第三十四話
隊商の前方では、金属同士がぶつかり合う音が荒涼とした山道に絶え間なく反響していた。
――キィンッ!
火花が弾ける。
アストラ・ヴォレアが左右から迫った二本の剣を同時に受け止めた瞬間、カエラは軽やかに身体をひねり、そのまま横へと踏み込んだ。直後に突き出された鉄槍の穂先は、わずかに遅れて彼女のいた場所を貫こうとするが、空しく地面を打つだけに終わる。
ドッ――。
乾いた土が舞い上がった。
乾燥した山風に金茶色の髪が静かになびく。頭上の虎耳は警戒を解くことなくぴんと立ち、その鋭い瞳は相手の動きを一瞬たりとも見逃していなかった。
まだ五人。
しかも全員が途切れることなく襲いかかってくる。
斧を持った盗賊が荒々しく吠えながら再び前へ出た。
全力で振り下ろされた斧が、真っ直ぐカエラの肩を狙う。
「死ねぇっ!」
だが、彼女はわずかに身を傾けただけだった。
巨大な斧は空を切る。
その直後、アストラ・ヴォレアが下から鋭く走った。
ヒュッ――。
剣先が男の腕を浅く薙ぐ。
「ぐぁっ!?」
鮮血が飛び散った。
だが、その盗賊が完全に後退するより早く、今度は左右から二人の剣士が飛び込んでくる。
獲物の隙を嗅ぎつけた獣のように。
まるで息をつく暇すら与えないつもりだった。
「距離を取らせるな!」
「こういう獣人の女は大抵すぐバテる!」
カエラは手首を小さく返して一振りを受け流し、軽く一歩下がる。
しかし、その眉がわずかに寄った。
(気づき始めましたか……)
戦いが始まってからというもの、彼女はまだ本気で攻めていなかった。
回避に徹し、
相手の癖を読み、
戦闘の流れを自分の望む形へと誘導していた。
そして、それゆえに――
盗賊たちは勘違いを始めていた。
槍を持つ盗賊が頬についた血を拭いながら嗤う。
「はっ……なんだ、その程度か?」
「貴族家のメイドって聞いて、もっと恐ろしいのかと思ってたぜ」
斧の盗賊も短く笑った。
「ただ動きがいいだけだな」
「このまま押し続けりゃ、そのうち倒れる」
そのとき。
彼らの後方で――
ずっと黙って立っていた黒いフードの男が、ようやく口を開いた。
低く。
細い声だった。
だからこそ、その声音は他の誰よりも不快に耳にまとわりつく。
「あまり早く殺すな」
その言葉に、カエラの動きがほんの一瞬だけ止まる。
盗賊たちは意味を察したように笑った。
「へへ……確かにな」
「こんな獣人の女なんて、なかなかお目にかかれねぇしな」
彼らの目つきが変わる。
それはもはや人を殺そうとする盗賊の目ではなかった。
もっと醜く、
もっと汚れた欲望を孕んだ視線だった。
斧の盗賊が地面へ唾を吐き捨てる。
「下町に売れば高く売れそうだ」
「物好きな老貴族が欲しがるかもしれねぇな」
「顔も悪くねぇ」
「身体つきもいい」
「それに、その耳と尻尾だ――」
剣を持った盗賊の一人が、手の中で剣を弄びながら口元を歪める。
「それと、さっきのガキな」
くくっと喉を鳴らした。
「親父を助けるために必死な顔でcarriageから飛び出していったのは笑えたぜ」
槍の盗賊が下品に笑う。
「ああ、あの黒髪のか?」
「さっき震えてた貴族の坊ちゃんだろ?」
「中で泣きながら隠れてりゃよかったのによ」
斧の盗賊も嘲るように笑った。
「全部終わったら、あいつらまとめて売り飛ばすのもありだな」
「親父のほうはもう死にかけだし」
「息子も役立ちそうには見えねぇ」
そう言って視線を再びカエラへ向ける。
「それなのによぉ――」
「お前はメイドのくせに、あんなガキを命懸けで守ってるのか?」
すると後方のフードの男も、静かに言葉を重ねた。
「無意味な忠誠だ」
「そんな主人たちに、お前を守る力などない」
覆面の奥で、男の口元がわずかに吊り上がる。
「そのガキを引きずっていく頃には――」
「泣きながらお前の名を呼んで許しを乞うかもしれんな」
「あははははっ……!」
カエラの足が、ぴたりと止まった。
靴の下で薄い砂埃が静かに舞い上がる。
その瞬間、周囲の空気が不意に変わった。
槍を持つ盗賊は気づくことなく、なおも下品な笑い声を上げている。
「そんなガキのメイドなんかやってるより、俺たちについて来いよ」
「少なくとも今よりは有意義な人生になるぜ――」
言葉は途中で途切れた。
カエラがゆっくりと視線を落としたからだ。
返事はない。
反論もない。
ただ静寂だけが広がり、そのせいで山を吹き抜ける風さえ先ほどより冷たく感じられた。
警戒のために構えられていたアストラ・ヴォレアが、静かに身体の横へ降ろされる。
細身の剣先は今にも地面へ触れそうだった。
