第三十五話
ヒュオオオッ――
カエラは山から吹き下ろす風を切り裂き、まるで現実からこぼれ落ちた影のような速さで一直線に駆け抜けた。
先に動いたのはアストラ・ヴォレアだった。
シュンッ――
凄まじい速度の横薙ぎが、黒いフードを被った男の首筋を狙う。
だが、そのエリート盗賊は刃が届く寸前でわずかに身体を傾けた。
細身の剣閃は頬の前をかすめるように通り過ぎ、顔を覆っていた布の端を鮮やかに切り裂く。裂けた布切れが舞い上がり、砂塵の中へと散っていった。
息をつく間もなく――
シュンッ!
カエラはすでに空中で身を翻していた。
二撃目。
右肩から腰へと斜めに振り下ろされる鋭い斬撃。
ガキィン!
深い青色の双短剣が交差し、アストラ・ヴォレアを受け止める。
衝突の衝撃で男の足元の地面に細かな亀裂が走った。
フードの奥の目が鋭く細められる。
(なんて速さだ――)
だが、カエラは止まらない。
受け止められた勢いのまま低く身を沈め、相手の懐へ潜り込む。
黄金がかった茶色の髪が風を切り、アストラ・ヴォレアが再び心臓目掛けて真っ直ぐ突き出された。
キィン!
左手の短剣がそれを弾く。
その反動すら利用し、カエラは軽やかに跳躍した。
身体がふわりと宙を舞い、相手の頭上を越える。
そして四撃目が垂直に振り下ろされた。
頭蓋を叩き割るための一閃。
ガァンッ!
フードの男は乱暴に身体を後方へ投げ出した。
アストラ・ヴォレアの切っ先が目の前の石畳へ突き刺さり、その表面を数メートルにわたって深く裂く。
土煙が一気に噴き上がった。
黒いフードの男は後方へ着地し、短く息を吐く。
頬を冷たい汗が伝った。
四度の攻撃。
そのどれ一つとして、呼吸を整える隙を与えてはくれなかった。
「……くそっ」
男の目が鋭く動く。
そして次の瞬間、怒鳴り声を上げた。
「一斉にかかれ!」
残る四人の盗賊たちが迷いなく動き出す。
一人目の剣士が左から突撃する。
二人目は背後へ回り込んだ。
巨大な戦斧が右から唸りを上げる。
さらに巨大な鉄槍が正面から弾丸のような勢いで突き込まれた。
あらゆる逃げ道を塞ぐように攻撃が重なった、その瞬間――
カエラが動いた。
ヒュッ――
軽やかに前へ踏み込む。
巨槍の穂先が胸を貫く寸前まで迫る。
だが彼女は避けなかった。
槍の柄へと足を乗せる。
ドンッ。
身体が宙へと押し上げられた。
左から最初の剣士の斬撃が腰を薙ぐ。
カエラは空中で身体を水平にひねった。
ブォンッ――
剣閃はその真下を空しく通り過ぎる。
直後、二人目の盗賊が背後から突きを放った。
キィン!
空中で回転する最中のまま、アストラ・ヴォレアがそれを弾き返す。
そこへ巨大な戦斧が真上から振り下ろされた。
「死ねぇっ!」
その瞬間、カエラは不意に身体を落とした。
ドガァンッ!
戦斧は空いた地面を粉砕する。
だが、斧使いが武器を引き戻そうとした直後――
シュンッ!
アストラ・ヴォレアが鋭く閃いた。
狙いは男の目。
斧使いは反射的に頭を引く。
そして、それこそが致命的な判断だった。
カエラは回転の勢いを利用し、そのまま男の肩の後ろへ跳ね上がる。
巨槍が再び突き出される。
剣が右から交差するように襲いかかる。
戦斧が低く薙ぐ。
すべてがほぼ同時だった。
だが――
カエラの動きはむしろ軽やかさを増していた。
さらに速く。
さらに鋭く。
黒い靴先が地面に触れるのはほんの一瞬だけ。
次の瞬間には再び空へ跳ぶ。
ある時は空中で身を翻しながら刃を弾き、
ある時は槍の柄を足場にして跳ね上がり、
またある時はアストラ・ヴォレアが一瞬だけ閃いたかと思えば、離れた場所で金属の激突音が響き渡る。
ガキィン! キィン! ガンッ! シュンッ!
激しい猛攻の中で、火花が絶え間なく散った。
最初の剣士が徐々に息を乱し始める。
「なんであいつ――」
キィン!
