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第二十一話

一方その頃――


アステリアとエアリンの足が、同時に止まった。


その咆哮は、届いた。


強く。


はっきりと。


アステリアは反射的に振り返り、目を大きく見開いた。


「それって……グルメル……?」


その声には、先ほどまでの明るさはもうなかった。


エアリンはすでに振り返っていた。鋭くなった視線が、声の聞こえた方向へと即座に向けられる。


「……ああ」


短く、静かに答える。


周囲の地面が微かに震え始めた。


重々しい足音が、こちらへ近づいてくる。


速い。


アステリアの身体が強張る。


「でも……どうして彼が――」


そこまで言って、言葉が途切れた。


下り坂の先から、大きな影が姿を現す。


巨体が一直線にこちらへ向かって駆けてくる。その瞳は大きく開かれ、いつも知っている穏やかな様子とはまるで違っていた。


蓮司が振り返る。


(……ん?)


迫ってくる存在を捉えようと、目を細める。


あまりにも異常な速度だった。


(……あれは……)


(……グリズリー……? しかも鎧付き……?)


一瞬、思考が止まる。


(……待て。なんであいつ、怒ってるみたいに見えるんだ?)


だが、恐怖よりも先に別の感情が浮かんだ。


妙な好奇心。


(……もしかして……何かあったのか?)


「アステリア、俺の後ろへ」


エアリンの声は低く、そして強かった。


一歩前へ出る。


身体をずらし、自分自身を壁にするようにして、グルメルとアステリアの間へ立った。


アステリアは一瞬だけ黙り込む。


「……分かった。でも、なぜか……グルメルから何かが変わったように感じる……」


声を落とし、不安げに呟く。


その視線は、迫り来る巨体から離れない。


それでも一歩後ろへ下がった彼女の腕は、逆に蓮司を抱く力を強めていた。


呼吸も少しずつ乱れていく。


「あなたは……どうして彼があんな風になったのか分かる……?」


小さな声。


まるで自分自身に問いかけるような響きだった。


エアリンはすぐには答えなかった。


わずかに顎を引き締める。


視線は正面から動かさない。


「……俺にも、まだ分からない」


短い返答。


足元はすでに安定していた。


片足を前へ。


もう片方を後ろへ。


身体をわずかに低く構え、右手を前へ。


左手は後方に控えたまま。


静かでありながら、いつでも弾けるような構え。


視線は一度も外れない。


グルメルはさらに近づく。


その歩みが、次第に遅くなり――


そして。


止まった。


数メートル先で。


エアリンは眉を寄せる。


(……止まった?)


