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第三十八話

記憶はゆっくりと薄れていった。


マリアーネの優しい声も――館の部屋を満たしていた夕暮れの黄金色の光も――そして彼女の首元でかすかに赤く輝いていたペンダントの光も。


旅の揺れが再び意識を引き戻すにつれ、それらは少しずつ思考の片隅へと沈んでいく。


気がつけばカエラの意識は、再び馬車の中へ戻っていた。


下では鉄の車輪が規則正しく軋みを響かせ、ときおり山道の凹凸を越えるたびに小さな振動が伝わってくる。


高く昇り始めた朝の日差しが馬車脇の細い窓から差し込み、外気に揺れるカーテンの隙間から、細長い光の筋を木の床へと落としていた。


カエラは視線を手元へ落とす。


そこには淡い青色のクリスタルボトルがあった。


中の液体は柔らかな昼の光を受け、かすかな冷たい輝きを返している。


その淡青色は普通の液体と呼ぶにはあまりにも澄み切っており、透明なガラスの奥では、底に宿る薄い光が静かに揺らめいていた。まるでまだ完全には鎮まっていない何かを抱えているかのように。


「……こういう時のため、だったんですね」


その呟きは自然と唇からこぼれ落ちた。


静かに。


自分でも口にしたことに気づいていないほど小さく。


向かい側では、先ほどから様子を見ていたケイル・ラインマーがわずかに眉を上げる。


「お母様が、それを君に預けたのか?」


疑うような口調ではなかった。


むしろ頭の中で散らばった欠片を繋ぎ合わせようとしているものの、まだ答えに辿り着けていない――そんな声音だった。


考えれば考えるほど、出来すぎている気がする。


以前ラインマー様が持っていた赤いエリクサー。


そして今、カエラの手にあるこのボトル。


まるでマリアーネが、この旅が始まる前から何かを予期していたかのようだった。


カエラは小さく頷く。


視線はなおもボトルから離れない。


「マリアーネ様から、旅の間ずっと持っているようにと言われていました」


指先が冷たいガラスの表面をなぞり、途中でボトルの中央あたりで止まる。


「そして、もしラインマー様に何かあった場合は……」


言葉は最後になるほど小さくなった。


膝の上で眠り続けるラインマー様へと目を落とす。


車輪の音が絶えず響く中、その呼吸は静かで重かった。


カエラはさらに声を落として続ける。


「……これを飲ませるように、と」


ケイルは数秒ほど黙り込んだ。


ラインマー様の寝顔から視線を移し、再びボトルへ向ける。


そして胸の奥で燻り続けていた疑問が、再び顔を出した。


「見せてもらってもいいか?」


カエラは何も言わず、そのまま手を差し出した。


迷いは一切ない。


ボトルはあっさりと持ち主を変える。


ケイルはそれを受け取り――その指先が淡青色のガラスに触れた瞬間、


「……冷たっ」


思わず眉が寄った。


ただの氷のような冷たさではない。


もっと奇妙な感覚だった。


液体の中にある何かがゆっくりと指先に反応し、そのまま神経の先へと薄く染み込んでくるような感覚。


刺すような冷たさではない。


だが、あまりにも繊細すぎるせいで、逆に不快感が残る。


腕の皮膚がじわりと粟立った。


ケイルはボトルを顔の前でゆっくりと回す。


中の淡い青色の輝きは、とても普通の薬には見えない。


泡もない。


沈殿物もない。


ただ底に漂う薄い霧のような光だけが、静かに揺れていた。


そしてなぜか――


あの時と同じ感覚が、再び頭の中に浮かび上がる。


以前、ラインマー様の赤いエリクサーを見た時と同じだ。


鼓動が少しだけ速くなった。


(気になるな……)


(……今回も出るのか?)


視線をゆっくりとクリスタルボトルへ集中させる。


より深く。


より鋭く。


馬車の車輪の音が徐々に遠ざかっていく。


身体を伝う細かな揺れさえも消え始め、意識そのものが別の何かへ引き込まれていくようだった。


そして数秒後――


本当に、それは現れた。


物理的な文字ではない。


ボトルの上に薄く浮かぶ半透明の層。


淡い青白い光が集まり、異質な文字列を形作っている。


それを見られるのは、彼だけだった。


【Cold Abyss Regulation Elixir】


【効果:使用者の体内における異常な冷気エネルギーの流れを安定化させる。過度な力の使用による精神的負荷を軽減し、不安定なレゾナンス後の意識回復を補助する。】


【警告:短期間での連続使用は推奨されない。過剰使用はレゾナンス障害を悪化させる可能性がある。】


ケイルの目がわずかに見開かれた。


(……また出た)