剣が弾かれる。
「――どんどん速くなってやがる!?」
カエラは低く着地した。
そのまま戦斧の薙ぎ払いの下へ滑り込む。
地面すれすれで一度だけ身体を回転させ、その勢いのまま再び空へ舞い上がった。
黄金がかった茶色の髪が、砂塵と風の中で踊る。
そして戦闘が始まってから初めて――
彼女はそのリズムを楽しんでいるように見えた。
琥珀色の瞳が軽やかに動き、四方八方から迫る攻撃の軌道を追い続ける。
もはや防戦ではない。
もはや相手の癖を読む段階でもなかった。
今や彼女は、その渦中で舞っていた。
だが――
次の激しい攻防が終わった直後、カエラは不意に後方へ下がる。
靴底が石畳を滑り、数メートルにわたって軌跡を刻いた。
薄い静寂がその場を包む。
盗賊たちの荒い息遣いだけが耳に届いた。
彼らの身体には細かな傷がいくつも刻まれている。
一方で、カエラはゆっくりと息を吸い込むだけだった。
アストラ・ヴォレアが静かに身体の前へ掲げられる。
緑色の光がその刃に宿り始めた。
最初は淡く。
風に溶ける霞のように頼りない輝き。
だが、その光は徐々に刀身全体へ広がり、密度を増していく。
やがて周囲の空気がかすかに音を立て始めた。
ゴォォォォォ――
アストラ・ヴォレアから放たれる風圧に、カエラの髪が揺れる。
盗賊たちの表情が一変した。
「な、なんだ……あれは……?」
カエラは静かに目を開く。
そして、一歩を踏み出した。
最初に動いたのは剣を持つ盗賊だった。
雄叫びを上げながら飛び込んでくる。
斜めに振り下ろされた剣先が首を狙う。
カエラはアストラ・ヴォレアを持ち上げた。
スッ――
衝突音はない。
火花も散らない。
長剣は――
両断されていた。
あまりにも滑らかな断面を晒しながら、二つに分かれた刃がカエラの脇を滑り落ちる。
盗賊はその場で凍りついた。
「……ありえねぇ!?」
直後、二人目の盗賊が背後から突きを放つ。
カエラは振り返りすらしない。
アストラ・ヴォレアがわずかに横へ流れる。
スパッ――
刃は切っ先から柄元まで一直線に断ち切られた。
盗賊の目が呆然と見開かれる。
巨大な戦斧が頭上から唸りを上げた。
「終わりだぁッ!」
カエラは軽く身をひねる。
アストラ・ヴォレアが静かに持ち上がった。
ズァァッ――
巨大な戦斧は刃の中心から真っ二つに裂けた。
切り離された鉄塊が重々しい音を立てて地面へ落下する。
静寂。
数秒のあいだ、誰も動けなかった。
山から吹く風さえ止まったかのようだった。
そして――
槍使いの盗賊が激しく歯を食いしばる。
「この野郎ォォォッ!」
巨大な槍を背後へ引き絞る。
腕の筋肉が限界まで膨れ上がった。
次の瞬間――
ブォォォンッ!!
巨大な槍が投擲された。
空気が弾け飛ぶ。
まるで砲弾のような勢いで、一直線にカエラへ迫る。
その進路上では地面すら砕け、亀裂が走った。
だが、カエラは退かない。
静かに腰を落とす。
アストラ・ヴォレアをゆっくりと持ち上げた。
そして槍が目前へ到達した、その瞬間――
世界がゆっくりと流れ始めたように感じられた。
舞い上がった砂塵が空中で止まり、
カエラの髪も緩やかに揺れる。
そして――
シュィィィィン――!
アストラ・ヴォレアが振り下ろされる。
それはあまりにも穏やかで、
どこか見惚れるほど美しい一太刀だった。
緑の輝きを纏った刃が槍の穂先へ触れる。
その瞬間――
巨大な槍は、真っ二つに断ち切られた。
精密。
その一撃は、鋭い穂先から柄の端に至るまで寸分の狂いもなく槍を断ち切っていた。
二つに裂けた槍がカエラの両脇を通り過ぎる。
そして、なおも時間が緩やかに流れるその感覚の中――
カエラはアストラ・ヴォレアを空へ放り投げた。
剣は高く舞い上がり、空中で回転する。
彼女は両手を伸ばし、左右へ飛んでいく槍の半身をそれぞれ掴んだ。
そのまま身体をひねり、向きを反転させる。
琥珀色の瞳が槍使いの盗賊を真っ直ぐ射抜いた。
そして――
ドッ! ドッ!
