第三十三話
岩の隙間から再びさらさらと薄い砂埃が崩れ落ちる。
その警告などまるで意に介さず、ケイルはすぐにラインマーの身体の傍へ駆け寄り、その場にしゃがみ込んだ。
「まずは耐えてください」
馬車から走ってきたせいで、呼吸はまだ少し荒い。
「俺が、お父様をここから出します」
そう言うなり、ラインマーの身体の周囲を埋めている砕けた岩へ手を伸ばし、一つずつ取り除き始める。細かな砂が舞い上がり、崩れた岩肌の隙間から絶えず埃がこぼれ落ちていた。
小さな石を一つずつ退かしていく。
自分の身体ほどもある大きな岩塊を押し動かすたび、崖の破片の隙間からぱらぱらと砂埃が落ちてくる。
呼吸は徐々に重くなっていった。
手も痛い。
それでも、少年は力を込め続ける。
ラインマーは数秒のあいだ黙って息子を見つめていたが、やがて激しく咳き込んだ。
「ゴホッ――!」
唇の端から細く血が流れ落ちる。
「ケイル……早く馬車へ戻れ……」
胸を圧迫する息苦しさの中で、重い息を吐く。
「盗賊たちに見つかれば、お前はきっと捕まる……」
「もう、黙っていてください」
ケイルは再び言葉を遮った。
両手にかかる重さに眉をしかめながらも、岩を押し続ける。
「今はそんなこと、どうでもいいんです」
少し荒い口調だった。
だがそれは、先ほどから押し寄せ続ける焦りと重圧で、頭の中がいっぱいになっていたからだ。
さらに別の岩塊を引きずって遠ざける。
どすん、と大きな音を立てて地面へ落ちたそれを確認すると、ケイルはすぐにラインマーへ向き直った。
「まずはお父様がここから出ることです」
ラインマーは黙り込む。
しばらくの間、ただ目の前の少年を見つめていた。
小さな身体で、埃と瓦礫の中を必死に動き回るその姿を。
やがて――
ラインマーの指が動いた。
わずかに。
しかし、はっきりと分かるほどには。
身体を押さえつけていた重みは、少しずつ減り始めている。
そのわずかな好機を逃さず、彼は全身を襲う痛みに耐えながら、再び筋肉へ力を込めた。
手が地面を押す。
足がゆっくりと岩の隙間から抜け出していく。
そして、ケイルが最後の大きな岩塊をいくつか取り除いた瞬間――
ラインマーはついに瓦礫の中から上半身を持ち上げることに成功した。
「ぐっ……!」
腕の筋肉が激しく軋む。
無理やり身体を起こした圧力で、足元の岩に小さな亀裂が走る音さえかすかに聞こえた。
ケイルはすぐに駆け寄る。
「お父様、手を!」
ラインマーはゆっくりと左腕を持ち上げた。
その瞬間、ケイルはためらうことなくその腕を掴み、全力で引いた。
「う、うおおおっ……!」
表情が一気に険しくなる。
眉が寄り、歯を強く食いしばる。
両手でラインマーの腕を固く握り締め、その身体を瓦礫の外へ引きずり出そうと全身の力を振り絞った。
砂埃が再び舞い上がる。
ラインマーの身体の脇から小石がぱらぱらと崩れ落ち、やがてその引きによって身体は完全に瓦礫から抜け出した。
だが、その直後――
「うわっ!」
勢い余ったケイルはバランスを崩した。
自分で思い切り引いた反動で、小さな身体がそのまま後ろへ尻もちをつく。
ラインマーはわずかに目を見開いた。
だが、何かを言うより早く――
ケイルは慌てて立ち上がっていた。
呼吸は荒い。
すぐにラインマーへ駆け寄り、その身体を支えながら、崩れた岩の近くで少しでも楽な姿勢で座れるよう手を貸す。
「ゆっくりで……」
ラインマーは脇腹を押さえながら重い息を吐いた。
そして、ようやく姿勢が少し落ち着くと――
ケイルは服の内側から濃い赤色の小瓶を取り出した。
「お父様、これを飲んでください」
ラインマーが視線を向ける。
その目はすぐにガラス瓶へ落ちた。
「……どこで手に入れた?」
「お父様の馬車の座席です」
ケイルは急いで答える。
「身体回復薬です。体力の回復、軽傷から中程度の傷の治癒促進、それから一時的な筋力強化の効果があります」
まだ呼吸が整わないまま言葉を続ける。
「ただし、重度の内傷を負っている場合は効果がかなり落ちます」
ラインマーは黙った。
眉がわずかに動く。
再び瓶へ視線を落とし、それからゆっくりとケイルの顔を見た。
「……その薬の名前を知っているのか?」
ケイルはそこでようやく気づいた。
(あれ?)
