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第四十二話

ラインマー家の黒い馬車は、ついにアストラヴェル交易地区南側の輸送路で速度を落とし始めた。


これまで街の喧騒と溶け合うように響いていた馬の蹄の音も、倉庫作業員たちが荷物を運び始めるにつれて、少しずつその規則的なリズムを失っていく。


建物の上に設けられた低い煙突からは薄く煙が立ち上り、遠くでは荷の積み替え作業の声が絶え間なく交わされていた。


だが、先ほどまで通っていた外港地区とはどこか雰囲気が違う。


この場所の空気は、より穏やかだった。


潮の匂いや重機の油臭さに満ちているわけではない。


古びた木材の香り、乾いた葉の匂い、そして石造りの建物の間に留まる初冬の午後を思わせる冷たい露の気配が静かに混ざり合っている。


輸送路の両脇には、黄金がかった茶色の葉をつけた高木が整然と並んでいた。


細く伸びた幹から広がる枝葉は馬車道の上まで覆いかぶさり、交易地区の中に自然が作り出した天蓋のような景観を形作っている。


乾いた葉は時折風に乗ってゆっくりと舞い落ち、そのまま往来する車輪に巻き込まれていった。


ガリッ――


馬車の車輪のひとつが道端に積もった枯葉を踏み潰し、かすかな擦れる音を響かせる。


輸送路を満たしていた鉄製車輪の軋みと馬の足音も、銀の紋章を掲げたラインマー家の黒い馬車が主要倉庫区画へ入るにつれ、徐々に勢いを失っていった。


少し前方では、倉庫の前で言い争っていた二人の商人が同時に顔を上げる。


「……ん?」


「おい、ちょっと待て――」


薄い口髭を生やした男は反射的に背筋を伸ばし、顎を撫でながら目を細めた。


遠くから近づいてくる一団を確かめるように視線を向ける。


だが彼の表情を変えたのは、後方に続く荷馬車ではなかった。


先頭を進む大きな黒い馬車だった。


「……あれは?」


もう一人の商人も思わず振り返る。


「あっ――?」


「く、黒い馬車……銀の紋章付きか?」


そして交易地区の薄曇りの陽光の下、馬車の側面に刻まれたラインマー家の銀の紋章がはっきり見えた瞬間――


二人はほぼ同時に目を見開いた。


口髭の男は思わず数歩前へ出る。


「ま、まさか……」


「あれ、ラインマー家の本家馬車じゃないか!?」


「いつも来るのは隊商だけだったはずだろ?!」


「まさか……」


彼の視線は自然と御者台へ向かった。


「……ラインマー様も来ているのか?」


その声には、もはや隠しきれない驚きが混じっていた。


そして後方にいた倉庫職員たちも、次第に同じことへ気付き始める。


「えっ?」


「待て、本物か?」


「間違いない。ラインマー家の馬車だ――」


「六年もあれで地区に来てなかっただろ!?」


やがて口髭の商人は長く息を吐き、信じられないといった様子で笑った。


「はぁ……まったく。」


「……本当にまた来たのか。」


作業員たちは慌てて木箱の上に散らばっていたマニフェストを片付け始める。


別の者たちは馬車隊が到着する前に輸送路を空けようと動き出した。


先ほどまで張り詰めていた倉庫街の空気は、止まっていた巨大な機械が再び動き始めたかのように活気を取り戻していく。


その頃、馬車の上ではラインマー家の御者が手綱を軽く引いた。


ヒヒーン――


先頭の栗毛馬が小さく頭を上げ、そのまま倉庫の正面で足を止める。


冷えた空気の中、鉄と木材の匂いが混じる吐息が白く揺れた。


御者は前で待っていた二人の商人へちらりと視線を向けると、小さく笑いながら疲れた肩を落とす。


「到着しました。」


「どうやら、ずいぶん待たせてしまっていたようですね、旦那様。」


それまで背もたれに身を預けていたラインマー様も窓の外へ目を向け、わずかに口元を緩めた。


「当然だろう……北方からの供給が遅れているせいで、皆焦り始めているのは分かっていた。」


「まあ、予想通りですね。」


その口調は実に落ち着いていた。


まるでこうした交易地区の騒ぎなど、長年見慣れてきた日常の一部であるかのように。


窓際に座っていたケイルが口を開く。


「遅れているって? お父様はいつも時間通りに来るんですか?」


ラインマー様は視線を向けた。


「いや、そういうわけではない。ただ……今年はかなり様子が違う。」


そう言って再び窓の外を見る。


倉庫街では今も人々が忙しなく動き回っていた。


「お前も感じただろう。さっき外縁地区の検査を受けた時から。」


ケイルは小さく頷く。


