第二十九話
三時間にわたり北の街道を進み、アストラヴェルへ向かうキャラバンはなおも走り続けていた。
鉄張りの車輪は絶えず回り、旅の終わりが近いことを示す気配はどこにもない。
ガタゴトと木製の車体が軋む音が一定のリズムを刻み、地面を踏みしめる衝撃に合わせて響く。その音に混じって、先頭を進む馬たちの足音が聞こえてきた。時折、手綱が揺れるたびに首元の小さな鈴が風に乗ってかすかに鳴る。
キャラバンの列は依然として長く続き、二台の馬車が並んで進めるほどの幅を持つ森林道を進んでいた。
道の両脇には背の高い木々が隙間なく立ち並び、ゆっくりと空を移ろう太陽に合わせて、その長い影が褐色の地面の上を静かに滑っていく。
馬車の右側の窓際では、ケイル・ラインマーが頬杖をつきながら、気だるそうに外を眺めていた。
その視線には生気がない。
ここ一時間ほど、目に映る景色はほとんど変わっていなかった。
木。
茂み。
また木。
たまに大きな岩。
そして、また木。
(……ファンタジー世界の人たちが旅の途中でモンスターに襲われる理由、ちょっと分かる気がするな)
退屈さの滲む思考が胸の内で漏れる。
(こんな旅、正気を保つ方が難しいだろ……)
はぁぁぁ……。
小さく息を吐く。
馬車は森の道の緩やかなカーブを抜けていく。
すると前方の木々の隙間から、少しずつ陽光が広がり始めた。
やがて森の境界を越える。
次の瞬間、窓の外に広大な景色が姿を現した。
キャラバンの進路からそれほど離れていない場所に、小さな湖が静かに広がっている。
透き通るほど澄んだ水面には昼の空が鮮明に映り込み、岸辺には淡い色の花々や野草が一面に生い茂っていた。それらは山から吹き下ろす風に揺れ、先ほどまでよりも少し冷たくなった空気を運んでくる。
小鳥たちが何羽か湖面すれすれを飛び、遠くの木立へと消えていった。
ケイルは数秒ほどその光景を眺める。
だが表情は変わらない。
(……まあ、悪くないか)
少なくとも、
(今は少し景色が変わったしな……)
湖を通り過ぎてしばらくすると、道の様子が徐々に変化し始めた。
地面は荒れ始め、
木々の数は減り、
空気もどこか乾いていく。
キャラバンはゆっくりと北方山岳地帯へ足を踏み入れていた。
緑豊かな大地は次第に荒涼とした褐色の岩地へと変わり、大きな岩塊や細かな亀裂が道のあちこちに見えるようになる。
左右には切り立った断崖がそびえ立ち、まるで巨大な壁が天然の回廊を形作っているかのようだった。
馬車の車輪の音が岩肌に反響する。
ガタッ……ゴトッ……
ガタッ……ゴトッ……
風は先ほどより重く、
そこに生える植物といえば岩の隙間にしがみつく小さな低木くらいしかない。
その景色はどこか空虚だった。
広大で、
そして理由の分からない居心地の悪さを感じさせる。
キャラバンは二つの断崖に挟まれた狭い道をゆっくりと進み続ける。
その時――
まるで視線だけが馬車の列から切り離されたかのように。
キャラバンを見下ろす高い断崖の上に、一人の男が静かに立っていた。
背筋は真っ直ぐに伸びている。
厚い革製の肩当てが付いた黒いロングコートが山風を受けて揺れ、その腰には金属製の小さな飾り紐や青銅のエンブレム、そして湾曲した短剣が提げられていた。
顔の半分は黒布で覆われている。
フードの影から覗く鋭い目だけが、その存在感を際立たせていた。
道端で小商人を襲うような薄汚れた盗賊とは明らかに違う。
纏う空気が整いすぎていた。
静かすぎるほどに。
男は腕を組みながら、下を進むキャラバンへ視線を向ける。
やがて低く重い声が風に溶けた。
「今日最初の獲物が、ようやく来たか」
◇ ◇ ◇
キャラバンの主馬車の中は、外とは比べものにならないほど快適だった。
天井から吊るされた小さなクリスタルランプが柔らかな金色の光を放ち、山道を進む馬車の揺れに合わせて静かに揺れている。
向かい側の席に座るカエラは、先ほどからずっと変わらない表情で窓にもたれているケイルを、こっそりと観察していた。
やがてカエラは小さく微笑んだ。
「若様はずいぶんお辛そうですね」
ケイルはすぐには振り向かない。
「……本当に退屈なんだよ」
返事だけはやけに早かった。
「まだ三時間しか経ってないのにこの状態だぞ? あと五時間もあるなら、家にいた方が絶対よかった」
「だからこそ、若様には忍耐を覚えていただかないと」
