第三十九話
エリクサーを飲ませてから数秒後。
ついにラインマーの指先が再び動いた。
先ほどまでのようなかすかな反射ではない。
今度はカエラの黒いスカートの上ではっきりと分かるほどの動きだった。
指先がゆっくりと曲がり、やがて弱々しく握られる。
まるで、その身体がまだ戻り切っていない意識へ必死に追いつこうとしているかのように。
カエラの肩が反射的にわずかに強張った。
獣の耳がぴくりと動く。
「……旦那様?」
その柔らかな声は、ほとんど囁きに近かった。
ほんの少しでも大きな声を出せば、ようやく戻り始めた意識が再び途切れてしまうのではないかと恐れるように。
その向かいでは、ケイルも知らず知らずのうちに身を乗り出していた。
視線は馬車のカーテンの隙間から差し込む昼の光の下にあるラインマーの顔へと向けられている。
揺れる馬車に合わせて光もゆっくりと揺らぎ、男の顔に淡い影を落としていた。
そしてゆっくりと――
ラインマーの眉がわずかに動く。
冷たい吐息が唇の隙間から漏れ、やがて閉ざされていた瞼が少しずつ開いていった。
その黒い瞳は、最初の数秒間はどこか虚ろだった。
焦点が合っていない。
まるで意識の一部が、まだ遠く離れた場所に取り残されたままでいるかのように。
そんな中、
「……ん……」
重い息が唇から漏れた。
長く暗い深淵へ沈んでいた者が、無理やり引き上げられて目覚めたような息遣いだった。
ラインマーが自ら起き上がろうとした瞬間、カエラはすぐに動いてその肩を支える。
「無理をなさらないでください、ラインマー様」
身体を起こした途端、ラインマーはわずかに眉をひそめた。
片手を頭へと持ち上げ、肩にも力が入る。
眉間の皺はさらに深くなり、そこに残る痛みがまだ消えていないことを物語っていた。
「……頭が……」
低く重い声だった。
呼吸もまだ完全には整っていない。
それでもどうにか身体を起こし、馬車の側面へ背を預ける。
カエラは馬車が再び石畳を越えて揺れた際も、彼がバランスを崩さないよう静かに支え続けていた。
「ご無理をなさる必要はありません」
「……問題ない」
そう答えた後も、ラインマーは数秒間目を閉じたままこめかみを押さえていた。
まるで、まだ身体に残る痛みを押し留めようとしているかのように。
ケイルは黙ってその様子を見つめていた。
視線は一度たりとも離れない。
そしてなぜだろう。
お父様が本当に目を覚ました姿を見た瞬間、胸の奥にあった何かがふっと軽くなった気がした。
知らぬ間に肩へ乗っていた緊張も、ゆっくりと解けていく。
「……よかった。やっとお父様が起きた」
自然とそんな言葉が口からこぼれる。
決して大きな声ではなかった。
だが、静かに響く馬車の車輪の音の中でも十分に聞こえる声だった。
ラインマーはゆっくりと再び目を開き、ケイルへ視線を向ける。
数秒の間、二人の視線が交わった。
そして目覚めてから初めて、男の口元がわずかに緩む。
「……心配をかけたな」
その言葉と共に肩の力が静かに抜けた。
まるで今になってようやく、自分の緊張が解けたことに気付いたかのように。
「まあ……心配するに決まってるでしょ」
できるだけ平然とした口調を装う。
だが声に滲んだ安堵までは隠し切れなかった。
ラインマーの隣では、カエラも小さく息を吐いた。
ずっと胸の内に溜め込んでいたものをようやく吐き出すように。
琥珀色の瞳が手元の青いクリスタル瓶へ落ちる。
中の液体は馬車が揺れるたびに柔らかな光を反射していた。
そして再びラインマーへ視線を戻す。
「……本当によかったです」
その声はとても小さい。
安堵が思わず漏れ出た独り言のようだった。
「エリクサーの効果も問題なく現れているようですね」
それを聞き、ラインマーがわずかに眉を寄せる。
「エリクサー……?」
カエラは小さく頷いた。
「ラインマー様は力を使い過ぎた後、一時的に意識を失われました」
「移動中もお身体の状態が徐々に不安定になっていましたので」
そう言いながら、馬車が山道の下り坂に沿って小さく揺れるたび、慎重にその肩を支え続ける。
「私も若様も、状態がさらに悪化するのではないかと心配しておりました」
カエラは静かに続けた。
