表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
28/29

第二十八話

村の空気は、昨日の夕暮れよりもいくぶん冷たくなっていた。


ハウス・ラインマーを包み込んでいた橙色の残光も、ゆっくりと夜の帳へと姿を譲り始めている。


そして、自室の扉が閉まった直後――


どさり。


ケイル・ラインマーはそのままベッドへと身を投げ出した。


「……やっと終わった」


低く気だるい声が、窓の外から差し込むわずかな夜明かりだけに照らされた薄暗い部屋の中へ溶けていく。


彼は仰向けになったまま動かず、両腕を体の脇へ投げ出しながら天井の木目を見つめた。


ここ数年、嫌というほど見慣れた景色だ。


どうやら台所で扱っていた薬草の匂いが、まだ服や髪にかすかに残っているらしい。


ケイルはゆっくりと顔をこすり、それから長いため息を吐いた。


「はぁぁぁぁぁ……」


「……また薬草の匂いか。このままだと……」


そう呟きながら服の裾を少し持ち上げ、軽く匂いを確かめる。


次の瞬間、表情はすっと無になった。


「明日には髪まで植物臭くなってそうだな」


半ば寝言のような小さな独り言だった。


今日は本当に、いつもより騒がしい一日だった気がする。


アステリアが妙に張り切っていて、基本的な薬草の見分けすらできない子供扱いを何度もされたせいか――


「色がちょっと違うだけだろ……」


――それとも、夕方からの家の空気そのものが落ち着く暇もなかったからか。


そのことを思い出し、ケイルの口元がわずかに緩む。


アストラヴェルへ本当に行くと知ったときのアステリアの顔が、今でもはっきりと脳裏に浮かんだ。


「……大げさなんだよな」


片目を閉じ、小さく息を吐く。


「行くのは俺なのに、なんであいつの方が慌ててるんだか……」


そう言いながらも、その声に苛立ちはまったく含まれていなかった。


むしろ胸の奥には、うまく言葉にできない軽やかな感覚が残っている。


部屋は再び静寂に包まれた。


聞こえるのは夜風の音と、冷えた空気に触れて家の木材が時折きしむ音だけ。


そして彼の思考は、今日一日何度も耳にしたある名前へと自然に引き寄せられていく。


アストラヴェル。


ケイルは少しだけ首を傾け、再び天井を見上げた。


「んー……アストラヴェル、か。すごく大きな街らしいけど……」


目を細める。


「……騒がしそうだな」


一度目を閉じる。


「まあ、なんだかんだ言って気にはなるけど」


だが不思議なことに、その好奇心は周囲の人々のような高揚感には繋がらなかった。


幼い頃から、その街の名前は何度も聞かされてきたのだから。


最大の商業都市。


貴族たちの集う街。


名高い魔法学院。


眠ることのない巨大な区画。


遠くからでも見える白亜の大塔。


村人たちにとって、アストラヴェルはまるで物語の中にしか存在しないような場所だった。


しばらく黙り込んだあと、ケイルは小さく舌打ちする。


「結局は街なんだろ……?」


だからこそ、彼の期待は驚くほど平凡だった。


「どうせよくあるファンタジー世界の中世都市ってやつだろ」


薄暗い部屋の空気へ向けて、ぽつりと言葉が零れる。


天井を見上げたままの視線とは裏腹に、思考は前世で散々触れてきた物語の数々へと飛んでいた。


こういう流れは嫌というほど知っている。


巨大な城壁に囲まれた大都市。


若い貴族たちが集まる名門学院。


いつも人で賑わう広大な市場。


「冒険者ギルドがあって、変なローブ着た魔法使いがいて、何のためにやってるのかわからない大会があって、強い奴らがしょっちゅう騒ぎを起こす」


そう言いながら、ケイルは天井を見つめたまま小さく息を吐いた。