本能的な警戒が強まる。


もし本当に襲うつもりなら、あのような存在が簡単に足を止めるはずがない。


だが、目の前の光景は、エアリンが予想していたものとは大きく違っていた。


巨大な頭がゆっくりと下がる。


その瞳は何かを探すように動き――


向けられていたのは自分ではなかった。


その背後にいる誰か。


その事実を理解しきる前に、遠くから新たな足音が聞こえてきた。


一つではない。


次第に数を増やしながら近づいてくる。


エアリンは一瞬だけ後ろへ視線を向けた。


グルメルの巨体越しに見えたのは、先ほど追いかけてきた村人たちだった。


息を切らし、困惑した表情で集まっている。


「ここに来たのか……?」


「何を探してるんだ……?」


疑問の声が周囲に浮かぶ。


だが、エアリンは答えなかった。


再び前へ向き直り、さらに険しい目でその存在を見つめる。


「グルメル」


静かな声。


胸の奥が張り詰めていくのを感じながらも、声だけは落ち着いていた。


「何があった。俺に教えてくれ」


返事はない。


「何かを感じ取ったのか……?」


続ける声は、さらに低くなる。


ただの問いではない。


まだ確信できていない何かを確かめるような言葉だった。


顎が少し強張る。


「……それとも、何かがお前をこんな状態にしたのか……?」


慎重に言葉を選ぶ。


「お前がここまで来るってことは……」


一瞬、間が空いた。


重たい沈黙が、その場を包む。


「……まさか、何かが近づいているのか」


グルメルは何の反応も見せなかった。


ただ、視線だけはエアリンの身体を越えた先へ向け続けている。


そしてゆっくりと身体を起こした。


巨体がさらに大きく見える。


その視線の先は、もう明らかだった。


その瞬間、理解が遅れてやってくる。


エアリンはすぐに振り返った。


「アステリア――何をするつもりだ!?」


思わず声が上がる。


しかし彼女は止まらない。


視線は目の前の存在に固定されたまま。


息を呑みながらも、足だけは進み続けていた。


まるで、自分自身にも分からない何かに導かれるように。


「落ち着いて……たぶん……彼はもう、怒ってない……」


小さく呟く。


アステリアがエアリンの前まで進み出た、その時。


ようやくグルメルが動いた。


足取りはまだ重い。


しかし、そこには先ほどのような敵意はなかった。


ゆっくりと近づいてくる。


さらに近く。


距離がほとんどなくなるほどまで。


その熱い吐息が、空気を揺らした。


巨大な頭が下がる。


アステリアの腕の中にいる小さな身体へ近づき――


ゆっくりと匂いを嗅ぐ。


一度。


二度。


そしてさらに深く。


何かを確かめるように。


蓮司はただ黙っていた。


瞬きすら忘れたように、その光景を見つめる。


(……これが原因だったのか)


(……俺が?)


