第三十話
冷たい風が荒れた岩場の隙間をすり抜けるように吹き抜け、乾いた砂埃を地面すれすれに舞い上がらせる。その風に煽られ、数頭の馬が落ち着かない様子でたてがみを振った。
馬車の扉が静かに開く。
カエラが降り立つ。
金がかった茶色の髪が山風に揺れ、黒いブーツが静かに岩だらけの地面を踏みしめた。その動きに緊張の色はまるでない。前方には五人の武装した盗賊たちが道を塞いでいるというのに。
隊商の前で、盗賊たちは互いに顔を見合わせた。
やがて一人、また一人と下卑た笑い声を漏らし始める。
「……はぁ?」
「おいおい……マジかよ」
「出てきたのがメイドだって?」
何人かが視線を交わし、くつくつと嘲るような笑いが広がった。
「最近の貴族は変わってんな」
「女を先に出すのかよ」
山道の脇から口笛が鳴る。
頬に長い傷跡を持つ髭面の男が、大きな笑みを浮かべながら前へ出てきた。その視線は隠そうともせず、カエラの身体を上から下まで舐め回すように眺めている。
「交渉したいなら簡単だぜ、お嬢さん」
斧の先がゆっくりと持ち上がり、後方の馬車を指した。
「その馬車の積み荷と魔晶石、それから金目の物を全部置いていけ」
「そうすりゃ、命くらいは見逃してやるかもしれねぇ」
その直後、後ろから下品な笑い声が続いた。
「そのメイドも置いていくならな!」
「ハハハハハ!」
だが、その喧騒の中で後方にいたフード姿の男だけは黙ったままだった。
じっとカエラを見つめる。
その目がわずかに細められた。
「……妙だな」
「ん?」
「あの女、落ち着きすぎている」
ケイルは馬車の中にいながらも、彼らの笑い声をはっきりと聞いていた。
安っぽい口調。
粗野な態度。
自分たちが状況を支配していると信じて疑わない者特有の自信。
ゆっくりと身体を前方へ寄せると、御者席へ繋がる狭い隙間の小さなカーテンをわずかに持ち上げた。
冷たい風が細く流れ込んでくる。
そこから、隊商の数メートル先の岩道に立つカエラの姿が見えた。
(……ん?)
ケイルの眉がわずかに上がる。
武装した盗賊たちに囲まれている人間には、とても見えなかった。
怒っているわけでもない。
緊張しているわけでもない。
馬車を降りてから、その表情はほとんど変わっていない。
片手を気楽そうに腰へ当て、もう片方の手は自然に身体の脇へ垂らしたまま。
まるで市場で騒ぐ子供たちでも眺めているかのような目で、盗賊たちを見ている。
(……なんであんなに余裕なんだ?)
ケイルは目を細めた。
(いや……)
(余裕があるだけじゃない)
(……カエラの立ち方そのものがおかしい)
落ち着きなく動く様子はない。
過剰な警戒もない。
背中越しに見ていても、その身体には一切の力みが感じられなかった。
(まるで最初から……)
(連中を脅威だと思っていないみたいだ)
そしてなぜだろう。
その静かな態度こそが、盗賊たちの笑い声を少しずつぎこちないものへ変えていった。
先ほどの髭面の男が眉をひそめる。
「おい」
「聞こえてねぇのか?」
「俺たちは今、お前に――」
「吠えるのは終わった?」
ようやくカエラが口を開いた。
静かに。
淡々と。
それなのに、山道を流れる空気がわずかに重くなったような錯覚を覚える。
琥珀色の瞳がゆっくりと持ち上がり、一人ひとりを見渡した。
「全員で来る?」
「それとも順番?」
「……は?」
前列にいた盗賊の一人が、手にした山刀をくるりと回しながら笑った。
「決まってるだろ」
にやりと口元が歪む。
「全員でだ」
「しかも――両側からな」
その言葉に、カエラの眉がわずかに動いた。
ほぼ同時だった。
後方の隊商側から荒々しい足音が響く。
最後尾の荷馬車が小さく揺れ、その背後の岩陰からさらに三人の男たちが姿を現した。
それぞれ短剣や鉄製の鉤を手にしている。
カエラの視線がそちらへ向く。
「……へぇ」