あの奇妙な能力が、本当に再び発動した。


しかも前回よりはるかに鮮明に。


消えてしまう前に覚えようとするかのように、透明な文字列を一つひとつ素早く追っていく。


「コールドアビス・レギュレーション・エリクサー……か」


無意識のうちに声が漏れた。


向かいでは、その言葉を聞いたカエラがわずかに顔を上げる。


だがケイルは気づかない。


視線はなおも、目の前に浮かぶ透明な文字へ釘付けになっていた。


「異常な冷気エネルギーの流れを安定化……過度な力の使用による精神的負荷を軽減……」


眉をひそめながら、その一文を小さく繰り返した。


だが、その説明を最後まで理解する前に――


「……若様?」


不意にカエラの声が割って入った。


ケイルは反射的に顔を上げる。


そして、その瞬間。


先ほどまで落ち着いていたカエラの表情が初めて大きく変わっていることに気づいた。


琥珀色の瞳がわずかに見開かれている。


穏やかだった身体には微かな緊張が走り、ラインマー様の髪を撫でていた指先もいつの間にか止まっていた。


戸惑いを隠しきれない視線が、まっすぐケイルへ向けられている。


「……今、何とおっしゃいましたか?」


ケイルは小さく瞬きをした。


「え?」


カエラは数秒ほど彼を見つめたあと、今度はさらに静かな声でその名前を繰り返す。


「Cold Abyss Regulation Elixir」


一語一語を慎重に確認するような口調だった。


まるで、自分の聞き間違いであってほしいと確かめているかのように。


やがて細い眉がわずかに寄る。


「それが、このボトルの名前なのですか?」


その声には純粋な困惑が滲んでいた。


「マリアーネ様は、その名前について何もお話しされませんでした」


琥珀色の瞳は微動だにせずケイルを見つめ続ける。


「それなのに……なぜ若様がご存じなのですか?」


そして、その問いが口にされた瞬間――


ケイルの表情が固まった。


「……えっ!?」


数秒遅れて、ようやく脳が状況に追いつく。


待て。


カエラはこのボトルの名前を知らない?


ということは、さっき自分は――


このエリクサーの正式名称を、そのまま口にしてしまったことになる。


しかも他人の前で。


「……あ」


背筋がぴくりと強張った。


指先は反射的にクリスタルボトルを握り直し、視線が手元の淡青色の液体とカエラの顔を忙しなく往復する。


いや。


てっきり知ってるものだと……


馬車の外では車輪が再び石畳の凹凸を踏み越え、がたんと車体が揺れた。


衝撃に合わせて身体が軽く揺れ、窓際のカーテンがふわりと持ち上がってから静かに落ちる。


しかし馬車の中の空気は、むしろ先ほどより狭く感じられた。


「……若様、どうして分かったのですか?」


問いはまだ宙に残っている。


ケイルは少し不自然なほど素早く視線を逸らした。


「……えっと」


まずい。


その直感が頭に浮かぶ。


しかも不思議なことに、カエラがいつも通り穏やかな口調で話しているせいで、余計に逃げ場がなく感じられた。


向かいでは彼女が瞬きもせずこちらを見ている。


先ほどまで戸惑いに満ちていた琥珀色の瞳は、今では別の色を帯び始めていた。


より鋭く。


より真剣に。


ラインマー様の髪を撫でていた手が完全に止まっていることにも気づく。


その意識が今や完全に自分へ向いているのだと、嫌でも理解できた。


「……若様」


声音は相変わらず柔らかい。


落ち着いている。


だがその静けさこそが、逃げ道をゆっくり塞いでいく圧力のように感じられた。


「先ほど、何をご覧になったのですか?」


ケイルの身体が反射的に強張る。


「え? な、何も見てないけど」


返答が早すぎた。


そして二人とも、それに気づいてしまう。


カエラの目がわずかに細められた。


「……若様は嘘をついています」


「えっ?」


「先ほど何かを読んでいました」


カエラは静かに言いながら、彼の表情の微細な変化を見逃さないよう観察している。


「エリクサーの名前も。そして効果も」


小さく首を傾げた。


「違いますか?」


ケイルは再び固まった。


(……しまった)


(声に出さなきゃよかった)