グルメルは動きを止める。


そして、一歩だけ後ろへ下がった。


その場にいた全員が息を止める。


アステリアは動かない。


エアリンもまた、いつでも動けるよう身体を強張らせていた。


だが次の瞬間。


その存在は再び大きく身体を起こし、頭を高く持ち上げる。


そして――


二度目の咆哮を放った。


「グルルオオオオオオッ!!」


その声は、先ほどよりも強く、深く。


空気そのものを震わせるような響きだった。


それは警告ではない。


まるで、何かを呼び寄せるための声のように。


周囲の空気が変わる。


先ほどまで穏やかだった風が、奇妙な震えを帯びながら村の向こうへと広がっていった。


そして遠くで、何かが動き始めた。


二度目の咆哮がまだ完全に空気から消え去る前に、奇妙な震えが広がり始める。


微かなものだった。


しかし、それは確かに胸の奥へ届くほどの感覚だった。


まるで大地と空が、人間には理解できない言葉で互いに信号を送り合っているかのように。


先ほど生まれた静寂が、ゆっくりと崩れていく。


様々な方向から、別の足音が聞こえ始めた。


揃ってはいない。


不規則でもある。


それでも、全てが同じ一点へ向かっていることだけは明らかだった。


エアリンは少しだけ顔を上げる。


視線が素早く地平線をなぞり、その本能が異常を感じ取った瞬間、呼吸がわずかに止まった。


「……何かが来る」


低く呟く。


遠くで、大きな影が次々と現れ始めた。


畑の向こう側から、一体の高い鹿のような姿をした存在が姿を現す。


その角は古い大樹の根のように枝分かれし、先端では淡い光がゆっくりと脈打っていた。


一歩進むたび、足元には薄い光の跡が残り、すぐに消えていく。


別の方向では、もっと低く、素早い何かが茂みの間を駆け抜けた。


その姿は巨大な猫に近い。


黒い鱗のような層が身体を覆い、夕暮れの光を奇妙に反射している。


瞳には淡い光が宿り、視線は同じ方向へ鋭く向けられていた。


そして、暗くなり始めた空の上。


翼を持つ影がゆっくりと横切る。


地上へ降りることはなく、それでも大きな円を描くように旋回し続けていた。


まるで何かを見張るように。


一体。


二体。


そして、さらに増えていく。


カストディアンたちが集まっていた。


彼らは騒ぎ立てることもなく、混乱を起こすこともなく現れた。


しかし、その存在だけで空気は変わった。


触れることなく、ただそこにいるだけで圧迫感を生み出す。


先ほどまで困惑していただけだった村人たちは、今度こそ本能的に後退し始めた。


鋭く息を呑む者もいれば、無意識に互いの手を握る者もいる。


「これ……は……」


「彼ら全員……ここへ呼ばれたのか……?」


アステリアの身体が強張る。


蓮司を抱く腕にさらに力が入り、抑えようとしているにもかかわらず、指先はわずかに震えていた。


視線は、周囲を囲むように集まり始めた存在たちを一つずつ追っていく。


「エアリン……」


声は低く、今にも消えそうなほど小さかった。


「これは普通じゃない……どうして急に、こんなに多くのカストディアンが来るの……?」


エアリンは答えなかった。


視線はもう周囲を探ってはいない。


ただ一つの方向だけを見つめていた。


まだ完全には姿を見せていない一点。


だが――


彼はすでに感じ取っていた。


その瞬間。


呼吸が変わる。


先ほどまで張り詰めていただけの胸が、内側から押し潰されるような感覚に変わった。


声にならない本能の警告が響き、肩が強張る。


足の裏が、より深く地面を捉えた。


「アステリア……下がれ」


静かな声。


だが、今までとは違った。


低く。


重い。


アステリアが振り向いた時には、すでにエアリンは半歩前へ出ていた。


身体で道を塞ぐように、再び背後を完全に守る位置へ立つ。


「エアリン……?」


返事はなかった。


なぜなら、その時――


何かが現れた。


はっきりとした足音はない。


グルメルのような大きな地響きもない。


それでも、その存在感だけは……遥かに重かった。


誰も意識を向けていなかった場所。


そこにある影の中から、何かがゆっくりと姿を現した。


動きは穏やかだった。


あまりにも穏やかすぎるほどに。


まるで周囲の世界そのものが、求められる前から道を開けているかのようだった。


一匹の狼が視界へ入る。


白い。


しかし、ただの白ではない。


身体は大きい。


あまりにも大きく、普通の狼と呼ぶには不自然だった。


静かに立っているだけでも、その肩の高さは成人の身長を越えている。


厚い毛並みは滑らかに流れ、その隙間には冷たい青の光が淡く脈打っていた。


まるで、生きた氷が内側で輝いているように。


両目は深い青色に染まっている。


ただの光と呼ぶにはあまりにも深く、見つめる者すべてを逆に見返す、凍てついた深淵のようだった。


一歩。


また一歩。


その足跡が残るたび、地面には細かな亀裂が走る。


足元には瞬時に氷の結晶が生まれ、しばらく形を保った後、ゆっくりと砕けて冷たい霧へ変わり、地面を這うように広がっていった。


周囲の温度が、一気に下がる。