「確かに……みんな何かの準備で急いでいるように見えました。」


「でも、何のために?」


「私にも分からん。」


ラインマー様は肘を窓枠へ預けた。


「最近、何かが起きているのかもしれないな。」


ここからでも、倉庫作業員たちが木箱や配送書類を抱えて慌ただしく行き来する様子が見える。


まるで長く続いた問題からようやく解放された人々のようだった。


「ふーん……」


ケイルは小さく口元を緩める。


「うちの家って、ここではかなり重要なんですね。」


その言葉にラインマー様はくすりと笑った。


「交易の供給が止まれば、アストラヴェル全体が頭を抱えることになるからな。」


「それに、アストラヴェルが困ることになれば……」


ラインマー様はわずかに口元を緩めた。


「……真っ先に慌てるのはこの商人たちだ。」


「おい! 今の聞こえてましたよ、ラインマー様!」


倉庫前にいた口髭の商人が即座に大声で抗議し、その後ろにいた職員たちも思わず笑いを堪える。


するとラインマー様はますます楽しそうに笑った。


「あははは、ほらな?」


その隣に座っていたカエラも小さく微笑みながら、白い手袋を静かに整える。


「それでは、そろそろ降りましょう。」


「ああ。」


ラインマー様は軽く頷いた。


「これ以上外で待たせると、本当に胃を痛めそうだからな。」


やがて馬車の扉が外から開かれる。


交易地区の風が静かに流れ込み、倉庫の木材の匂い、乾いた落ち葉の香り、そしてどこか路地の屋台から漂ってくる温かな紅茶の香りを運んできた。


カエラが先に降りる。


いつも通り無駄のない綺麗な所作だった。


黒い靴が石畳に触れ、落ち葉を踏むかすかな音が響く。


ほどなくしてケイルも後に続いた。


遠くでは倉庫管理員たちの声が今なお飛び交っている。


石畳の上を行き交う作業員たちの足音も絶えることがない。


「マニフェスト三十二番だ! 次の列車が来る前に東側ルートへ回せ!」


「おい、その鉱石箱は気をつけろ! 錬金素材の近くに積むな、この馬鹿!」


別の怒鳴り声が木箱の山の向こうから飛んでくる。


「誰だ、高品質鉄鉱石を一般輸出区画に置いたのは!? 中央ギルド契約分だぞ!」


数人の作業員が麻袋や金属箱を満載した台車を押しながら慌ただしく駆けていく。


車輪が石畳の隙間を越えるたび、鉄鎖が派手な音を立てて揺れた。


「もっと急げ! 南方航路の商船は日没前に出港するんだぞ!」


「マニフェストはどこだ!? 荷物だけ運んでどうする!」


倉庫の反対側では、汗だくの老人が書類の山を必死にめくりながら小声で悪態をついていた。


「またマナクリスタルの在庫が消えたら、グスタフ管理長が本気で怒り狂うぞ……」


「いや、もう怒ってる。」


疲れた顔の作業員が即座に返す。


「今朝だって輸送数の誤差を見て倒れかけてた。」


その言葉に周囲から短い笑いが漏れた。


もっとも、忙しさそのものが和らいだわけではない。


物流区画全体は、休むことを許されない巨大な機械のように絶え間なく動き続けていた。


そんな中――


赤茶色の葉が一枚、高い枝からゆっくりと舞い落ちる。


そのうちの一枚がちょうどケイルの方へ流れてきた。


反射的に伸ばした手が空中でそれを掴む。


しばらく眺める。


細長く伸びた葉先。


中央には赤褐色が広がり、夕方の光を受けた淡い金色がその表面に滲んでいた。


周囲では今も荷車の車輪の音や倉庫職員たちの呼び声が遠くに聞こえている。


それなのに、この並木道の下だけは不思議なほど穏やかだった。


「倉庫の人たちはあんなに騒がしいのに……」


葉を指先でくるりと回しながらケイルが呟く。


「意外と居心地のいい場所ですね。」


視線を上げる。


赤く色づいた並木が道の先まで続いていた。


「息苦しさもないし。少し立ち止まるにはちょうどいいかも。」


「オータム・ヴェイルの樹です。」


隣からカエラの声が聞こえた。


両手を前で揃えたまま静かに立ち、遠くの倉庫区画へ視線を向けている。


黄金がかった茶色の髪が交易地区を吹き抜ける風に揺れた。


「南部地区ではよく植えられています。」


「色が綺麗だから?」


「そう考える人もいるでしょう。」


カエラは並木へ目を向ける。


「ですが最大の理由は、オータム・ヴェイルの根が地下の配管網を傷めないからです。」


「なるほど。」


ケイルは葉を見下ろした。


「この街の何もかもが収支報告書で決まってる気がしてきた。」


