第三十七話
隊商の車輪は、乾ききった不揃いな山道の上を再びゆっくりと進み始めた。
ギシ……ギシ……
古びた木材と鉄の車輪が道端の小石を擦る音が絶えず響き、そのたびに馬車の車体はわずかに揺れながら左右へ傾く。
薄い砂埃が車列の後ろに舞い上がり、先頭を引く二頭の馬は、北部山岳地帯の斜面を縫うように続く狭い岩道を変わらぬ足取りで駆けていた。
風は相変わらず崖の裂け目から吹き下ろし、衣服の隙間を抜けて肌を刺すような冷たさを運んでくる。
それでも、旅を止めるわけにはいかなかった。
隊商が再び動き出す前、老いた御者はラインマー様が倒れた後も拭い切れない緊張を顔に浮かべたまま、カエラを馬車の前方へ呼び寄せていた。
「カエラさん……」
老御者は手綱を握る力を強める。手の甲には細い血管が浮かび上がっていた。
「わしが把握しているのは、前に来た北部山岳地帯までの道だけです」
その視線は前方へ向けられる。
険しい斜面と薄い霧の間を縫うように続く、長い岩道へと。
「この先を越えたら……アストラヴェルまでの詳しい道案内をお願いしたい」
まだ落ち着かない様子のカエラは、自分の膝に頭を預けているラインマー様へ視線を落とした。
マントの裾を指先でそっと摘まみ、それから小さく頷く。
「……わかりました。前方にある二つの岩道を過ぎたら、右へ進んでください」
普段よりわずかに小さい声だったが、その口調は落ち着いていた。
「左の道は霧の谷へ続いています。あそこには凶暴なカストディアンの魔物がよく現れます」
それ以降、進路の判断はすべてカエラに委ねられることになった。
老御者はただ、ますます険しさを増していく山道の中で馬車を安定して走らせることだけに集中している。
そして今――
岩道の揺れに合わせて小刻みに震える馬車の中は、先ほどまでとは比べものにならないほど静かだった。
ラインマー様は、まだ目を覚まさない。
長椅子に横たえられたその身体は、カエラの膝を枕にしたまま動かず、彼女はずっと黙ってその顔を見守り続けていた。
時折、指先がゆっくりと動いて、衝撃で少し乱れた黒髪を整える。
そしてそのままこめかみの近くで止まり、呼吸が安定していることを確かめるように静かに触れていた。
馬車の反対側では、ケイルが瞬きもせずに父親を見つめている。
座席の上で膝を抱え込み、馬車の揺れに合わせて靴の先が落ち着きなく動いていた。
その表情には、不安がはっきりと浮かんでいる。
「……もう一時間だ」
小さな声が、ようやく沈黙を破った。
ケイルは少し俯き、眉間の皺をさらに深くする。
「本当に……なんか変だろ」
戸惑いを押し殺し続けていた感情が、その声に滲んでいた。
「さっき盗賊どもと戦ってた時は、父様は全然普通だったじゃないか」
再び視線がラインマー様へ向く。
「むしろ強すぎるくらいだったし」
頬の内側を軽く噛みながら、さらに声を落とした。
「戦った後で疲れて倒れたっていうならまだわかる。でも……これはそんな感じじゃない」
そしてカエラへ視線を向ける。
「何か知ってるのか?」
ずっと黙っていたカエラが、ようやく顔を少し上げた。
だが、その瞳に浮かんでいたのは珍しく迷いにも似た色だった。
「……いいえ」
短い返答に、ケイルは小さく瞬きをする。
カエラは再びラインマー様へ視線を落とし、数秒見つめた後で静かに続けた。
「私がラインマー様のお側に仕えるようになってから……こんな姿を見たことは一度もありません」
その言葉が終わると同時に、外から車輪の振動音が響き、長い沈黙を埋める。
ケイルはしばらく黙り込んだ。
「……本当に?」
反射的に背筋を伸ばし、肩まで持ち上がる。
「カエラでもわからないのか?」
カエラはゆっくりと首を横に振った。
表情はいつも通り落ち着いている。
それでも、意識を失ったままのラインマー様を見つめる瞳には、先ほどよりはっきりと不安の色が浮かんでいた。
「私にもわかりません」
ケイルはしばらく彼女の顔を見つめる。
別の答えを探すように。
だが、見つからない。
そこにあるのは長い沈黙と、馬車の外で鉄の車輪が石を打つ音だけだった。
「……そういえば、カエラってうちに来てどれくらいになるんだ?」