「そういう場所って、だいたい最後は面倒事になるんだよな」


違うのは街の名前や学院の制服、それから主人公の髪色が少し変わる程度だ。


独自性があるように見せるために。


「……結局また学院か」


投げやりな声音が漏れる。


「そのうち変な貴族が絡んできて――」


そこで一度言葉を切り、


「主人公も巻き込まれる。最初は平和に暮らしたいだけだったのに、ってやつだな」


そんな光景を数秒ほど思い浮かべる。


広い学院の廊下。


生徒同士の騒動。


貴族たちの陰謀。


政治的な対立。


そして魔法。


考えれば考えるほど、どこかで見たようなテンプレートそのものだった。


ケイルは片手で顔の半分を覆う。


「まさか俺の人生までそんなジャンルにならないよな……」


その考えが浮かんだ瞬間、眉がぴくりと寄った。


貴族の息子。


平穏な田舎暮らし。


大都市へ移住。


学院へ入学。


そして自分とは無関係だったはずの妙な騒動に巻き込まれていく。


それだけでも十分なのに――


もしそこへ、ヒロインまで一人ずつ現れ始めたら。


そんな光景を想像しただけで、ケイルの表情はわずかに引きつった。


「……いや、ないない。それだけは勘弁してほしい」


即答だった。


「そんな生活は嫌だ。絶対疲れる」


毎日あんな騒がしさの中で暮らす自分など、想像するだけでも面倒だった。


本当に面倒くさい。


顔を覆っていた手をゆっくりと下ろし、そのまま宙へ掲げた自分の手のひらへ視線を落とす。


しばらくの間、ただ黙ってそれを眺めていた。


「……とはいえ」


目を細める。


「……俺自身、何か持ってるのかどうかもわからないんだけどな」


自分が他人と違うことは知っている。


この意識。


前世の記憶。


そして物事の考え方。


だが、それ以外に特別だと思えるものは、今のところ何一つ見つかっていなかった。


不思議な力もなければ、飛び抜けた才能もない。


追い詰められた瞬間に突然目覚める謎の能力なんてものも存在しない。


「ちょっと期待外れなんだよな」


「普通、転生キャラって最初から強いだろ……」


落胆したような口調ではあったが、本気で落ち込んでいるわけではない。


「せめて変な能力くらいくれてもいいのに」


そう言いながら、何か現れないかと期待するように手を軽く持ち上げる。


数秒が過ぎた。


だが、何も起こらない。


「……ほらな」


「せめてシステム通知とかレア魔法とかさ」


そう言ったあと、少しだけ考え込むような間を置き、ぽつりと呟いた。


「……ステータス、オープン」


部屋は静かなままだった。


目の前に半透明の画面が現れることもない。


ファンタジー作品によくあるような謎の音声や浮かぶ文字なども当然ながら存在しなかった。


数秒の沈黙。


そして再び独り言を漏らす。


「くそ……やっぱりないか」


「いや、もしかして解放条件でもあるのか?」


少し考える。


「んー……それはありそうだな」


不思議なことに、その現実はそこまで残念でもなかった。


案外、自分の人生はただの普通なのかもしれない。


だからこそ今の日々は、前世の慌ただしい人生よりもずっと穏やかだった。


あるのは冷たい山の夜風。


素朴な木造の家。


台所から残るかすかな薬草の香り。


そして、少しずつ本当の家族のように思えるようになってきた人たち。


その考えに、ケイルの眼差しはわずかに柔らかくなる。


だが、ほどなくして再びアストラヴェルの光景が頭をよぎった。


高くそびえる白い塔。


広い街路。


まだ自分の目で見たことのない賑やかな区画。


これまで人づてにしか知らなかった外の世界。


