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第二十四話

マリアーネは一歩、また一歩と、ゆっくり彼へ歩み寄った。


その手が完全に伸ばされる直前――


「……どうして?」


かすかな声が唇から零れる。


足が止まった。


視線はずっと、自分の赤子へ向けられたままだ。


「……どうしてあの子を地面に置かせたの……?」


息をわずかに詰まらせながら、静かに続ける。


「あなたは……本当は何を確かめたかったの?」


その狼は彼女を見つめ返した。


そして、長く感じられる沈黙のあと――


「彼らを責めるな」


感情の起伏を感じさせない声だった。


だが先ほどまでのような冷たさはない。


「私は彼らを試していたわけではない」


周囲を風が静かに流れていく。


「確かめたかっただけだ」


そう続けながら、その声は少しだけ低くなった。


「私たちが感じたものが……本物なのかをな」


視線が落ちる。


赤子へと。


「あの子の中には……私たちにとって見覚えのある何かが存在している」


マリアーネは動かなかった。


だが、その指先はわずかに強張る。


「長い間待ち続けてきたものだ」


狼は静かに言った。


「もっとも、その在り方は……私たちの知るものと完全に同じではないがな」


その言葉は宙に残った。


説明はない。


けれど、それだけで胸の奥が重くなるには十分だった。


気づけば、服の袖を握る指先に力が入っている。


「……待ち続けてきた……?」


ほとんど聞き取れないほどの囁き。


エアリンは何も言わなかった。


だが、その視線は再び赤子へ向けられていた。


先ほどよりも鋭く、より警戒を含んで。


マリアーネは再び動き出す。


伸ばした手はわずかに震えていた。


小さな身体に触れる。


温かい。


けれど、その温もりの奥には――言葉にできない何かがあった。


彼女はそっと抱き上げる。


そして再び、その小さな命を胸に抱き寄せた。


視線を落とした瞬間――それが見えた。


恐怖はない。


泣いてもいない。


あるのは澄んだ眼差しだけ。


そして――


どこか好奇心にも似た何か。


マリアーネの呼吸が止まる。


「……私の子……」


かすかに呟き、眉を寄せた。


「本当に……私の子なの……?」


胸が締めつけられる。


呼吸が喉につかえ、ようやくゆっくりと吐き出された。


いつものような落ち着きはない。


受け入れたくないからではなかった。


むしろ逆だ。


今、自分が向き合っている存在が――決して普通ではない。


その事実を、あまりにも鮮明に理解してしまったからだ。


その認識は、指先から少しずつ熱を奪っていく。


ほんのわずか。


だが確かに感じられるほどには。


目の前の狼は相変わらず沈黙を保っていた。


その視線は一度たりとも逸れない。


まるで、その存在そのものがあらゆる疑問への答えであるかのように。


説明を必要とするものではない。


ただ――敬意を払うべきもの。


そんな在り方だった。


先ほどの冷気はまだ薄く空気に残っている。


もはや押し潰すような圧迫感はない。


それでも、この場がまだ終わっていないことを告げるには十分だった。


まるで世界そのものが、何かを待ち続けているかのように。


赤子はただ見つめていた。


瞳は開かれたまま。


澄み切った眼差しで、目の前の存在を追っている。


不安もない。


戸惑いもない。


本来なら赤子が持つはずのものが、どこにも見当たらなかった。


そして次の瞬間。


理由もなく――


小さな唇の端がわずかに動く。


ほんのわずか。


だが確かに見えた。


まるで――微笑みのように。


マリアーネは言葉を失った。


知らぬ間に呼吸が再び止まる。


胸を締めつけるのは、名前のつけられない感情だった。


奇妙な温かさと共に訪れたもの。


否定しているわけではない。


むしろその温もりは確かに存在している。


本来なら自然に受け入れられるはずのものだ。


だが、心のどこかで立ち止まってしまう。


完全には受け入れきれない。


理屈より先に、本能が反応していた。


そしてその本能は――


これを普通のこととして認めるのを拒んでいた。


「……お前の子だ」


狼の声が再び響く。


先ほどよりも深く、重い。


「だが、他の赤子と同じように生まれた存在ではない」


マリアーネはゆっくりと顔を上げた。


「……説明して」