カエラは少しだけ考える。
「……十三年以上です」
その返答に、ケイルの眉が大きく跳ね上がった。
「えっ、それってかなり長いじゃん」
今度は本気で驚いている声だった。
「そこまで長いなら、何か知っててもおかしくないだろ?」
カエラはすぐには答えなかった。
馬車が再び小さく揺れ、金茶色の髪が肩を越えてさらりと流れる。
その指先は無意識のうちに、今もラインマー様の髪を整え続けていた。
そして沈黙は、先ほどよりも少し長く続く。
「……正直に言うと」
やがてカエラは静かに口を開いた。その声は車輪の軋む音に溶けてしまいそうなほど小さい。
「幼い頃からあの方たちに育てていただきましたが……ラインマー様とマリアーネ様について、私自身も知らないことはたくさんあります」
ケイルは再び彼女へ目を向けた。
そして旅が始まって以来初めて、カエラは自分自身について少しだけ語り始める。
「私は……もともと貴族の生まれではありません」
その視線は静かに下がり、かすかに揺れ続ける馬車の床へと落ちていった。
「昔は……私、家名すらありませんでした」
馬車の外では、馬の蹄の音が一定のリズムを刻み続けている。
その音に混じって、窓の隙間から入り込む冷たい風が時折静かに吹き抜けた。
カエラは小さく息を吸い、それから続きを口にする。
「行く当てもなくて……幼い頃には売られそうになったこともあります」
その声色は変わらず平坦だった。
強い感情もなければ、苦々しさもない。
だからこそ、その言葉はかえって重く胸に沈んでいく。
「その時の私は……たぶん三歳くらいでした」
琥珀色の瞳が静かに動き、自らの膝で眠るラインマー様へ向けられる。
指先は止まることなく黒髪を整え続けていた。
まるで、その小さな動作だけが心を落ち着かせてくれるかのように。
「それで、ラインマー様とマリアーネ様が私を助けてくださったんです」
ケイルは思わず目を見開いた。
「私を連れ出して……住む場所を与えてくださって、食事を与えてくださって……そして名前までくださいました」
カエラの声はどこまでも穏やかだった。
あまりにも長い時間、その過去と共に生きてきたからだろうか。
かつての痛みは、いつしか静かな記憶へと変わっていた。
「ただ、ラインマー様の育て方は少し……厳しかったです」
ケイルの口元がわずかに引きつる。
「軍隊式?」
カエラは小さく頷いた。
「戦い方も、規律も、状況判断も、武器の扱いも……すべてラインマー様から教わりました」
その視線は窓の外へ移る。
流れていく山の斜面をぼんやりと眺めながら。
「昔のラインマー様は、先ほど盗賊たちと戦っていた時のようなお姿を、今よりよく見せていました」
ケイルは黙って耳を傾ける。
そして話を聞けば聞くほど、頭の中に奇妙な感覚が広がっていった。
父親は元戦場の化け物。
母親は何もかもが謎に包まれている。
そして家で最初に仕えていたメイドは、人身売買から救われ、兵士のように育てられた少女だった。
(なんなんだよ、この家……)
そんな言葉が喉元まで出かかった。
カエラは静かに話を続ける。
「ラインマー様とマリアーネ様は、ご結婚された後に昔の生活を捨てました」
「その少し後に……エアリンとアステリアがやって来たんです」
ケイルは顔を上げた。
「双子の?」
カエラは再び頷く。
「あの子たちは、ある貴族によって連れて来られました」
その目がわずかに細まる。
あまり思い出したくない記憶を辿るように。
「遠回しでしたが……捨てられたんです」
その部分だけ、声が少し冷たくなった。
「そしてラインマー様が引き取られました」
再び沈黙が馬車の中へ降りる。
木製の車輪が軋む音と馬の足音だけが、狭い空間を絶え間なく満たしていた。
ケイルはゆっくりとラインマー様へ視線を向ける。
依然として意識は戻らない。
だが――
家族について知れば知るほど。
自分がこれまで生きてきた世界は、想像していたより遥かに大きな何かの上に成り立っていたのだと感じ始めていた。
視線がゆっくりと下がる。
身体の脇に投げ出されたラインマー様の手へ。
