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第二十五話

その日の夕暮れは、ゆっくりと夜へと移り変わっていった。


それまで空を覆っていた異様な冷気と圧迫感は次第に薄れ、代わりに淡い霧が木造の家々や森の木々の合間を静かに漂っていた。まるで世界そのものが、本来起こるべきではなかった何かの後始末をするように、自らを落ち着かせようとしているかのようだった。


だが、それでも――人々の暮らしは続いていく。


あの日の出来事から数日が過ぎる頃には、畑には再び働き手たちの声が響き、木造の家々の煙突からは炊事の煙が立ち上っていた。子どもたちもいつものように村の道を駆け回るようになっていたが、ときおり北の森へ視線を向けては、好奇心に満ちた表情を浮かべていた。


あの夕方に何が起こったのか、その全てを目撃した者はいない。


残されたのは、断片的な噂だけだった。


空が裂けたこと。


骨の髄まで凍えるような冷気が広がったこと。


そして霧の中から巨大な存在たちが姿を現したこと。


さらには、その咆哮が村の外縁部にまで届いたという話まであった。


大げさな噂話だと笑う者もいる。


深く触れることを恐れ、口を閉ざす者もいる。


だが、住民たちの囁きの中で、一つの話だけは静かに広がり始めていた。


――あの日に生まれた子どもは、普通の子ではない。


「生まれてすぐに目を開けたらしいぞ」


「森の守護者たちが現れたのも、あの子が原因だって聞いた」


「まさか……」


「普通の赤ん坊が、あんな存在を呼び寄せられるはずがないだろう……」


そうした噂がマリアーネの前で直接語られることはなかった。


だが、小さな村に本当の意味で秘密など存在しない。


そしてマリアーネも、そのことを理解していた。


自分が通り過ぎると不自然なほど早く会話が途切れること。


腕の中の赤子へ向けられる好奇の視線。


何も考えていないふりをしながら浮かべられるぎこちない笑み。


そうした些細な変化から、嫌でも察することができた。


それでも、不思議なことに誰も本気で距離を置こうとはしなかった。


ケイルが近くにいると、その得体の知れない感覚が、別の何かと混ざり合っていくからだ。


穏やかだった。


不思議ではある。


だが、不快ではない。


むしろ時折、赤ん坊とは思えないほど静かすぎるほどに。


ほとんど泣くこともない。


澄んだ瞳はいつも周囲の人々の動きを追い、そのあまりにも理解しているかのような眼差しに、話していた者が思わず言葉を途中で止めてしまうことさえあった。


まるで、本当に全てを理解している誰かに見つめられているかのように。


そして、そのことこそが一部の人々を最も落ち着かなくさせていた。


マリアーネ自身も、自分が何を感じるべきなのか分からなかった。


夜更け。


部屋が暗闇に包まれ、窓の外を虫の声が満たす頃になると、彼女は何度も目を覚ました。


ただ、隣にその子がいることを確かめるためだけに。


時には長い時間、ベッドの端に腰掛けたまま、温かな毛布に包まれて眠る小さな顔を見つめ続けることもあった。


あの感情は、まだ消えていない。


愛していないからではない。


むしろ、その逆だった。


日を追うごとに、この子のいない世界など想像できなくなっていく。


けれど、あの蒼白い瞳を持つ守護者の姿や、『世界へ無理やり生まれ落とされた何か』という言葉を思い出すたびに、胸の奥がわずかに重くなった。


自分が抱きしめているのは、きっと理解の及ばないほど大きな何かなのだと。


そんな感覚が消えてくれなかった。


だが、その恐れも少しずつ形を変えていく。


消えたわけではない。


ただ、柔らかくなっていった。


今まで気づきもしなかった何気ない瞬間の中で、守りたいという想いへと少しずつ姿を変えていったのだ。


初めて小さな手が自分の指を握った時。


胸の上で静かに眠った時。


あるいは、その澄んだ瞳が自分の顔を追いかけるたびに、まるで自分の存在そのものが特別であるかのように見つめてくる時。


少しずつ。


本当に少しずつ。


マリアーネは、この子が何者なのかを問い続けることをやめ始めていた。


なぜなら、どれほど特別な存在だったとしても――