村人たちの吐息は数秒もしないうちに白い霧へ変わり、突然重くなった静寂の中へ溶けていく。


そして、言うまでもなかった。


これはただの狼ではない。


アステリアは凍りついた。


目を見開き、身体は動かない。


その姿を完全に視界へ捉えた瞬間、呼吸すら止まったようだった。


「……そ、それは……」


声が続かない。


エアリンには分かっていた。


当然だ。


顎を強く引き締め、目を細める。


それは迷いではない。


そこにいるはずのない存在を、知ってしまったからだった。


「……高位カストディアン……」


誰にも聞かせたくないような小さな声で呟く。


「どうして……こんな存在が、俺たちの村に……」


名前を口にすることはなかった。


だが、感じ取ったものだけで十分だった。


狼の足は止まらない。


ゆっくりと近づいてくる。


静かに。


確実に。


まるで、何一つとして自分の進行を止められるものなど存在しないかのように。


「アステリア、早く逃げろ!」


エアリンが再び叫ぶ。


今度は、より強い声で。


しかし。


アステリアはまだ、同じ場所に立ったままだった。


その存在の歩みは、止まらない。


その距離が、さらに縮まっていく。


「言ったはずだ……そこから動くな。近づくな」


エアリンの声が低く落ちる。


冷たい。


強い圧を帯びた声。


「……はぁ」


小さく息を吐く。


足をわずかにずらし、構えをより明確にする。


身体を前へ傾け、重心を低く。


いつでも動ける姿勢。


たとえ――力の差が明らかだと分かっていても。


それでも。


その狼は退かなかった。


背後にいた村人たちは、本格的に混乱し始めた。


さらに距離を取る者。


もう耐えられず、その場から離れようと背を向ける者。


誰もが、押し潰されるような圧力に耐えきれなくなっていた。


アステリアは唇を噛む。


視線はその存在から離れない。


無意識のうちに、蓮司の服を掴む指にさらに力が入った。


「お願い……やめて……」


誰に向けた言葉なのか。


自分でも分からないまま、小さく呟く。


そして――


蓮司は感じ取っていた。


その力を。


目を大きく開き、瞬きすらしない。


視線は一歩一歩近づいてくる存在を追い続ける。


赤子とは思えないほどの集中力。


小さな呼吸は乱れず、むしろ瞳の端がわずかに細められていた。


(……これか)


思考がゆっくりと響く。


(……今までとは違うやつ)


恐怖ではない。


不安でもない。


ただ、深まっていく奇妙な好奇心。


(……強いな)


狼の足が止まる。


数メートル先。


その瞳はエアリンを見ていない。


アステリアも見ていない。


ただ――


まっすぐ、蓮司だけを見ていた。


そして次の瞬間。


その声が響いた。


空気からではない。


耳からでもない。


直接、エアリンの頭の中へ。


(……置け)


エアリンの身体が僅かに跳ねた。


目がわずかに見開かれる。


どこからともなく現れた声。


冷たく、意識の奥へ直接押し込まれるような感覚。


(その赤子を地面へ置け)


顎が強く引き締まる。


視線は揺らがない。


だが、肩には明らかな緊張が走った。


「……何者だ……」


ほとんど聞こえないほど小さな呟き。


問いというより、反射に近かった。


返事はない。


ただ、さらに深くなる圧だけが返ってくる。


(従わないなら……ここにいる全てを、永遠の凍結の中へ沈める)


心臓の鼓動が大きくなる。


それでも、足は動かない。


「……ふざけるな……」


低い声。


内側から込み上げるものを押さえるように。


しかし――


(従えば……命はお前たちの側につくだろう)


静寂。


一瞬。


それだけなのに、異様なほど長く感じられた。


エアリンの視線が、背後のアステリアへ向く。


息が止まる。


顎がさらに固くなる。


そして――


(……ちっ。さすがにこいつには勝てないか……このタイプのカストディアンは……)


そこで思考が途切れる。


(他に選択肢はない。従うしかないな)


小さく、誰にも届かない声で呟いた。


恐怖ではない。


どちらかと言えば――


無理やり選ばされた決断だった。


そして、迷うことなく。


エアリンは動いた。


手を伸ばし、アステリアの腕の中から蓮司を確かな動きで受け取る。


「エアリン――!?」


アステリアの声が震えた。


信じられないものを見るように目を見開く。


「何を――!?」


取り戻そうと手を伸ばす。


しかし、エアリンは止まらない。


「離せ」


短い言葉。


低い声。


反論を許さない響きだった。


一歩。


二歩。


そして、身体をゆっくりと下げる。


慎重に。


丁寧に。


小さな身体を、夕暮れの残り光でまだ温もりを持つ地面へ置いた。


その直後。


エアリンはすぐに後退する。


アステリアを連れて距離を取った。


アステリアは彼を睨む。


怒りと恐怖が混ざった表情。


呼吸は乱れ、視線は震えていた。


今、蓮司が本当にその存在の前に一人でいる。


「何をしているの……!?