そう言われると、ケイルは少しだけ顔を背け、不満そうに眉を下げた。
「三時間って長いだろ、カエラ。もう半分くらいは着いててもいいし、せめて何か面白いものくらい見つかってもいいはずだ」
「面白いもの、ですか? 森や岩や、それからもっとたくさんの岩以外に?」
「その通り――」
反射的に答えかけたところで、慌てて咳払いをする。
「い、いや、そういう意味じゃなくてだな」
真面目な顔で本気で落胆している様子があまりにも分かりやすく、カエラは思わず笑いを堪えた。
ファンタジー世界の旅に夢を抱いていた少年が、現実を知ってしまったような顔だった。
馬車の反対側では、ラインマーが脚を組みながら静かに新聞を読んでいる。
広げられた紙面は顔のほとんどを隠しており、馬車が揺れるたびにわずかに揺れた。
ケイルはしばらく父親の方を見ていたが、やがて眉をひそめる。
「……父上、いつから新聞なんて持ってたんだ?」
「お前が十一回目の愚痴を言う前からだな」
新聞を一ミリも下ろさないまま、即座に返事が返ってきた。
カエラは思わず顔を伏せ、口元を隠す。
一方のケイルは納得がいかない様子だった。
「えぇー……そこまで言ってないだろ」
「最初の三十分で旅の残り時間を数え始めたぞ」
「だってこの旅そのものが罠なんだから」
ラインマーの片眉がわずかに上がる。
「誰に対する罠だ?」
「子供に対する罠」
その瞬間、ラインマーは初めて新聞を少しだけ下ろした。
そこから現れたのは、父親らしい忍耐に満ちた無表情だった。
「お前自身がまだ七歳だろう」
「そうだよ。まだ七歳だ」
ケイルは大きくため息をつき、再び馬車の壁に頭を預ける。
「それでもこの旅はきつい」
「辛抱しろ。そのうち慣れる」
そのやり取りを見ていたカエラは小さく微笑み、穏やかな声で言った。
「若様、もう少し落ち着いてください。この旅を我慢して乗り越えれば、その先にはきっと相応のご褒美がありますよ」
「そのご褒美がふかふかのベッドなら、まだ頑張れるかもしれない……」
「それ以上のものだと思いますけどね」
カエラが柔らかく付け加える。
ラインマーは再び新聞を広げた。
ケイルはその大きな紙面を数秒眺めた後、少しだけ身を乗り出す。
「ふーん……そんなに真面目に読んでるってことは、何か面白いニュースでもあるの?」
「いろいろだ」
ラインマーは落ち着いた手つきでページをめくった。
「東部地域のヴェラリス結晶の価格がまた上がった。先月の砂嵐以来、流通経路に支障が出ているらしい」
さらに別の記事へ目を移す。
「北部の小麦価格もかなり下落している。今年は豊作すぎたようだな」
カエラも姿勢を正したまま耳を傾ける。
「それなら中央都市のパン商人たちは喜びそうですね」
「今のうちはな」
ラインマーは小さく頷いた。
「安値が長く続けば、今度は農民が苦しくなる」
ケイルも背もたれに寄りかかったまま半分だけ真面目に聞いていた。
商業の話題そのものに強い興味があるわけではない。
それでも何時間も岩を眺め続けるよりはずっとましだった。
その後、ラインマーは別の記事へ目を通し――
小さく声を漏らした。
「ふむ」
「どうしたの?」
「また北方街道の記事だ」
ケイルが視線を向ける。
ラインマーは紙面を見ながら静かに読み上げた。
「ここ数週間、複数の商隊が盗賊集団に襲撃されたらしい。北門手前の山岳地帯で、馬車二台が行方不明になっている」
それを聞いたカエラがわずかに眉を寄せた。
「……私たちが今通っている道ですか?」
「おそらく、この辺りでしょう」
カエラがそう言う一方で、ケイルは意外なほど平然としていた。
怖がる様子もなければ、
慌てる様子もない。
むしろ別のことを考えていた。
盗賊。
キャラバン。
北方山岳街道。
(……いや、マジかよ)
(……ベタすぎるだろ)
ケイルは無表情のまま馬車の天井を見上げる。
前世の青川蓮司だった頃、こういう展開は漫画や小説で嫌というほど見てきた。
だからこそ、その先の流れまで容易に想像できてしまう。
(……どうせこの後は襲撃イベントだろ)
(……それで護衛たちが戦い始めて)
(……あるいはどこからともなく強者が現れる)
(……もしこの世界がもっとお約束に忠実なら、貴族の子供が人質になったりするかもな)
そこでふと考え込む。
数秒の沈黙。
(……まさか、この世界って本当にお約束通りに動いてたりしないよな?)