御者席に座っていた老御者が反射的に後ろを振り返った。
顔が強張る。
「まずい……!」
「嵌められた! 後ろにも別働隊がいるぞ!」
その反応を見た盗賊たちはさらに大声で笑った。
「俺たちが前に立ってるだけだと思ったのかよ!」
「全員がこっちに気を取られてたら、お前らの荷物は誰が守るんだ?」
「貴族の隊商なんて高価な品の宝庫だからな。俺たちは素人じゃねぇんだよ」
馬車の中にいたケイルも反射的に振り返り、窓際のカーテンの隙間から後方を覗いた。
そして案の定だった。
三人の盗賊たちは自信に満ちた笑みを浮かべながら、隊商の後方へと近づいていく。
ケイルの胸に小さな不安が広がった。
状況が変わるのが早すぎる。
ほんの数分前まで、これはよくあるファンタジーのイベントのようなものだと思っていた。
盗賊が現れる。
護衛が戦う。
それで終わり。
そんな単純な話だと。
だが今は違う。
妙な違和感があった。
カエラは落ち着きすぎている。
お父様もまったく慌てていない。
まるで最初から――
この盗賊団そのものを脅威だと思っていなかったかのように。
その時、再び馬車の扉が開いた。
ケイルは顔を上げる。
ラインマーがそこに立っていた。
長旅のせいで黒い外套にはわずかに埃が積もっていたが、その姿は相変わらず隙なく整っている。
そしてなぜか、その表情はケイルの予想よりもずっと穏やかだった。
「ケイル」
低い声が気楽そうに響く。
「お前は中で大人しくしていろ」
「え?」
ケイルはすぐに眉をひそめた。
「ちょっと待って――」
「お父様はすぐ戻る」
そう言い残し、ラインマーは反論する隙も与えず馬車を降りていった。
ケイルは困惑した顔のまま、その背中を見送るしかない。
本格的に頭が状況へ追いつかなくなってきた。
カエラは戦える。
そして今度はお父様まで出ていくというのか。
(こういう話の商人貴族って、普通は真っ先に慌てて誰かに助けられるのを待つ役じゃないのか?)
(なんでこの家族は揃って盗賊の方へ歩いていくんだよ。まるで全部まだ予定通りみたいに……)
「おいおい……」
後方にいた盗賊の一人が、近づいてくるラインマーを見て笑った。
「見ろよ」
「貴族様が自分から出てきたぜ」
「なんだ? 命乞いでもするのか?」
別の男も斧を肩へ担ぎながら口元を歪める。
「商人なんざ馬車の中で震えてりゃいいんだよ」
「死にたくねぇなら、俺たちはまだ優しい方だぜ」
「荷物を全部置いていきな」
ラインマーは数メートル手前で足を止めた。
それを見たカエラが、わずかに首を傾げる。
奇妙そうな表情だった。
馬車を降りてから初めて、彼女は本当に困惑したように見えた。
「……旦那様? 何をなさっているのですか?」
ラインマーは気軽に視線を向ける。
「お前は前を頼む」
「こちらは私が片付けよう」
カエラは一瞬黙り込んだ。
「……本気ですか? 相手は盗賊ですよ」
「旦那様が戦えるなんて知りませんでした」
ラインマーの口元がわずかに持ち上がる。
「主人を見くびっているな?」
「私にも若い頃というものがあったんだ」
左右の手にはめていた革手袋をゆっくり外し、そのまま何事もないように盗賊たちへ歩み寄る。
少しの迷いもない。
「それに――息子の前で格好の悪いところを見せるつもりもない」
それを聞いたケイルは思わず口を開いた。
「……はぁぁぁっ!?」
一方、その言葉を聞いた盗賊たちはさらに大笑いした。
「ハハハハハ!」
「聞いたかよ!」
「このオッサン、英雄にでもなるつもりらしいぜ!」
「都合がいいな。こっちから追いかける手間が省ける」
だが笑いながらも、彼らの雰囲気は少しずつ変わっていた。
口調には依然として嘲りが混じっている。
それでも武器の構え方は素人のものではない。
足の置き方。
互いの間合い。
絶えず相手を観察する視線。
確かに盗賊ではある。