声音そのものはいつも通り落ち着いていたが、その一言一言の奥にはまだ消え切らない緊張が残っている。
支える手も、無意識のうちにまだラインマーの肩から離れていなかった。
本当に無事なのだと確かめるように。
向かい側から、ケイルもすぐに言葉を重ねる。
「さっきなんて、お父様の身体すごく冷たかったんだよ」
「呼吸も変だったし」
「もっと長く眠ったままになるんじゃないかと思った」
言い終えてから、ようやく自分が少し早口になっていたことに気付く。
ケイルは小さく首の後ろを掻きながら、わずかに視線を逸らした。
だがラインマーは何も言わなかった。
ラインマーは何も言わなかった。
ただ静かに話を聞いていた。
視線をゆっくりと自分の手へ落とす。
まだ少し強張りの残る指先を見つめた後、長く静かな息を吐き出した。
「……そうか」
声はまだ重い。
それでも、その瞳には少しずつ焦点が戻り始めていた。
散らばっていた意識の欠片を、一つひとつ拾い集めるように。
向かい側では、ケイルがゆっくりと視線を伏せる。
目に映るのは、山道に合わせて揺れ続ける馬車の木製の床だった。
本当は――まだ聞きたいことが山ほどあった。
家族のこと。
少しずつ目の前で姿を現し始めた奇妙な世界のこと。
そして何より――ずっとお父様と呼んできたあの人のこと。
先ほどラインマーは、馬車に乗った後で全て説明すると言っていた。
だが今は――
ケイルはゆっくりと顔を上げる。
目覚めたばかりのお父様へ、そっと視線を向けた。
ラインマーは今もこめかみを押さえながら、ゆっくりと呼吸を整えている。
先ほどより顔色は多少良くなっていたものの、その青白さはまだ完全には消えていなかった。
その姿を見ると、不思議と胸の奥までせり上がっていた疑問が喉のところで止まってしまう。
(……うーん)
小さな呟きは心の中だけに留まった。
(……後でいいか)
(お父様も、まだ目を覚ましたばかりだし)
小さく息を吐き、再び馬車の座席へ身体を預ける。
車輪の振動に合わせて木製の座席がかすかに軋んだ。
それに――少なくとも今は、いくつかの手掛かりを得られている。
ラインマーから。
カエラから。
そして先ほど交わされていたレプリカ・ツリーや力に関する奇妙な会話から。
まだ頭の中では全てが曖昧なままだった。
まるで欠けたピースだらけのパズルのように。
それでも今は――
その好奇心を一旦胸の奥へしまっておくことにした。
その頃、馬車の反対側では、ラインマーがゆっくりと目を開く。
そしてカエラへ視線を向けた。
目が留まったのは、彼女の手にある青いクリスタル瓶だった。
わずかに眉が動く。
「……カエラ」
「はい、ラインマー様」
「……私を目覚めさせたのは、お前か?」
カエラは迷うことなく頷いた。
「はい」
手にしていたクリスタル瓶を静かに持ち上げる。
中の淡い青色の液体が馬車の揺れに合わせて揺らめき、指先や琥珀色の瞳に淡い光を映していた。
「ラインマー様が意識を失われた際、このエリクサーを飲ませました」
柔らかな青い光が再びその瞳に映る。
「旅の途中で何かあった時のためにと、マリアーネ様から預かっていたものです」
しばしの沈黙が流れた。
ラインマーの視線はクリスタル瓶に留まったまま動かない。
表情に大きな変化はない。
だがゆっくりと――
その口元にかすかな笑みが浮かんだ。
大きな笑みではない。
ほんのわずかな微笑み。
それでも周囲を包んでいた冷たい雰囲気を少しだけ和らげるには十分だった。
「……そうか。理解した」
静かな声だった。
「なら、彼女は全てが起こる前から準備していたということだな」
カエラとケイルは黙ってその様子を見守る。
そしていつの間にか、馬車の中には先ほどまでとは違う穏やかな空気が流れていた。
ラインマーが目覚める前のような重苦しい緊張感はもうない。
聞こえるのは、車輪が地面を転がる低い響き。
隙間から入り込む山風の音。
そして少しずつ安定を取り戻していくラインマーの呼吸だけだった。
やがてラインマーは小さく息を吐き、背中を座席へ預ける。
「マリアーネは昔からそういう人だ」
視線は馬車の窓へ向けられる。
ゆっくりと流れていく山々の景色へ。
岩肌の斜面には薄い霧がたなびき、木々の影は傾き始めた昼の光に合わせて長く伸びていた。
