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第二十三話

冷たい空気は依然として意識の端を押さえつけるように漂っていた。まるで何かがまだ終わりきっていないかのように。


それでも、世界は少しずつ動き始める。


静まり返った廊下に、軽やかな足音が響いた。


カエラは繊細な金の装飾が施された大きな扉の前で立ち止まり、手にしたトレーの位置を整えてから、そっとノックした。


「失礼いたします、旦那様。入室してもよろしいでしょうか」


すぐに返事はなかった。


かすかな椅子の軋む音だけが聞こえ、やがて――


「入ってくれ」


その声を聞き、カエラは小さく息を吸うと、ゆっくりと扉を押し開けた。


その先に広がる部屋は広々として整然としていた。年季の入った木材の温かな香りに、インクと紙の匂いが混じり合っている。


壁際には天井近くまで届く本棚が並び、厚い書物が整然と収められていた。反対側には大きな領地図が掛けられており、各所に記された小さな印は、つい最近更新されたばかりのように見える。


部屋の中央では、ラインマーが執務机に向かって座っていた。


机の上には数枚の書類が散らばり、片付ける暇もなかったのか、インク壺やペンに押さえられたままになっている。


片手でこめかみを支えながら、わずかに眉を寄せていた。その思考は、同時にいくつもの方向へ走っているようだった。


だが、扉が開いた瞬間、すぐに顔を上げる。


「……カエラか?」


わずかに目を細めながらそう言った。


「エアリンが来たのかと思った」


カエラはすぐに軽く頭を下げ、トレーを揺らさないよう慎重に歩み寄った。


「申し訳ありません、旦那様。エアリンは現在外出しておりますので、本日は私が代わりを務めております」


ラインマーは短く息を吐き、椅子にもたれかかった。


「そうか……まあ構わない」


疲労を滲ませながらも、声色は落ち着いている。


「そこへ置いてくれ」


そう言って机上の書類を適当に脇へ寄せ、まだ整理されていない書類の山の間にわずかな空間を作った。


カエラは近づき、軽く頭を下げながら温かなコーヒーを机の端へ置く。


立ち上る湯気が、数字や細かな書き込みで埋まった書類の間をゆっくりと漂った。


そのとき、いくつかの文字が目に入る。


収穫量の計算。


流通計画。


何度も書き直された数字。


「……今日は随分とお忙しいのですね、旦那様」


慎重ながらも、どこか柔らかな声音だった。


ラインマーは小さく笑った。


とはいえ、それは笑い声というより疲れた吐息に近い。


「忙しい、という表現は少し違うな」


そう言いながらカップを手に取るが、まだ口はつけない。


「どちらかと言えば、自分で頭を悩ませているだけだ。本当に頭が割れそうになる」


視線が再び書類へ落ちる。


「今季は薬草畑の収穫量がかなり増えた。それ自体は良い知らせなんだが」


指先が机を軽く叩いた。


「今度は流通が問題になってきた」


深く息を吐き、肩を少し落とす。


「他領からの需要は増えている。一方で備蓄も確保しなければならない。それに輸送費も落ち着かなくてな」


カエラは小さく頷いた。


細かな内容までは理解できていないのだろう。それでも表情には確かな気遣いが浮かんでいる。


「すべてをお一人で管理なさるのは、きっと大変なのでしょうね」


ラインマーは微かに笑みを浮かべた。


今度は先ほどよりも少しだけ生気がある。


「確かにな」


軽い口調でそう返す。


「だが、私が考えなければ誰がやる」


何気ない言葉だった。


しかし、その奥には隠しきれない重みがあった。


カエラは再び頭を下げ、一歩後ろへ下がる。


「これ以上お邪魔はいたしません、旦那様。ほかにご用件がなければ、私はこれで――」


言葉が途中で止まった。


足も止まる。


無意識のうちに、その視線が別の場所へ引き寄せられていた。


上へ。


ラインマーの背後の壁。


そこには、部屋の上部をほとんど埋め尽くすほど巨大な壁画が広がっていた。


色彩は決して派手ではない。


だが深みがあり、線は繊細でありながら力強い。


まるで一筆ごとに、ただの絵以上の何かが刻み込まれているかのようだった。


一頭の狼。


巨大で。


威厳に満ちている。


その頭は天へ向けられ、開かれた顎は声なき咆哮を放っていた。


左右には別の存在たちが立っている。


しかし、その姿は曖昧で、はっきりとは見て取れない。


そして彼らの上には――


巨大な円環が描かれていた。


淡く輝きながら。


何かを覆い、守り、あるいは……


閉じ込めるかのように。


「……旦那様」


カエラは遠慮がちに声をかけた。


礼儀正しさを崩さないまま、わずかにためらいを滲ませながら。


「もし差し支えなければ、お聞きしてもよろしいでしょうか……」


ラインマーは眉をわずかに上げ、思考の海から引き戻されたように顔を上げた。


「ん?」


カエラは再び壁画へ視線を向ける。


その目はそこから離れなかった。


「その絵は……どんなお話なんですか?」


短い沈黙が落ちる。


ラインマーはすぐには答えなかった。


カエラの視線を追うように壁画へ目を向けると、椅子の上で少し身体をひねる。