その手は大きく、指や手の甲には無数の薄い傷跡が残っていた。
剣を握り続けてきた者の手だ。
以前のケイルは、自分の新しい人生をただの平和な異世界生活だと思っていた。
少し裕福な家族がいて。
のどかな田舎で暮らす。
そんな程度のものだと。
だが今は違う。
家で働くメイドたちでさえ、普通ではない過去を抱えている。
ケイルは顔を軽くこすり、小さく息を吐いた。
「……まだこの世界で十年も生きてないのに、うちの家族ってもうラスボス集団みたいなんだけど」
思わず漏れた独り言だった。
「しかも一番ひどいのは……みんな普段は普通の顔して隠してるところだよな」
再び眠るラインマー様へ視線を向ける。
何事もなかったかのように穏やかな寝顔だった。
「……信じられない」
眉がわずかに寄る。
「父様は昔、一体どんな戦場で生きてたんだ?」
その問いは宙に浮いたまま残った。
誰も答えない。
外を吹き抜ける冷たい風と、鉄の車輪の振動だけが長い旅路に寄り添っている。
そしてケイルがなおも思考に沈んでいた、その時だった――
それまで静かだったカエラが、不意に小さく身じろぎした。
指先が止まる。
その視線が鋭くラインマー様の顔へ落ちた。
「……あ」
小さな声がこぼれる。
ケイルはすぐに顔を上げた。
「ん? どうした?」
カエラは何かを思い出したようだった。
瞳がわずかに見開かれる。
そして右手が素早くメイド服の後ろへ伸びた。
黒いスカートのひだの奥に隠された小さなポケットを開き――
ゆっくりと取り出したのは、一つの淡い青色をした小さな水晶瓶だった。
中の液体は、窓から差し込む陽光を受けるたびにかすかに輝く。
まるで氷の欠片を閉じ込めたかのような冷たい光が、硝子の内側で静かに揺れていた。
ケイルは思わず瞬きをする。
「……それ、何だ?」
だが、カエラはすぐには答えなかった。
その視線は、手の中にある小さな瓶へと向けられたまま数秒間止まっていた。
まるで今になってようやく、それが自分に託された理由を思い出したかのように。
指先がわずかに力を帯びる。
水晶瓶を握る手が静かに強くなった。
そして、その瞬間――
カエラの意識はゆっくりと数日前へ遡っていった。
アストラヴェルへの旅が始まる前。
ハウス・ラインマーの屋敷にある、とある静かな一室へ。
夕暮れの陽光が大きな窓から柔らかく差し込み、マリアーネの部屋を暖かな金色に染め上げていた。
広々とした室内は静寂に包まれている。
あまりにも静かで――
どこか息苦しささえ感じるほどに。
マリアーネは淡い金色の装飾が施された大きな鏡の前に腰掛け、椅子の背まで流れる絹のような長い髪をゆっくりと梳いていた。
鏡に映るその姿は、いつも通り美しい。
穏やかで。
優雅で。
非の打ち所がないほどに。
だが、その日の瞳だけは完全に静まってはいなかった。
そこには何かがあった。
不安と呼ぶにはあまりにも淡く、それでいて確かに空気を変えてしまう何かが。
コンコン。
小さなノックの音が扉の向こうから響く。
「入りなさい」
マリアーネの柔らかな声が静寂を破った。
扉がゆっくりと開く。
入室したカエラは整った足取りで進み、数歩後方で立ち止まった。
両手を身体の前で揃え、背筋はいつも通り真っ直ぐに伸びている。
「お呼びでしょうか、奥様」
マリアーネは鏡越しに小さく頷いた。
「ええ。少しこちらへ」
カエラは静かに歩み寄る。
だが近づけば近づくほど――
部屋の空気が普段とは少し違うことを感じ始めていた。
マリアーネはいつも穏やかだ。
優しく。
そして本心を読み取ることが難しい。
だが今日だけは違う。
その表情には、普段よりもずっと重たい何かが滲んでいた。
何かを考え続けているのに、それを誰にも見せまいとしているような。
長年身につけた平静の裏側へ押し込めているような。
「何かご命令でしょうか?」
カエラは慎重に尋ねる。
マリアーネは数秒黙り込んだ後、静かに口を開いた。
「……今回、あの人たちと一緒にアストラヴェルへ向かうのは、あなただったわね?」
カエラは小さく頷いた。
「はい。以前のラインマー様のご指示です」
再び沈黙が落ちる。
白い指先が化粧台の上をゆっくりとなぞった。