ケイルが呼び起こすものは変わらないからだ。


それは母としての本能だった。


◇ ◇ ◇


そして、時は流れていく。


最初はゆっくりと進んでいるように思えた日々も、いつしか誰かを待つことなく過ぎ去っていった。


季節が巡る。


木造の家々の屋根を覆っていた雪は溶け、


村の道端には再び草が芽吹き始める。


そして、伝説に包まれたあの日に生まれた子どももまた、少しずつ成長していた。


生後六か月を迎える頃には、ラインマー家の屋敷は以前よりずっと賑やかになっていた。


「また動いたっ! ほら、早く見て!」


誰よりも騒がしいのはアステリアだった。


気づけば数分も前から床に膝をつき、両手を前について、部屋の中央に敷かれた厚い絨毯を食い入るように見つめている。


その先では、小さなケイルがゆっくりと這っていた。


動きはまだぎこちない。


時折、小さな身体が横へ傾きそうになりながらも、両手で懸命に支え直している。


それでも瞳は好奇心に満ちて大きく開かれ、周囲の世界を一つ残らず見逃すまいとするように輝いていた。


窓際のソファに腰掛けていたマリアーネは、浮かぶ笑みを隠しきれなかった。


その視線は一瞬たりとも逸れることなく我が子を追い続け、ケイルがバランスを崩しかけるたびに、思わず抱き上げようとするように指先が何度もぴくりと動く。


「……本当に、もう這えるようになったのね」


ぽつりと零れた声は優しく、まるで自分自身に言い聞かせるようだった。


本棚のそばでは、エアリンが腕を組みながら小さく微笑む。


「成長が早いですね」


軽くそう言いながらも、その目はしばらくケイルを見つめ続けていた。


「普通の子なら、動き方を覚える時はもう少し落ち着きがないものですから」


一方――


先ほどまで洗い立ての布を抱えていたカエラは、いつの間にか部屋の入り口で足を止めていた。


最初はそのまま通り過ぎるつもりだったのだろう。


だが、なぜか歩き出せない。


ゆっくりと振り返った視線の先で、小さな身体が自力でさらに数歩進む。


その瞬間、目がわずかに見開かれた。


「……え?」


思わず漏れた声だった。


そしてなぜか、そのまましばらく呆然と立ち尽くしてしまう。


当のケイルは、一度動きを止めた。


周囲にいる人々の顔を一人ずつゆっくり見回す。


(まだ慣れないな……)


静かにそんな思いが浮かぶ。


小さな身体。


小さな手。


(這うだけでも、未だに妙な感じがする)


(時々、前みたいに立ち上がろうとして……そのたびに、この身体じゃまだ自分を支えられないことを思い出すんだ)


(でも、不思議と嫌じゃない)


視線がマリアーネへ向く。


自分を見つめながら微笑むその姿。


温かい。


その感覚はいつも心を落ち着かせてくれた。


(前の人生とは違う)


(静かなアパートも、夜の車の音も、モニターの光も、眠ることのない街の灯りもない)


(ここは……全部がもっとゆっくり流れている)


(ずっと、生きている感じがする)


そしていつの間にか――


自分でも気づかないうちに、その日常へ溶け込み始めていた。


◇ ◇ ◇


一歳を迎える頃になると、ラインマー家の中には小さな足音が響くようになっていた。


「ゆっくりですよ! 慌てなくて大丈夫です!」


アステリアは楽しそうに笑いながら、ケイルの数歩先でしゃがみ込んでいる。


両腕を大きく広げ、いつでも受け止められるように構えていた。


「もう少しです! さあ、ケイル様!」


小さな足で立つ。


まだ膝はかすかに震えていた。


その表情は真剣そのもの。


まるで歩くことが、何か重大な使命であるかのように。


一歩。


身体がぐらりと揺れる。


それでももう一歩。


するとアステリアは目を輝かせながら勢いよく拍手した。


「できました! そうです、その調子です!」


ケイルは小さく眉をひそめた。


(またケイル様か……)


(どうしてこの家の人たちは、みんな僕を領地会議でも開いていそうな年配貴族みたいに呼ぶんだ)


(僕なんて、まだ真っ直ぐ歩くことすらできないのに……)


「ケイル様〜」


「ケイル様」


「ケーイル様っ!」


(もう勘弁してくれ……毎日聞いてると、それだけで頭がいっぱいになりそうだ)