「実際、その通りです。」


カエラは平然と答える。


表情はほとんど変わらない。


だが口元だけはわずかに緩んでいた。


ケイルは小さく息を吐き、苦笑する。


「どうしてカエラの返事って、いつもこんなに丁寧に雰囲気を壊せるんだろう。」


「ありがとうございます。」


「褒めてない。」


「ですが、褒め言葉にも聞こえました。」


「はぁぁ……」


ケイルが何か言い返そうとしたその時だった。


倉庫の方から慌ただしい足音が近づいてくる。


先ほどの二人の商人だった。


石畳の上を早足で進みながら、抱えた書類やマニフェストを風に飛ばされそうになっている。


「ラインマー様!」


口髭の商人は両腕を大きく広げた。


その表情には安堵と信じられない気持ちが入り混じっている。


「まったく……本当に来てくださったんですね。」


「来なかったら、誰がお前たちの愚痴からこの地区を救うんだ?」


ラインマー様は小さく笑いながら歩み寄る。


するともう一人の商人が大袈裟に長いため息を吐いた。


「これでようやく今夜は安心して眠れます……」


「君たちは大袈裟すぎる。」


「いえ、本気ですよ。」


男は自分の顔を指差した。


「この立派な目の下の隈を見てください。ここ三日間、あらゆるギルドから北方の隊商がいつ到着するのか問い合わせが来ていたんです。」


「そのたびに『まだです』と答えると、今度は一族郎党まとめて監査されるんじゃないかって目で見られるんですよ。」


その言葉に後ろの倉庫作業員たちからも小さな笑いが漏れる。


口髭の商人はさらに何か言おうとしたが、不意に視線がケイルの方で止まった。


「……ん?」


口元を撫でながら目を細める。


まるで今になって、ラインマー様の近くに見慣れない人物がいることに気付いたかのようだった。


視線がケイルからカエラへ移り、再びラインマー様へ戻る。


「待てよ……」


小さく呟く。


「その若者は誰だ?」


その場の空気が一瞬だけ止まった。


そして隣の商人が突然目を見開く。


「え?」


「その若者って――」


反射的にケイルを指差す。


するとラインマー様が何でもないことのように答えた。


「私の息子だ。」


その瞬間、二人の反応が同時に爆発した。


「はぁっ!?」


「今そんなに大きい息子がいるんですか!?」


あまりの声量に、ケイルは思わず瞬きをする。


「……なんでそんなに驚くんです?」


「最後に見た時なんて、まだ執務机より低かっただろう!」


執務机より低かった、か。


ケイルは何とも言えない目を向けた。


口髭の商人は数歩近寄り、改めてその顔を見つめる。


「いや、本当に……」


感慨深げに呟いた。


「今じゃ若い頃のラインマー様にそっくりだな。」


「それは残念ですね。僕の容姿が大幅に劣化したことになります。」


「はははははっ!」


口髭の商人は腹を抱えて笑い出す。


一方で隣の男は額を押さえながら疲れたようにため息をついた。


「口までそっくりだ……」


なんで顔じゃなくて口なんだ。


もっと他に褒めるところがあるだろう。


ケイルは心の中でぼやく。


ラインマー様は慣れた様子で小さく舌を鳴らした。


「ケイル。」


気楽な調子で声をかけながら、目の前の二人へ手を向ける。


「紹介しよう。そこの口髭で騒がしい方がダリウス・モントクレールだ。」


四十二歳。


「おい、なんでそんな紹介なんですか!?」


「事実だからな。」


「まったく、昔から変わりませんね。」


ラインマー様は意に介さず続ける。


「そしてもう一人がグスタフ・ラインホルト。」


四十歳。


「倉庫契約と物流供給の管理を担当している。」


グスタフは慌てて眼鏡の位置を直し、小さく会釈した。


「本当に久しぶりですね……もっとも、君の方は私たちを覚えていないでしょうが。」


「当然だろう。」


ダリウスが腕を組みながら頷く。


「あの頃はまだ小さかったからな。ラインマー家の応接室で挟みパンを失くしただけで泣きそうになっていたこともあった。」


ケイルは数秒黙り込んだ。


それから静かに言う。


「……今、明らかに不要な情報が混ざりませんでした?」


「ははははっ!」


「そんな真面目に受け取るな。ただの冗談だ。」


ラインマー様も肩を揺らしながら笑いを堪えている。


「それで、そちらのメイドだが……」


ダリウスはカエラへ視線を向けた。


少し目を細める。


何かを思い出そうとしているようだった。