ケイルは枕の上でゆっくりと首を傾けた。


「……まあ、いいか」


そう呟きながら毛布を少しだけ引き上げる。


そして目を閉じた。


「明日見ればわかるだろ。何か面白いものがあるといいけど……面倒事だけは勘弁してほしいな」


少し間を置いて、


「……なんか嫌な予感がするし」


本当に、少しだけ。


家の外から聞こえていた物音も、呼吸が整うにつれて次第に遠ざかっていく。


そして気づかないうちに、一日かけて積み重なった疲労が意識をゆっくりと引きずり込み、穏やかな眠りへと沈めていった。


翌朝は、いつもより早く訪れた気がした。


朝日が窓のカーテンを透かして差し込み始めた頃には、ケイルはすでに部屋の鏡の前に立っていた。


その背後では、柔らかな手が忙しそうに服の襟元を整えている。


「少しじっとしてなさい」


「さっきから動いてないけど」


マリアーネは笑みをこらえながら、なおも襟を直し続ける。


「体が動いてるわ」


「それは呼吸してるからだろ」


あまりにも真顔な返答に、マリアーネは思わず小さく笑いそうになったが、なんとか堪えながら今度は外套の折り目を丁寧に整えた。


その日のケイルの服装は、普段よりもずっときちんとしていた。


清潔な白いシャツの上に深緑色の落ち着いた貴族服を重ね、その上から膝丈の濃色の旅装用コートを羽織っている。


足元には、まだ新しさの残る黒いブーツ。


決して派手ではない。


だが一目見れば、それなりの家柄の出身だと分かる装いだった。


マリアーネは半歩下がり、上から下までじっくりと息子の姿を眺める。


「ふぅん……」


鏡越しにその様子を見ていたケイルが尋ねた。


「何か問題でもある?」


「別に」


そう答えながら、こめかみ近くで乱れていた髪をそっと整える。


「ただ、恋愛物語によく出てくる若い貴族様みたいに見えるなって思っただけよ」


その言葉に、ケイルは鏡の中の自分を数秒ほど見つめた。


「……え? 本気で言ってる? それ、面倒事の匂いしかしないんだけど」


「褒めてるのよ?」


「だからこそ、お母様が言うと余計に重みを感じるんだけど」


マリアーネはくすりと笑った。


「……別にいいじゃない」


その朝の部屋の空気はどこか軽やかだった。


おそらく、ケイルにとってこれほど遠くまで村を離れるのは初めてだからだろう。


「それで、どんな気分なの?」


マリアーネはゆっくりと彼の髪を梳きながら尋ねる。


「初めてのアストラヴェルよ。楽しみなんでしょう?」


ケイルは少し考えた。


「まだかな。今は期待値を下げようとしてるところ」


「がっかりするのが怖いの?」


「別に」


「じゃあ、楽しみじゃないの?」


「少しは」


相変わらず短い返事だった。


だがマリアーネには分かる。


息子の瞳の奥には、かすかな好奇心がちゃんと残っていることを。


彼女は微笑んだ。


「昔のお父様も、初めてアストラヴェルへ行くときはそんな感じだったわ」


「それで?」


「帰ってくるたびに、必要かどうか分からない物を山ほど買ってきたの」


「それ、俺もやりそう」


「ええ、間違いなく」


ケイルの口元もわずかに緩んだ。


身だしなみを整え終えると、マリアーネは再び彼の後ろに立ち、鏡に映る息子の姿をしばらく見つめる。


見れば見るほど否定しづらい。


自分の息子は、ずいぶん整った顔立ちに育ってしまった。


「今なら分かるわ。どうしてアステリアたちが小さい頃からずっとあなたにくっついていたのか」


ケイルの眉がぴくりと上がる。


「俺がよく餌付けされてたから?」


「それもあるけど」


マリアーネは楽しそうに続けた。


「きっとみんな、生まれた頃からこの家の若様が将来美男子になるって分かっていたのよ」