もし奥様が見たら、あなた絶対に大変なことになるわよ!」


声が高くなる。


しかし、エアリンは答えなかった。


視線は前から離れない。


なぜなら――


その狼が。


再び動き始めたからだ。


ゆっくりと。


その歩みで、小さな身体の周囲を回り始める。


一周。


静かに。


足跡には氷が生まれ、細かな結晶の亀裂がその軌跡をなぞる。


小さな身体を囲むように、冷たい輪が形成されていく。


二周目。


さらに近く。


その瞳は、一度も離れなかった。


観察している。


見極めている。


まるで、ただ見るだけでは理解できない何かを知ろうとしているかのように。


誰もが息を止めていた。


動く者はいない。


声を出す者もいない。


そして、その輪の中心で――


蓮司はただ静かにしていた。


瞳はその動きを一つも逃さず追っている。


涙もない。


泣き声もない。


本来なら浮かぶはずの恐怖すらなかった。


それどころか――


口元が、ほんの僅かに動いた。


まるで……興味を惹かれたように。


(……これは、さすがにおかしいな)


思考がゆっくりと響く。


(……まるで儀式でも受けているみたいだ)


(……信じられないな……この狼、どうやら俺に興味を持っているらしい)


輪を描く動きは続く。


その間、空気に満ちる緊張はさらに濃くなっていった。


一歩ごとに響く足音。


ほとんど決められたリズムのように。


しかし、やがてそのリズムは少しずつ遅くなっていく。


最後の一歩が、これまでよりも重く落ちた。


地面にははっきりと氷の亀裂が広がる。


そして――


ついに、その動きが止まった。


小さな身体のすぐ前で。


静寂。


ただ音がないというだけではない。


もっと深い何か。


まるで目に見えない手によって周囲すべてが押さえ込まれ、先ほどまで吹いていた風さえも重く、止められたように感じる。


誰も動かなかった。


アステリアは無意識に息を止め、胸元の服を握り締める。


一方でエアリンは前に立ったまま、身体を強張らせていた。


一瞬たりとも瞬きをしない。


狼は頭を下げる。


ゆっくりと。


巨大な頭が近づき、夕暮れの光が蓮司へ届くのをその影が遮った。


青い瞳が細められる。


しかし、それはもう目の前の身体の形を見ているようではなかった。


もっと深い場所。


まるで、その小さすぎる存在の奥に隠された何かを探るように。


蓮司もまた、その視線を返す。


目を逸らさない。


恐怖を見せることもない。


ただ静かに見つめる。


まだ名前すら付けられない何かを理解しようとして。


そして次の瞬間――


狼は頭を持ち上げた。


「アアアアアアアア……!」


咆哮が響き渡る。


今までよりも大きく。


今までよりも深く。


しかし、荒々しいものではなかった。


威嚇でもない。


ただそこにあるのは――


確かな意志のようなもの。


周囲の地面に細かな亀裂が走る。


生まれた線に沿うように氷の結晶が音もなく広がった。


空気の温度が一瞬で下がり、まだ意識を保っている者たちの吐息が白い霧へ変わっていく。


他のカストディアンたちが、すぐに反応した。


先ほどまで堂々と立っていた者たちは、わずかに身体を低くする。


近づこうとしていた者たちは、そこで止まる。


中には、命令されることもなく頭を下げる者までいた。


混乱はない。


騒ぎもない。


ただ一つの同じ反応だけがあった。


認めるという行為。


一方で、人間たちは――


未だに何を見たのか、本当には理解できていなかった。


「今の……何だったんだ……?」


「彼らは……どうして、急に……」


「……頭を下げた?」


「まさか……あいつが……命じたのか……?」


誰かが言葉を止める。


「――敬意を……?」


声は最後まで形にならない。


途中で途切れる。


自分自身でさえ、その考えを口にすることを躊躇しているようだった。


理解しようとすればするほど。


逆に感じてしまう。


これは、本来、人間が理解するべきではないものなのだと。


そして蓮司にとって。


周囲の全てが、少しずつ薄れていった。


声。


風。


足音。


何もかもがゆっくりと遠ざかる。


まるで意識の外へ引き抜かれていくように。


残ったのは、一つの空間。


自分だけが存在するような場所。


そして――


もう一つ。


空白。


虚無。


その時。


声が響いた。


前からではない。


後ろからでもない。


ましてや、どの方向から聞こえたのかすら分からない。


(……我が王よ……)


蓮司はわずかに眉を寄せる。


視線を素早く動かし、存在しない声の主を探す。


(……何だ?)