時折その光がカーテンの隙間から差し込み、まだ青白さの残るラインマーの横顔を静かに照らしていく。
「彼女はいつだって、人よりもずっと先を見ている」
口元がわずかに緩んだ。
「……そして不思議なことに、彼女の嫌な予感はほとんど外れたことがない」
その言葉は軽く聞こえた。
まるで何気ない独り言のように。
だが不思議なことに、その声色にはどこか特別な響きがあった。
そのせいか、馬車の中の空気もわずかに静まり返る。
まるでその一言には、表面上の意味以上の何かが込められているかのようだった。
「……このエリクサーがなければ」
ラインマーは一度目を閉じる。
ゆっくりと息を吐き、それから再び口を開いた。
「私はもっと長い間眠っていたかもしれない」
ケイルは思わず瞬きをした。
「え?」
隣にいたカエラも小さく首を傾げる。
虎の耳がぴくりと動いた。
「……先を見ていた、ということですか?」
ラインマーはゆっくりと目を開く。
そして一瞬だけ――
再び薄い笑みが口元に浮かんだ。
今度のそれは先ほどよりもずっと穏やかだった。
冷たい雰囲気を纏う彼にしては珍しく、その黒い瞳にはわずかな温かみさえ宿っている。
「お前たちには分からなくて当然だ」
「え? なんで?」
ケイルはすぐに眉をひそめた。
だがラインマーは軽く手を上げるだけで、それ以上は説明せず、再び頭を馬車の壁へ預ける。
「……昔からそうだったからだ」
「まだ起きてもいないことまで考えてしまうほど、あれこれ思い巡らせる女だった」
そして静かに続けた。
「……それがお前の母親だ、ケイル」
その声音はあまりにも自然だった。
迷いもない。
疑いもない。
当然の事実を語るような口調だった。
だからこそ――
その説明は何一つ説明になっていないはずなのに、馬車の中の空気はかえって謎めいたものになっていく。
ケイルはまだ困惑したままだった。
ラインマーとカエラを何度も見比べる。
二人の表情から何か手掛かりを探そうとするように。
だがラインマーの隣に座るカエラは、しばらく黙り込んだ後、小さく視線を落とした。
睫毛がかすかに揺れる。
まるで何かを理解しているのに、それを口にするつもりはないかのようだった。
再び薄い沈黙が馬車を包む。
聞こえるのは山道を進む車輪の低い響き。
馬の蹄の音。
そして外から吹き込む風の音だけだった。
しかし数秒後――
不意に御者の声が前方から聞こえてくる。
「……見えてきましたぞ!?」
山風に乗った声は少し高く響いた。
「ラインマー様! アストラヴェルが見え始めました!」
それまで背もたれに身体を預けていたケイルが、ぱっと顔を上げる。
外では、これまで比較的なだらかだった山道が少しずつ下り始めていた。
馬車の揺れも変わる。
車輪が大きな石畳の下り坂を斜めに進み、岩壁の間に長い摩擦音が反響していた。
風も変わり始めている。
先ほどほど冷たくない。
代わりに別の気配が混じっていた。
より湿り気を帯びた空気。
より広がりのある風。
そして水や見知らぬ金属を思わせる微かな匂い。
崖沿いに並ぶ高い木々も一本、また一本と途切れていく。
前方の空は徐々に広がり始めた。
そして――
山々の切れ目の向こう。
遥か彼方の地平線上に、何かの輪郭が見え始める。
とてつもなく遠い。
まだ霞んでいる。
それでも、その巨大さだけははっきりと分かった。
自然と視線を奪われるほどに。
ケイルは反射的に窓際へ身を寄せる。
「本当に!?」
声が弾んだ。
先ほどまでとは比べ物にならないほど生き生きとしている。
前方の御者は、その反応に小さく笑う。
「ええ、若様」
「北側の山道から入る場合は、だいたい最後の下り坂に差しかかる頃に見えてくるのです」
ケイルはすぐさまカエラとラインマーの方を振り向いた。
そして、その表情の変化は誰の目にも明らかだった。
長旅で少し気怠そうだった海のような青い瞳は、今や期待に輝いている。
先ほどまでだらりと背もたれに寄り掛かっていた身体も、いつの間にか前のめりになっていた。
まるで初めて何かを見る子供のように。
カエラはすぐにそれに気付く。
視線を数秒ほどケイルの顔に留めた後、面白そうに口元を緩めた。
小さな笑みが浮かぶ。
「先ほどまで若様は、とても退屈そうにしていらっしゃいましたのに」