ほんの一瞬、表情が固まる。
今になって気づいたのだ。
さっきの説明が、まるで当たり前の知識のように自然と口から出ていたことに。
本来なら、ラインマーからその瓶について詳しい説明を受けたことなど一度もないはずだった。
「あー……その……」
ケイルは思わず視線を逸らした。
「今は説明している時間がありません」
ラインマーは不思議そうな顔で数秒ほど見つめていた。
だが、その時。
隊商の方角から再び戦闘音が響いてくる。
それを聞いたラインマーは、それ以上の追及を飲み込んだ。
静かに息を吐く。
「……分かった」
そして、わずかに口元を緩めた。
「ありがとう」
ケイルの手から瓶を受け取ると、ゆっくりと栓を開ける。
迷うことなく、その中身を一気に飲み干した。
ごくっ、ごくっ――
ケイルは緊張した面持ちで見守る。
「どうですか? 効いていますか?」
そして瓶の中身が空になった直後――
「はぁぁ……」
ラインマーは長く息を吐いた。
先ほどまで張り詰めていた表情が、少しずつ和らいでいく。
「なかなか悪くないな」
空になった瓶の内側に残る赤い液体を眺めながら、かすかに微笑む。
「まるで私の好きな赤ワインみたいな味だ」
ケイルはぱちりと瞬きをした。
「え?」
顔に妙な表情が浮かぶ。
「……赤ワイン?」
眉が困惑したように寄った。
(え、なんで酒の話になるんだ?)
(これ、本当に薬だよな?)
思わず瓶へ疑いの目を向ける。
「さっき言った身体回復薬ですよね? 体力を回復して、傷の治癒を早めて、筋力も強化するっていう」
「そうだ」
ラインマーは落ち着いた様子で頷く。
「それが本来の効果だ」
そして、まだ混乱しているケイルの顔を見て小さく笑った。
「どうやら少し誤解させてしまったらしいな」
空瓶を軽く持ち上げる。
「このエリクサーは特殊な製法で作られている。ベースになっているのはクリムゾンヴェイルの果実を発酵させた液体と、いくつかの回復系薬草の抽出液だ」
「だから味がワインに近い」
ケイルはなおもじっと見つめていた。
ラインマーはそのまま背後の大岩へ身体を預けながら話を続ける。
「実のところ、これはまだ試作品なんだ」
「試作品?」
「後でアストラヴェルの幹部の一人に渡す予定だった。騎士や冒険者向けに、より安定した新型エリクサーの開発を進めていてな」
ケイルの目が大きく見開かれる。
(待て)
(試作品?)
(それって勝手に飲んでいいものじゃなかったんじゃ……)
顔色がみるみる変わった。
「えっ、ちょ、ちょっと待ってください! じゃあ俺、今お父様に試作品を飲ませたんですか!?」
ラインマーは掠れた声で小さく笑う。
「ははは……」
対してケイルは一気に顔が熱くなった。
「す、すみません……! ただのポーションだと思って――」
「気にするな」
ラインマーは穏やかに遮った。
そして空瓶を下ろしながら、ゆっくりと立ち上がる。
黒い外套からぱらぱらと埃が落ちた。
顔や身体にはまだ傷が残っている。
こめかみには乾いた血もこびりついたままだ。
それでも先ほどと比べれば呼吸はずっと安定していた。
身体のふらつきもほとんど見られない。
「むしろ実際に使用してみたことで――」
ラインマーは自分の手を軽く握り開きながら言った。
「予想以上の効果が確認できた」
ケイルは少し呆然としたまま見上げる。
「でも――」
「もういい」
ラインマーは静かに首を振った。
「そこまで気に病む必要はない」
先ほどまで弱々しく揺らいでいた雰囲気も、少しずつ元のものへ戻りつつある。
やがてラインマーは大きな手を伸ばし、ケイルの頭を優しく撫でた。
「ありがとう」
その低く響く声は、先ほどよりもずっと柔らかかった。
「お父様には分かっている」
ラインマーは真っ直ぐにケイルの目を見つめる。
「お前には、こうする以外にほとんど選択肢がなかった」
その視線は優しいまま続いた。
「何かをしたいと思っていた」
「けれど、こういう状況で何を選べばいいのか分からなかった」
「そうだろう?」
ケイルはわずかに言葉を失う。
するとラインマーは小さく微笑んだ。
「それでもお前は動いた」
「それがお前の選択だ」
「そして、それでいい」
荒涼とした岩道を風が吹き抜ける。
やがてラインマーはゆっくりと背筋を伸ばし、肩を一度回した。
ゴキッ――