そう考えた、その時――


ぐらり、と身体が傾く。


「あっ――」


そして床へ倒れそうになる寸前、アステリアが慌てて抱き留めた。


「よかったぁ……!」


安堵したように笑う声が聞こえる。


ケイルはその腕の中で数秒ほど黙ったままだった。


驚きの余韻で小さな身体がまだわずかに震えている。


やがて鼻から小さく息を吐いた。


(アステリアはいつも近くにいる)


(この家の誰よりも、一緒にいる時間が長いかもしれない)


(声は大きいし、感情表現も激しいし、時々僕を生きた玩具みたいに扱うけど……)


(それなのに、不思議とあいつがいると部屋の空気が落ち着くんだ)


(……賑やかなのに)


ゆっくりと視線を動かす。


背中を優しく撫で続けるマリアーネ。


そして少し離れた場所で必死に謝り続けているアステリア。


その姿を眺めながら、ふと一つの考えが頭をよぎった。


(……この人たち、本当に僕を家族として扱ってくれているんだな)


二歳を過ぎた頃になると、屋敷は以前よりずっと賑やかになっていた。


何より、ケイルが言葉を話せるようになったからだ。


そしてそれ以来、アステリアはほとんど毎日のように彼をからかっていた。


「もう一回言ってください! もう一回!」


「嫌だ」


「一回だけでいいですから!」


「言わない」


「ケイル様ぁ~」


「アステリア、うるさい」


「きゃああっ! うるさいって言われましたっ!」


その日も、アステリアは調子に乗っていた。


冗談を言いながらケイルを抱き上げていたのだが、勢い余って危うくソファから落としかけてしまったのである。


ケイルは思わず驚いた。


そして数秒後――


わあっ、と幼い泣き声が部屋に響いた。


「えっ?」


アステリアの動きが止まる。


「えっ、ちょ、ちょっと待ってください! 泣かないでください! ケイル様!?」


だが、もう遅かった。


ケイルの小さな顔は真っ赤になり、目には涙が浮かんでいる。


そしてその手は迷うことなく別の方向へ伸びた。


「……お母様……」


ちょうど部屋へ入ってきたマリアーネは、すぐに歩み寄り、その身体をそっと抱き上げる。


「よしよし……大丈夫よ」


ケイルはその肩へ静かに顔を埋めた。


時折小さくしゃくり上げながらも、恨めしそうな視線だけはアステリアへ向ける。


一方のアステリアは完全に慌てていた。


「ほ、本当にわざとじゃなかったんです……!」


しばらく沈黙が続く。


やがてケイルは静かに目を閉じた。


(……恥ずかしい)


(本当に泣いてしまった)


(こんなことで)


子どもの身体というのは本当に厄介だ。


感情まで簡単に引きずられてしまう。


(それでも……)


(この腕の中は落ち着く)


(離れがたくなるくらいに)


時は流れ続ける。


そしてケイルが成長するにつれ、胸の中で膨らんでいくものがあった。


好奇心だ。


最初は本当に些細なものだった。


(どうしてこの世界の夜空は少し違って見えるんだろう)


(どうして星がこんなに明るいんだろう)


(どうして人々は魔法を当たり前のものとして受け入れているんだろう)


(まるで最初から生活の一部だったみたいに)


だが、その好奇心は少しずつ形を変えていく。


もっと深く。


もっと大きく。


(この世界は……広すぎる)