「どうしてそんな変なことを考えているような顔をしているんですか?」
カエラの声に、ケイルは我に返った。
「……別に」
そう答えると再び窓にもたれ、外の山道へ視線を向ける。
だが先ほどまでとは違い、その目にはわずかな興味が宿っていた。
少なくとも今は、
ただ退屈な旅ではなくなった。
少しだけ物語らしくなってきたのだから。
そしてまるで世界がその考えを聞き届けたかのように――
突如、馬車が激しく揺れた。
ドンッ――!
車輪が岩だらけの道で乱暴に停止し、キャラバン全体が大きく震える。
天井から吊るされたクリスタルランプが勢いよく揺れた。
前方では馬たちが高くいななき、前脚を持ち上げる。
張り詰めた手綱の音と御者たちの慌ただしい叫び声が外から響いてきた。
ケイルは反射的に座席の端を掴む。
危うく投げ出されるところだった。
「なっ――!?」
思わず目を見開く。
向かい側のカエラも突然の衝撃に身体を支え、ラインマーはゆっくりと新聞を下ろした。
先ほどまでとは違う。
その眼差しは鋭く状況を見据えている。
ほどなくして、外から年配の御者の声が聞こえてきた。
息が上がっているのがはっきり分かる。
「ラ、ラインマー様! ラインマー様!」
「道が塞がれています! 突然、キャラバンの前に現れました!」
先ほどまで落ち着いていたカエラも即座に扉へ視線を向けた。
その表情は一気に引き締まる。
一方、その頃――
キャラバンの外。
山道の中央には五人の男たちが立っていた。
二台の馬車がようやく並べるほどの狭い道を完全に塞いでいる。
彼らの何人かは剣や手斧を持ち、傷だらけの革鎧を身につけていた。
中でも大柄な男は鉄槍を岩の地面に引きずりながら、停止したキャラバンを見て獰猛な笑みを浮かべている。
「へっ……見ろよ、この馬車の大きさ」
「間違いなく大口の商隊だな」
「運が良けりゃ二か月は遊んで暮らせるぜ」
断崖の上にいたフードの男も、すでに彼らと合流していた。
その視線が主馬車の側面に刻まれたハウス・ラインマーの紋章――銀の棘に囲まれた黒い王冠――を捉える。
「馬鹿な真似はするな」
低く落ち着いた声だった。
「貴族の馬車なら護衛も並じゃない」
「だが、その分財布も分厚いってことだろ?」
一人の盗賊が下卑た笑いを漏らす。
すると槍を持った大男が一歩前へ出た。
そしてキャラバンへ向かって大声を張り上げる。
「よぉく聞けぇっ!!」
その怒鳴り声が断崖の間に反響した。
「大人しく降りてきて、金も商品もクリスタルも全部置いていけ!」
男は手斧を持ち上げ、主馬車を指し示す。
「従うなら、一台くらいは残してやってもいいぜ! 家まで帰れるようにな!」
周囲の盗賊たちがどっと笑った。
馬車の中では、カエラがすぐにラインマーへ視線を向ける。
「……新聞に載っていた連中でしょうね」
ラインマーはゆっくりと新聞を畳んだ。
「そのようだな」
ラインマーの声は驚くほど落ち着いていた。
おかげで馬車の中の空気も、不思議と切迫したものにはなっていない。
一方で、ケイルは別の意味で忙しかった。
また盗賊。
勘弁してくれよ……。
本当に、どこまでも見慣れたファンタジーの展開じゃないか。
とはいえ、ケイルの眉は少しずつ下がっていく。
問題はお約束そのものじゃない。
自分には何もないことだ。
(昔読んだ小説だったら、主人公はここでいきなり魔法を使ったり、剣を抜いたり、せめて敵を威圧するようなオーラくらい出すんだよな……)
(それに比べて俺は?)