(……早く目覚めるのだ……)


小さな呼吸が、一瞬だけ止まった。


その瞳はわずかに細められた。


恐怖からではない。


どうしてその声が、音もなく現れたのか。


ただ、それを理解しようとしていた。


(……声は……どこからだ?)


(この世界は……)


声は続く。


平坦。


深い。


大きな声ではない。


それでも、その意味だけが理解できないほど重く感じられる、不思議な圧を帯びていた。


(……もう耐えられない……)


(……かつて、お前が訪れたその重みに……)


間。


短い。


だが、それだけで胸の奥に何かが僅かに震えた。


(……我らが憎んだ存在として……)


憎んだ。


その言葉は、どこか奇妙だった。


知らない言葉。


それなのに、なぜか完全に遠いものではない。


まるで、遥か昔。


あまりにも深い場所に沈んでいて触れられない何か。


それでも、確かに影だけを残しているような。


蓮司は答えなかった。


いや。


答えられなかった。


何を返せばいいのかすら分からない。


しかし、その声は待たなかった。


(目覚めよ……)


間。


先ほどより長く。


先ほどより重い。


(……我らが王よ)


再び静寂が訪れる。


反響もない。


続きもない。


ただ空白だけが残り、少しずつ現実の音に満たされていった。


蓮司は瞬きをする。


一度。


そして呼吸が戻った。


ゆっくりと。


まるで身体そのものが、今初めて動き方を思い出したかのように。


(……どういう意味だ……)


思考がゆっくり回る。


(……何なんだ……?)