そう実感するたびに、心の奥で何かが静かに動き始める。


まるで長い眠りから目覚めたばかりの誰かのように。


その日の夕方。


四歳になったケイルは、ラインマー家の二階で一人静かに座っていた。


半分ほど開かれた大きな窓のそば。


夕風が入り込み、隣の薄いカーテンを柔らかく揺らしている。


窓の外には、いつもと変わらぬヴァレンフォードの景色が広がっていた。


住民たちの家からは細い煙が立ち上り、


畑は森の麓まで続いている。


さらにその向こうでは、


巨大な山脈が外の世界との境界線のようにそびえ立っていた。


ケイルは膝を抱え、その上に顎を乗せながら遠くを見つめる。


この世界に生まれてから、もう四年。


それでも時折、全てがまだ不思議に感じられることがあった。


前世の記憶を忘れかける日もある。


だが、ふとした瞬間――


何の前触れもなく、昔の記憶が頭をよぎることもあった。


夜の電車が走る音。


交差点で灯る赤信号。


スマートフォンの通知音。


雨上がりのアスファルトに残る匂い。


そんな記憶がふと頭をよぎるたび、胸の奥に小さな空白が生まれる。


「……本当に死んだんだな、あの時」


ぽつりと呟き、視線を膝の上へ落とした。


そこには開きっぱなしの本がある。


基礎魔法入門。


何度も読み返したせいでページの端は少し傷み始めており、あちこちに自分で書き込んだ拙い文字のメモが残されていた。


ケイルは本が好きだった。


単に暇を潰せるからではない。


この世界の本は、未知への扉そのものだったからだ。


魔法。


数百年前に滅びた王国の歴史。


たった一人で戦場の流れを変えたという古代の魔導師たち。


そして、名すら持たぬ何かから世界の境界を守り続けるカストディアンたちの伝説。


読めば読むほど、この世界が単なる転生先ではないことを実感する。


その裏側では、もっと大きな何かが動いている。


もしかすると周囲の大人たちでさえ、その全貌を理解していないほどの何かが。


そしてなぜだろう。


そう思えば思うほど、知りたいという欲求は強くなっていった。


「アストラヴェル……」


小さくその名を口にする。


村へ立ち寄った商人たちから何度も耳にした名前だった。


中央都市。


魔導師たちが集い、


貴族が集い、


軍人が集い、


商人が集い、


各地の有力者たちが行き交う場所。


人生で一度は見てみたいと誰もが憧れる、美しい都。


ケイルは小さく首を傾げた。


「……なんか本当にRPGの舞台みたいだな」


口元にかすかな笑みが浮かぶ。


だが、その笑みもすぐに薄れていった。


思考は再び別の方向へ向かう。


(変だな)


(もう何年も経ったのに)


(前の世界の記憶は、まだこんなにも鮮明だ)


時には今の人生よりも現実味があるようにさえ感じる。


場所の名前も覚えている。


人の顔も覚えている。


魔法の存在しない世界で生きていた感覚も覚えている。


だからこそ――


自分は一度も本当の意味で子どもになれなかったのかもしれない。


人と話す時は、妙なことを口走らないよう気を付けなければならない。


時にはわざと分からないふりをすることもある。


普通の子どもに見えるように。


(疲れるな……)


