第四十話
黒い馬車は、アストラヴェルへと続く大通りを下りながら進んでいた。鉄張りの車輪が立てる重い反響音が、道の両脇にそびえる外郭都市の石壁の間を長く響き渡る。
山岳地帯を離れるにつれ、それまで静寂に満ちていた冷たい空気には、鉄の匂いと薪の煙、そして眼下で徐々に目覚め始めた街の活気が混じり始めていた。
あちこちから馬の蹄の音が重なり合うように聞こえてくる。
時折、衛兵の笛の音が喧騒を切り裂き、その後には遠くで金属同士がぶつかり合う音が続いた。どこか別の区域で、誰かが重い装備を運んでいるかのようだった。
ケイルは依然として馬車の窓際に座っていた。
だが、その視線はずっと落ち着かない。
外に現れる新しい景色を追うように、目は絶えず動き続けている。その好奇心は、もはや隠しきれないほどになっていた。
そしてほどなくして、一行の馬車はついにアストラヴェルの外縁部へと入った。
地区を縦断する広い街道には、物流用の馬車や軍の補給隊商が絶え間なく行き交っている。鉄で補強された巨大な車輪が石畳の上で重々しい音を響かせる中、濃紺の制服をまとった警備兵たちが検問所に立ち、通行する車両の流れを監視していた。
古い茶褐色と淡い白色の石造建築が街道沿いに隙間なく並び、その高く堅牢な構造は豪華さよりも実用性を重視していることが一目で分かる。
人々が思い描くアストラヴェルの中心部ほど華やかではない。
だが、その代わりに規律と秩序が隅々まで行き届いていた。
外縁地区の各所には監視塔が建ち並び、黒鉄のバルコニーは主要な輸送路を見下ろしている。クリスタル街灯や兵舎同士を繋ぐ連絡橋の間では、王国の青と白の旗が昼の風を受けてゆるやかに揺れ、細長い煙突から立ち上る薄煙は晴れ渡る空へと静かに溶け込んでいた。
商業地区ほどの賑わいはない。
それでも、こちらのほうがはるかに忙しく感じられる。
貴族や観光客で賑わう街の喧騒ではない。
軍事地区特有の、決して止まることのない活動のリズムだった。
ケイルは前方の詰所近くに座り、小さな木机の上で物資配給表を確認している王国兵へと目を向けた。
少し離れた場所では、別の兵士たちが物流用馬車から鉄張りの長い木箱を降ろし、武器庫へ運び込んでいる。
さらに反対側では、若い兵士たちの一団が教官に率いられて訓練場へ向かって行進しており、その奥の石造建築の向こうからは、武器がぶつかり合うかすかな音も聞こえてきた。
ケイルは思わず小さく首を傾げる。
「……お父様」
馬車の奥で静かに座っていたラインマーが、ゆっくりと視線を向けた。
「どうした?」
「ここ……兵士ばっかりだね」
ケイルは外の輸送路へ目を細める。
「さっきから見張り所も多いし、補給隊商もいるし、倉庫もあるし……歩いてる人たちも軍の装備を持ってる人ばっかりだ」
そう話している最中にも、大型の馬車が反対方向から通り過ぎていった。
後部には四つの長い木箱が鉄鎖で固定され、その両脇を武装した兵士が二人、周囲を警戒しながら歩いている。
ケイルは瞬きをひとつした。
「ここって兵営地区なの?」
ラインマーは静かに頷く。
「アストラヴェルの外縁部は、都市全体の軍事物資と物流の主要な流通拠点として整備されている」
声色はいつも通り落ち着いていた。
「守備隊、補給隊商、武器庫、訓練施設――そうしたものの大半は、アストラヴェル中心部へ入る前の外縁区域に配置されているんだ」
ケイルは再び窓の外へ目を向けた。
補給箱を抱えた兵士たちが街道脇の大きな建物へ向かい、兵舎の向こうからは訓練指示の声がかすかに響いてくる。
「……なんで外なの?」
ラインマーの眉がわずかに上がった。
「ん?」
「だって、重要な物資の流れが全部ここを通るんだろ?」
ケイルは外門前に並ぶ隊商の列へ視線を向ける。
「……だったら全部、街の中心近くに置いたほうが安全なんじゃないの?」
ラインマーは少しの間黙り込み、それから息子と同じように馬車の外へ目を向けた。