頬の内側を軽く噛みながら、視線を馬車の左側へ逃がす。


窓際の布のカーテンが外から吹き込む風に揺れ、山道のカーブを曲がるたびに差し込む陽光が時折その顔を照らした。


だがカエラは追及をやめない。


それどころか、その表情は次第に真剣さを増していく。


「……そういう能力の話は聞いたことがあります」


車輪の音が低く響く中、カエラは静かに続けた。


道の揺れでラインマー様の身体がわずかに動くと、彼女は自然な仕草で支え直し、それから再び顔を上げる。


「アストラヴェルには、多くのものを識別するための解析システムがあります」


視線がケイルの手にある青いボトルへ落ちた。


「アーティファクト。魔物。レアリティ等級。そしてエネルギー構造――」


小さな間が空く。


「……人の身体の状態さえも」


ケイルはゆっくりと顔を向け直した。


そして説明を聞けば聞くほど、自分が先ほど行ったことが、想像していたより遥かに普通ではないことを実感していく。


「ですが、そのような能力は通常、限られた場所でしか使用できません」


カエラは再び顔を上げた。


「ルーメン・ハイム魔法学院」


「あるいは、まだレプリカ・ツリーと直接接続されているアストラヴェル中央区域です」


ケイルは小さく瞬く。


「……レプリカ・ツリー?」


聞き覚えのない名前だった。


だが、その言葉を耳にした瞬間。


頭の奥を何かがかすめた。


微かに。


曖昧に。


思い出せそうで思い出せない何かが、指先から零れ落ちるように消えていく。


カエラはそのまま説明を続けた。


「人類のシステムが構築された知識の樹です」


ケイルを見つめながら静かに語る。


「中央都市の人々は、そのシステムをほとんどあらゆる場面で利用しています」


「軍はレプリカ・ツリーのネットワークを通じて混沌の波動を監視し」


「冒険者ギルドは魔物やダンジョンの情報を読み取るために活用しています」


琥珀色の瞳が一度だけ伏せられた。


それは中央都市の住人にとって、あまりにも当たり前になった光景を思い出しているようにも見えた。


「ルーメン・ハイム学院のシステムも、あの樹と直接接続されています」


「人々はそこでクラスやスキルを学び……レプリカ・ツリーのシステムが、ランクやレベル、さらには種族特性までも解析するのです」


ケイルは静かに聞き続ける。


そして聞けば聞くほど、自分の行為が異質なものに思えてきた。


「輸送会社も、転移中継所も、都市間の情報流通も……」


カエラは少し言葉を区切った。


「中央都市の生活のほとんどは、レプリカ・ツリーのネットワークに支えられています」


馬車が小さく揺れる。


鉄の車輪が再び山道の石を踏み越えたのだ。


だがカエラの声は変わらず落ち着いていた。


「なぜなら、それがなければ……」


琥珀色の瞳がわずかに窓の外へ向く。


「……人類は混沌の波から生き延びることができないからです」


そして再び視線がケイルへ戻った。


「ですから……先ほど若様がお使いになった能力は、本来ならシステムの有効範囲内でしか行えません」


声音は終始穏やかだ。


だが穏やかだからこそ、カエラが本気で彼を理解しようとしていることが伝わってくる。


それがかえって首筋を落ち着かなくさせた。


「そして、アストラヴェルであっても……」


カエラはまっすぐ彼を見つめる。


