第三十二話
ラインマーの呼吸は、まだ整っていなかった。
足元で薄い砂塵が再び舞い上がる。
胸が重く上下する。先ほどまで続いた連撃の痛みすら完全には引いていない。その時だった。
耳が何かを捉える。
足音。
速い。
近い。
ラインマーの眉が鋭く下がった。
思考が追いつくより先に、本能が反応する。勢いよく左へ顔を向け――その瞬間には、巨大な影が視界を覆っていた。
目が見開かれる。
あまりにも近い。
巨漢の盗賊が振り抜いた拳は、その距離だからこそ異様なまでに大きく見えた。隆起した腕の筋肉が硬く張り詰め、乾いた山道の空気さえ裂くような凶暴な勢いで一直線に迫る。
避けられない。
――ドゴォッ!!
容赦ない一撃が顔面を打ち抜いた。
首が横へ弾かれる。
身体は地面から浮き上がり、そのまま荒れた山道脇の岩壁へと激しく吹き飛ばされた。
――ズドォォォン!!
岩壁が大きく震えた。
ラインマーの身体が叩きつけられた衝撃点から亀裂が走り、砕けた岩片が四方へ弾け飛ぶ。濃い土煙が巻き上がり、高い断崖に挟まれた狭い空間を瞬く間に埋め尽くした。
飛び散った小石のいくつかは、隊商の馬車の側面へと当たる。
「お父様ぁっ!!」
ケイルの叫びが馬車の中から響いた。
小さな身体が反射的に前へ乗り出す。窓枠を掴んだまま、顔は真っ青だった。
隊商の後方を覆う土煙へ視線を向けるが、ラインマーの姿は見えない。
聞こえるのは、崖から崩れ落ちる岩の音だけだった。
「ラ、ラインマー様っ!?」
隊商の前方では、カエラの意識も大きく揺らいでいた。
先ほどの凄まじい衝突音が山道を震わせた瞬間、反射的に後ろを振り返ってしまったのだ。
だが、その一瞬の隙で十分だった。
二人の剣持ちの盗賊が同時に動く。
「死ねぇっ!!」
二振りの大剣が高々と振り上げられ、容赦なく振り下ろされた。
狙いは真っ直ぐカエラの身体。
少女の頭上にある虎耳がぴくりと震える。
本能が危険を叫んだ。
カエラはわずかに遅れながらも即座に向き直る。
そして二本の刃が落ちてくる直前、アストラ・ヴォレアを素早く構えた。
――ガァァァン!!
激しい金属音が空気を震わせる。
三本の刃が激突し、火花が激しく散った。
「ぐっ……!」
凄まじい圧力に押され、足が砂混じりの地面を大きく滑る。
右手はアストラ・ヴォレアの柄を力の限り握り締め、左手も刀身の中央付近を支えて衝撃を受け止めた。
体勢は万全ではない。
後ろを振り返った影響で、構えがわずかに甘くなっていた。
そして盗賊たちは、その隙を見逃さなかった。
「さっきまでの威勢はどうしたぁ!?」
「半獣の使用人風情が!」
「一人で俺たち全員を相手にできると思ったのか!?」
カエラの表情が引き締まる。
眉を寄せ、歯を食いしばりながら、上からの重圧に耐え続けた。
耳障りな金属の軋みが響く。
剣が擦れるたび、火花が目の前で小さく弾けた。
だが――
その瞳が少しずつ変わっていく。
呼吸が落ち着きを取り戻した。
押し込まれていた足も、荒れた大地へしっかりと根を下ろしていく。
そして次の瞬間。
カエラは手首を鋭く捻った。
――ギャリィッ!!
アストラ・ヴォレアへ加わる力の向きが突如として変化する。
予想外の角度から流された圧力に、二本の大剣がわずかに軌道を外された。
その一瞬を見逃さない。
カエラは即座に後方へ跳び退いた。
衝突していた刃を引き剥がしながら、数歩分の距離を一気に取る。
舞い上がった砂塵が後を追う。
数メートル離れた位置で着地すると、片膝をわずかに落とした低い構えを取った。
アストラ・ヴォレアが再び身体の前へ掲げられる。
緑色の刀身の切っ先は真っ直ぐ敵へ向けられていた。
呼吸は先ほどより重い。
それでも、その瞳の鋭さは失われていない。
次の攻撃がいつ来ても迎え撃てるように。
馬車の中で、ケイルの呼吸は数分前よりもずっと浅くなっていた。
厚い木壁の向こうから、外の戦闘音がかすかに聞こえてくる。
金属がぶつかる音。
荒々しい足音。
武器同士が擦れ合う音。
さらに崖の奥から響く落石音まで混じり合い、絶えず耳を打っていた。
だが、それら以上にケイルの意識を掻き乱しているものがある。
先ほど、ラインマーが吹き飛ばされた光景だった。
岩壁へ叩きつけられたあの瞬間が、何度も脳裏に蘇る。
「わ、若様……どうすれば……?」
御者の震えた声が前方から聞こえた。
ケイルはすぐに顔を向ける。
中年の男の顔は青ざめていた。手綱を握る手は硬直し、荒い呼吸を繰り返しながら何度も隊商の後方を振り返っている。
「ラインマー様がまだ瓦礫の中から出てこられません……このままでは、一体どうすれば……」
「僕は……」
答えようとして言葉が止まった。
膝の上で握り締めた拳に力が入り、指の関節が白くなる。
(僕はどうすればいい?)
(外に出るか?)