コツ。
コツ。
コツ。
爪先が木の表面を叩く小さな音が規則正しく響く。
その仕草は落ち着いている。
だが、あまりにも落ち着きすぎていた。
だからこそカエラは気付く。
目の前の女性が、今とても深く考え込んでいることに。
「……奥様?」
カエラはわずかに頭を下げた。
「何かございましたか?」
マリアーネは小さく微笑んだ。
しかし、その笑みはいつもよりずっと薄い。
そしてなぜだろう。
長年仕えてきた中で初めて、カエラは感じた。
この人は今、不安を隠そうとしているのではないかと。
自分自身にさえ見せたくない不安を。
「……少し、胸騒ぎがするの」
マリアーネの赤金色の瞳が化粧台へ落ちる。
夕陽の反射が磨かれた木の表面を静かに流れていた。
「本当なら、もう何も問題ないはずなのだけれど」
カエラは黙って耳を傾ける。
部屋は再び静かになった。
聞こえるのは、櫛が長い髪を梳く微かな音だけ。
「ラインマー様が、これほど遠くへ出るのは本当に久しぶりなのよ」
言葉の終わりとともに、その声は少しだけ小さくなる。
「どうしてかしら……最近ずっと嫌な予感が消えないの」
カエラはわずかに眉を寄せた。
マリアーネがこのようなことを口にするのは珍しい。
どんな状況でも冷静で、感情の揺らぎを見せることなどほとんどない人だ。
だからこそ今日の様子は異質だった。
何かがずっと、その心に重くのしかかっている。
マリアーネはゆっくりと顔を上げ、再び鏡を見る。
鏡の中の瞳は穏やかだった。
だが、その奥深くには説明のつかない疲労の色がかすかに滲んでいる。
「時にはね、埋もれたままでいた方がいいものもあるの」
その柔らかな声は、今や囁きに近かった。
「それなのに、あの人は……」
口元がわずかに緩む。
諦めと心配が入り混じったような、そんな微かな表情だった。
「……時々、どうしようもなく馬鹿なことをするのよ」
「あまりにも……穏やかすぎるの」
カエラは黙り込んだ。
その言葉の意味を完全に理解できたわけではない。
だが、マリアーネの声音を聞けばわかる。
これは単なる妻としての心配ではなかった。
その言葉の奥には、別の何かが隠されている。
言葉では説明できない何かが。
そして、説明できないからこそ。
部屋の空気はますます重たく感じられた。
やがてマリアーネは、化粧台の小さな引き出しをゆっくりと開いた。
その仕草はいつも通り優雅で落ち着いている。
しかし今回だけは、カエラも気付いた。
何かを取り出す直前、彼女の指先がほんの一瞬だけ止まったことに。
引き出しの影の奥から――
マリアーネは淡い青色をした小さな水晶瓶を取り出した。
中の液体は夜の氷を閉じ込めたような淡い光を放っている。
夕陽を受けるたび、その青い輝きは静かに揺れ、部屋の壁へ淡く反射した。
マリアーネはしばらく無言のまま、その瓶を見つめていた。
視線は中の青い液体へ落ちている。
まるで遥か遠い何かを思い返しているように。
そしてやがて、それをカエラへ差し出した。
「これを持って行きなさい」
カエラは反射的に両手で受け取る。
だが瓶が手に渡った瞬間――
その目がわずかに見開かれた。
冷たい。
ただの冷たさではない。
指先の奥まで刺さるような冷気が伝わってくる。
まるで青い液体の中で何かが静かに息づいているかのようだった。
「……奥様?」
カエラは瓶へ視線を落とす。
近くで見るその青白い輝きは、どこか不自然ですらあった。
「これは一体……?」
マリアーネは少しの間沈黙してから答えた。
「あなたの主人にしか使ってはならないものよ」
視線がゆっくりと瓶へ向けられる。
そして一瞬だけ。
その瞳には先ほどまでとは比べものにならないほど真剣な色が宿った。
「決して割らないで」
声音がわずかに低くなる。
穏やかなままだったが、そこには明確な重みがあった。
「もし瓶が壊れたら……あなたにとって、とても深刻な結果になるわ」
カエラは思わず背筋を伸ばした。
「……承知しました」
反射的に返事をする。
だが気付けば、水晶瓶を握る指先には自然と力が入っていた。
マリアーネは再び静かに口を開く。