金茶色の髪が揺れ、その影が瞳の一部を覆い隠す。
そして、そのとき――
黒いフードの男がわずかに目を細めた。
得体の知れない違和感が胸を掠める。
(……何かが変わった)
魔力ではない。
威圧感でもない。
もっと説明しがたい何かだった。
少女の立ち方。
呼吸の気配。
先ほどまで戦場の中心で確かに感じられていた存在感が、少しずつ――静寂へと溶け込んでいく。
カエラは一歩だけ前へ出た。
静かに。
ほとんど音もなく。
だが、その直後。
彼女の構えは完全に変わっていた。
もはや正面からの攻撃を受け止める守護騎士の姿ではない。
身体はわずかに斜めを向き、
左肩を低く落とし、
もう片方の手は力を抜いたまま前へ添えられている。
腰はわずかに捻られ、
全身の重心は前足へ自然に預けられていた。
そして――アストラ・ヴォレア。
その刀身は身体の後方へ低く置かれている。
細身の剣先は足元の延長線上にあり、正面からはほとんど見えない。
まるで獲物へ飛びかかる直前まで隠された牙のようだった。
そこにはもはや防御の構えなど存在しない。
彼女の全身は限界まで引き絞られた弓弦にも似ていた。
静かで、
優雅で、
それでいて――
だからこそ放たれる殺気は、先ほどまでとは比べものにならないほど恐ろしかった。
ほんのわずかな動き一つで、誰かの死が決まる。
そんな錯覚さえ抱かせる。
周囲を吹く風さえ息を潜めているようだった。
斧の盗賊が眉をひそめる。
「はぁ?」
「なんだよ、その構えは?」
カエラはゆっくりと顔を上げた。
琥珀色の瞳。
先ほどまで冷静だったその眼差しは、今や感情の欠片も映していない。
怒りに燃えているわけではない。
むしろ平坦すぎるほど平坦だった。
だからこそ恐ろしい。
「覚悟をしておきなさい」
その声は静かだった。
あまりにも静かに。
それを聞いた何人かの盗賊の背筋を、理由のわからない悪寒が走る。
だが――
次の瞬間、彼らは笑った。
斧の盗賊が腹を抱えながら嗤う。
「覚悟ぉ?」
「何のためにだよ?」
槍の盗賊も武器を持ち上げながら嘲笑を浮かべる。
「こっちは五人、お前は一人だぞ」
「さっきから逃げ回ってばかりだったくせに」
「今さら脅そうってのか?」
再び笑い声が荒れた山道に響き渡る。
しかしカエラは何も言わなかった。
数秒の沈黙。
その視線がゆっくりと彼ら一人ひとりをなぞっていく。
まるで獲物の位置を確認するように。
そして――
ようやくその唇が再び開いた。
「覚悟をしておきなさい……」
アストラ・ヴォレアの切っ先が、背後の低い位置からわずかに持ち上がる。
「……自分たちが何をされたのか、それすら理解できないまま終わることに」
冷たい風が隊商の列を吹き抜けた。
そして――
戦いが始まってから初めて、
黒いフードの男の表情が変わる。
(……危険だ)
本能が頭の奥で警鐘を鳴らした。
だが、遅かった。
――ッ!
男の姿がその場から掻き消える。
走ったわけではない。
跳んだわけでもない。
ほんの一瞬前まで盗賊たちの後方にいたはずの男が、
次の瞬間にはカエラの目前へ迫っていた。
濃紺のオーラを纏った二本の短剣が、首と腹部を同時に狙って閃く。
キィン――!
だがカエラは一歩たりとも動かない。
ガキィン!
アストラ・ヴォレアがわずかに持ち上がり、最小限の動きで右の短剣を弾いた。
男は即座に身体を捻る。
左の短剣が目を狙って走る。
キンッ!
再び弾かれる。
終わらない。
今度は左肘が脇腹へ叩き込まれる。
カエラは肩をわずかに回した。
攻撃は紙一重で空を切る。
右の短剣が下から突き上げる。
三度目の防御。
左の短剣が喉元へ横薙ぎに走る。
四度目。
そして次の刹那――
男は両手の短剣を同時に振り抜き、胸元を狙った高速の十字斬りを放った。
ガァンッ!
五度目の防御。
火花が激しく弾け散る。
しかし男がさらに追撃へ移ろうとした、その瞬間。
カエラの瞳がわずかに持ち上がった。
そして――動く。
予備動作はない。
筋肉の収縮すら見えない。
シュッ――。
気づけばアストラ・ヴォレアの切っ先は、すでに男の胸を通り過ぎていた。
「……は?」
フードの男の動きが止まる。
目が見開かれた。
左胸に細い赤線が浮かび上がり――
次の瞬間、鮮血が噴き出した。
男は反射的に飛び退く。
傷口を押さえながら、信じられないものを見るようにカエラを睨んだ。
(見えなかった……?)
思考が追いつかない。
剣を振ったようには見えなかった。
動き出しもなかった。
まるで斬撃だけが突然そこに現れたかのようだった。
そして何より恐ろしいのは――
カエラが考える時間すら与えなかったことだ。
――ッ!