二本の槍が投げ返される。
その瞬間、世界は再び本来の速さを取り戻した。
槍使いの盗賊は目を見開く。
「……なに――」
グシャッ!
一本目が左肩を貫いた。
「があああああっ!?」
ドスッ!
続く一本が右太腿へ深々と突き刺さる。
巨体が大きく揺らいだ。
そして、その時にはもう――
カエラは空中にいた。
軽やかな曲芸のような動きで跳躍し、
空から落ちてくるアストラ・ヴォレアを手に取る。
一回転。
二回転。
そして二度目の回転に入った瞬間――
ブォォンッ!
アストラ・ヴォレアが放たれた。
緑の刃が一筋の閃光となって駆け抜ける。
ドシュッ。
剣は槍使いの首へ正確に突き刺さった。
静寂。
男の目から光が消える。
巨体はそのまま硬直したように立ち尽くした。
だが数秒後――
ゆっくりと落下する最中、カエラは再び空中で身を翻した。
その手が、見えない何かを引き寄せるように動く。
呼応するようにアストラ・ヴォレアも回転した。
ギュォン――
剣が男の首を中心に大きく円を描く。
次の瞬間。
上半身の肉と骨が、その凄まじい軌道に沿って引き裂かれた。
血飛沫が空中へと爆ぜる。
槍使いの盗賊は悲鳴を上げる暇すらなかった。
上半身を無残に断ち裂かれ、そのまま崩れ落ちる。
ドォンッ。
巨体が地面へ倒れ伏した。
カエラは数メートル先へ軽やかに着地する。
アストラ・ヴォレアが再び彼女の手元へ飛来した。
スッ。
残された二人の剣士は反射的に後ずさる。
身体が震えていた。
顔色は完全に失われている。
「ば、化け物だ……」
斧使いに至っては、握っていた柄を落としかけていた。
その一方で――
彼らの背後。
黒いフードの男の身体から濃紺のオーラが噴き上がる。
ゴォォォッ――
周囲の空気が震えた。
二本の短剣が胸の前へ持ち上げられる。
その瞳には濃密な殺意が宿っていた。
「貴様はここで死ぬッ!」
男は全力で踏み込む。
足元の地面が砕け散った。
そして同時に――
残った盗賊たちは恐慌状態のまま背を向け、一斉に逃げ出した。
だが、カエラはただ静かに目を閉じる。
世界が遅くなる。
彼らの動きは重く鈍り、
舞い上がる砂塵は空中に留まり、
駆ける足はまるで深い海の中を進むかのようだった。
だが――
カエラだけは違う。
彼女だけが、いつも通りの速さでそこにいた。
アストラ・ヴォレアから緑の風が溢れ出す。
さらに激しく。
さらに濃密に。
カエラは剣を胸の前へ構えた。
ゆっくりと息を吸い込む。
アストラ・ヴォレアが右肩の高さまで持ち上がる。
両手でしっかりと柄を握り締めた。
そして次の瞬間――
ヒュォォォォォッ――
その姿が掻き消える。
ザン――シュンッ――
最初の剣士の横を通り過ぎた。
ザン――シュンッ――
二人目の剣士を追い越す。
ズバッ
斧使いの脇を駆け抜ける。
シュン――シュン――シュン――
緑の斬閃が空中に幾重にも残された。
数十。
あるいは数百。
無数の斬撃の軌跡が、彼らの身体を取り囲むように宙へ刻まれていく。
カエラが移動するたび、その場には半透明の残像がわずかな時間だけ留まった。
まるで時間そのものが、彼女の速度に追いつけなくなったかのように。
そして最後に――
黒いフードの男の横を通り過ぎる。
ザシュッ。
十分な距離を置いた場所で足を止めた。
アストラ・ヴォレアはその手から消え、無数の緑の光粒へと還っていく。
左手がゆっくりと腹部へ添えられる。
右手は低く脇へ流され、
まるで死そのものを招き入れるような姿勢を取った。
そして静かに目を開く。
「これで終わりよ」
静寂。
「――三秒間で、一億五千七百万の斬撃」
その瞬間。
止まっていた時間が動き出した。
ドバァァァァァッ――!!!
