第四十三話
それとほぼ同時に、ケイルもようやく前方の運河沿いへと視線を向けた。
石段を上り下りしながら、小さな木箱や書類の巻物を運ぶ倉庫の作業員たちは、今も忙しなく行き交っている。
だが、その賑わいの中にあっても、先ほどの二人の姿はあまりにも目を引き、見過ごすことなどできなかった。
深い紅色の髪をした女性は、濃赤のロングコートを運河から吹き抜ける風にゆるやかになびかせながら、落ち着いた足取りで歩いている。
その隣では、小さな少女が交易地区の景色を興味津々に見回していた。瞳をきらきらと輝かせながら、石畳の隙間にできた浅い水たまりを避けては、ぴょんと軽く跳ねている。
「……ん?」
先ほどまでポーションの瓶を手にしていたダリウス・モントクレールも、ようやくそちらへ顔を向けた。
そして、その女性の姿を目にした瞬間――思わず背筋を伸ばす。
「……天地がひっくり返るような話だ。」
信じられないというように小さく笑いながら、数秒ほどその姿を見つめ続ける。
「東方の至宝が、アストラヴェルに現れるとはな。」
その声には半ば感嘆が滲んでいた。
まさか、あれほどの人物をこの場で目にするとは思ってもいなかったのだろう。
隣にいたグスタフ・ラインホルトも、眼鏡を指先で整えながら静かに視線を落とした。
「……あの方までお越しになるとは、思いませんでした。」
まるで自分の見間違いではないかと確かめるような、小さな独り言だった。
ダリウスはその横でふっと笑みを浮かべる。
「これは引退した古参同士の同窓会ってやつか?」
「最後にあの方が交易地区へ姿を見せたのは、何年前でしたか?」
「六年……いや、七年くらいだったか。ラインマー様と同じくらいだな。」
そのやり取りに、ケイルは小さく二人へ目を向けた。
一方のカエラは、いつも通り静かに立ったまま、特に大きな反応は見せない。
ただ一度だけ、その女性へ短く視線を向けると、再び何事もなかったように黙っていた。
その頃には、赤髪の女性もハウス・ラインマーの隊商の前で足を止めていた。
深紅の瞳が、ゆっくりとラインマーへ向けられる。
そして互いの視線が重なった瞬間、女性はわずかに口元を緩めた。
「……久しぶりね、レイ。」
穏やかで落ち着いたその声には、ほのかな懐かしさが滲み、周囲の空気まで柔らかく染めていく。
「まさか、こんな場所でまた会うことになるなんて。」
その呼び名を聞いたラインマーは、小さく笑った。
「まったく……まだそんな呼び方をしていたのか。」
軽く首を振り、腕を組む。
「最後の戦が終わってから、もう何年になる?」
女性はふっと鼻を鳴らした。
「……長い間離れていたくらいで、昔の癖がそんな簡単に消えると思う?」
そう言って、肩の力を抜いたまま穏やかに続ける。
その声音はどこか温かく、長い年月をともに過ごしてきた者だけが持つ親しみを感じさせた。
「もう、その呼び方がすっかり身についてしまったもの。」
すると隣の少女が、その名前に反応してぱっと顔を上げる。
「じゃあ、本当にレイおじさんなの?」
好奇心いっぱいに目を丸くした。
「昔、戦争でお母さんを助けてくれたっていう?」
ラインマーはすぐさま眉をひそめる。
「人を年寄りみたいに呼ぶのはやめろ。」
女性は間髪入れずに言い返した。
「もう十分年寄りでしょう、このバカ。」
ラインマーはとうとう吹き出した。
「あははっ……相変わらず口だけは容赦ないな。」
その様子を見ていたダリウスは、小さく息をついて苦笑しながら首を振る。
「まったく……君たちがこんなふうに言い合う姿を見るのも、本当に久しぶりだ。」
そう言うと、手に持った術式の巻物を軽く叩き、改めてラインマーへ向き直る。
「ラインマー様……私たちは、この辺りで失礼するとしましょう。」
グスタフも隣で小さく頷いた。
「そ、その通りです。隊商の荷も、輸送路がもっと混み合う前に運び終えなければなりませんので。」
ラインマーは片眉を上げる。
「そうか。」
気楽な調子で返しながら、二人を見渡した。
「だが、本当に私の手を借りなくても片付けられるのか?」
「もちろんです。」
ダリウス・モントクレールは軽く舌を鳴らした。
「私たちを新人見習いと一緒にしないでいただきたい。もう三十年も流通地区を取り仕切っているんですよ。」
「その通りです!」
グスタフ・ラインホルトもすかさず続ける。
「残念ながら、それだけ長くやっていても、私はまだ安心できませんがね。」
「言ってくれるじゃないか。」
その返しに、ラインマーは腹を抱えて笑い出した。
「はははっ、わかった、わかった。」
ダリウスは左腕を胸の前で組み、右手で口ひげをゆっくり撫でる。
