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第二十六話

丘の上に広がる背の高い草原を、ヴァレンフォードの山風がゆるやかに吹き抜けていく。


昼を迎える少し前の空気には、湿った土の匂いと森の葉の香りがかすかに残っていた。


その日の空はよく晴れていた。


白い雲がゆっくりと流れ、暖かな陽光が眼下の村を包み込む。木造の家々の屋根には淡い輝きが映り、風に揺れる麦畑が黄金色の波を描いていた。


ケイル・ラインマーは丘の縁近くにある大きな岩の上に腰を下ろし、小さな鞄を背中から外した。


中には薬草がいくつも詰め込まれており、その一部には朝の森で付いたままの露がまだ薄く残っている。


小さく息を吐き、両手を岩につきながら体を預けた。


「……なかなか大変だったな」


その隣では、大きな白狼が静かに村の景色を見つめていた。


風に撫でられた白い毛並みがかすかに揺れる。


その存在は、この静かな丘の風景にあまりにも自然に溶け込んでいた。


心地よい沈黙がしばらく続いた後、やがて低く重みのある声が静かに響く。


「我が王よ……どうやらお身体は、この世界の流れにますます馴染んでおられるようです」


ケイルはすぐに目を閉じた。


「……またそれか」


こめかみを軽く揉みながら、長いため息を漏らす。


「そろそろその呼び方、やめてくれないか?」


白狼はゆっくりと首を巡らせた。


蒼い瞳が静かにケイルへ向けられる。


「しかし、それは事実です」


「そうとも限らないだろ」


今度の返答は早かった。


声を荒げたわけではない。


だが、その話題を毎日のように聞きたいわけではないという意思は十分に伝わる口調だった。


「君が俺の中に何かを感じているのは分かる。この森にいる妙な連中も、どうやら似たようなものらしいしな」


鞄の中から薬草を一本取り出し、指先でくるりと回す。


「でも、俺をよく見てみろよ」


そう言って、その薬草を軽く持ち上げた。


「朝から森じゅう歩き回って、こんな薬草を探してたんだぞ」


表情は至って真顔だ。


「どこの王様が、野草だらけの鞄と泥まみれの靴で帰ってくるんだ?」


草がさらさらと風に揺れた。


そして――


白狼はしばらく黙り込んだ。


「……まだ玉座に座っていない王です」


ケイルはたちまち疲れたような顔で振り向いた。


「ほらな。結局そこに戻るじゃないか」


白狼はそれ以上答えなかった。


視線を再び村の向こうに連なる山々へ向ける。


だが今度はケイルもすぐには口を開かなかった。


膝に顎を乗せながら、同じ方向を見つめる。


先ほどの苦笑はいつの間にか消えていた。


「別に、君が間違ってるとは言ってないんだ」


しばらくしてから、ぽつりと呟く。


先ほどよりも穏やかな声だった。


「俺自身、ときどき感じることはある」


指先で薬草の茎を弄びながら続ける。


「まるで……ずっと奥のほうで、別の何かが眠っているみたいな感覚を」


再び風が丘の草原を吹き抜けた。


ケイルは少しだけ視線を落とす。


「でも今は、本当にどうしたらいいのか分からないんだ」


鼻で小さく笑った。


「王だとか何だとか、そんな話をするには早すぎる。俺なんて、食事の前に手を洗い忘れただけで、今でもアステリアに叱られるんだからな」


その言葉で、重くなりかけていた空気が少しだけ和らぐ。


それでも白狼の青い瞳は、変わらず彼を見つめていた。


「主よ」


「……わざとか?」


「あなたは、ただの人として生きようとしている」


ケイルは黙り込んだ。


「それは決して悪いことではありません」


その会話が始まって以来初めて、白狼の声はいつもより幾分柔らかく聞こえた。


「ですが――世界は、すべてを永遠に眠らせておいてはくれないのです」


ケイルはすぐには答えなかった。


視線は再び眼下のヴァレンフォードの村へと向けられる。


何軒かの家からは炊事の煙が立ち上り始めていた。