ケイルは鏡の中の自分を数秒見つめたあと、平然と答える。


「……その頃の俺、まだ歩けてもなかったと思うけど」


「それでもみんなあなたが好きだったわ」


小さく笑いながら言う。


「アステリアなんて、その頃からずっとあなたの周りで騒いでいたもの」


「それはかなり疲れる話だな……」


「でも今でも追い払わないでしょう?」


ケイルは少し黙り込み、面倒そうに肩を動かした。


「追い払うと余計にうるさくなるから」


「つまり?」


「結論としては――」


彼は真顔で言った。


「この顔に問題がある」


マリアーネはとうとう吹き出しそうになりながら、動こうとする息子の肩を軽く押さえた。


「……普通は格好いいって言われたら喜ぶものなのに。本当に変わった子ね」


「別に感謝してないわけじゃない」


「でも?」


ケイルは小さく息を吐き、再び鏡を見る。


「目立ちすぎると大体面倒になるから」


「どう面倒なの?」


「うるさい」


あまりにも即答だった。


そのせいでマリアーネは再び笑いを堪えることになる。


「まるで経験者みたいな言い方ね」


「別に」


ケイルは少し首を傾ける。


「ただ、顔がいい奴って変なことに巻き込まれやすそうだから」


「例えば?」


「女の子に囲まれるとか」


「それは良いことじゃない?」


「疲れそう」


あまりにも真剣な答えに、マリアーネはとうとう声を漏らして笑ってしまった。


一方のケイルは冗談を言ったつもりなどまったくなく、終始真顔のままだ。


「俺は静かに暮らしたいんだよ」


それ以上その話を続けることはなく、彼は鏡へ少し身を乗り出した。


右手で顎を支えながら、妙に自信ありげなポーズを取る。


なぜか様になっているのが余計に腹立たしい。


細めた目で鏡の中の自分を見つめる。


「ふむ」


マリアーネは口元を押さえた。


肩が小刻みに震えている。


「ケイル……」


「この顔、やっぱり将来性はあると思う」


「今、自分で自分を真面目に褒めた?」


ケイルは少しも恥ずかしがる様子を見せない。


鏡から目を離さないまま答えた。


「先に他人が言ったんだから、俺は同意しただけだろ」


マリアーネは呆れたように首を振る。


「本当に……時々あなたの話し方って年寄りみたいよね」


「知恵がありすぎる?」


「お母様は逆だと思うわ」


ケイルが何か言い返そうとした、その時だった。


こんこん、と控えめなノックが部屋の扉を叩く。


間もなく扉がゆっくり開き、エアリンが軽く頭を下げた。


「若様、奥様」


そして鏡の前に立つケイルを見た瞬間、その視線が一瞬だけ止まる。


ちょうど先ほどの妙なポーズの余韻が残っていたからだ。


「おや……もしかして、来るタイミングを間違えましたか?」


「いや」


ケイルは平然と手を下ろした。


エアリンの肩がわずかに揺れる。


危うく笑いそうになったのだろう。


だが次の瞬間には、いつもの落ち着いた表情へ戻っていた。


「馬車の準備が整いました。ラインマー様が皆様を外へお呼びです」


「早いな」


「村の方々も夜明け前から準備を進めていましたので」


マリアーネは小さく頷く。


「それなら行きましょう。またお父様が時間のことで文句を言い始める前に」


そうして三人は揃って部屋を後にした。


そして正面玄関の扉が開かれると――


前庭には、すでに慌ただしい空気が広がっていた。


ハウス・ラインマーの主馬車の前には、黒褐色の大きな馬が二頭、静かに佇んでいる。艶やかな黒木で造られた車体には各所に銀色の金具が施されており、上品さと堅牢さを兼ね備えた造りだった。アストラヴェルへと続く北方交易路を進む長旅のために用意されたものだ。