「アストラヴェルの中心部は、重量物流が行き交うための場所ではないからだ」
視線は、今なお補給車両で埋め尽くされた地区の大通りへ向けられていた。
「中心部へ入るものは、全部ここで最初の検査を受ける。物資も、武装も、兵士も……商隊ですらな」
そう説明する声に重なるように、少し離れた場所で衛兵の笛が鳴り響く。続いて、鉄張りの車輪が輸送路を進む重い音が聞こえてきた。
「外縁地区は、その流れをすべて受け止めるために作られている。だからこそ、アストラヴェルの中心部は安定と安全を保てるんだ」
ケイルは再び周囲の景色へ目を向けた。
見れば見るほど、この地区全体が休むことなく機能し続ける第一防衛線として設計されていることがよく分かる。
「じゃあ、アストラヴェルの中心には何があるの?」
そう尋ねながら父へ振り向くと、ラインマーはわずかに微笑んだ。
「色々だ」
返答は短い。
「王国の中枢機関、貴族街、学院、鉱物研究施設、中央交易路……それに、許可のない者は立ち入れない区域もある」
それを聞いた途端、ケイルは再び窓の外へ視線を戻した。
外縁地区の向こう側に見え始めた都市の塔を追うように目を動かす。
そしてなぜだろう。
この街へ入ってから初めて、アストラヴェルという都市の大きさを実感した気がした。
だが、その思考に深く沈み込む前に――
前方から短い笛の音が響いた。
馬車がゆっくりと速度を落としていく。
鉄の車輪が石畳を転がる音を響かせながら進み、やがて前方で順番待ちをしているいくつかの隊商の後ろで停止した。
ケイルは少しだけ顔を上げる。
前方では、アストラヴェルの衛兵たちが入場車両の検査を行っていた。
物流用の木箱を開ける者。
馬車の側面に刻まれた配送識別印を記録する者。
そして門の脇では、槍とエーテリアル銃を背負った兵士たちが警戒に当たっている。
しばらくして――
コン、コン。
馬車の左側がノックされた。
ケイルは反射的に振り向く。
窓の外に立っていたのは、アストラヴェル衛兵特有の青みがかった白い外套を纏った王国兵だった。
小さな王冠の紋章が刻まれた黒い細身の兜が顔の一部を覆い、脇には薄い書類フォルダを抱えている。
ラインマーが馬車のカーテンを少し開けると、その兵士はすぐに姿勢を正して敬礼した。
「こんにちは、ラインマー様」
周囲の隊商に向ける検査官たちの口調と比べると、どこか気安い響きがある。
ラインマーは小さく笑みを浮かべた。
「外縁勤務とは珍しいな、ダーヴィン」
ダーヴィンと呼ばれた兵士は短く笑う。
「今週は中央の勤務表がめちゃくちゃでしてね」
疲れたように肩をすくめながら息を吐いた。
「人員の半分が輸送路に回されてるんです。朝から見てるのは木箱と書類ばかりですよ」
「そうか……忙しさはよく伝わってくる」
その視線が一瞬だけ馬車の中のケイルとカエラへ向けられ、再びラインマーへ戻る。
「ああ、そうだ。旅のほうはいかがでした?」
「問題なく終わったよ」
「それは良かった」
ダーヴィンは少し身を乗り出し、周囲の喧騒に紛れるよう自然と声を落とした。
「それで、本日は中心部へ向かわれるので?」
ラインマーは静かに頷き、外套の内側から黒青色の小さなカードを取り出した。
薄い金属製のそれには、中央にアストラヴェルの商業倉庫を示す紋章が刻まれ、縁には金色の装飾線が走っている。
ダーヴィンはすぐに両手で受け取った。
「ああ……南部中央倉庫のアクセス許可証ですね」
苦笑混じりに息を吐く。
「相変わらず、優先通行権が与えられているんですね」
「私の荷が一日でも遅れれば、商業地区の半分が騒ぎ始めるからな」
「はは、それもそうだ」
ダーヴィンは小さく笑うと、手にしたフォルダを開き、小型の金属ペンで数枚の確認書類へ印を付けていった。
その間も外では、馬車の往来、物資搬入の掛け声、兵士たちの足音が絶えることなく響き続け、アストラヴェル外縁地区は休むことなく動き続けていた。