だが、ただの愚かな野盗ではなかった。
隊商の前方で、カエラは小さく息を吐いた。
「もう十分」
その声は先ほどまでよりも冷たくなっていた。
「あなたたちのくだらない話に付き合っている暇はないの」
「本当に奪いたいというなら――まず私を越えてみなさい」
前方の盗賊たちの笑い声がぴたりと止まる。
「……は?」
一人の男が首筋に青筋を浮かべながら前へ出た。
「このクソメイド……」
「俺たちが冗談でやってるとでも思ってんのか!?」
カエラは答えない。
ただ小さく一歩踏み出した。
右足を前へ滑らせ、身体をわずかに斜めに開く。
左手は背中の後ろへ。
右手だけを自然に身体の前へ掲げ、開いた掌を相手へ向けた。
軽い構えだった。
威圧感などほとんど感じられない。
だが、それゆえに盗賊たちの表情は険しくなっていく。
「こいつ……俺たちを舐めてるのか?」
「片手だけだと?」
「ふざけやがって……!」
馬車の中では、ケイルがいつの間にか横窓の布を押し上げ、身を乗り出すようにしてカエラの背中を見つめていた。
目は丸く開かれている。
そしてふと後方へ視線を移す。
すると――
ラインマーもまた、静かに構えを取っていた。
その動作には一切の無駄がない。
慌てる様子もない。
ゆっくりと重心を落とし、
左足を半歩前へ。
右足は後ろで身体を支え、岩だらけの地面の上でも揺るがぬ土台を作る。
右拳は軽く曲げた状態で前へ置かれていた。
高すぎず、低すぎず。
胴を守るのに十分な位置。
左拳は胸元へ引き寄せられ、右肘の下へ斜めに添えられる。
整った構えだった。
そして、それは素人の目にはどこか見慣れないものでもあった。
少なくとも――
初めて戦いに触れる人間の立ち方ではない。
ケイルは数秒間、完全に言葉を失った。
「……お父様……」
ラインマーの前に立つ盗賊も目を細める。
「面白ぇな……」
「戦ったことがあるのか?」
ラインマーはわずかに微笑んだ。
「少しだけな」
「だが、勇気を失っていない限り――」
両拳がゆっくりと固く握られる。
「お前たちを恐れる理由はない」
「二人とも殺せぇぇぇ!!」
先頭の盗賊が真っ先に飛び出した。
岩道を駆け下りながら腰の錆びた短剣を抜き放つ。
足取りは重い。
だが十分に速い。
革靴が地面を蹴るたび、小石が弾け飛んだ。
最初の斬撃がためらいなくカエラの首を狙う。
ヒュッ――
カエラはわずかに首を傾けただけだった。
鈍い刃が頬先をかすめるように通り過ぎる。
振り抜かれた剣風が長い金茶色の髪を揺らしたが、それもすぐに静かに頬の脇へ戻った。
男は止まらない。
腰を強く捻り、その勢いのまま二撃目へ繋げる。
今度は横薙ぎ。
体重ごと押し込むような乱暴な一撃だった。
力で防御ごと叩き潰すつもりなのだろう。
だが、その刃が間合いを埋めようとした瞬間――
カエラが動いた。
後退ではない。
むしろ半歩だけ前へ滑り込み、相手の中心線へ入り込む。
短く。
無駄なく。
右手がほとんど予備動作もなく持ち上がり、男の手首を外側へ押し流した。
あまりにも小さな動きだった。
見逃してしまいそうなほどに。
それでも十分だった。
刃道がわずかに逸れる。
ほんの数センチ。
だが致命的な数センチ。
そして同時に――
ドッ――
至近距離から放たれた短い拳が、男のみぞおちを正確に撃ち抜いた。
男の呼吸が一瞬で途切れる。
目が大きく見開かれた。
巨体が反射的に折れ曲がり、剣を握る腕から力が抜け落ちる。
しかしカエラはそこで立ち止まらなかった。
最初の男の身体が崩れ落ち、視界を塞ぎ始めた頃には、すでに次の脅威へ意識を向けている。
肩をわずかに回し、左側から迫る気配へ身体を合わせた。
別の刃が鋭く閃く。
腰を狙った一撃。
カエラは短く一歩ずれた。
黒いエプロンの前を斬り裂くはずだった刃は、虚しく空気だけを切る。
二人目の盗賊は即座に追撃した。