鈍い関節音がかすかに鳴る。
その目は再び鋭さを取り戻し、隊商の近くにいる盗賊たちへ向けられた。
「そして今から――」
口元がゆっくりと持ち上がる。
「お前をもっと驚かせるものを見せてやろう」
ケイルは思わず瞬きをした。
「……え?」
小さな目を丸くする。
その前でラインマーは、瓦礫と砂埃の中に立ちながら、徐々に重厚な威圧感をまとい始めていた。
先ほどまでとは比べものにならないほどに。
一方その頃――
山道の反対側では、武器がぶつかり合う音も次第に途絶えつつあった。
乾いた風が再び隊商の周囲を吹き抜ける。
先ほどまでラインマーを包囲していた三人の盗賊も、少しずつ警戒を解き始めていた。
大柄な盗賊が肩を乱暴に回しながら大きく笑う。
「はぁ……やっと終わったな」
ぺっと地面へ唾を吐いた。
「もっとしぶといジジイかと思ってたぜ」
隣の剣士の盗賊も、口元の血を拭いながら短く笑う。
「確かに強かった」
「だが所詮は一対三だ」
「さっき崖に叩き込まれた時点で勝負は決まってたな」
その一方で、短剣を持つ盗賊は荷車へ近づきながら、目をぎらつかせていた。
「へぇ……見ろよ、この大きさ」
荷車の側面を撫でながらにやりと笑う。
「積み荷は相当高く売れそうだ」
「全部中央都市で捌けば、数か月は遊んで暮らせるぞ」
大柄な盗賊の笑みがさらに深くなる。
「中身次第じゃ何年分にもなるかもしれねぇな」
「死ぬ前にあのジジイ、いい置き土産を残してくれたぜ」
下品な笑い声が狭い山道に響いた。
誰一人として、先ほど砂煙の中へ消えたケイルのことなど気にしていない。
彼らの中では、ラインマーが崖へ吹き飛ばされた時点で戦いは終わっていたのだ。
やがて短剣の盗賊が馬車へさらに近づく。
「さて、中身を見せてもらうか――」
大きな木箱へ手を伸ばした。
だが――
「……は?」
指先が、そのまま通り抜けた。
何の感触もない。
木の感触も、硬さも。
まるで空気を掴もうとしたかのようだった。
男の表情が一変する。
「お、おい、待て……なんだこれ――」
もう一度試す。
今度は手のひら全体で荷車の側面を押した。
しかし結果は同じだった。
荷車は確かにそこにある。
木材の色も。
金属の装飾も。
巨大な車輪の影さえ見えている。
それなのに――
触れることができない。
触れた瞬間、その表面は水面のようにゆらりと揺れた。
曖昧で。
実体がない。
「なんだよ、これ……!」
短剣の盗賊は慌てて手を引っ込めた。
剣士の盗賊も眉をひそめながら近寄る。
「ふざけるなよ」
そう言って側面へ手を伸ばす。
そして次の瞬間――
その手もまた、何の抵抗もなく通り抜けた。
男の顔が引きつる。
「……は?」
大柄な盗賊は二人を数秒見つめた後、苛立ったように舌打ちした。
「どけ」
自ら前へ出る。
そして勢いよく掌を荷車へ叩きつけた。
――ブワッ。
巨大な木造の荷車は、風に吹き散らされた薄い霧のように一瞬で崩れ去った。
衝突音はなかった。
木材が砕ける音すら。
そこにあったのは、幻が揺らぐようなかすかな波紋だけだった。
三人の盗賊は一斉に言葉を失う。
そして、その瞬間――
ヒュォォォォッ――
冷たい風が山道を吹き抜けた。
先ほどまで隊商の後方を覆っていた砂塵が、少しずつ流されていく。
砂煙は薄れ、
崩れた岩場が再び姿を現す。
そして、ゆっくりと――
薄れていく埃の向こうから、二つの人影が浮かび上がった。
ケイルは少し後ろに立ち、小さな身体をラインマーの外套の陰へ半ば隠している。
その前には――
ラインマーが真っ直ぐ立っていた。
外套はところどころ破れたまま。
顔の脇には乾いた血の跡も残っている。
それでも、今の彼から漂う雰囲気は先ほどとはまるで違っていた。
静かだった。
あまりにも静かすぎるほどに。
左手がまっすぐ荷車へ向けられている。
そして、その手首の周囲では――
白い魔法陣がゆっくりと回転していた。
淡い光が複雑な幾何学模様を描きながら、まるで発光する機械仕掛けの歯車のように静かに巡っている。
盗賊たちの目が細まった。
短剣の盗賊が苛立たしげに舌打ちする。
「このクソジジイ……」
剣士の盗賊は何かに気づいたように目を見開く。
「まさか――」
視線がラインマーの手首に浮かぶ魔法陣へ向いた。
「荷車に細工したのはお前か?」
大柄な盗賊が冷笑する。