大型の車体側面にはラインマー家の銀の紋章がはっきりと刻まれ、御者席の近くに吊るされた鉄製のランタンは、朝の光の下でもまだ淡く灯っている。


車内は主要な乗客が長時間過ごしても不自由しないよう快適に設計されており、その後方には大型の荷車が連結されていた。そこには様々な交易品が積み込まれている。


木箱に樽、薬草の詰まった袋、さらにはクリスタル素材の入った箱まで。


夜明けから村人たちが絶えず荷運びを続けていたため、前庭は普段とは比べものにならないほど賑わっていた。


ラインマー家の紋章が描かれた濃色の天幕が荷の大半を覆い、旅の間も安全に運べるよう工夫されている。


初老の御者はすでに前方の席に腰掛け、手綱を握りながら気楽そうに全ての準備が終わるのを待っていた。


少し離れた場所では、ラインマー様が朝から荷物整理を手伝っていた三人の村人と話している。


一人は白髪が混じり始めた穏やかな顔立ちの老人で、残る二人は若く、力仕事に慣れた体つきをしていた。


「よし、これで全部終わりましたよ、ラインマー様」


「思ったより早かったな」


満足そうに頷いたラインマー様は、コートのポケットから小さな袋を取り出し、老人へ差し出した。


「これは君たちにだ」


老人は袋を開いて中を確認する。


その瞬間、目を大きく見開いた。


「り、ラインマー様……これは多すぎます」


後ろにいた二人も慌てて近寄り、中身を覗き込む。


「金貨十枚……? いつもはこんな額じゃありませんよ」


ラインマー様は苦笑しながら首を横に振り、老人の肩を軽く叩いた。


「ボーナスだと思ってくれ」


「ボーナスですか?」


「君たちは長年うちを支えてくれている。たまには少しくらい多く渡しても罰は当たらないだろう」


「ですが、それでも――」


「いいんだ」


穏やかな口調だったが、その一言には反論を止めるだけの力があった。


「数年前、一番厳しい冬でも手伝いに来てくれた人間が誰だったか、私はちゃんと覚えている」


三人は顔を見合わせる。


そして老人は深々と頭を下げた。


「……本当にありがとうございます、ラインマー様」


「どうか良い旅を!」


「北の街道にはお気をつけください。ここ数週間、隊商が盗賊に襲われたという話も聞いておりますので」


ラインマー様は軽く手を振った。


「まだあいつらに負けるほど歳は取っていないさ。それに――今回は戦いに長けた者も連れている」


「それでも油断なさらず!」


「わかっている。ありがとう」


「それでは、私たちはこれで失礼いたします」


「ああ、ご苦労だった」


三人は何度も礼を言いながら去っていく。


先ほどまでよりずっと明るい表情だった。


そして、その直後――


「おや。もう準備はできたのか?」


家から出てきたケイルたちの存在に、ようやくラインマー様が気づいた。


視線がケイル様の全身をゆっくりと見回す。


そして口元が徐々に緩んだ。


「……やはりな。私の息子は父親に似て実に格好いい」


最後に小さく笑う。


「今日はみんな同じことを言いますね」


「事実だからな」


隊商の近くに立っていたカエラは、そっと顔を横へ向けた。


だが口元はわずかに動いている。


一方のアステリアはというと、しばらく無言でケイル様を見つめ続けていた。


そして自分が黙りすぎていたことに気づく。


「こ、コホン」


慌てて背筋を伸ばす。


耳の先が少し赤くなっていたが、すぐに真面目な表情を作り直した。


「ケイル様は、その服がとてもお似合いです」


「お褒めいただきありがとうございます」


あまりにも落ち着いた返答だった。


だからこそ、アステリアは余計に落ち着かなくなってしまう。


「きゃああっ、ケイル様!」


マリアーネ様が近づいてきて、最後の確認と言わんばかりにケイル様のマントを整えた。


「ちゃんと時間通りに食事を摂るのですよ」


「僕は子供じゃありませんよ、お母様」


「お母様にとっては、いつまでも子供です」


「相変わらず、お母様の理屈には勝てませんね」


そのやり取りを見ていたエアリンが小さく微笑む。


「若様、どうか良い旅を」


「カエラが一緒だから、道に迷うことはたぶんないと思う」


「私が必ずそうします」


カエラはいつも通り短く答えた。


そしてケイル様が馬車へ乗り込もうとした、その直前――


そのとき、不意にアステリアが再び呼び止めた。


「ケイル様」


「ん?」


アステリアは数秒ほど何かを言い淀んだあと、いつもより少し早口で口を開く。


「……プレゼントのこと、忘れないでください」


視線を気恥ずかしそうに横へ逸らす。


頬もほんのり赤く染まっていた。


「約束しましたから」


ケイル様はしばらく彼女を見つめ、それから軽く頷く。


「覚えているよ」


「本当ですか?」


「ああ」


「絶対に忘れないでくださいね」


「そんなに何度も言われると、逆に忘れにくくなるな」


その言葉に、アステリアはぴたりと黙り込んだ。


すると隊商の前方からラインマー様の小さな笑い声が聞こえてくる。


「さて、ロマンチックなプレゼント談義も終わったことだし、そろそろ出発するとしよう」


「ろ、ロマンチックじゃありません!」


アステリアが慌てて否定する。


だがラインマー様はますます余裕そうだった。


「今の声色なら、ここにいる全員が聞いていたぞ」


「お父様!」


前方の御者でさえ、肩を震わせながら笑いを堪えている。


ケイル様は結局、ラインマー様と共に馬車へ乗り込んだ。


カエラは向かい側の席、小さな窓の近くへ腰を下ろす。


それから間もなく――


鉄の車輪が軋みながら動き始めた。


前方の黒馬たちが隊商を引き、ハウス・ラインマーの屋敷を後にする。


朝の活気が広がり始めた石畳の村道を進みながら、ゆっくりと北へ向かっていく。


マリアーネ様、アステリア、そしてエアリンは、彼らの姿が遠ざかっていくまで屋敷の前に立ち続けていた。


そして隊商が北へ続く丘道を下り始めた頃――


ケイル様は一度だけ後ろを振り返る。


アステリアはまだ屋敷の前に立ち、微笑みながらこちらへ手を振っていた。


その向こうでは、ラインマー家の大きな屋敷が少しずつ小さくなっていく。


これまでずっと自分の世界のすべてだった村とともに。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