その眼差しは、ただ見ているものではなかった。


何かを思い出している目だった。


「……あれか」


そう呟き、ゆっくりと背もたれに身を預ける。


「その伝承を聞いたことはないのか?」


カエラは小さく首を横に振った。


「ありません、旦那様」


迷いのない率直な返答だった。


ラインマーはしばらく黙り込み、それから静かに息を吐く。


長いこと口にしていなかった言葉を探すように。


「昔――この村が今の姿になる前のことだ」


語り始めた声は、先ほどよりも少し低かった。


「この地は決して安全な場所ではなかった」


視線はなおも壁画へ向けられている。


「混沌の波が何度も押し寄せてきた。規則性もなければ前触れもない」


無意識のうちに指先が椅子の肘掛けをなぞる。


「作物は荒らされ、家々は崩れ……人々は――ある日突然、姿を消した」


カエラは小さく息を呑んだ。


「誰にも止められなかった」


言葉の終わりにわずかな緊張が混じる。


「だが、ある日……現れたんだ」


その眼差しがわずかに鋭くなる。


「音もなく。


 兆しもなく」


そして狼の描かれた壁画へ顎を向けた。


「北の狼――そう呼ばれていた存在だ」


カエラは固唾を呑んで耳を傾ける。


「そいつは何も語らなかった。警告を与えることもなかった」


ラインマーは静かに続けた。


「だが、その出現を境に……何かが変わった」


一つひとつの言葉に重みを持たせるように、ゆっくりと。


「その存在は……他の土地にいた異なる存在たちと共に、境界を築いた」


視線が壁画の巨大な円環へ移る。


「障壁だ」


「混沌の波は……この地へ届かなくなった」


再び静寂が訪れる。


カエラはそっとスカートの端を握った。


「……では……どうしてその存在は、この村を守ったのでしょうか」


ためらいがちな声だった。


「そういう存在には、何か目的があるものではないのですか?」


ラインマーはすぐには答えなかった。


視線をゆっくりと壁画へ向け、遠い記憶を辿るように眉を寄せる。


「誰にもわからない」


やがてそう口を開いた。


その声は低く穏やかだった。


「だが、一つだけ語り継がれている話がある」


少しだけカエラへ顔を向ける。


「彼らは……守っていただけではない」


その声がさらに静かになる。


まるで秘密を打ち明けるように。


「待っていたとも言われている」


カエラの肩がわずかに強張った。


「……待っていた? 誰をですか?」


ラインマーは静かに頷く。


「いつの日か、この世界に生まれてくる一人の存在を」


そう続けた。


「混沌の波を完全に終わらせる者だと信じられている存在をな。押し留めるのではなく……根本から断つ者を」


部屋の空気がさらに静まり返る。


まるで空気そのものが息を潜めたかのように。


「いつか帰還する王」


ラインマーは静かにそう告げた。


大仰な言い方ではない。


だが、その言葉は不思議な重みを伴っていた。


カエラはすぐには返事をしなかった。


視線はなおも壁画へ向けられている。


天へ向かって咆哮する狼へ。


そして、何か見えないものを封じ込めているかのような円環へと。


なぜだろう。


胸の奥がわずかに締めつけられるような感覚があった。


「……そう、なんですね……」


カエラは小さく呟いた。


ラインマーは軽く頷くと、再び机へ視線を戻す。


まるで今の話など、もっと大きな何かの中のほんの一欠片に過ぎないと言うように。


「昔話だ」


短くそう言った声は、すでに先ほどの重さを失っていた。


「今でも本気で信じている者ばかりじゃない」


カエラは静かに目を伏せた。


胸の前で指を組み合わせる。


何かを感じているのに、それが何なのかまだ理解できない。


そんな様子だった。


「承知いたしました、旦那様」


そう言ってゆっくりと身を翻す。


だが、その足はすぐには動かなかった。


視線が引き留められる。


再び壁画へ。


天へ向かって咆哮する狼へ。


そして、何か見えないものを閉ざしているような巨大な円環へ。


息がかすかに止まる。


妙だった。


話そのものが珍しいからではない。


むしろ――自分の中のどこかが、その話にあまりにも近い場所に立っていた気がしたのだ。


視線を逸らす。


それでも、その感覚だけは消えてくれなかった。


そして、その頃――


外では。


「……まさか……」


マリアーネの息が一瞬喉につかえた。


それからゆっくりと吐き出される。


腕の中の赤子を包む布を、指先が無意識に強く握り締めていた。


視線は目の前の白き存在から離れない。


「あなたが……その伝説なのですか」


声は決して大きくない。


だが、張り詰めた静寂を破るには十分だった。


「北の守護者……何千年もの間、この村を混沌の波から守り続けてきた存在――」


冷たい風が吹き抜ける。


髪が静かに後ろへ流された。


狼はすぐには動かなかった。


だが、その瞳だけは変わらない。


決して溶けることのない氷のような淡い蒼。


真っ直ぐにマリアーネを見据えていた。


そして――


「そのような問いを口にするのか」


声が響いた。


低く。


明瞭に。