恐怖はない。


混乱もない。


ただ一つだけ残っていた。


奇妙な戸惑い。


そして、曖昧な何か。


とても曖昧な。


まるで、もう少しで思い出せそうな記憶の欠片のように。


その瞬間。


何の前触れもなく、全てが途切れた。


暖かな夕暮れの光。


足元に感じる村の土の感触。


遠くで聞こえていた人々の声。


すべてが、一瞬で消える。


まるで最後まで読み終える前に、ページを閉じられたかのように。


そして、意識が再び世界へ戻った時――


別の場所が広がっていた。


アストラヴェル。


その都市は広大に広がり、偶然とは思えないほど整った調和の中でそびえ立っていた。


石造りの塔と、繊細な金属構造が美しく組み合わさっている。


青く輝くドームは澄んだ空の下で光を反射し、壁や橋には淡い光を放つエネルギーの流れが走っていた。


まるで都市全体を生かす血管のように。


未来の世界ではない。


しかし、過去でもない。


美しさと機能が互いを邪魔することなく共存する。


その中間に存在する文明。


肺へ取り込む空気すら、違って感じられた。


涼しい。


澄んでいる。


そして、なぜか……整っている。


まるで風でさえ、どこへ流れるべきなのか理解しているようだった。


都市の中心。


そこには巨大な円形の構造物が存在していた。


時の流れに忘れられた古代の闘技場のように壮大な姿。


高い柱が左右対称の配置で周囲を囲み、天へ向かって開かれている。


そこへ遮るものなく光が降り注いでいた。


しかし、その中央にあるものは――


ドームではない。


一本の樹。


エラクリスの樹。


その幹は高く伸び、周囲の建造物を遥かに越えていた。


表面は古代の樹木と、生きた結晶が混ざり合ったような質感。


淡い銀色を帯び、その存在自体が呼吸しているように感じられる。


幹の隙間には黄金色の光の筋がゆっくりと流れていた。


細かな亀裂から外へ滲み出るように。


まるで、目には見えない息吹がそこに存在しているかのようだった。


その樹の枝は都市の中心上空へ大きく広がっている。


巨大な自然の屋根。


その下にある全てを包み込むように。


葉は鮮やかな青い光を放っていた。


冷たい青ではない。


むしろ軽く、どこか温かな青。


穏やかで。


安定していて。


そして……幸福を感じさせるような色。


何枚かの葉が、ゆっくりと枝から離れる。


柔らかな風に乗り、急ぐことなく旋回しながら落ちていく。


やがて地面へ触れた。


根はあらゆる方向へ伸びていた。


一部は地中深くへ沈み、見ることはできない。


別の一部は石の床と一体化し、周囲の構造へ絡みついている。


まるでこの都市が樹の周囲に作られたのではなく――


この樹によって、都市そのものが繋がっているように。


その樹の下。


一人の女性が静かに座っていた。


身体は地面から数寸ほど浮いている。


足を組み。


背筋を伸ばしている。


だが、力みはない。


長い黒髪が自由に流れ、僅かな空気の流れに合わせて、数本の髪がゆっくりと揺れていた。


その頭部からは、角が伸びている。


竜を思わせる、緩やかに湾曲した角。


優雅でありながら。


それはただの形以上に、遥かな年月を感じさせるものだった。


瞳は閉じられていた。


その表情は穏やかだった。


何もない空虚な静けさではない。


自分が感じる一瞬一瞬、その全てに確かに存在している者だけが持つような、意識的な静けさ。


エラクリスの樹から降り注ぐ光が、優しく彼女へ触れる。


髪の先へ絡みつき。


肩に沿って淡く流れていく。


そして、その中で。


彼女の呼吸が変化した。


僅かに。


ほとんど気づけないほどに。


「……これは……」


呟きは小さく、静寂の中へ溶けるようだった。


眉がわずかに寄る。


戸惑っているわけではない。


まるで、存在するはずのない何かを感じ取った者のように。


音ではない。


光でもない。


ただ――


圧力。


いつも静かに揺らぐことのない水面へ落ちた、小さな波紋のような。


微かな歪み。


「……ただの誕生ではない……」


瞼は閉じられたまま。


しかし意識だけは、さらに深い場所へ沈み、目には見えない何かを辿っていく。


「……二つの意識……?」


その言葉は、自然と零れ落ちた。


理由もなく。


確信もなく。


それでも。


その一言だけで、周囲の空気が僅かに重くなった。


その瞬間――


エラクリスの樹が反応した。


葉が震える。


風に揺らされたのではない。


まるで内側から触れられたように。


枝の隙間から光がゆっくりと降り注ぐ。


淡く輝く細かな粒子となり、周囲を包み込んでいく。


ほとんど感じ取れないほど薄い光。


それでも、確かにそこに存在していた。


一枚の葉が、枝から離れる。


ゆっくりと空中で回転しながら。


落ちていく。


そして。


彼女の目の前で止まった。


少女はすぐには動かなかった。


瞳はまだ閉じられたまま。


まるで、何かを確かめているようだった。


数秒後。


身体がゆっくりと降りていく。


足先が地面へ触れる寸前。


その手が静かに上がり、完全に落ちる前の葉を受け止めた。


ゆっくりと目を開く。


その視線は穏やかだった。


しかし、深い。


彼女は葉に浮かんだ文字へ目を向ける。


短い。


ただ一行だけ。


『虚無の魔王』


静寂。


しかし、その一瞬で瞳に宿るものが変わった。


驚きではない。


恐怖でもない。


ただ――


認識。


ずっと感じていた何か。


しかし、証明することができなかった答えを、ついに見つけた者のように。


「……そういうこと……」


声は、息に近いほど小さかった。


「……ついに……」


指先に少しだけ力が入る。


握られた葉が、僅かに震えた。


「……彼は、戻ってきたのね……」


「……この、滅びた世界へ」


アストラヴェルの空は、いつもと変わらず晴れ渡っていた。


都市は変わらぬ秩序の中で動き続ける。


しかし、その穏やかさの下で――


長い間眠っていた何かが。


ゆっくりと、目を覚まし始めていた。

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