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第二十七話

 乾燥させた薬草と調合中の薬の香りがまだ部屋に漂うなか、外から重い足音が近づいてきた。


 やがてラインマーが数枚の書類と小さな巻物を手に持って入ってくる。


「おお、ここにいたか」


 視線はすぐに、まだ整理しきれていない薬草や薬の材料で埋まった机へ向けられた。


「いいな。こういう備蓄は、これから数週間かなり助かるだろう」


 ケイルは顔を上げた。


「何かあったんですか?」


「まあ……そんなところだな」


 ラインマーは木椅子を引いて腰を下ろし、長旅から戻ったばかりのように首の後ろを軽くさする。


「今月はアストラヴェルからの発注がかなり増えていてな。前回の収穫以来、村の倉庫もほとんどいっぱいだ」


「アストラヴェル?」


 ケイルは思わずその名を繰り返した。


 商人や旅人、そして村の外から来た者たちの話に必ずと言っていいほど出てくる大都市。


 貴族、軍、学院、そして数多くの大区画が一つの土地に集まる、この地方の中心都市だった。


 そのわずかな反応を、ラインマーは見逃さなかったらしい。


 かすかに口元を緩める。


「ケイル、興味があるのか?」


 できるだけ平静を装いながら答える。


「少しだけです」


「少しだけ、だって」


 机の上で小瓶を並べながら、アステリアが小さく呟いた。


「でもケイル様、アストラヴェルの名前を聞くたびに目の色が変わりますよね」


「アステリア」


 淡々とした声が返る。


 しかし当の本人はまったく悪びれた様子もない。


「私は事実を言っただけです」


 二人のやり取りに、ラインマーは小さく笑みを漏らした。


 そして手元の書類を一枚開き、短く息を吐く。


「本来なら今月の輸送も、いつも通り村の者たちに任せるつもりだった」


 そう言いながら、紙に並ぶ長い一覧へ目を落とす。


「だが、今回は荷の量が予想以上でな」


 ずっと扉の近くに静かに立っていたカエラが、その時ようやく顔を上げた。


「東ルートですか?」


「ああ」


 ラインマーは椅子にもたれかかる。


「アストラヴェルへ続く本街道を通ったのも、ずいぶん前になるな」


「若様がお生まれになる前が最後でした」


 カエラは迷いなく答えた。


 ラインマーが小さく笑う。


「よく覚えているな」


「忘れられるものではありません。当時は吹雪で山道の半分近くが埋まりかけていましたから」


「その話は勘弁してくれ」


 顔を軽くこすったあと、ラインマーはカエラを指差した。


「だからこそ、今回はお前にも同行してほしい」


 カエラはしばらく黙り込んだ。


 何かを思い出しているようだったが、やがて小さく頷く。


「主要なルートは今でも覚えています。おそらく――」


 その直後だった。


「ええっ!?」


 アステリアの声が厨房に響き渡る。


「カ、カエラがアストラヴェルへ行くんですか!?」


 ラインマーは困惑したように瞬きをした。


「……そうだが?」


「どうしてカエラなんですか?」


「道を覚えているからだ」


「私だって覚えられます!」


「お前はまだそこまで遠出したこともないだろう、アステリア」


「それは些細な問題です!」


「アステリア」


「私は本気ですよ!」


 そう言うなり、勢いよくケイルの方へ振り返った。


 まるで味方を求めるように。


「それにケイル様も……行きますよね!?」


 一瞬、部屋の空気が止まる。


 木の匙を持ったままだったケイルは、ゆっくりと瞬きをした。


「……僕、まだ何も言ってませんけど」


「ほら!」


 アステリアは大げさに指を突きつけた。


「その顔です! 絶対行きたい人の顔じゃないですか!」


「それは言いがかりです」


 エアリンは思わず顔を伏せ、笑いをこらえる。


 一方のアステリアは頭を抱えた。


「ずるいです……」


 今度の声は小さい。


 抗議というより、本音のこぼれた愚痴に近かった。


「私だってアストラヴェルを見てみたいのに……」


 視線がゆっくりと厨房の窓へ向けられる。


 その向こうの遥か遠くにある大都市を思い描くように。


「魔法塔も見たいですし……商業区も……大通りも……」


 隣でエアリンが微笑んだ。


「前に南区名物の蜂蜜パンも食べてみたいって言っていませんでしたか?」


その瞬間、アステリアの目がぱっと輝いた。


「それもです!」


「つまり一番の目的は食べ物か?」


「旅にとって大事な要素です!」


 あまりにも力強い主張に、ラインマーは小さく息を吐いた。