すべての斬撃が同時に炸裂する。
盗賊たちの身体が血の雨となって弾け飛んだ。
単に切断されたのではない。
内側から破壊されたのだ。
肉も骨も耐え切れず、全身が崩壊する。
鮮血が四方八方へ噴き上がった。
隊商の馬たちは恐怖にいななき、
激しく暴れ出す。
御者の老人は顔を真っ青にしたまま座席へ崩れ落ちた。
「な、何だ……今のは……」
震える声が漏れる。
手は止まらず震えていた。
山道の空から温かな血が降り注ぐ中、
カエラだけが静かに立っている。
まるで処刑を終えたばかりの執行人のように。
◇ ◇ ◇
先ほどラインマーに吹き飛ばされた剣士の盗賊は、まだ岩壁へ半ば埋まったままだった。
その時。
再び重い足音が山道を揺らす。
ドン。ドン。ドン。
大柄な筋肉質の盗賊が咆哮を上げながら突進してきた。
仲間たちが次々と倒れていく光景に、顔を怒りで真っ赤に染めている。
「このクソジジイがァッ!」
右拳が一直線にラインマーの頭部へ放たれた。
岩すら砕くほどの凶悪な一撃。
だが――
ラインマーはゆっくりと左手を上げるだけだった。
パシッ。
拳が横へ流される。
拳圧が白髪を揺らした。
しかしその表情は微動だにしない。
盗賊は間髪入れず二撃目を放つ。
三撃目。
四撃目。
攻撃は次第に嵐のような激しさを帯びていった。
巨大な拳があらゆる角度から襲い掛かる。
ラインマーはそれを受け流しながら、わずかずつ後退する。
バキッ。
外れた拳が地面を砕く。
一撃ごとに衝撃風が巻き起こり、
黒と白の外套が静かにはためいた。
それでもラインマーの足運びは変わらない。
音もなく。
無駄もなく。
小さな歩幅で後ろへ下がり続ける。
盗賊は獰猛に笑った。
「逃げ続けろ!」
一直線の拳が再び顎を狙う。
パシッ。
受け流される。
続いて左のフック。
それも弾かれる。
膝蹴りが腹部へ飛ぶ。
ラインマーはわずかに腰を傾けた。
攻撃は紙一重で空を切る。
大男の動きはさらに荒々しくなっていった。
両腕が無秩序に振るわれる。
技も構えもない。
ただ純粋な力だけで押し潰そうとしていた。
そして徐々に――
流れが変わる。
バシッ。
次の拳を、ラインマーは先ほどより強く弾いた。
盗賊の身体が半歩だけよろめく。
体勢を立て直すより先に――
ドスッ
ラインマーの拳が胸へ突き刺さった。
決して重い一撃ではない。
だが呼吸を乱すには十分だった。
「ぐっ――!」
盗賊は歯を食いしばり、再び殴り掛かる。
右拳を流される。
左拳を逸らされる。
そして、その直後――
ドゴッ
返しの拳が顔面へ叩き込まれた。
頭が大きく横へ振られる。
巨体が数歩よろめいた。
今度はラインマーが前へ出る。
歩みは変わらず静かだった。
ゆっくりと。
落ち着いたまま。
しかし一歩ごとに、相手を後退させていく。
大男は怒鳴り声を上げながら再び拳を突き出した。
ラインマーは下から受け流す。
拳が上へ跳ね上がる。
そして次の瞬間、
肘が男の鳩尾へ突き刺さった。
ドッ
盗賊の目が見開かれる。
身体が反射的に折れ曲がった。
だがラインマーは止まらない。
振り抜かれた手の甲が、その顎を打ち抜いた。
ドゴッ。
盗賊は大きくよろめいた。
そこへラインマーの膝が追撃する。
ドガッ。
膝が腹部へめり込み、
巨体はさらに後方へ押し飛ばされた。
呼吸が乱れる。
腕が震える。
それでも男は咆哮を上げ、なおも前へ出た。
「ぶっ殺してや――」
言葉は最後まで続かなかった。
ラインマーの脚が静かに持ち上がったからだ。
そして――
ドォンッ。
鋭い前蹴りが鳩尾を正確に撃ち抜く。
周囲の空気が激しく弾けた。
男の巨体は数メートル後方まで吹き飛ばされ、そのまま地面へ叩きつけられる。
ザザァッ。
土煙が舞い上がった。
筋骨隆々の盗賊は激しく咳き込みながら腹を押さえる。
だが――
ゆっくりと立ち上がった。
脚は震えている。
息も荒い。
それでも、その目だけは憎悪に染まったままだった。
その時――
ラインマーは静かに右手を持ち上げる。
山道にわずかな静寂が降りた。
次の瞬間、
冷気が集まり始める。
キィィィィ……
氷の粒子が掌の周囲へ現れた。
それらは絡み合いながら形を成し、
やがて一本の細長い氷槍へと変わる。
針のように鋭い穂先。
淡い蒼光がその表面に揺らめいた。
大男は目を見開く。
「……なんだ、それは?」
だが、
その問いが答えを得ることはなかった。
ラインマーはすでに投げ放っていたからだ。
ヒュンッ――
氷槍が一直線に空気を切り裂く。
あまりにも速い。
ドスッ。
水晶のような槍は男の腹部へ深々と突き刺さった。
「があああぁっ!?」
巨体が折れ曲がる。
反射的に槍を引き抜こうと手を伸ばした。
しかし――
ミシミシミシ……
冷たい亀裂音が体内から響き始める。
男の目が恐怖に見開かれた。
氷が傷口から広がっていく。
胸へ。
首へ。
顔へ。
そして、わずか数秒後――
全身が完全に凍結した。
もはや人間には見えない。
灰青色の氷像が山道の中央に立っているだけだった。
静寂。
冷たい風がその氷像を撫でていく。
そして――
シュオッ。
ラインマーの身体が地面すれすれを滑る。
影のような速度だった。
一瞬後には、
すでに氷像の目の前にいる。
右腕が下から振り上げられた。
ゴォンッ!!!