「……もしかして、昔ラインマー様が南部地区へ連れて来ていた専属護衛か?」


カエラは礼儀正しく小さく頷く。


「カエラ・アーデントです。」


するとダリウスはほぼ反射的に姿勢を正した。


「ああ――やっぱりそうか……」


声色まで先ほどよりずっと整っている。


その変化にケイルは思わず横目で見る。


「……そんなに有名なんですか?」


「そんなに、だって?」


ダリウスは小さく笑った。


気軽な様子でカエラを指差す。


「南部地区の商業関係者なら、この子を知らない人間の方が少ないぞ。」


「まあ、さっき名前は思い出せなかったんだがな。」


悪びれる様子もなく付け加える。


「そこは覚えておいてください。」


カエラは即座に返した。


「カエラ・アーデントです、ご主人様。」


「ああ、そうだった。それだそれだ。」


カエラは数秒ほど黙り込んだ。


そして小さく息を吐く。


どうやらこうしたやり取りにはもう慣れきっているらしい。


その隣で、ケイルは改めて思う。


どうやらカエラの知名度は、自分が想像していたより遥かに大きいようだった。


「とにかく、ようやく来てくださって助かりましたよ。」


グスタフは長いため息をつきながら、ラインマー家の隊商の後方に並ぶ輸送用の荷馬車へ視線を向けた。


「もし来なかったら、この地区は本当にポーションの在庫を巡って殺し合いが始まっていたかもしれません。」


「安心しろ。」


ラインマー様は軽くグスタフの肩を叩く。


「荷はすべて無事だ。」


「それに、今回は当初の依頼より多めに持ってきている。」


その言葉にダリウスとグスタフは勢いよく顔を見合わせた。


「……え?」


ダリウスは思わず手を上げる。


聞き間違いではないか確かめるように。


「多めって……予備の供給分ですか?」


「いや。」


ラインマー様はいつも通り落ち着いた声だった。


今回は黒い手袋を外すこともなく、そのままコートの内ポケットへ手を入れる。


取り出したのは、丁寧に折り畳まれた一枚の処方紙だった。


それをそのままダリウスへ差し出す。


「新しい処方だ。」


その場に小さな沈黙が落ちた。


「……処方?」


ダリウスは呟きながら紙を開く。


視線が素早く内容を追った。


「マイナー・フィジカル・リカバリー・エリクサー……」


眉がゆっくりと上がる。


「ルートヴァイン抽出液に、レッドアッシュリーフ、それから精製マナウォーター?」


グスタフも隣から身を乗り出した。


その表情はすでに真剣なものへ変わっている。


「これは体力回復と肉体回復を組み合わせた構成ですか?」


「軽度の身体強化ポーションだ。」


ラインマー様はそう答えながら、後方の荷馬車へ向かって歩き出した。


「呼吸が安定する。体力回復も早い。」


「筋肉や持久力への作用も、旧式の処方よりずっと扱いやすい。」


「軍用の強化薬ほど強烈ではないが、冒険者や日常的な物流作業員が使うには十分安全だ。」


「ま、待ってください。」


ダリウスが慌てて手を上げる。


「ラインマー様……」


真顔のまま言った。


「今のは冗談だと言ってください。」


だがラインマー様は小さく笑いながら、荷馬車脇の木箱を開ける。


「私が冗談を言っているように見えるか?」


「そういう問題じゃありません!」


ダリウスは思わず半歩前へ出た。


「もし本当に新型強化薬が成功しているなら、物流ギルドが供給権を奪い合いますよ!」


「東部地区のポーション工房だって黙っていません!」


グスタフもすぐに続く。


「それに冒険者たちも――まずい、下手をしたら地区の外まで行列ができます!」


口髭の商人は頭を抱えた。


「いや、待て……落ち着け……」


「安定性は?」


「副作用は?」


「持続時間は?」


「試験回数は何回です?」


「仮に半分でも成功しているなら市場価格は――」


「試験は済ませた。」


ラインマー様がさらりと遮る。


そして木箱の中から一本の小さなポーション瓶を取り出した。


中には赤い液体が揺れている。


淡い光を反射するその瓶を、軽く放り投げた。


「おっと!」


ダリウスは反射的に受け止める。


「北からの移動中、私自身で使い続けていた。」


「結果は予想以上に安定している。」


その様子を見ていたケイルが、わずかに眉を上げた。


「……ちょっと待ってください。」


視線がダリウスの手の中の瓶と、ラインマー様の後ろに積まれた木箱を行き来する。