くすりと笑う。
尻尾も馬車の脇でゆったりと揺れた。
「アストラヴェルはそれほど面白い場所ではないかもしれない、と仰っていたのはどなたでしたか?」
ケイルはぴたりと固まった。
「……あー、そのことか……」
数秒ほど言葉に詰まる。
反射的に後頭部を掻きながら、からかうようなカエラの視線から目を逸らした。
「そ、それは実際に街を見る前の話だって……」
気まずそうな笑いが思わず漏れる。
だが、その反応を見たことでカエラの笑みはますます深くなった。
「ふふっ」
口元を軽く隠しながら小さく笑う。
虎の耳は楽しげに揺れ、黒いメイド服のスカート脇では尻尾もゆったりと左右に揺れていた。
先ほどまでとは比べものにならないほど気持ちが軽くなっていることが、その仕草からも伝わってくる。
ケイルがああして素直に興味を示している姿を見るのは、なぜだか心地よかった。
そして、まだ疲労の色を残しているラインマーでさえ、そのやり取りを穏やかな眼差しで見守っていた。
「……もう少しすれば、はっきり見えるはずだ」
低い声が響く。
まだ少しかすれてはいたが、先ほどよりもずっと安定していた。
視線を馬車の外へ向ける。
「我々は北の山脈から下っている」
「この道はちょうどアストラヴェルの外縁部を正面から見下ろせる位置に繋がっているんだ」
ケイルは瞬きをする。
そしてゆっくりと隣の窓へ顔を向けた。
胸の奥で芽生え始めていた好奇心が、一気に膨らんでいく。
もう待ちきれなかった。
ケイルはすぐに窓際へ身を寄せ、そのまま少しだけ顔を外へ突き出す。
次の瞬間――
ぶわっ――
山から吹き下ろす風が真正面から顔にぶつかった。
黒髪が一瞬でかき乱される。
冷たい空気。
森の匂い。
岩肌の匂い。
そしてかすかに混じる潮の香り。
それらが一度に押し寄せ、周囲では風に巻き上げられた木の葉が下り坂の道を舞い踊っていた。
何枚かの葉が目の前を横切り、そのまま谷底へと吸い込まれていく。
馬車はゆっくりと下り続ける。
崖沿いの大きな石道を進む車輪の音が、先ほどより長く響いていた。
山道を覆っていた高木も少しずつ数を減らしていく。
前方の視界が徐々に開けていった。
そして――
ケイルの目に光が映る。
淡く。
青く。
昼間だというのに、まるで遠い星の瞬きのような光だった。
最初はほんのわずか。
だが馬車が高度を下げるにつれ、その輝きは少しずつ輪郭を持ち始める。
同時に、遠方から様々な音も風に乗って届いてきた。
かすかな金属音。
低く唸るエネルギーの響き。
海鳥たちの鳴き声。
そして――
まだ山脈によって隔てられているにもかかわらず伝わってくる、巨大な都市の営みの残響。
ケイルは知らず息を呑んだ。
視線は前方の地平線へ釘付けになる。
やがて昼の薄い霞がゆっくりと晴れていく。
そして視界の果てで――
ついに、それが姿を現した。
「……うわぁ……」
自然と声が漏れる。
瞳が大きく見開かれた。
口もわずかに開く。
なぜなら、その先に広がっていたのは――
青い光の海と海岸線を覆う薄霧の向こう側。
地平線そのものを埋め尽くすほど巨大な都市だったからだ。
アストラヴェル。
その都市は大地と海の狭間にそびえ立ち、まるで人の手によって築かれたとは思えない威容を誇っていた。
純白の塔群が青空を貫くように立ち並ぶ。
その表面は巨大な結晶のように陽光を反射し、建造物同士を繋ぐ空中構造の間には青白いエネルギーの流れが生きた光の河のように走っていた。
都市中央にそびえる主塔の周囲では、巨大な発光機構リングがゆっくりと回転している。
その規模はあまりにも大きく、この距離からでもはっきりと確認できた。
そこから伸びる透明な光の流れは、まるで天空を走る巨大な血管のように各地区へと広がっている。
その下では無数のヴェラリスクラフトが空中航路を行き交っていた。
高層建築の間を滑るように飛びながら、淡い青色の光跡を空へ残していく。
遥か港湾地区の方角からは、低い警笛の響きが海風に乗って微かに届いた。
そして何より――
アストラヴェルの空そのものが違って見えた。
都市全域を包む空気には細かな光粒子が漂っているようで、その地平線全体が夢の中の景色のような柔らかな輝きを帯びている。