「ご安心を。長年あなたと仕事をしてきたんです。」
「ラインマー様の隊商の荷をさばく程度なら、箱を開ける前から中身の半分くらいは見当がつきますよ。」
だが数秒後、グスタフはゆっくりとラインマーの隣に立つ赤髪の女性へ視線を向けた。
「それに……」
眼鏡を押し上げ、小さく咳払いをする。
「今のあなたには、もっと優先すべき相手がおありでしょう。」
ラインマーは一瞬だけ言葉を失った。
やがて短く息を吐き、苦笑しながら肩をすくめる。
「……まあな。」
「あとで全部めちゃくちゃになっても、私を責めるなよ。」
「そのときは」
ダリウスが間髪入れずに言った。
「隊商の持ち主が悪かった、と皆に伝えておきます。」
「抜け目のない奴だ。」
「商売なんてそんなものですよ。」
三人の間に再び穏やかな笑いが広がる。
やがてダリウスは身を翻し、倉庫のほうへ向き直った。
勢いよく両手を打ち鳴らす。
「おーい! 忙しいふりはもういい! 全員こっちだ!」
倉庫の作業員たちが一斉に振り向く。
「ラインマー様の隊商の荷下ろしを始めろ!」
「赤い木箱は東倉庫へ!」
「新しいポーションと術式は勝手に触るな! 今週も無事に過ごしたいならな!」
そして、積荷目録を落としかけていた若い職員を指差す。
「お前! 突っ立ってないで台車を押せ!」
一時ばらけていた倉庫の空気が、再び慌ただしく動き始めた。
作業員たちが次々と隊商へ集まり、荷を運び出していく。
ガチャリ、と鎖が鳴る。
台車の車輪が石畳の上でぎいっと軋んだ。
その頃には、グスタフも最後尾の馬車のそばに立ち、手にした長い帳簿へ目を落としている。
「十二番の木箱、搬出完了。」
「記録。」
「精製鉱石は?」
「あります。」
「第三便のポーション木箱は?」
「封印未開封です!」
ペン先が紙の上を素早く走り、作業員たちは絶え間なく荷物を倉庫へ運び込んでいく。
そうしているうちに、隊商の前は少しずつ人が引き、静けさを取り戻し始めた。
ラインマーはケイルとカエラを連れ、倉庫の喧騒から離れるように歩き出す。
石畳の道を進み、赤髪の女性の前まで来ると足を止めた。
ひんやりとした風が、再び交易地区を静かに吹き抜ける。
オータム・ヴェールの葉が、ひらり、ひらりと三人の間へ舞い落ちた。
ラインマーは短く息を吐き、旧友を頭から足元まで眺める。
「それで?」
「どんな風の吹き回しで、アストラヴェルまで来たんだ?」
女性は静かに立ったまま、運河から吹く風に濃赤のコートをゆるやかに揺らしていた。
「最近、アストラヴェルについて妙な噂をいくつも耳にしてね。」
穏やかな口調だった。
それでも、その一言にラインマーはわずかに眉を上げる。
「噂?」
「冒険者ギルドが、ある話題で騒がしくなっているの。」
そこで彼女の声は少しだけ低くなる。
囁きとまではいかない。
だが、馬車の車輪が軋む音や倉庫の喧騒が、その言葉を少しずつ飲み込んでいくほどには静かな声だった。
「ダンジョンで、いくつものパーティーが亡くなっている。」
「……しかも、かなりの数が。」
ラインマーは口を挟まない。
黙って彼女を見つめ続ける。
「大きな外傷はない。」
「血も流れていない。」
「それなのに、もっと奇妙なのは――」
「……遺体は、どれも傷一つなく原形を保ったままだった。」
それでも周囲では、変わらず交易地区の日常が流れ続けていた。
だが、その口調のせいか、その小さな会話だけが周囲の喧騒から切り離されたような静けさを帯びていた。
「ギルドも、まだ死因を突き止められていないわ。」
「だから、この噂はあっという間に各地へ広まっていったの。」
ラインマーはわずかに眉をひそめた。
「各地へ?」
「だが、私はそんな話は一度も聞いていないぞ。」
女性は少し意外そうな表情を浮かべる。
「あなたの耳には入っていなかったの?」
「いや。」
ラインマーは後ろ首を軽くさすった。
「最近は商品の補給で手一杯だったからな。」
「倉庫も半分はまだ移設が終わっていない。」
「その対応だけでも十分骨が折れる。」
「そういうことだったのね……」
女性は静かに頷いた。
「それなら、その話があなたまで届かなかった理由も納得できるわ。」
「商売に集中し始めると、昔から外のことには驚くほど無頓着になるものね。」
「相変わらず、人を苛立たせる言い方をするな。」
女性の口元に小さな笑みが浮かぶ。
今にも笑い出しそうなのを堪えているようだった。
だが、そのやり取りが続くより早く、馬車の脇から突然大きな声が響いた。
「わああっ!?」
ケイルは反射的に振り向く。