凄まじいアッパーカットが氷像を打ち砕く。
凍り付いた上半身が宙へ浮き上がり、
腰から綺麗に分断された。
砕けた彫像の欠片のように、
上半身がゆっくりと空中で回転する。
そして落下。
ガシャァァンッ!!
地面へ触れた瞬間、
氷の身体は粉々に砕け散った。
響く破砕音は驚くほど軽い。
脆い。
まるで硝子を叩き割ったようだった。
下半身だけがなお数秒間その場に残る。
だが、
やがて内側から亀裂が走り始めた。
そして――
背後で。
一部始終を目撃していた短剣使いの盗賊が後ずさる。
顔色は完全に失われていた。
握る手は激しく震えている。
「そ、そんな……」
瞳には恐怖しかなかった。
(化け物だ……)
(この男、本当に化け物だ……!)
考えるより先に身体が動く。
盗賊は踵を返し、
隊商の来た道へ向かって全力で走り出した。
足取りは乱れ、
呼吸は今にも途切れそうだ。
だがラインマーは追わない。
ただ静かに立っていた。
わずかに頭を垂れ、
小さく息を吐く。
その姿は、まるで今の戦闘など取るに足らない出来事だったかのように。
そしてもう一度――
ラインマーの手が静かに持ち上がる。
指の隙間に小さな氷の結晶が生まれた。
今度は先ほどより細く、
短い。
だが、その冷気はむしろ鋭さを増していた。
余計な動作はない。
ただ自然に腕が振られる。
ヒュッ。
氷の針が放たれた。
ドスッ。
逃走していた短剣使いの盗賊の太腿へ正確に突き刺さる。
「ぎゃあああっ!?」
男はそのまま岩混じりの地面へ倒れ込んだ。
太腿を押さえながら必死に起き上がろうとする。
だが――
ミシミシミシ……
氷が広がり始める。
脚から。
ゆっくりと腰へ。
胸へ。
そして恐怖に歪んだ顔へ。
助けを求めるように前へ伸ばされた手が、そのまま空中で止まった。
次の瞬間には、
全身が完全に凍り付き、
冷たい彫像へと変わり果てていた。
再び静寂が訪れる。
そして――
凍り付いた盗賊の視界の中で、
ラインマーは隊商へ向かって歩き去っていく。
山風に外套が静かにはためく。
落ち着いていた。
あまりにも平然としていた。
先ほどの殺戮すべてが、
ただ片付けるべき些細な仕事だったかのように。
その視界の端には、
凍り付いた自分自身の身体がまだ立っている。
そして風が吹いた。
ゴォォォォ……
氷像に亀裂が走る。
ゆっくりと。
静かに。
細く。
そして次の瞬間――
パァァァッ――
全身が砕け散った。
無数の氷晶の灰となって宙へ舞い上がる。
まるで氷砂が風に攫われるように。
血はない。
悲鳴もない。
残されたのは、
淡い灰色の結晶の塵だけだった。
それさえも山風に運ばれ、
やがて跡形もなく消えていく。
少し離れた場所では、
先ほど砕かれた大柄な盗賊の下半身にも亀裂が広がり始めていた。
そして――
それもまた崩れ落ちる。
砕け、
散り、
消滅する。
まるで最初から存在しなかったかのように。
静寂に包まれた隊商路の中央を、
ラインマーは歩き続ける。
一度も振り返ることなく。