そのやり取りを、ケイルは隣で静かに見守っていた。
そして初めて気づく。
どうやらお父様は、自分が思っていた以上にアストラヴェルで名の知れた人物らしい。
ケイルは再び窓の外へ目を向けた。
馬車の窓越しに広がる外縁地区は、まるでアストラヴェル全体を生かし続ける巨大な機械のように見える。
市場の喧騒はない。
街角で奏でられる音楽もなければ、貴族たちが行き交う姿もない。
聞こえてくるのは、鉄の車輪の音、兵士たちの足音、物流作業の掛け声、そして絶え間なく動き続ける軍事活動だけだった。
それらはまるで、アストラヴェル最外層を流れる巨大な鼓動のようだった。
その時、別の輸送路から大型の補給隊商が通り過ぎ、ケイルの視線は自然とそちらへ向かう。
鉄張りの車輪が石畳を重々しく鳴らしながら進み、荷台の後方には金属補強の施された長い木箱が四つ、整然と積み上げられていた。
そのうちの一人が槍の柄で箱の側面を軽く叩く。
「これは東倉庫行きだ! 間違えるなよ!」
「了解!」
返事は飛んだものの、その声もすぐに大通りを埋め尽くす馬車の往来に飲み込まれていった。
さらにその後ろからは、一回り小さな補給馬車が続いていた。
積まれているのは布のロールや保存食の箱、それに鉄鎖で固定された大型の樽だ。
反対側の門からは、別の隊商が外縁地区へ入ってくる。
濃紺の制服を纏った護衛たちが車列の両脇を歩き、衛兵たちは荷車の側面に刻まれた配送識別印を確認すると、そのまま通行を許可していた。
絶えず続く交通の流れの中でも、ケイルはふと小さな騒ぎを目にする。
若い兵士が二人、後方の馬車から落ちかけた弾薬箱を慌てて支えていたのだ。
「そっちを押さえろ!」
「わ、分かってるって!」
ドンッ――。
長い木箱が一度荷台へ傾いてぶつかったものの、二人が力を合わせて何とか元の位置へ押し戻した。
だが、その出来事に注意を向ける者はほとんどいない。
何人かが一瞥しただけで、すぐに自分の仕事へ戻っていく。
そんな小さな混乱は、アストラヴェル外縁地区の日常の一部なのだろう。
そして、その絶え間ない活動の中心にあっても――
アストラヴェルの衛兵たちは変わらず都市外縁の警備を続けていた。
ケイルの視線は自然と彼らへ引き寄せられる。
その姿は、彼の頭の中にあった幻想世界の重装騎士とはまるで違っていた。
全身を鉄鎧で覆った巨大な騎士ではない。
アストラヴェルの衛兵たちは、むしろ軽量で実用性を重視した装備を身に着けている。
青みがかった白の軍用外套が濃色の制服を覆い、その上から簡素な防護ベストを装着している。
腰には金属製の機構ベルトが巻かれ、戦闘用装備が整然と吊り下げられていた。
衛兵たちが昼の光の下を通るたび、小さな王冠の紋章が刻まれた細身の兜が淡い輝きを反射する。
中世の軍隊という印象は薄い。
むしろ、貴族都市アストラヴェルの伝統を受け継いだ近代王国軍――そんな雰囲気のほうが近かった。
ケイルは外門付近で任務に当たる騎士たちを眺めた。
彼らは到着した隊商の通行許可証を確認し、素早く書類へ目を通した後、別の衛兵へ合図を送って通行を許可している。
少し離れた場所では、二人の巡回兵が大通り沿いを歩きながら穏やかに会話を交わしていた。
さらに兵舎近くでは、小隊規模の部隊が整然と列を組み、一人の短髪の女性指揮官の指導を受けている。
「足並みがまだ揃っていない」
その声は、ケイルたちのいる馬車道にまで届くほどよく通った。
「歩調すら合わせられないようでは、戦場で部隊として動けると思うな」
若い兵士たちは慌てて姿勢を正す。
だが、外縁地区全体が軍事的な規律と活動のリズムに満ちているとはいえ、この街のすべてが堅苦しいわけではなかった。
絶えず行き交う馬車の音や物流作業の喧騒の合間には、衛兵たちの何気ない雑談があり、倉庫作業員たちの短い笑い声があり、そしてこの無骨な外郭都市の裏側で確かに息づく、ささやかな日常の営みがあった。