静かな声だった。


しかし、その奥には隠しきれない不安が滲んでいる。


狼はすぐには答えなかった。


長い沈黙。


軽々しく口にできない何かを秤にかけているようだった。


やがて、その声が低く落ちる。


言葉以上の重みを伴いながら。


「お前が抱いているその姿は……世界によって人の形へと押し込められたものだ」


空気が止まったように感じられた。


風が消えたわけではない。


ただ、世界そのものが息を潜めたかのようだった。


「この世界は……本来の姿を受け止めきれない」


狼の瞳は赤子から離れない。


「お前の腕の中にあるのは、存在を許された形に過ぎない」


マリアーネの指先が、無意識のうちにその小さな身体を包む布を強く握る。


言葉がゆっくりと胸に沈んでいった。


「お前が経験した三度の流産」


再び響いた声は平坦だった。


だが、到底聞き流せるものではない。


「それは偶然ではない」


マリアーネの瞼がかすかに震える。


「あれは代償だ」


静かな声。


「時が来る前に、こちらへ入り込もうとしたもののな」


隣でアステリアが口元を押さえた。


肩がわずかに震え、呼吸が浅くなる。


エアリンは依然として沈黙していた。


しかし顎は固く結ばれ、その手は静かに拳を作っていた。


マリアーネはすぐには答えなかった。


視線を落とす。


再び腕の中の小さな顔へ。


そこから何か理解できる答えを探すように。


「……なら……この子は……誰なの……?」


その呟きは風に溶けるほど小さかった。


◇ ◇ ◇


闇が訪れる。


音はない。


方向もない。


果ての見えない空白だけが広がっている。


まるで意識そのものが、まだ存在することを選んでいないかのように。


だが、その虚無の中には――


確かに、何かが存在していた。


赤い水たまり。


静かだった。


だがその静けさの奥には底知れない深さがあり、まるで決して完全には止まることのない液面のように、わずかな揺らぎを孕んでいる。


その中央に、一つの人影が横たわっていた。


長身の身体。


黒い外套がゆるやかに広がり、乱れた黒髪が無造作に散っている。


その寝顔は穏やかだった。


だが、それはただの眠りではない。


あまりにも深く、あまりにも長い眠り。


呼吸は見えない。


それでも――その存在は重かった。


まるでその空間そのものが、彼の存在に跪いているかのように。


そして――


世界が回転した。


ゆっくりと。


何かが軸ごと裏返されるように。


すると、もう一つの側面が姿を現す。


新たな水面。


淡い青。


穏やかな水に映る空のように澄み切った色。


その中にもまた、一人の男が横たわっていた。


若い男だった。


白いレザージャケットに黒いシャツ。


この世界のものとは思えない装い。


その表情は穏やかで、長い疲労の果てに眠りへ落ちたように目を閉じている。


青川蓮司。


違う存在。


それでいて――どこか同じ。


二つの側面。


二つの存在。


そしてある瞬間。


その両方が同時に映し出される。


左と右。


赤と青。


二つの世界は並び立っていた。


だが決して交わらない。


同じ静寂の中にありながら、まったく異なる意味を宿して。


始まりと終わり。


「二つの意識だ」


狼の声が再び静寂を貫いた。


「一つの肉体の中に宿っている」


マリアーネは息を呑んだ。


ゆっくりと顔を上げる。


胸の奥で呼吸が止まったようだった。


「……二つ?」


かすかに眉を寄せながら問い返す。


狼はすぐには答えなかった。


視線は依然として赤子へ向けられている。


だがその眼差しは、どこか遠くを見ているようでもあった。


より深く。


より遥か彼方を。


「その一つは……かつて世界を揺るがした存在だ」


声は変わらず平坦だった。


だがその言葉には重みがあった。


「王だった」


短い沈黙。


そして。


「かつて私たちが憎んだ暴君だ」


風が静かに流れる。


先ほどよりも柔らかな冷気を伴いながら。


「だが時は……すべてを変える」


狼は淡々と続けた。


「かつて私たちが抗ったものは、今や私たちに必要なものとなった」


誰も口を挟まない。


呼吸の音さえ遠く感じられる。


「だが……彼はまだ眠っている」


その言葉に強い抑揚はなかった。


それでも意味は十分すぎるほど伝わった。


狼はわずかに言葉を切る。


その瞳が細められた。


「そして、もう一つは――」