もはや頭の中へ直接届く声ではない。


二人の間の空気そのものを震わせる、本物の声だった。


一つひとつの言葉が重みを伴い、冷気を帯びている。


「答えはすでに、お前の前に立っているというのに」


アステリアはその場で大きく肩を震わせた。


反射的に身体が強張り、目を見開く。


慌てて声の主へ顔を向けた。


「し、喋った……?」


震える声が漏れる。


呼吸も乱れていた。


隣にいたエアリンも同様に驚いていたが、どうにか表情へ出さないよう耐えている。


顎に力が入り、眉が深く寄せられていた。


「……さっきまでのような念話じゃない……」


小さく呟きながら目を細める。


「今は……本当に声を出している……」


だが、マリアーネだけは動かなかった。


視線はまっすぐ前を向いたまま。


後ずさることもない。


怯えを見せることもない。


狼はゆっくりと首を傾けた。


純白の毛並みが、目に見えない冷気の流れに合わせて静かに揺れる。


まるで周囲の空気そのものが、風ではなくその意思によって動かされているかのようだった。


「私は――」


狼が口を開く。


その声は低く平坦でありながら、広い空間へ重く響いた。


「予言の子を産み落としたばかりの魔女に、牙を向ける理由を持たぬ」


その言葉は淡々と告げられた。


だが――その意味は決して軽くない。


アステリアの肩がぴくりと跳ねる。


唇が開く。


何かを言おうとした。


しかし、出るはずだった言葉は喉の奥で絡まり、そのまま消えていった。


「……ま、魔女……?」


アステリアはかすれた声で繰り返した。


途中で声が震え、言葉が途切れる。


揺れる瞳がゆっくりとマリアーネへ向けられた。


「お、奥様……? それって……奥様のこと、ですか……?」


その声音にあったのは単なる困惑ではない。


受け止める準備ができていなかったのだ。


隣に立つエアリンは何も言わなかった。


だが、その沈黙は空虚なものではない。


顎に力が入り、目がわずかに細められる。


横顔越しにマリアーネを見つめる眼差しは、今まで見過ごしていた何かを繋ぎ合わせようとしているようだった。


(……魔女……?)


その考えは一瞬だった。


しかし、それだけで呼吸が先ほどより重く感じられる。


一方で――


マリアーネはすぐには反応しなかった。


ただ真っ直ぐ前を見つめる。


わずかに目を細め、息を止める。


そしてゆっくりと吐き出した。


「……つまり、あなたは私が何者なのか知っているのですね」


静かな呟きだった。


落ち着いた声色。


だが、その奥には別の感情が隠れている。


恐怖ではない。


理解だった。


狼は答えない。


代わりに、その頭をわずかに持ち上げた。


そして何の前触れもなく――


視線を空へ向ける。


その小さな動きだけで十分だった。


マリアーネも同じ方向を見上げる。


エアリンとアステリアも半拍遅れて後に続いた。


つい先ほどまで穏やかだった夕空が――


その瞬間、様相を変える。


遥か上空。


あまりにも高い場所に、何かが浮かび上がっていた。


極めて細い光の線。


注意しなければ見逃してしまうほど微かなそれが、空全体へ広がりながら巨大な弧を描いている。


まるで世界そのものを覆う巨大なドームのように。


光は強くない。


だが幾重にも重なり合っていた。


ゆっくりと脈動している。


生き物の鼓動のように。


「……あれは……」


アステリアが呆然と呟く。


思わず身体がわずかに後ろへ引いた。


知らぬ間に息が詰まる。


空気の中を微かな振動が走った。


本当にわずかだ。


それでも胸の奥に不快な圧迫感を残すには十分だった。


そして、その光の線の間に――


小さな亀裂が現れる。


細く。


ほとんど見えないほどに。


だが確かに存在していた。


まるで何かが。


世界の外側から、その表面へ触れようとしているかのように。


「我らが築いた障壁は――」


狼の声が再び響く。


先ほどよりもさらに重く。


深く。


「もはや長くは保たぬ」


アステリアの肩が無意識に強張った。


「このまま耐え続けられる時間は……残りわずかだ」


淡々とした口調だった。


だが、その言葉の重さはあまりにも大きい。


「それは我らだけの話ではない」


短い沈黙。


そして――


「この世界に生きる、すべての者にとってだ」


誰もすぐには言葉を返せなかった。


アステリアの呼吸はわずかに乱れている。


エアリンは目を伏せ、深く眉を寄せた。


マリアーネも――何も言わない。


ただ、その視線はすでに空から離れていた。


真っ直ぐに。


目の前へ。


氷の円環の中心へ。


そこにいる――我が子へ。


小さな身体は変わらずそこに横たわっていた。


泣くこともない。


身じろぐこともない。


開かれた瞳は、赤子とは思えないほど澄んでいる。


恐れている様子はない。


不安そうでもない。


むしろ――


見ていた。


周囲で起きているすべてを。


それが興味深いものだとでも言うように。

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