「はっ。まだそんな芸をやる余力が残ってたとはな」
一歩前へ出る。
「負けたくせに往生際が悪い」
「さっきだって三人相手にほとんど死にかけてただろ」
「それなのに何事もなかったみたいに立ち上がるとはな」
ラインマーは無表情のまま三人を見つめていた。
冷たい風が再び荒れた岩道を吹き抜ける。
やがて彼は静かに口を開いた。
「そう簡単な話ではない」
低く、
重い声だった。
「元から自分たちのものではないものを、お前たちが手にすることはできない」
手首の魔法陣が再び静かに回転する。
「その荷車は――すでに幻へ変えた」
鋭い視線が三人を射抜いた。
「現実のように見える可能性を持ちながら、決して触れることのできない夢だ」
短剣の盗賊が即座に毒づく。
「ふざけやがって……!」
大柄な盗賊は拳を手のひらへ叩きつけた。
「つまり最初から俺たちをコケにしてたってわけか!?」
空気が変わる。
先ほどまでの余裕は完全に消え失せ、
代わりに濃い怒気が周囲を満たし始めた。
剣士の盗賊がゆっくりと剣を構える。
「なるほどな……」
「ようやく本気でやる気になったってことか」
「お前を殺した後、その魔法を壊す方法を探してやる」
大柄な盗賊も殺気を滲ませながら笑った。
「今度は確実に頭を叩き潰してやるよ」
「できるものならな」
だがラインマーは微動だにしない。
その眼差しは、先ほどよりもさらに冷たくなっていた。
「お前たちに与える機会は、もう終わった」
声は先ほどまでとは比べものにならないほど鋭い。
「慈悲もない」
「警告もない」
ラインマーはゆっくりと一歩前へ踏み出した。
「お前たちのような屑を相手に、十分すぎるほど我慢してやった」
後ろに立つケイルは、思わず息を呑む。
お父様の雰囲気がまた変わった。
商人ではない。
どこにでもいる普通の男でもない。
まるで本当に戦場を渡り歩いてきた者のような圧力。
そして――
ラインマーはわずかに後ろを振り返った。
その視線がケイルへ向けられる。
「見る覚悟はできているか?」
ケイルは思わず瞬きをした。
(見るって……何を?)
そう尋ねようとした、その時だった。
ラインマーはすでに盗賊たちへ向かって歩き出していた。
落ち着いた動作で、先ほど外していた黒い手袋を拾い上げる。
片方。
そしてもう片方。
ケイルは黙ったままその様子を見守った。
そして――
手袋が完全に装着された瞬間。
コキッ――
どこか冷たい響きを持つ音が、ラインマーの足元から聞こえた。
白い粒子がゆっくりと周囲へ現れ始める。
まるで霜の結晶のような小さな氷晶が荒れた地面に生まれ、淡い白霧を漂わせた。
ラインマーが一歩踏み出すたびに、
ぱきっ――
ぱきっ――
と、繊細な亀裂音が静かに響く。
白い霧が足元から立ち昇る。
脛へ絡みつき、
膝まで這い上がり、
やがて生きている冷気の渦のように全身を巡り始めた。
周囲の風が変わる。
空気が重くなる。
鋭くなる。
黒髪が白い渦に煽られ、ゆっくりと揺れた。
そして濃くなり続ける霧の中心で――
低い声が響く。
「セットチェンジ――」
ゴォォォッ――
白い渦が一気に膨れ上がった。
全身を包み込むほどの冷たい光。
黒い外套はその光の中へ飲み込まれる。
結晶の霧はさらに加速し、
ラインマーの姿は外からほとんど見えなくなった。
そして、次の瞬間――
轟風が全方位へ弾け飛ぶ。
ブォォォォッ――!
白霧が吹き払われた。
その場に立っていたのは――
もはや先ほどまでのラインマーではなかった。
髪は銀白色へ変わっている。
身に纏うのは、黒と白を基調としたロングコート。
胸元には大きな星の紋章が刻まれ、全体には細い金の装飾線が優雅に走っていた。
その制服は端正で重厚だ。
華美さを誇示するためのものではない。
数え切れない戦場を越えてきた歴戦の指揮官を思わせる風格がそこにはあった。
何も語らずとも、人を自然と遠ざけるほどの威圧感。
その存在だけで、狭い山道は冷気に支配される。
ケイルは思わず目を見開いた。
前方の盗賊たちでさえ、一瞬動きを止める。
ラインマーは胸元で黒い手袋を軽く整えながら、ゆっくりと腕を下ろした。
そして鋭い眼差しを三人へ向ける。
その声は以前よりも重く、
静かで、
そして遥かに恐ろしかった。
「さて――」
一歩、前へ出る。
「この戦いを終わらせよう」