だが仕方ない。


頭の中身が、別の世界で十数年生きた人間だなどと説明できるはずもなかった。


その時――


机の近くに置かれていた本のページが、ふわりとめくれた。


ケイルは瞬きをする。


一冊の本がゆっくりと宙へ浮かび上がる。


続いて別の本も。


机の上の紙束まで軽く持ち上がり、見えない何かに引かれるように空中でくるりと回転した。


ケイルは思わず背筋を伸ばした。


「……え?」


次の瞬間。


どさっ。


浮かんでいた本が一斉に床へ落ちる。


再び静寂が訪れた。


ケイルは数秒間それを見つめ続け、やがて小さく息を吐く。


「……やっぱり、あの時の気のせいじゃなかったんだな」


ここまで来れば偶然とは言い難い。


感情が不安定になると物が動くことがある。


考え事に集中しすぎると、勝手に蝋燭の火が消えることもある。


一日に十五回も『ケイル様』と呼ばれてうんざりした結果、窓が勝手に開いたことさえあった。


そのことを思い出しただけで、表情が少し無になる。


「……というか本当に何なんだろうな、この家のメイドたち」


「別に嫌なわけじゃないけど……ちょっと呼びすぎじゃないか?」


呼び方一つ取っても人それぞれだ。


優しく呼ぶ者もいる。


きっちりした口調で呼ぶ者もいる。


中には舞台劇の貴族の子息でも呼んでいるのかと思うほど、妙に気合いの入った呼び方をする者までいた。


そして、いつからだっただろうか。


その名前を呼ばれるたび、無意識に振り返るようになっていた。


ケイル。


蓮司ではない。


その事実を思うと、ふと口を閉ざしてしまう。


昔は違和感しかなかった名前だ。


だが今では――もうそうではない。


窓の外では、ゆっくりと夜が降り始めていた。


そしていつものように、軽やかな足音が部屋へ近づいてくる。


現れたのはアステリアだった。


腕には分厚い物語の本を抱えている。


「さあ、それでは今夜も続きを読みますよ! 北方の魔導師編です!」


ケイルはちらりと本を見る。


「またその話?」


「たまには別の本にしない?」


「ええっ? どうしてですか? ケイル様、このお話好きじゃないですか」


「うーん……」


少し考えてから答える。


「世界観とか歴史の部分は好きだけど、別に全部が好きなわけじゃない」


「ほう?」


アステリアは意味ありげに目を細めた。


「つまり、私が読んでいるから好きというわけではない、と?」


ケイルは数秒ほど黙り込む。


そして小さく肩をすくめた。


「……たぶん、両方かな」


その瞬間。


アステリアの動きが完全に止まった。


顔が見る見るうちに赤くなっていく。


あまりの変化に、ケイルはわずかに眉を寄せた。


なぜこの人は、こうも些細なことで大げさな反応をするのだろう。


本当に理解できない。


それでも――


アステリアの膝にもたれながら、ゆっくりと読み聞かせられる物語へ耳を傾けていると、不思議な安心感が胸に広がる。


温かい。


そして最近、その感覚を覚えることが増えていた。


アステリアだけではない。


この家も。


この小さな村も。


そして今の人生そのものも。


気づかないうちに、


『青川蓮司』であり続けようとしていた自分の一部が、少しずつ薄れていく。


まるで長い時間をかけて溶けていく雪のように。


そして時は止まることなく流れ続けた。


そうして気づけば――


ケイルは七歳になっていた。


山から吹き下ろす風が、高い丘の上を冷たく駆け抜ける。


そこはヴァレンフォードの村全体を見渡せる場所だった。


眼下には小さな家々が並び、


畑と森の合間を縫うように、夕暮れの光が静かに落ちている。


その丘の縁に、ケイルは一人立っていた。


黒髪が風に揺れる。


簡素な服には土や草の跡が残っていた。


つい先ほどまで森に入り、希少な薬草を探していた証だ。


身体はまだ子どものものだ。


だが、その瞳は同年代の子どもとはどこか違っていた。


静かすぎるほど静かで、


多くを知りすぎているようにも見える。


背中には薬草と数冊の薄い記録帳を入れた小さな鞄。


そして、その隣には――


巨大な白狼が静かに腰を下ろしていた。


堂々としている。


静寂をまとっている。


まるでその存在が、ずっと昔から彼の日常の一部であったかのように。


ケイルは眼下に広がる村を長い間見つめていた。


そしてゆっくりと、意識は遠くへと向かっていく。


日本へ。


かつての人生へ。


夜になると妙に静かに感じられた小さなアパート。


深夜まで光り続けるモニターの画面。


窓の向こうからかすかに聞こえてくる雨音。


そんな記憶の一つひとつが、今も鮮明なまま残っている。


そしてその全ての中心には、一人の男がいた。


青川蓮司。


その存在は今なお、確かに自分の中にある。


失われた記憶は一つもない。


どれも昨日のことのように思い出せる。


だからこそ――


この数年間で何が変わったのかを、ようやく理解できる気がしていた。


過去は確かに自分の中にある。


だが、自分はもうそこでは生きていない。


ケイルは静かに自分の手のひらを見つめた。


子どもの小さな手。


けれど、それはもう昔と同じ人間の手ではなかった。


この世界で多くの時間を過ごした。


新しい人生を見て、


新しい人々と出会い、


そしてかつて本当の意味では持てなかった温もりを受け取ってきた。


少しずつ。


本当に少しずつ。


その全てが、自分の内側に何かを残していった。


マリアーネ。


アステリア。


あの家。


そして、この小さな村。


今ではどれも、自分自身の人生の一部になっている。


小さく息を吐く。


(……あの名前は、これからも忘れない)


再び視線を上げる。


ヴァレンフォードの夕空が広がっていた。


(青川蓮司は、これからも俺の一部だ)


丘を吹き抜ける風が、草原を静かに揺らす。


そして――


その眼差しがゆっくりと和らいだ。


(だけど今は……)


(……俺は、ケイル・ラインマーだ)


隣にいた白狼が静かに目を開く。


その瞬間――


ケイルは微笑んだ。


迷いのない笑みだった。


ほんの小さなものだったが、


それだけで十分だった。


今度こそ。


彼は本当の意味で、その人生を受け入れたのだから。

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