「もし旅の途中でラインマー様に何かあったら……」
化粧台の下で、指先がそっとドレスの裾を握り締める。
ほんの小さな動きだった。
それでも、彼女が必死に隠していた不安を感じ取るには十分だった。
「……その液体を飲ませてあげて」
カエラは再び手元の瓶を見る。
そして初めて理解した。
マリアーネの胸騒ぎは、ただの漠然とした予感ではなかったのだと。
彼女は何かを警戒している。
もしかすると、この旅が始まる前からずっと。
恐れていた何かを。
「……ラインマー様は危険な目に遭われるのですか?」
その問いは静かに唇から零れ落ちた。
カエラがこうしてマリアーネへ直接問い質すことは滅多にない。
だが今日の空気は、あまりにも異様だった。
見過ごせないほどに。
マリアーネはすぐには答えなかった。
ただ鏡に映る自分自身を見つめる。
まるで、自分でも口にしたくない答えを探しているかのように。
やがて――
「そうならないことを願っているわ」
その返答は、カエラが想像していた以上に率直だった。
いつもの完璧な落ち着きはない。
誰かを安心させる柔らかな微笑みもない。
ただ願いだけがあった。
かすかで、頼りなくて。
それでも紛れもなく本物の願いが。
だからこそ、その言葉はカエラの胸に重く残った。
再び静寂が部屋を満たす。
夕陽はゆっくりと大理石の床を滑り、窓から吹き込む風が白いカーテンを静かに揺らしていた。
カエラは数秒間、水晶瓶を見つめる。
そしてやがて、それをしっかりと握り締めた。
「わかりました」
その声は静かだった。
だが確かな意志が込められている。
「必要になった時は、必ずラインマー様へお届けします」
その言葉を聞いた瞬間――
会話が始まってから初めて。
マリアーネの肩からわずかに力が抜けた。
本当に僅かな変化だった。
それでも、カエラは見逃さなかった。
「……ありがとう、カエラ」
カエラは再び顔を上げた。
「他にご命令はございますか、奥様?」
今度のマリアーネは小さく微笑んだ。
その笑みは先ほどまでよりもずっと柔らかく、温かいものだった。
「いいえ、もうないわ」
頬杖をつきながら、鏡越しにカエラを見つめる。
「後は……アストラヴェルへの旅を楽しんでいらっしゃい」
そして次の瞬間。
口元にいたずらっぽい笑みがわずかに浮かんだ。
「それと、ケイルのことをちゃんと見ていてあげてね」
カエラは小さく瞬きをする。
「せっかく向こうへ行ったのに、あの子が居心地の良さに負けて帰りたくなくなったら困るもの」
その口調は先ほどまでとは違い、ずっと軽やかだった。
まるで重苦しい空気を追い払おうとしているかのように。
そしてようやく、カエラの口元にもかすかな笑みが浮かぶ。
滅多に見せることのない、小さな微笑みだった。
「心に留めておきます」
そう答えると、もう一度丁寧に一礼する。
「それでは、失礼いたします」
「ええ」
カエラは静かに踵を返した。
やがて扉がゆっくりと閉まる。
カチリ。
小さな音が響き、部屋は再び静寂に包まれた。
マリアーネは大きな鏡の前に座ったまま動かない。
鏡に映る姿は、相変わらず美しく穏やかだった。
だが――
数秒が過ぎると、その表情はゆっくりと崩れていく。
眉がわずかに寄せられた。
そして静かに手を伸ばし、首元に下がる淡い紅色の水晶のペンダントへ触れる。
その水晶はかすかに光っていた。
弱々しく。
不安定に。
淡い赤い輝きが指の隙間で明滅を繰り返す。
まるで少しずつ力を失っていく心臓の鼓動のように。
マリアーネの視線はゆっくりとそのペンダントへ落ちた。
そして、その一瞬だけ――
これまで押し殺していた不安が、はっきりとその顔に現れる。
「……今じゃないでしょう……」
小さな囁きが唇から零れた。
それはほとんど祈りにも似ていた。
彼女はすぐに両手でペンダントを強く握り締め、そのまま胸元へ引き寄せる。
瞳がゆっくりと閉じられた。
長い睫毛がかすかに震える。
まるで自分自身に言い聞かせているようだった。
きっと大丈夫だと。
あの旅は何事もなく終わるのだと。
悪いことなど起こらないのだと。
そして――
あの人はいつも通り、また帰って来るのだと。