まだ距離は遠い。
ここから見れば都市全体は小さくも見える。
だが、それこそが異様だった。
なぜなら――
空を航行する巨大な飛空船でさえ、アストラヴェルを構成する超巨大構造物の間では、小さな点のようにしか見えなかったのだから。
その遥か下では、広大な海が都市の一部を抱くように広がっていた。
青く澄んだ水面は昼の日差しを受けて輝き、まるで果てしないガラスの大地のように煌めいている。
巨大な橋梁が海上を横断し、外縁区画と都市の中枢を繋いでいた。
その中心都市は二層構造となっており、まるで天上の王国と地上の王国を重ね合わせたかのような壮観さを誇っている。
さらに別の区域では、上層区画から人工の大瀑布が流れ落ちていた。
水流は下層都市の巨大な運河へと注ぎ込み、その際に生じる薄い水煙さえ、この距離から確認できる。
東洋風の建築群。
青白いスチームパンク様式の塔。
巨大なドーム構造。
地区同士を結ぶ発光エネルギーレール。
それら全てが一つの景色の中に溶け込み、現実とは思えないほど壮麗な光景を作り上げていた。
そして、その全ての中心で――
アストラヴェル中央塔は他のあらゆる建造物を圧倒する高さでそびえ立っている。
塔の核から放たれた鮮やかな青い光は天空へ向かって立ち昇り、まるで都市全体を支える巨大な光の柱のようだった。
遠目にも、その光は生きているように見える。
ゆっくりと脈打ち。
揺らぎ続けている。
まるでアストラヴェルの中心部で、巨大な心臓が鼓動しているかのように。
ケイルはただ見つめていた。
数秒間。
まったく動かずに。
呼吸さえ忘れてしまったかのようだった。
山風が黒髪を揺らし続ける。
馬車の車輪の音も背後で響いている。
だが今のケイルには、その全てが遠く感じられた。
この世界へ来てから初めて――
彼は本当に異なる文明の前に立っているのだと実感した。
ゲームの画面ではない。
イラストでもない。
ありふれた幻想譚の中の景色でもない。
その全てが今、
目の前に存在している。
現実として。
息づくものとして。
そして、一目見ただけでは理解しきれないほど巨大なものとして。
やがて――
その表情が少しずつ変わり始める。
瞳に浮かんでいた驚愕は、より鮮やかな感情へと姿を変えていった。
胸を満たしていくのは純粋な感動。
そして抑えきれない高揚感だった。
青い瞳は今や完全に輝いている。
口元も自然と緩み始めた。
そして気付けば――
ずっと堪えていた小さな笑みが、その顔に浮かんでいた。
(……これ……)
風にさらわれそうなほど小さな声。
視線はなおも前方へ釘付けのまま。
小さく息を吐く。
しばらく言葉が出てこなかった。
そしてようやく漏れたのは――
(……すげぇ……)
(本物のファンタジー世界って……こんなに凄いのか……)
その感嘆は飾り気のないものだった。
無理に捻り出した言葉ではない。
ただ純粋に、言葉では表せないほど美しいものを初めて目にした人間の素直な反応だった。
馬車の中では、カエラがそんな彼を静かに見つめていた。
琥珀色の瞳は、今までになく生き生きとした表情を浮かべるケイルの横顔に留まっている。
そしてゆっくりと、口元に柔らかな笑みが浮かんだ。
虎の耳が小さく動く。
気付けば尻尾の先もゆったりと揺れていた。
まるで本人すら気付いていないかのように。
ケイルのそんな表情を見ることが、なぜだか嬉しかった。
一方で、ずっと座席にもたれたままだったラインマーも静かにその様子を眺めていた。
見ているのはアストラヴェルではない。
ケイルだった。
まるでこうした反応を見せることを、最初から分かっていたかのように。
そして黒い馬車は北方山脈の下り道を進み続ける。
やがて視点はゆっくりと離れていく。
さらに遠くへ。
さらに高くへ。
長く続く山道の中で、緑深い森と巨大な断崖に囲まれた小さな馬車が徐々に小さくなっていく。
そして視界は青空を越えて上昇し――
アストラヴェル全体を見下ろす位置へと至った。
広大な海のほとりに築かれた巨大都市。
それはまるで、魔法と技術が融合して生み出した文明そのものだった。
都市の中心で脈打つ巨大なエネルギーを心臓として。
アストラヴェルは今もなお、生きているかのように輝き続けていた。