今度は下段から肩口へと斬り上げる。
先ほどよりも荒々しく、
先ほどよりも強引に。
連続攻撃でカエラを押し下げようとしていた。
だが、その一撃に十分な力が乗るよりも早く――
カエラの右手が先に男の手首を捕らえていた。
ガシッ――
次の瞬間、カエラの肘が至近距離から男の胸を打ち抜く。
短く鋭い衝撃。
それだけで相手の攻撃の流れは完全に断ち切られた。
盗賊の身体が半歩後ろへよろめく。
呼吸が乱れる。
だが、カエラは一切の隙を与えなかった。
手首を制したまま、
次の拳が短く跳ね上がる。
喉元へ。
「がっ――!?」
男の口から苦しげな声が漏れた。
反射的に顔が上がる。
その瞬間――
ドゴッ――
容赦のない直拳が顔面へ真っ直ぐ叩き込まれた。
鼻から鮮血が飛び散る。
男の身体は後方へ吹き飛ばされた。
だが、その男が地面へ倒れ込むより早く、
すでに別の足音が右側から迫っていた。
三人目の盗賊だ。
短斧を頭上高く振り上げながら突進してくる。
「死ねぇぇぇッ!!」
斧が勢いよく振り下ろされる。
しかし今度のカエラは正面から受けなかった。
身体をわずかに回転させ、斬撃の軌道から滑るように外れる。
黒いメイド服の裾が腰の捻りに合わせてふわりと揺れた。
左足を軸にした小さな回転。
そして――
ドンッ――
横薙ぎの蹴りが、斧が地面へ届くより先に男の脇腹へ突き刺さった。
重く鈍い衝撃音。
盗賊の身体が横へ吹き飛ぶ。
そのまま道端の岩へ激突した。
ガンッ、と大きな音が響く。
斧が手から離れ、地面へ転がった。
あまりにも速い。
馬車の窓から見ていたケイルも思わず口を開く。
「……なんだよ、それ……」
目で追うのが難しい。
カエラの動きは一つひとつが切れ目なく繋がっていた。
無駄がない。
淀みもない。
そして何より異様なのは――
彼女がまだ片手しか使っていないことだった。
左手は依然として背中の後ろ。
まるで、この程度の相手では本気を出す理由にもならないと言わんばかりに。
短い静寂が岩道へ落ちる。
聞こえるのは盗賊たちの荒い息遣いと、山風の音だけ。
そして――
ギリギリギリッ――
耳障りな金属音が空気を裂いた。
大柄な槍使いの男が、ついに前へ出る。
槍の穂先を岩の上で引きずりながら歩いていた。
石片が散り、小さな火花が道筋に走る。
急ぐ様子はない。
だが、そのゆっくりとした歩みこそが異質な圧力を生んでいた。
男の視線は最初から一度もカエラから離れていない。
顔ではない。
手でもない。
見ているのは足運び。
間合い。
肩の向き。
攻撃のたびに重心がどう移動するか。
そのすべてを観察していた。
最初に倒された盗賊が激しく咳き込みながら胸を押さえ、怒りに満ちた顔で剣を拾い上げる。
二人目も血混じりの唾を吐き捨てながら立ち上がった。
だが今度は違う。
もう無闇には突っ込まない。
二人の剣士が左右へ散開する。
攻撃角度を作るためだ。
斧使いはゆっくりと後方へ回り込み、死角を探り始める。
そして槍使いだけが正面から一定の歩調で近づいてくる。
槍は腰の高さで構えられていた。
長い穂先はまだ突き出されない。
それでも十分だった。
カエラの動ける範囲を少しずつ削り取っていく。
狭い岩道の中央へ留めるように。
そして戦いが始まって初めて――
彼らの連携にリズムが生まれ始めた。
左の剣士が先に動く。
低い斬撃が脚を狙って走った。
ほぼ同時に、反対側の男が胸元へ真っ直ぐ剣を突き出す。
回避先を塞ぐための攻撃。
単純な連携。
だが先ほどまでとは比べものにならないほど統制が取れている。
さらに右後方では斧使いもゆっくりと距離を詰めていた。
カエラの意識がわずかでも分散する瞬間を待ちながら。
それでも、カエラの瞳は静かなままだった。
全てを見ている。
足の動き。
攻撃前の肩のわずかな変化。
重心配分の揺らぎ。