少女の身体が一気に踏み込む。
速い。
あまりにも速い。
金茶色の髪だけが風に取り残されるように揺れ、
アストラ・ヴォレアが再び男の首筋へ向かって走った。
その頃――
隊商の後方では。
短剣を持った盗賊がラインマーへ一直線に襲いかかっていた。
「これで終わりだァッ!」
右手の短剣が全力で首元へ突き出される。
だがラインマーは、ほんのわずかに首を傾けただけだった。
ヒュッ――。
刃先は白い髪をかすめて通り過ぎる。
それで終わりではない。
盗賊は即座に左拳を振り抜き、顎を狙う。
しかしラインマーは半歩だけ位置をずらした。
拳が生んだ風圧ですら、その顔には届かない。
盗賊は歯を食いしばると、間髪入れずに再び攻撃を仕掛けた。
腹部への突き。
横薙ぎの一閃。
返す刃で心臓を狙う刺突。
だが、そのすべてをラインマーは最小限の動きで躱していく。
静かに。
軽やかに。
まるで相手が動き出す前から、攻撃の軌道を知っているかのように。
足は石だらけの地面をわずかに滑るだけ。
黒と白の外套が、攻撃が数センチ横を通り過ぎるたびに風を受けて静かに揺れた。
慌てる様子はない。
焦りもない。
むしろ――あまりにも余裕がありすぎた。
そして少しずつ、
短剣使いの盗賊のリズムが自壊し始める。
「なっ――」
ほんの一瞬、動きが乱れた。
それでも無理やり踏み込む。
「俺を舐めるなぁっ!」
六度目の攻撃が放たれる。
狙いはラインマーの頭部。
鋭く、
速く、
真っ直ぐに目を貫こうとする一撃。
だが、その瞬間――
パキッ。
ラインマーの手が持ち上がった。
そして。
短剣はそこで止まった。
盗賊の目が大きく見開かれる。
自分の刃が、
ラインマーの手によって直接掴まれていた。
強固な握力。
刃はぴくりとも動かない。
それなのに――
血が出ていない。
「……なっ!?」
男の呼吸が止まる。
そこでようやく気づいた。
ラインマーの眼差し。
周囲を包む冷たい空気。
そして、ただの商人が持つには重すぎる静けさに。
(違う……)
(こいつは普通じゃない……!)
それは単なる戦士の気配ではなかった。
戦場の中心に何度も立ち、
死というものを見慣れすぎた者だけが纏う気配。
盗賊の手が震え始める。
本能が絶叫していた。
逃げろ。
武器を捨てろ。
今すぐに。
男は無意識のうちに短剣から手を離し、一歩後退した。
さらにもう一歩。
その目には明確な恐怖が浮かんでいる。
「お、お前はいったい――」
だが。
言葉が最後まで続くことはなかった。
横合いから剣士の盗賊が飛び込んできたのだ。
「ビビるんじゃねぇ!」
剣が一直線にラインマーの頭を狙う。
ヒュンッ!
ラインマーはわずかに身体を傾けた。
一撃目が空を切る。
続けざまに反対側から二撃目。
ヒュッ――!
それも躱される。
そして三撃目。
今度は真上から。
顔面を断ち割るように、剣が振り下ろされた。
だが、その一撃に対してもラインマーは半歩ほど身体をずらしただけだった。
静かな目で相手を見据えたまま。
剣士の盗賊は歯を食いしばる。
そして今度は剣を真っ直ぐ突き出した。
狙いは顔面。
一直線の刺突。
剣先が肌に触れようとした、その瞬間――
ドォンッ――!
ラインマーの両手が同時に動いた。
掴むためでも、
受け止めるためでもない。
剣身の側面を、左右から同時に打ち据えたのだ。
――バキィィィンッ!!
長剣が空中で砕け散る。
無数の金属片が宙へ舞い上がった。
そして一瞬、
時間がゆっくり流れたように感じられる。
剣士の盗賊は目を見開いた。
砕けた自分の剣の破片が、目の前で回転している。
その刹那――
ラインマーの姿が消えた。
「……は?」
気づいたときには、
すでに目の前にいた。
近すぎる。
理解が追いつかないほどに速い。
そして――
ドゴォォォォッ!!
ラインマーの拳が盗賊の胸へと叩き込まれた。
鈍く、
重く、
まるで爆発そのものを人間の体内へ押し込んだかのような衝撃音。
男の目が大きく見開かれる。
背中が弓なりに反り返った。
口から鮮血が噴き出し、
次の瞬間には身体ごと砲弾のように吹き飛ばされる。
そして――
止まっていた時間が再び動き出したかのように。
――ドガァァァァァンッ!!!
盗賊の身体が山道の脇にそびえる岩壁へ激突した。
凄まじい轟音。
巨大な亀裂が四方へ走る。
砕けた岩石が爆発するように飛び散り、
土煙が激しく舞い上がった。
やがて視界が晴れたとき、
その盗賊の身体は崩れた岩壁に半ばめり込んだまま動かない。
見開かれた瞳には、もはや何の光も残っていなかった。