「アステリア……この家を守る者も必要なんだぞ」


「分かっています……」


「それにアストラヴェルまでは決して近くない」


「それも分かっています……」


「なら、どうしてそんな置いていかれる子供みたいな顔をしているんだ?」


「だってケイル様も行かれるので」


 返答はあまりにも早かった。


 一瞬、厨房に静寂が落ちる。


 言った本人でさえ、口にしてから気付いたらしい。


 みるみるうちに顔が赤くなっていく。


「……その、遠出は危険ですから」


 苦しい言い訳だった。


 ケイルはしばらくその顔を見つめていたが、やがて小さく息を吐く。


「アステリア」


「な、なんでしょう……」


「数日出かけるだけで、まるで僕が死ぬみたいな言い方ですね」


「十分あり得ます」


「行くのは街です。ドラゴン退治じゃありません」


「村の外には魔物がいます!」


「だったら逃げます」


 アステリアはじっと目を細めた。


「その短い足でですか?」


「無理なら、お父様を囮にします」


 ラインマーが即座に振り向く。


「なぜ俺なんだ?」


「お父様が一番大きいので」


「今まで聞いた中で一番ひどい理由だな」


 ついにエアリンが小さく吹き出した。


「ふふっ……なんというか、若様がそういう冗談を言われるのには、まだ慣れませんね」


「慣れないでください」


 ケイルは真顔のまま答える。


「残念ですが、もう手遅れかもしれません」


 笑いを堪えながらエアリンが呟いた。


 ラインマーは長々とため息をつき、自分の額を軽く叩く。


「まったく……父親への敬意というものを知らない息子に育ってしまった」


 その言葉に、カエラでさえ顔を背けて薄く笑みを隠した。


 アステリアも結局は小さく笑い出す。


 まだ少し不満そうではあったが、先ほどまでの落ち込みは薄れていた。


 そんな賑やかな空気の中で、ケイルは手にしていた木の匙を静かに置く。


「それに……」


 視線を向けた先には、まだどこかしょんぼりした様子のアステリア。


「アストラヴェルから何か買ってきてあげてもいいですよ」


 アステリアがぱちりと瞬く。


「……え?」


「何が欲しいですか?」


「へ?」


「だから」


 相変わらず平坦な口調のまま、ケイルは言い直した。


「何を買ってきてほしいんですか?」


 アステリアは数秒間、ぽかんとしたまま固まっていた。


 言葉の意味を理解するのに時間がかかっているらしい。


 一方のケイルは頬杖をつく。


「別にあなただけじゃありません。三人ともですよ」


 再び部屋が静まり返る。


 今度こそアステリアは完全に停止した。


「ケ、ケイル様が……私に贈り物を……?」


 ケイルは少し困惑した。


「……どうして婚約でも申し込まれたみたいな反応なんですか」


「えぇぇぇぇっ!? 本当ですか!?」


「アステリア、声が大きいです」


「す、すみません! つい!」


「ははははっ!」


 今度はラインマーが腹を抱えて笑った。


 エアリンも苦笑しながら首を横に振る。


「もう、アステリアったら……」


 温かな薬草の香りと、傾き始めた昼の光に包まれた厨房で。


 その後も話題は自然とアストラヴェルへ移っていった。


 大きな商店のこと。


 中央区画のこと。


 街の外門からでも見えると言われる白い塔のこと。


 そうして語られる話を聞いているうちに――


 ケイルの胸の奥で、何かがゆっくりと動き始めていた。


 これまで噂や話の中でしか知らなかった広い世界への好奇心。


 それが静かに顔を覗かせていく。


 やがて話があちこちへ広がり始めた頃、ラインマーが小さく息を吐いた。


「さて、そろそろいいだろう」


 椅子に深く背を預けながら、手元の配送記録へ視線を落とす。


「順調にいけば、出発は明日の朝だ」


 その一言で、厨房の空気がわずかに変わった。


 張り詰めたわけではない。


 ただ――何かがようやく本当に決まったような、そんな感覚だった。


「明日ですか」


 ケイルが静かに聞き返す。


 ラインマーは頷いた。


「ああ。荷馬車を何台も連れてアストラヴェルへ向かうとなると、それなりに時間がかかる。日が高くなる前には出発しなければならん」


 机の近くに立っていたカエラは小さく頷くだけだった。


 すでに頭の中で道順を組み立て始めているのかもしれない。


 一方で、アステリアはしばらく黙り込んだあと、再びケイルへ視線を向けた。


「……本当に行ってしまわれるんですね、ケイル様」


「その言い方だと、僕が二度と帰ってこないみたいですが」


「それとは違います」


「何が違うんですか?」