「お父様が旅の途中で使っていたのって、唯一の試作品じゃなかったんですか?」


ラインマー様はこちらを振り返った。


そして小さく笑う。


「お父様はそこまで愚かじゃない。」


「……つまり、まだたくさんあるんですね。」


「予備の試験用だ。」


あまりにも自然な返答だった。


そのせいでケイルはますます確信する。


この老人は、最初から全部計画していたのだと。


一方その頃。


ダリウスはまだ手の中のポーションを見つめていた。


まるで純金の延べ棒でも握っているかのような目だった。


「……今試してもいいですか?」


「好きにしろ。」


ラインマー様は肩をすくめる。


「疲労が溜まっている人間ほど効果が分かりやすいからな。」


ダリウスは即座に倉庫の方へ振り返った。


「おい! そこのお前!」


木箱を運んでいた作業員の一人が戸惑ったように顔を上げる。


「お、俺ですか?」


「そうだ、ちょっと来い!」


呼ばれた男は首を傾げながら近寄ってきた。


額から首筋にかけて汗が流れている。


「どうしました、ダリウス様?」


「これを飲め。」


「……は?」


「安心しろ。もし死んだら家族には俺が補償してやる。」


「全然安心できませんよ、それ!」


グスタフは思わず額を押さえた。


その隣でケイルも小さく吹き出しそうになる。


ラインマー様に至っては、止める気配すらない。


あまりにも落ち着き払っていた。


作業員は半信半疑のまま瓶の蓋を開ける。


そして意を決してポーションを飲み干した。


数秒が過ぎる。


やがて――


「……え?」


男の目がゆっくりと見開かれた。


自分の両手を見下ろす。


「どうした!?」


ダリウスが勢いよく身を乗り出す。


「どんな感じだ!?」


「体が……」


男は肩を何度か回した。


「疲労感が消えてます。」


「は?」


「それに呼吸も楽です……」


本人ですら戸惑っているようだった。


「一晩ぐっすり寝た後みたいな感じで……」


ダリウスとグスタフが同時に顔を見合わせる。


「……本当に即効性があるのか?」


「すごいな。」


作業員は驚いたまま続けた。


「今朝からずっと重い荷物を運んでいたのに、体がずっと軽いんです。」


ゆっくりと拳を握る。


「力も前より使いやすい気がします。」


一瞬だけ静寂が落ちた。


そして――


「今すぐ在庫管理担当を呼べぇぇぇ!」


ダリウスの怒鳴り声が倉庫前に響き渡った。


周囲の作業員たちが一斉に振り返る。


「追加の保管スペースが必要だ!」


「それと新しい処方の話はまだ外へ漏らすな!」


グスタフもすぐに続く。


「中心地区に先に知られたら終わりだぞ!」


「おい! そんな大声で叫ぶな、この馬鹿!」


倉庫前は再び大騒ぎになった。


まさに交易地区らしい慌ただしい混乱である。


その様子を見ながら、ケイルは半ば呆れたように呟いた。


「……みんながお父様たちの到着を待ち望んでいた理由が少し分かった気がします。」


隣に立つカエラがわずかに微笑む。


「ラインマー様は、南部地区が今のように円滑に回り続ける理由の一つですから。」


「へぇ。」


ケイルは少し眉を上げた。


「なんだか、とてもお金がかかりそうな話ですね。」


「実際、とてもお金がかかっています。」


返答があまりにも早かった。


思わずケイルは笑いを堪える。


その時。


運河沿いの通路の向こうから、短い汽笛が聞こえてきた。


物流用の船着き場の方角だ。


しばらくして、何人もの港湾作業員が運河下の石階段を上ってくる。


小さな木箱や書類の束を抱えながら、足早に歩いていた。


おそらく到着したばかりの商船の荷下ろしを終えたところなのだろう。


だが、その作業員たちの中に――


ひときわ目を引く二つの人影があった。


深紅のコートが冷たい風に揺れる。


襟元近くに付けられた小さな紫水晶の装飾が、アストラヴェルの青白い光を反射した。


濃い赤髪の女性は落ち着いた足取りで最後の石段を上がる。


その隣では、赤茶色のコートを着た小柄な少女が、交易地区の景色を興味津々といった様子で見回していた。


そして――


ほぼ同じタイミングで、ラインマー様の足がふと止まる。


「……おや?」


視線を運河の方へ向ける。


やがて口元に薄い笑みが浮かんだ。


「今日は誰が来たのかと思えば。」

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