」
「理不尽だ。」
「だが、その通りでもある。」
ラインマーは気楽にそう返した。
カエラは小さく一礼する。
「承知いたしました。」
「それでは、失礼いたします。」
結局、ケイルもそのまま歩き出した。
シルヴィアはすでに通りの先にあるトラムの停留所へ向かって、小走りで駆けていく。
その少し後ろを、カエラがいつもの落ち着いた足取りで静かについていった。