静寂。


「私たちですら名を持たぬものだ」


誰も動かない。


空気だけが静かに流れていく。


「だが、いずれ――」


狼は静かに告げた。


「それは終焉と呼ばれるだろう」


その先の説明はなかった。


エアリンはわずかに俯き、眉を寄せる。


思考を巡らせ、必死に意味を繋ぎ合わせようとしていた。


一方でアステリアはただ黙っていた。


唇がわずかに開いている。


だが言葉は出てこない。


マリアーネもまた動かなかった。


むしろ腕に力が入る。


抱きしめる赤子を、さらに強く胸へ引き寄せた。


理解できない。


それでも本能がそうさせていた。


まだ何者なのかも分からない存在を守ろうとするように。


「……私には分からないわ」


やがてそう口にする。


その声は静かだった。


だが先ほどのような揺らぎはもうない。


狼は彼女を見つめた。


長く。


しかし今度は圧迫感を感じなかった。


「それでも、お前の子だ」


やがて狼は言った。


その声は以前よりも低く、どこか穏やかだった。


「その事実は何も変わらない」


風がやさしく吹き抜ける。


「恐れる必要もない」


静かな声。


「拒む必要もない」


その眼差しは終始変わらず穏やかだった。


「今のお前に必要なのは理解ではない」


狼はそう告げると、一拍置いてから、わずかに低い声で続けた。


「お前が感じたもの――それで十分だ」


マリアーネは黙っていた。


胸の内は満たされている。


重い。


けれど、先ほどまでのように押し潰されそうな重さではなかった。


何かが少しずつ心の底へ沈み、静かに受け入れられていくような感覚。


「守護者たちは、ただ守るためだけに今日まで在り続けたわけではない」


狼は再び赤子へ視線を向けた。


「私たちはこの世界を見守ってきた」


静かな声。


「世界が呼吸を続けられるようにな」


そして。


「彼が訪れる、その時まで」


再び静寂が降りる。


そして初めて――


マリアーネの瞳が熱を帯びた。


腕の中の小さな顔へ視線を落とす。


胸の奥から込み上げてくる何かを堪えるように、唇がわずかに震えた。


「……重いものを背負うのね」


ほとんど聞こえないほどの囁き。


そっと指先で赤子の頬に触れる。


呼吸が小さく乱れた。


「……それでも、それがあなたの歩む道なら」


小さく息を吸う。


そして静かに吐き出した。


その瞳が柔らかく細められる。


「お母様は、ずっとここにいるわ」


それはあまりにも単純な言葉だった。


けれど、それで十分だった。


狼は答えなかった。


巨大な身体はしばらくその場に留まっていたが――やがて輪郭がゆっくりと曖昧になっていく。


白い毛並みがほどける。


まるで雪のように。


風に舞い上がる氷の欠片のように。


音もなく。


何一つ残さず。


冷たい風がひと吹き巡った次の瞬間、その存在は霞むように消えていた。


まるで最初からそこにいなかったかのように。


遠くでは、他のカストディアンたちも動き始める。


一体、また一体と。


歩き去るのではない。


霧へ溶けるように。


木々の影へ溶け込むように。


静けさを取り戻した空気の中へ消えていった。


あの圧力もまた、少しずつ薄れていく。


まるで夢がほどけていくように。


しばらくして――


再び人の声が戻ってきた。


遠くから足音が聞こえる。


ためらいを含みながらも、抑えきれない好奇心に引かれるように近づいてくる。


「……もう終わったのか?」


「あの存在は……本当に去ったのか……?」


小さな囁きがあちこちで交わされる。


静かだが、はっきりと耳に届いた。


だがマリアーネは振り返らない。


その場に立ち続けていた。


我が子をしっかりと抱きしめながら。


そしてもう一度、腕の中へ目を落とす。


そこには――


赤子がいた。


彼女を見上げている。


恐れもない。


戸惑いもない。


ただ――


微笑んでいた。


小さく。


穏やかに。


まるで今しがた起きた出来事のすべてが、ただ興味深いものだったと言わんばかりに。


マリアーネは息を呑む。


そしてゆっくりと吐き出した。


その瞬間、初めて本当の意味で理解した。


今、自分が抱いているのは――ただの我が子ではない。


この世界そのものを変えてしまう存在なのだと。

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