外光がその静かな琥珀色の瞳に淡く映り込んだ。


「……誰もが使えるわけではありません」


ケイルは思わず背筋を伸ばした。


「……冗談じゃないよな?」


カエラは小さく首を横に振る。


「大半の人は基本情報しか読むことができません」


「そもそも解析そのものを発動できない方も大勢います」


そう言いながらも、彼女の視線は変わらず穏やかにケイルへ向けられていた。


一方で手は自然に動き、旅の揺れで少し乱れたラインマー様の襟元を整えている。


「それほど簡単な能力ではないのです」


布が擦れる微かな音が響く。


馬車の中には再び車輪の音と、外を進む馬の足音だけが流れていた。


やがて窓の隙間から風が入り込み、カエラの金茶色の髪を数本だけ頬元で揺らす。


そして、その静かな空気の中で――


カエラが不意に問いかけた。


「……では、なぜ若様にできるのですか?」


ケイルは思わず息を詰まらせる。


「うぐっ――」


身体が反射的に強張った。


視線が落ち着きなく彷徨う。


右。


左。


ボトル。


窓。


外の空。


まだ意識を失ったままのお父様。


とにかく目を合わせなくて済むもの全部。


「正直……僕自身も、どうしてそうなったのか分からないんだ」


その返答はどこか頼りなかった。


言葉にした今になって、自分でも状況の異常さを実感したような声音だった。


カエラは黙って見つめ続ける。


急かさない。


遮らない。


だが、それが逆に落ち着かない。


なぜだろう。


露骨に叱られるよりも、ずっと圧力を感じる。


「若様」


「……はい?」


「若様はまだ七歳です」


「……うん」


「それにもかかわらず、中央システムの有効範囲外で解析を使用できた」


「……たぶん」


「若様は、高位エリクサーの詳細な情報まで即座に理解していました」


「……あー、それは」


ケイルは本格的に冷や汗をかき始めていた。


耳の先がじわじわと熱くなっていくのが分かる。


そして――


カエラは首をわずかに傾けたまま、まっすぐ彼の目を見つめる。


その琥珀色の瞳はあまりにも穏やかで、だからこそ妙に危険だった。


「……若様は、本当は何者なのですか?」


「……は?」


ケイルはぽかんと瞬きをした。


一瞬、本気で意味が分からなかった。


だが、カエラの視線が変わらず自分へ向けられているのを見て――ようやく脳が追いつく。


そして次の瞬間。


「えっ、ちょっ――」


手の中のクリスタルボトルがぐらりと傾いた。


慌てて掴み直し、落としかけたそれをどうにか支える。


身体も反射的に強張った。


「そ、そういう意味じゃないよな!?」


声が半ば悲鳴のように上ずる。


「僕は僕だぞ!?」


なぜか座り直しまでしてしまう。


そんなことをしても状況が正常に見えるはずもないのに。


だがカエラはすぐには答えなかった。


静かな視線だけが彼へ向けられている。


そして、その落ち着きが逆にケイルを慌てさせた。


「ま、待ってくれ……」


小さく唾を飲み込む。


「急にそんなこと言わないでくれよ……」


頭の中が騒がしくなる。


(もしかして、目立ちすぎたか?)


(七歳でこんなことできるのって普通じゃないのか?)


(いや、そもそも普通って何だ?)


(やっぱり名前を読んだ時点で黙っておくべきだった……)