子供たちが土の道を駆け回る姿も見える。


穏やかで。


平和で。


だからこそ――その光景を、できるだけ長く守っていたいと思うのだ。


小さな吐息が唇からこぼれ、丘を吹き抜ける風の中へ静かに溶けていった。


「……もし本当にその時が来たら、その時に考えるさ」


そう言ってから、横目でちらりと白狼を見る。


「でも、それまでは王なんて呼ぶのをやめてくれ」


「できません」


「なんでだよ」


「なぜなら、あなたはまさしく――」


「また変なこと言うなら、俺は先に帰るぞ」


その瞬間、白狼は本当に口を閉ざした。


草の葉が擦れ合う音だけが響く。


数秒の沈黙。


ケイルは疑わしげに目を細めた。


「……今、笑いそうになっただろ」


「まさか」


「ものすごく怪しいんだけど」


再び風が静かな丘を吹き抜ける。


その沈黙はどこか心地よく、先ほどまでよりもずっと肩の力が抜けたものだった。


だが、その空気も長くは続かなかった。


「ケイル様ー!」


丘の下から声が飛んでくる。


ケイルはゆっくりと振り向いた。


草の道を登ってくるエアリンの姿が見える。


腕には薄手の外套を抱え、短い髪が風に揺れていた。ようやく丘の上までたどり着いたのか、小さく息をつく。


「やっぱりこちらにいらっしゃいましたか」


その視線はすぐにケイルの隣に置かれた小さな鞄へ向かった。


「どうでした? お探しの薬草は見つかりましたか?」


ケイルは軽く頷く。


「いくつかだけな」


そう言いながら鞄を少し開いた。


「ヴェルナリスの葉は思ったほど見つからなかったけど、シルフェルの根とルネリアの花はまだ十分いい状態だった」


エアリンは近くにしゃがみ込み、中身を覗き込む。


「ふむ……これなら基本の調合には十分ですね」


だが、その直後だった。


ふと視線が横へ流れる。


先ほどまで白狼がいた場所へ。


そこには――


何もなかった。


風に揺れる草原だけが広がっている。


エアリンはわずかに眉を上げた。


「……またいなくなったんですか?」


ケイルもちらりと視線を向けた後、何事もないように鞄を閉じる。


「たぶん俺の説教に飽きたんだろ」


「なぜでしょう。むしろ逆のような気がしますけど」


ケイルの口元がわずかに緩んだ。


それからゆっくりと立ち上がり、服についた草や土を軽く払う。


「ここで長居してたら、アステリアがまた一人で騒ぎ始めそうだな」


「もうすでに騒いでいると思います」


「本気か?」


エアリンも苦笑しながら立ち上がった。


「今朝なんて、『もしケイル様が魔物に食べられたらどうしましょう!』って言いながらずっと落ち着きなく歩き回っていましたから。行かれたのは森の入り口付近だけなのに」


ケイルはその場で額を押さえた。


「……俺、もう七歳なんだけど」


「アステリアにとっては、それでも一人で行かせていい年齢ではないそうです」


「たまに思うんだ。あいつ、俺が普通に考えられるってこと忘れてるんじゃないかって」


その呟きに、エアリンはくすりと笑った。


「それだけ心配しているんですよ」


「はいはい、それは分かってる」


二人は並んで丘を下り始めた。


エアリンの隣を歩く小さな足取りはどこまでも気楽だ。


昼の陽光は穏やかに降り注ぎ、村へ続く道を暖かく照らしている。


それは、できる限り長く守り続けたいと思う、いつもの日常そのものだった。


「そういえば」


しばらく歩いたところで、エアリンが思い出したように口を開く。


「アステリアが朝から調合道具を全部準備していましたよ。今回はケイル様ご自身で薬を調合する練習をしていただくそうです」


ケイルは即座に小さくため息をついた。


「……つまり、家の中が騒がしくなるってことだな」


「その通りです」


「まだ家にも着いてないのに、あいつのことを考えただけで疲れてきた」


エアリンは思わず声を漏らして笑う。


(でも、きっとアステリアは喜んでいるのでしょうね)