「だって今回は、本当に村の外へ出られるんですから」


 いつもならすぐに言い返していたかもしれない。


 だが、珍しくしょんぼりした表情を浮かべるアステリアを見ていると、その言葉は喉元で止まった。


 少し可笑しい。


 たった数日の旅だというのに、家の空気までこんなふうになるとは。


 ケイルは小さく息を吐き、目の前の木机を軽く指先で叩いた。


「なら、早めに欲しいものを決めてください」


「え?」


「みんな、アストラヴェルを見たことがないってずっと言っていたでしょう」


 視線をアステリアとエアリンへ向ける。


「せめて何か持ち帰れば、少しは羨ましがらずに済むかもしれません」


 真っ先に反応したのはアステリアだった。


「わ、私は別に羨ましがってなんて!」


「五分前にお父様へ抗議しかけていましたよね」


「そ、それは……」


「全部聞いていたぞ」


 ラインマーがのんびり口を挟む。


 アステリアの顔が一気に赤くなった。


 一方、エアリンは少し真面目な顔で考え込む。


「そうですね……もし本当にいいのでしたら、本が欲しいです」


「本?」


「アストラヴェルには、他領の歴史書や魔法書の写本を扱う店がたくさんあると聞きました」


 そう言う瞳がわずかに輝く。


「少し興味があります」


 ケイルは頷いた。


「分かりました。エアリンには本ですね」


 続いて視線をカエラへ向ける。


「カエラは?」


 突然名前を呼ばれたカエラは、わずかに目を瞬かせた。


「私ですか?」


「ええ。あなたも選んでください」


 数秒考え込んだあと、短く答える。


「……旅用の小型ナイフでしょうか」


「実に実用的ですね」


「他に思いつきませんので」


 ケイルはかすかに笑った。


 そして再びアステリアへ向き直る。


「さて、残るはあなたです」


 途端にアステリアが固まった。


「えっ……」


「まさかまだ考えていないんですか?」


「わ、私は……」


 先ほどまで誰よりも熱心にアストラヴェルの話をしていた本人だというのに。


 いざ選べと言われると、今度は自分で困っているらしい。


 その様子を数秒眺めたあと、ケイルの口元に薄い笑みが浮かぶ。


「……本当に思いついていないんですね」


「だって急すぎます!」


「さっきは蜂蜜パンだの魔法塔だの街の織物だの、いろいろ言っていたじゃないですか」


「それとこれとは別です!」


「どこがです?」


 アステリアは一度両手で顔を覆った。


 そしてしばらくしてから、小さな声で呟く。


「……でしたら、アウリエリスのペンダントを」


「ん?」


「アストラヴェルには、アウリエリスのペンダントを売っている店があると聞いたことがあって……」


 語尾にいくにつれ声が小さくなっていく。


 自分でも無意識に本音を口にしてしまったことが恥ずかしくなったのだろう。


「……綺麗だそうですし」


 ケイルは軽く瞬きをしたあと、小さく頷いた。


「ペンダントですか……」


 顎に手を添え、本当に検討するように考える。


「安くはなさそうですね」


 途端にアステリアが慌てた。


「べ、別に買ってきてほしいと言ったわけでは――」


「大丈夫ですよ」


 ケイルの口元がわずかに緩む。


「見つけたら、買ってきてあげます」


 なぜだろう。


 たったそれだけの言葉だったのに。


 それだけで、アステリアの表情は少しずつ明るさを取り戻していった。


 時間は静かに流れていく。


 午後の日差しは次第に傾き、厨房の窓から差し込む光を柔らかな橙色へと変えていた。


 その温かな色彩が、部屋全体をそっと包み込んでいる。


 彼らは再び薬の調合へ戻った。


 刻まれる薬草の小さな音。


 机の上で触れ合う瓶の音。


 そして空気を満たす穏やかな薬草の香り。


 時折、アステリアがまるで才能のない生徒を教える教師のように真剣な顔で説明を始めれば、ケイルが無表情のまま淡々と言い返し、そのたびにエアリンが横で笑いを堪える。


 カエラはいつも通り静かに材料を片付け続け、ラインマーは翌朝の出発準備を確認するため、ときおり家を出入りしていた。


 そんな穏やかな時間が続いていく。


 そしてケイルの思考は、再びひとつの名前へと戻っていた。


 アストラヴェル。


 ここでの小さな暮らしからは、あまりにも遠く感じられる場所。


 だが今は――


 もう手の届かない世界には思えなかった。


 初めて。


 ケイル自身もまた、その旅を少し楽しみにしているのかもしれなかった。

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