いつの間にか、その少女はラインマーの馬車のすぐそばまで近寄っていた。
車体に刻まれたラインマー家の銀色の紋章を見つめ、瞳をきらきらと輝かせている。
「これ、すっごくかっこいい……!」
小さな手が空中をゆっくりとなぞり、紋章の彫刻を追っていく。
実際に触れることはせず、まるで珍しい遺物でも観察するかのようだった。
「見て、この彫刻!」
「縁の細工がすごく細かいし……」
「光が当たると色まで変わる!」
あまりに無邪気な歓声に、近くで作業していた倉庫の作業員たちも一瞬だけ視線を向けたが、すぐにそれぞれの仕事へ戻っていく。
ケイルはしばらく黙ったまま、その少女の様子を眺めていた。
些細なものにも、ここまで夢中になれる。
少し大げさなくらいの反応なのに、不思議とその姿は微笑ましく映った。
女性は小さくため息をつく。
「シルヴィア。」
「そんなに近づいてはだめよ。」
「えっ――」
シルヴィア・ローゼンタイドは反射的に振り返った。
「でも、本当にすごく素敵なんだもの……」
その様子に、ラインマーはくすりと笑う。
そして改めて女性へ視線を戻した。
「それで、その子が君の娘か?」
「結婚していたなんて、まったく知らなかったぞ。」
女性はすぐには答えなかった。
代わりに、顎をわずかに動かしてシルヴィアを呼ぶ。
「こちらへいらっしゃい。」
シルヴィアは素直に母親のもとへ歩み寄る。
それでも途中で何度も振り返り、ラインマーの馬車に飾られた銀の紋章へ名残惜しそうな視線を向けていた。
まだ、あの紋章を見足りないらしい。
ケイルはそんな二人の様子を、しばらく静かに見つめていた。
そしてケイルは小さく頷いた。
頭の中で何かがようやく一本につながったようだった。
「……なるほど。」
「やっとわかった。」
視線が一度だけシルヴィアの母親へ向く。
「さっき橋の下にいたのは、やっぱりあなたたちだったんですね。」
シルヴィア・ローゼンタイドの瞳が、ぱっと輝いた。
「うん!」
「さっき、目が合ったよね?」
ケイルは静かに頷く。
「ええ。どうしてあんなふうにこちらを見ているんだろうって、不思議だったんです。」
「でも、ちゃんと理由があったんですね。」
一度だけシルヴィアへ視線を向ける。
それから少しだけ顔をそらした。
「……最初は、知り合いのふりをしてくる人かと思いました。」
「えぇっ!?」
シルヴィアは目を丸くした。
「私たち、怪しい人じゃないよ!?」
「わかっています。」
ケイルは落ち着いた口調で答える。
「だからこそ、何か見落としていることがあるんじゃないかと思ったんです。」
「……正確には、誰かを。」
その視線は、女性とラインマーの間を静かに行き来する。
「そして、やっぱり父の知り合いだったんですね。」
隣に立っていたカエラが、そこでようやく顔を上げた。
「では、若様がおっしゃっていた先ほどの商船とは、エレノア様のものだったのですね。」
「そう。」
ケイルは後ろ首を軽くかいた。
「こちらの馬車を見て、向こうが何か気づいたような気がしていたんです。」
「やっぱり、その感覚は間違っていませんでした。」
それでもシルヴィアは、まだ少し納得がいかない様子だった。
「でも、どうして第一印象が『知り合いのふりをする人』なの?」
「ずっと、知り合いみたいな目で僕を見ていたでしょう。」
「とはいえ、ああやって見られるのが嫌だったわけではありません。」
「だって、あの紋章がすっごくかっこよかったんだもん!」
「それは確かに格好いいですね。その点は認めます。」
ケイルは軽く頷き、そこだけは否定できないというように素直に認めた。
そんな二人のやり取りを見て、ラインマーは小さく笑う。
「ほら見ろ。」
「やっぱり、お前の話し方は子どもらしく聞こえないな。」
ケイルは、その言葉を予想していたかのように小さくため息をついた。
「お父様。またその話ですか。」
「僕は思ったことを、そのまま口にしているだけです。」
「それに、少し驚きました。」
穏やかな声は変わらない。
けれど今回は、その口元にもわずかな笑みが浮かんでいた。
「……でも、新しい知り合いができるのなら、嬉しいですよ。」
さっきまで半分抗議していたシルヴィアは、ぱちぱちと瞬きをする。
そして、ゆっくりと表情を明るくした。
「新しい知り合い?」
「そっか!」
瞳が再びきらきらと輝き始める。
「それなら、私たち友達になれるってこと!?」
「たぶん、そうですね。」
「やったー!」
シルヴィアは嬉しそうに両手を小さく掲げた。
あまりにも大きなリアクションに、周囲の人々がまた一瞬だけこちらを振り返るのだった。