視線を逸らしながら、そっと頬の内側を噛む。


その様子をカエラはしばらく無言で見つめていた。


そして――


ようやく唇の端が少しだけ上がる。


張り詰めていた表情がゆっくりと和らいでいった。


「……若様は、本当に慌てやすいですね」


ケイルは顔を上げた。


「え?」


もう先ほどのような尋問の空気ではない。


カエラは小さく息を吐き、膝の上のラインマー様の乱れた髪を整える。


「確かに驚きました」


「ですが、悪いことではありません」


その声はいつものものだった。


穏やかで。


落ち着いていて。


どこか安心させる響きを持っている。


「むしろ、そのような能力は若様に合っている気がします」


「物事の法則を理解するのが早いですし」


「同年代の子供とは思えないほど観察力がありますから」


馬車が緩やかに揺れる。


下り坂へ差しかかったらしく、外から差し込む陽光が一瞬だけカエラの顔を照らし、木々の影と共に流れていった。


少女の口元が再びわずかに緩む。


「よく考えてみれば……若様が解析を使えても、それほど不思議ではありませんね」


ケイルは数秒黙り込んだ。


肩に力を入れていた緊張が少しずつ抜けていく。


「……あはは」


乾いた笑いが漏れた。


後ろ首を掻きながら、気恥ずかしさでカエラから視線を逸らす。


「そう言われると、そんな気もするな……」


視線を再び手元の青いボトルへ落とした。


液体の淡い輝きが瞳に映る。


「単に僕の性格と相性が良かっただけかもしれないし」


「そういう才能だったのかも」


もう一度、小さく笑う。


今度の声は先ほどよりずっと自然だった。


するとカエラも迷いなく頷く。


「ええ」


琥珀色の瞳はすっかり柔らかさを取り戻していた。


「その方がずっと納得できます」


ケイルは照れ隠しのように頬を掻きながら苦笑する。


先ほどまでの張り詰めた空気は少しずつ溶けていき、代わりに長い旅路の穏やかなリズムが再び馬車の中を満たしていた。


その向かいで、カエラはしばらく彼を見ていたが、やがて静かに視線をラインマー様へ戻す。


指先がそっと額へ触れた。


その顔に浮かんでいた薄い笑みが少しずつ消えていく。


そして不意に――


意識を失ったままのラインマー様を見下ろす琥珀色の瞳に、微かな不安の影が差した。


消えたわけではない。


ただ、表へ出さないようにしているだけだ。


やがてそれも再び穏やかな表情の奥へと沈んでいく。


呼吸は安定している。


だが目を覚ます気配はまだなかった。


カエラは長い間、その顔を見つめ続ける。


静かに。


熱がぶり返していないことを、自分自身で確かめるように。


そして小さく手を動かした。


その指先が、まだケイルの手の中にある青いクリスタルボトルへ触れる。


「……若様。ボトルを」


ケイルはそこで我に返った。


「あ、うん。ごめん」


それ以上は何も言わず、素直にボトルを差し出す。


受け渡しの途中――


二人の指先が、ほんの一瞬だけ触れ合った。


クリスタルガラスに触れた瞬間、あの冷気が再び指先へ伝わってきた。


皮膚の奥へじわりと染み込むような冷たさに、ケイルは反射的に指をわずかに動かす。


「……やっぱり冷たいな」


カエラは両手で静かにボトルを受け取った。


視線は変わらずラインマー様へ向けられている。


ほんの一瞬たりとも、意識をそこから離したくないかのように。


空気は静かだった。


だが、その静けさの下には微かな緊張が薄く漂っている。


「……もし本当に、これがラインマー様のお力になれるのなら」


カエラの声はとても小さい。


無意識に零れ落ちた祈りのようだった。


「……どうか、効いてください」


向かいに座るケイルは黙ってその言葉を聞いていた。


そしてなぜだろう。


そんな彼女を見るのは少しだけ新鮮だった。


カエラはいつも落ち着いている。


常に自分を律していて、感情に流されることなどないように見える。


だが今の静けさは、いつもと少し違った。


ほんの僅かに。


ほとんど分からないほど小さく。


けれど確かに脆さを含んでいる。


それだけで分かった。


彼女は本当に心配しているのだ。


膝の上で眠り続けるこの男を。


メイドとしての義務だからではない。


仕事だからでもない。


その眼差しには、もっと純粋な何かが宿っていた。


やがてカエラはクリスタルボトルの栓を外す。


カチリ。


静まり返った馬車の中で、その小さな音だけがはっきりと響いた。


そして栓が開いた瞬間――


冷気がふわりと周囲へ広がる。


ケイルは思わず目を細めた。


ボトルの口元には薄い白い靄が生まれ、それがゆっくりと空気へ溶けていく。


「……本当に冷えすぎだろ、これ」


思わず腕をさすりながら呟く。


だがカエラは答えなかった。


意識は完全にラインマー様へ向いている。


片手をそっと後頭部へ回し、首筋を支えながら身体をわずかに起こした。


液体を飲ませやすくするためだ。


その仕草は驚くほど丁寧だった。


まるで乱暴に触れれば眠りを壊してしまうとでも思っているかのように。


少し持ち上げられたことで、ラインマー様の黒髪がカエラの黒いメイドスカートの上を静かに滑る。


揺れる馬車に合わせ、毛先がかすかに布を撫でた。


そして――


カエラはゆっくりとボトルを唇へ近づける。


中の淡青色の液体が傾きに合わせて揺れ、冷たい光を二人の顔へ映し出した。


「……ラインマー様」


囁くような優しい声。


すぐ傍で語りかけるように。


「少しだけ、お飲みください」


クリスタルボトルが静かに唇へ触れる。


淡い青色の液体が少しずつ流れ込んでいった。


そして――


数秒後。


ケイルは真っ先に異変に気づいた。


「……え?」


眉がわずかに上がる。


先ほどまで安定していたラインマー様の呼吸が、ほんの少し変化した。


唇の隙間から細い冷気が漏れ出している。


ごく僅かだ。


だが確かに見えた。


白い吐息のような霧がボトルの口元に一瞬だけ生まれ、そのまま馬車の空気へ消えていく。


カエラの身体がぴくりと強張った。


視線が素早くラインマー様の顔へ落ちる。


「……ラインマー様?」


ケイルも反射的に身を乗り出した。


そして次の瞬間――


ラインマー様の指先が、かすかに動く。


本当にわずかだった。


だが、それだけで十分だった。


馬車の中は一瞬にして張り詰めた沈黙に包まれる。

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