七歳児の身体。
戦えない。
力もない。
人を殴ったことすらない。
ケイルは苛立たしげに窓の外へ目を向けた。
(少しくらい力があれば、あんな連中とっくに片付けてるのに)
(何もできないってのは、本当に腹が立つな……)
そんなことを考えていた時だった。
「そういえば……」
突然、カエラが口を開く。
脚を組みながら、窓の外へ視線を向けたまま言った。
「旦那様が私を今回の旅に同行させたのは、やはり正解でしたね」
ケイルが振り向く。
ラインマーはまるで意外でも何でもないように小さく頷いた。
「私もそう思う」
「北方街道は予想以上に危険だったようだ」
カエラはかすかに微笑む。
「もしあの御者さんだけだったら、もう少し面倒なことになっていたかもしれません」
そこでケイルは眉をひそめた。
(……待てよ)
(なんか急に話し方が変わってないか?)
(いつもと違うぞ)
妙だった。
明らかに。
「……ちょっと待て」
ケイルは父親とカエラを交互に見た。
「なんで二人とも、カエラがあいつらをどうにかする前提で話してるんだ?」
カエラは少しも動揺せずに答える。
「その予定ですので」
「え?」
今度こそ本気で理解できなかった。
「相手するって……一人で?」
「だいたいは」
カエラはさらりと言う。
「まだ大した人数ではありませんし」
「いつから戦えるようになったんだ!?」
思わず声が大きくなる。
これまで屋敷で見てきたカエラは、どこからどう見ても普通のメイドだった。
エアリンやアステリアより活発な性格ではあったが、それでも武装した盗賊相手に戦う姿など一度も想像したことがない。
まさか――
ケイルの目がじわりと細くなる。
「……もしかして二人とも、今まで俺に何か隠してたのか?」
カエラは一瞬だけ黙り、
それから小さく笑った。
「今ここで説明するには、少々長い話になりますね」
そう言ってラインマーへ視線を向ける。
「全部終わった後で、私と一緒に旦那様からご説明いただくのがよろしいかと」
するとラインマーはこめかみを軽く押さえた。
この先飛んでくるであろう質問攻めを、すでに想像しているようだった。
「そうだな……」
小さく息を吐く。
「いずれ話す時は来ると思っていた」
「おい」
ケイルの疑いは深まるばかりだ。
「俺だけ何も知らないみたいな言い方するなよ」
だがカエラは答える代わりに立ち上がった。
黒い手袋を整えながら、自然な動作で身支度を済ませる。
その仕草は軽やかだった。
慣れている。
そして何より――
これから武装した盗賊の集団と向き合う人間とは思えないほど落ち着いていた。
扉へ向かう途中、カエラは少しだけ振り返る。
「若様は先ほど、旅が退屈だと仰っていましたよね」
「え?」
「もし何か面白いものをお探しでしたら……」
口元にわずかな笑みを浮かべた。
「少しくらいは期待に応えられるかもしれません」
その言葉に込められた意味を、ケイルは即座に察した。
(待て)
(まさか――)
「それって、戦――」
「少し失礼します」
カエラはあっさりと言葉を遮った。
迷いなく馬車の扉へ手をかける。
「え、ちょっと待て!」
ケイルは思わず手を伸ばした。
「まだ最後まで言ってないんだけど!?」
だがその頃には、カエラはすでに馬車を降りていた。
別に無視したわけではない。
ただ彼女にとっては、
中で話を続けるよりも、
外の問題を片付ける方が先だった。
実用的で、
無駄がなく、
そして常に最短で本題へ向かう。
それがカエラという少女だった。