槍使いが穂先を数センチ動かすたびに変わる指の力加減まで。
その観察から漏れるものは一つもない。
最初の薙ぎ払いが膝を狙って迫る。
刃が通過する寸前、
カエラは前に出していた足を引いた。
剣は彼女が立っていた場所だけを切り裂く。
同時に身体をわずかにずらし、二撃目の突きからも外れる。
剣先が頬をかすめそうな距離を通り過ぎた。
金がかった茶色の髪が、刃の風圧に煽られてふわりと舞う。
そして、ほとんど間を置かず――
カエラは相手の懐へ踏み込んだ。
右肘が最も近くにいた男の顎へ向かって鋭く走る。
動きは小さい。
予備動作もほとんどない。
だが、その男も決して素人ではなかった。
反射的に半歩だけ身を引く。
ガッ――
完全に避け切ることはできなかった。
カエラの肘は頬を強かに掠め、男の頭を横へ弾き飛ばす。
しかし、カエラが追撃へ移るより早く――
別の動きが右側から飛び込んできた。
斧使いだ。
ついに間合いへ踏み込む。
斧が水平に振り抜かれ、カエラの腰を狙う。
反撃直後の僅かな隙を狙った一撃だった。
カエラの視線が一瞬だけ軌道をなぞる。
すぐに足を引いた。
短い後退。
ほとんど避け切ったと言っていい。
だが――
ザッ――
斧の先端が黒いメイド服のスカートをわずかに裂いた。
布地が細く切れる。
戦闘が始まってから初めて――
カエラの動きが一瞬だけ止まった。
視線がゆっくりと下へ落ちる。
裂けた布地へ。
山風が吹き抜け、
揺れる切れ端を静かに揺らした。
「……なかなかね」
斧使いの顔が大きく歪む。
「ようやく当たっ――」
ドゴッ――
言葉は最後まで続かなかった。
カエラの裏拳が顔面を打ち抜いたのだ。
あまりにも速い。
頭が横へ弾け飛んだ後に、ようやく衝撃音が追い付いてくる。
男の身体が大きく傾いだ。
だが、今回の圧力は一人倒した程度では終わらない。
斧使いの体勢が崩れた瞬間、
一人目の剣士が低く潜り込むように前へ出た。
下から腹部を狙う刺突。
連携が繋がり始めている。
カエラは肩をわずかに捻った。
右手が短く落ちる。
男の手首を押さえ、突きの軌道を逸らす。
剣先は岩の地面へ突き刺さった。
そして、その瞬間――
ドッ――
カエラの膝が容赦なく跳ね上がる。
男の顔面へ直撃。
鈍い破砕音がかすかに響いた。
鮮血が岩道へ滴る。
盗賊の身体がわずかに地面から浮き上がった。
だが、その僅かな隙さえ見逃されない。
二人目の剣士が右側の死角から飛び出す。
ちょうどカエラの膝が下り切る前。
ゴッ――
剣の柄が肩を強打した。
衝撃でカエラの身体が半歩だけ横へ流される。
それを見たケイルが馬車の陰から思わず声を上げた。
「カ、カエラ!」
盗賊たちはその変化を即座に察知する。
「押し込め!」
「反撃させるな!」
そして戦闘開始以来、初めて――
彼らの攻撃が本当の意味で連携として機能し始めた。
誰かが下がれば、
別の誰かが即座にその空間を埋める。
休む暇もない。
絶え間なく位置を変えながらカエラを取り囲む。
角度を塞ぎ、
常に反応を強要する。
カエラは先ほど打たれた肩を軽く回した。
表情は相変わらず落ち着いている。
だが、その目は先ほどまでとは少し違っていた。
前方では――
ついに槍使いが本格的に戦いの流れへ加わる。
重い足取りが岩道を踏み締める。
長槍がゆっくりと持ち上げられた。
焦りはない。
無駄な力みもない。
だからこそ厄介だった。
その圧力は、他の三人よりも遥かに重い。
槍の穂先が小さく揺れる。
カエラの胸元。
喉元。
その位置を絶えず追い続けていた。
最も通りやすい一直線を探るように。
そして左右では二人の盗賊が再び散開する。
狭い山道の中央へ追い込むために。
槍使いがその中心。
戦いのリズムそのものになっていた。
「メイドの分際で随分と傲慢だな」
低い声が包囲の向こうから響く。