(いや……)
今出て行って盗賊に捕まれば、状況はさらに悪化する。
ラインマーもカエラも、自分を守るために完全に意識を奪われてしまうだろう。
(くそ……)
(くそっ……)
(どうしてこの身体は何もできないんだ)
(何か使えれば……)
(炎でも)
(転移でも)
(結界でも)
(何でもいい)
(たった一撃でも放てれば――)
頭の中に、理解できないイメージが次々と浮かび上がる。
魔法陣の閃光。
掌を流れる熱。
かつて自分の中に存在していた何かの感覚。
だが、それを掴もうとした瞬間――
何もない。
まるで答えは目の前にあるのに、厚い霧に遮られて触れられないかのようだった。
「若様だけでもここから逃がした方がいいのでは!?」
御者が再び声を上げる。
「このまま待っていては――もし盗賊どもが馬車の中に入ってきたら――」
「少し静かにして……」
ケイルは低く制した。
呼吸がさらに重くなる。
視線を落とし、どうにか頭を冷静に働かせようとする。
だが胸の内には、自分の無力さへの苛立ちばかりが膨らんでいた。
そして、その時だった。
ふと視線が止まる。
ラインマーが先ほどまで座っていた席の近くに、何かが置かれていた。
小さな瓶。
透明なガラス容器の中で、濃い赤色の液体がゆっくりと揺れている。
ケイルは数秒間、そのまま見つめた。
わずかに眉が動く。
(あの瓶……)
ごくりと唾を飲み込む。
なぜだろう。
この混乱が始まってから初めて、自分にもできることがあるかもしれないと思えた。
危険かもしれない。
無謀かもしれない。
それでも視線は瓶から離れない。
まるで無意識に何かを考えているかのようだった。
(薬か……?)
(毒か?)
(それともただの飲み物……?)
しかし見れば見るほど、奇妙な感覚が強くなっていく。
まるで何かが、その瓶を手に取れと囁いているようだった。
ゆっくりと手を伸ばす。
指先が冷たいガラスに触れた――
その瞬間。
視界が変わった。
目の前に薄い光の膜が浮かび上がる。
【マイナー・フィジカル・リカバリー・エリクサー】
【効果:肉体疲労の回復。軽度から中度の負傷の治癒を促進。さらに一定時間、筋力を一時的に向上させる。】
【警告:重度の内傷を負った使用者には効果が減衰する。】
ケイルの目が大きく見開かれた。
(……何だ、これ?)
文字列はまるでゲームのインターフェースのように、空中へ浮かんでいる。
あまりにも現実離れした光景だった。
それなのに。
そこに書かれた内容だけは、不思議なくらい自然に理解できた。
ケイルは瓶を握る手に力を込める。
心臓の鼓動が、急速に速くなっていった。
(これなら使える……)
(少なくとも……助けにはなるかもしれない)
(たぶん……)
ケイルは息を止めた。
危険なのは分かっている。
今の状況で馬車の外へ出るということが、自ら命を危険に晒す行為だということくらい理解していた。
(でも、このまま何もしなかったら――)
脳裏に、先ほどの光景がよみがえる。
ラインマーが岩壁へ叩きつけられた姿。
(もういい)
ケイルは勢いよく立ち上がった。
「わ、若様っ!?」
御者が慌てて振り向く。
ケイルが馬車の扉へ向かうのを見て顔色を変えた。
「お待ちください! 外へ出てはいけません! このまま中に――もし若様に何かあれば――」
馬車の扉が開かれる。
冷たい風と砂塵が一気に吹き込み、ケイルの頬を打った。
小さな身体は振り返ることなく馬車から飛び降りる。
「若様ぁっ!」
御者の叫びが背後へ遠ざかっていった。
そして、ほぼ同時に――
「ん?」
一人の盗賊がケイルの存在に気付いた。
「ガキだと!?」
「子供を連れてやがったのか!」
「ハハハッ! やっぱり商人貴族だったか!」
隊商の周囲から下卑た笑い声が上がる。
盗賊たちの視線が、馬車の脇を駆け抜けていくケイルを追った。
「あれが息子じゃねえのか!?」
「あのガキを捕まえりゃ終わりだ!」
隊商の前方で、カエラの虎耳がぴくりと動く。
視線だけを後方へ向けた。
そこにいたのは――
何かを握り締めながら、本当に馬車から飛び出してきたケイルの姿だった。
一瞬だけ表情が揺れる。
「若様……」
だが、剣を下ろすことはできない。
目の前の二人の盗賊は今も隙を窺い続けている。
こんな相手を前に持ち場を離れることなど不可能だった。
静かに息を吐く。
その瞳は再び鋭さを取り戻した。
(若様が自ら動くことを選んだのなら……)
(私は信じるしかない)
ケイルは走り続ける。
隊商の後方はいまだ砂塵に覆われていた。
ラインマーが吹き飛ばされた崖際へ近づくにつれ、崩れた岩壁から小さな石片がぱらぱらと落ちてくる。
「お父様!」
瓦礫の前へ辿り着いた瞬間、足が止まった。
ラインマーは大きな岩に半ば埋もれるような状態で倒れている。
外套はあちこちが裂けていた。
額の上部から流れた血がこめかみを伝い、耳元まで赤く濡らしている。
呼吸も重い。
それでも――
目はまだ閉じていなかった。
そしてケイルの声を聞いた瞬間。
ラインマーの瞳が動く。
「……ケイル……?」
掠れた声だった。
目の前に立つ息子の姿を認識した途端、眉が深く寄せられる。
「どうしてここに来た……?」
身体を起こそうと腕に力を入れるが、瓦礫に阻まれてうまく動けない。
「お父様は言ったはずだ……馬車の中で大人しくしていろと……」