そんなことを思いながら。


ケイルはそれ以上何も返さなかった。


だが気付けば、その視線は自然と前方へ向いている。


村の道の先。


昼の光と木々の影に包まれながら静かに佇む、ラインマー家の木造の家が見え始めていた。


そしてなぜだろう――


その家の煙突から立ち上る細い煙を目にした瞬間、足取りがいつもより少しだけ軽くなった気がした。


しばらくして、木造の家の扉が静かに開く。


ケイルとエアリンが中へ入ると、暖かな空気がすぐに二人を迎えた。


「ただいま」


丘を下りてきたばかりの名残をわずかに含んだ、気楽な声だった。


そして、いつものように。


真っ先に反応したのはやはりアステリアだった。


「ケイル様……お帰りになったんですか!?」


安堵と焦りが入り混じった声が台所の方から飛んでくる。


続いて、慌ただしい足音。


ほどなくして、肩に布巾を掛けた黒髪の女性が姿を現した。


ケイルが無事な姿でそこに立っているのを確認した途端、その表情は目に見えてほっと緩む。


そして視線はすぐに、彼が持っていた小さな鞄へ向かった。


「どうでした? たくさん見つかりましたか?」


「それなりにな」


鞄を外し、台所近くの机へ置く。


「北の川辺にはまだシルフェルの根が結構残ってた。でもヴェルナリスの葉はだんだん見つけにくくなってるな」


アステリアはさっそく鞄を少し開き、中を覗き込んだ。


すると、感心したように目を見開く。


「ああ……これは質がいいですね」


慎重に薬草を一本持ち上げ、窓から差し込む昼の光に透かしながら葉や茎の状態を確認する。


「こちらは熱を下げたり、軽い傷の回復を早めたりするのに使えます。それからルネリアの花は、主に安眠用の調合薬ですね」


ケイルは肘を机につきながら聞いていた。


「じゃあシルフェルの根は?」


「筋肉痛の緩和と、マナの循環改善です」


返答は驚くほど早かった。


まるで昔から暗記していたかのように。


そして次の瞬間、腰に手を当てて誇らしげに胸を張る。


「というわけで、今日は私がケイル様に正しい調合法をお教えします!」


ケイルは数秒ほど沈黙した。


「……なんで今の言い方、秘密の学院を開講する先生みたいだったんだ?」


「大事なことだからです」


「そんなに?」


アステリアは真面目な顔で指を向けた。


「もちろんです。薬の調合は、ただ植物を混ぜればいいというものではありません。分量、水の温度、材料を入れる順番まで、すべて結果に影響するんです」


「失敗したら?」


「睡眠薬が腹痛薬になります」


ケイルは思わず眉をひそめた。


「それ、かなり危険じゃないか?」


「一度やったことがあります」


「……急に不安になってきたんだけど」


窓際に座っていたエアリンは、本を閉じながら小さく笑う。


「ご安心ください。今回は朝からしっかり準備していましたから」


「エアリン!」


「事実を言っただけですよ」


小さな台所は、次第に賑やかな空気に包まれていった。


アステリアは薬草を一つずつ洗いながら、それぞれの基本的な効能を説明する。


その隣でケイルも意外なほど真面目に耳を傾けていた。


ときには茎を切り分け、


ときには小さな木製の道具で根をすり潰す。


そして何度か、アステリアは作業の手を止めて信じられないものを見るような顔をした。


「……ケイル様」


「ん? 何だ?」


「本当に初めてなんですか?」


ケイルはゆっくり顔を上げた。


「そのはずだけど」


「どうして切り口がこんなに綺麗なんですか……」


視線の先には、まな板の上に並んだ見事に揃った薄切りの薬草。


ケイルもそれをちらりと見た。


「……手が小さいから安定してるとか?」


「たぶん、そういう問題じゃないと思います」


「同じ作業を二度やりたくないだけだよ」


アステリアはしばらく彼を見つめていたが、やがて諦めたようにため息をついた。


「時々思うんです。ケイル様の考え方って、やっぱり少し変わっていますよね」


「それは褒めてるのか?」


「私にもまだ分かりません」


その時だった。


洗濯籠を抱えたカエラが通りかかり、台所の前でふと足を止める。


薬草で埋まった机。


小鍋から立ち上る湯気。


そして真剣な顔で調合をかき混ぜているケイル。


それらを順番に眺めたあと――


「……なんだか、貴族の子息が村の薬師見習いになったみたいですね」


ケイルは無表情のまま振り向いた。


「カエラ」


「何ですか?」


「今の、ちょっと馬鹿にしてないか?」


「褒めています」


「そうは聞こえなかった」


部屋の隅では、エアリンがまた小さく笑っていた。


やがて台所には、弱火で煮出される薬草の温かな香りがゆっくりと広がっていく。


心地よく。


生き生きとしていて。


そんな穏やかな時間の中で、気付かぬうちに時は流れ――


いつしか差し込む陽光も、台所の窓辺からゆっくりと位置を変え始めていた。

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