「一人で勝てるとでも思っているのか?」
カエラは右手首をゆっくり回した。
指の関節が小さく鳴る。
山風の中に乾いた音が溶けた。
「ただ不思議だっただけ」
「不思議だと?」
視線が静かに持ち上がる。
「どうしてそんなに殴られて、まだ立っていられるのかと思って」
槍使いの顎がぴくりと強張った。
「……潰せ」
怒鳴り声はない。
短い命令だけ。
それだけで残る三人が同時に動いた。
左から斬撃が走る。
右からは短斧が低く薙ぎ払うように迫る。
そして、その二つの攻撃の狭間を縫うように――
正面から長槍の穂先が真っ直ぐ突き出された。
先ほどまでとは明らかに違う速度。
乱暴な一撃ではない。
鋭く、
正確で、
一直線にカエラの中心線を貫こうとしている。
山道の土埃が舞い上がる。
三人の足がほぼ同時に地面を踏み締めたのだ。
三方向からの圧力。
逃げ場を塞ぐような連携。
だが、その三つの攻撃が届く直前――
カエラが動いた。
半歩。
槍の軌道から外れるように足を回す。
重心を低く落とし、その流れに身を任せる。
右手が短く走った。
最初の剣の側面を押し流す。
刃道が逸れ、肩の横を通り過ぎた。
そして、ほぼ同時に――
ガキィッ――
左肘が斧の柄を横から打つ。
重い一撃の軌道が強引に捻じ曲げられた。
斧は岩肌へ叩きつけられ、
激しい火花を散らす。
だが――
正面の槍だけは止まらない。
速い。
そして正確だ。
槍使いはカエラの回避を読んでいたかのように、穂先の軌道を微調整しながら追いかけてくる。
そして、その瞬間――
カエラはついに手加減をやめた。
後ろ足の踵が岩の上で静かに据わる。
重心がゆっくりと沈む。
戦闘開始以来、初めて。
背中へ回していた左手が前へ出た。
ヒュウゥゥ――
それまで谷間を吹き抜けていた山風が、不意に流れを変える。
金がかった茶色の髪がゆっくりと舞い上がった。
カエラの周囲へ風が集まり始める。
右手の掌に淡い緑色の光が灯った。
最初は小さな光の欠片。
嵐に巻き上げられる塵のように回転していた。
だが、その速度は次第に増していく。
光が線となり、
伸び、
凝縮される。
やがて一振りの細身の刃の輪郭を形作った。
槍使いが目を細める。
穂先があと僅かで届く距離。
その瞬間――
バシュゥゥンッ!!
圧縮された風が爆ぜた。
鋭い金属音が岩道に響き渡る。
カエラの手の中には、すでに一本の長剣が完成していた。
槍が止められる。
いや――
弾かれた。
淡い緑の風が剣身に沿って流れる。
穂先は強引に中心線から押し外されていた。
その剣は美しかった。
細身で無駄がなく、
まるで決闘士のために作られたかのような洗練された造形。
全長は騎士のロングソードにも近い。
しかし遥かに軽やかで、
高速戦闘に特化した鋭さを宿している。
柄には淡い緑色の結晶冠を思わせる紋様が刻まれていた。
柔らかな輝きが風のオーラの中で静かに明滅する。
決して派手ではない。
それなのに――
だからこそ危険だった。
その剣、
アストラ・ヴォレアが姿を現した瞬間。
カエラの構えもまた変わる。
前足が斜めへ開かれる。
相手に対して対角線の角度を取るように。
左肩はわずかに沈む。
身体は依然として力んでいない。
だが重心だけは、先ほどまでとは比べ物にならないほど安定していた。
剣は身体の右側で低く構えられる。
切っ先はわずかに後方へ。
静かな構え。
ほとんど隙が見当たらない。
まるで攻撃を受けるためではなく――
戦場そのものの流れを断ち切る瞬間を待っているかのようだった。
そして、
カエラが再び彼らへ視線を向ける。
その瞬間。
山道を支配していた空気が一変した。
もう先ほどまでの余裕や戯れはない。
その瞳にあるのは、
ただ冷たい静寂だけ。
それだけで、その場にいた盗賊たちの本能が反射的に警鐘を鳴らした。
カエラは静かに告げる。
「来なさい」




