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第十九話

温もりは消えなかった。


母の腕の中は、感じるすべての中心であり続けていた。


先ほどまで乱れていた小さな呼吸も、その温もりに包まれるうちに少しずつ落ち着きを取り戻し、やがてその小さな身体は抗いようのない疲労に身を委ねていく。


瞼が自然と下りた。


考えることをやめたかったからではない。


新しい身体が、まだ意識の速さについていけなかっただけだ。


(……くそ……)


(……やっと目が覚めたと思ったのに……もう疲れた……)


意識はまだ残っていた。


覚醒と微睡みの狭間に漂いながら、たった今経験した出来事を手放したくないとでもいうように。


(……もう少しだけ……)


だが、小さな身体のほうが先に限界を迎えていた。


抵抗する余地など与えず、ゆっくりと意識を深みへ引き込んでいく。


周囲の声も少しずつ遠ざかっていった。


消えたわけではない。


ただ、薄い膜が何枚も重なっていくように、徐々に聞こえづらくなっていくだけだった。


「眠ったのね……」


柔らかく、静かな声だった。


ようやく訪れた安らぎを壊すまいとするかのような囁き。


「休ませてあげよう」


別の声が答える。


先ほどよりもずっと落ち着いていたが、その深い声にはまだ完全には消えきっていない感情の余韻が残っていた。


「こんな小さな身体だ。きっと相当疲れているはずだ」


蓮司は、その移動をぼんやりと感じ取っていた。


すぐ傍にあった温もりがゆっくりと離れ、代わりに別の感覚へと変わる。


少し軽い。


それでも大切に支えられていることだけは分かった。


壊れ物を扱うように。


ほんの少しも傷つけたくないと願うように。


目は開けなかった。


いや、開けられなかった。


それでも意識だけは、途切れ途切れになりながらも周囲のすべてを記録していた。


「……奥様もお休みになってください」


出産を手伝っていた侍女の声は、今ではずいぶん落ち着いていた。


口調も呼吸も普段の調子に戻っているが、ところどころに残る緊張だけは完全には消えていない。


「温かいお湯を用意いたします。どうかご無理はなさらないでください」


女性はすぐには答えなかった。


静かで深い呼吸が聞こえる。


すべてが終わってからようやく、自分の疲れに気づいたかのようだった。


「……分かっているわ」


やがて返ってきた声は柔らかく、少し掠れていた。


それでも先ほどまでよりずっと穏やかだった。


「ただ……もう少しだけ、この子を見ていたいの」


短い沈黙が落ちる。


迷ったからではない。


本当に見つめていたのだ。


二度と同じ形では訪れない、この瞬間を。


静かな足音が聞こえた。


誰かが近づいてくる。


「旦那様もお休みください」


エアリンの落ち着いた声が響く。


いつも通り丁寧な口調だったが、今日はどこか優しさが滲んでいた。


「先ほどから一度もまともにお座りになっていません」


男性は小さく息を吐いた。


まるで図星を突かれたように。


「……私は大丈夫だ」


そう言いながらも、肩の力は少しだけ抜けていた。


ようやく自分に休むことを許したように。


「今日に限っては……これ以上大切なものなどないからな」


それまであまり口を開かなかったアステリアが、少し身を乗り出した。


視線はまだ赤子へ向けられている。


その瞳には消えきらない驚きが残っていた。


「本当に小さいわね……」


独り言のような呟き。


そして少し首を傾げる。


「でも……なんだか不思議」


エアリンが横目で見る。


「何がですか?」


アステリアはゆっくり瞬きをした。


言葉を探すように眉をわずかに寄せる。


「……うまく言えないけれど」


そして小さく続けた。


「まるで……本当に私たちを見ていたみたいで」


その言葉に、部屋は一瞬だけ静まり返った。


否定する者がいたわけではない。


ただ、その感覚を説明できる者が誰もいなかったのだ。


蓮司は――その先を聞いていなかった。


あるいは、聞いていたとしても理解できるほど意識が残っていなかったのかもしれない。


思考はゆっくりと沈んでいく。


静かに。


抗うことなく。


(……ああ……)


ふと、小さな理解が胸に浮かんだ。


曖昧だった何かが、ようやく正しい場所にはまったように。


(……そういうことか……)


(……この身体が休みたがっているなら……)


(……無理はできないんだな……)


意識から力が抜けていく。


先ほどのように抵抗することもなく。


諦めたわけではない。


ただ――合わせようとしていた。


(……この身体のリズムに……)


もう少しだけ意識を保とうとした。


だが今度は抗うためではない。


ただ理解するために。


あるいは、もう少しだけ愚痴をこぼすために。


けれど、それすら重かった。


意識はさらに薄れていく。


張り詰めていた糸が、少しずつ解かれていくように。


そして――


彼は完全に眠りへ落ちた。


時は音もなく流れていく。


窓から差し込む光はゆっくりと姿を変え、柔らかな明るさから、より温かく深みのある黄金色へと移ろっていった。


その色彩は床を伝い、壁をなぞるように部屋の中へ広がっていく。


空気は静かなままだった。


けれど、もう以前と同じではない。


あらゆる出来事を越えた先に生まれた、新しい安らぎがそこにはあった。


部屋の隅には、小さな寝台が用意されていた。


丁寧に磨かれた淡い色の木材。


柔らかな布が整えられ、その上に小さな身体が静かに横たわっている。


呼吸は規則正しい。


穏やかで。


何ものにも乱されない。


そして、この世界で意識を取り戻してから初めて――


そこには何の声もなかった。


重圧もない。


混乱もない。


ただ、本当に空っぽな静寂だけがあった。


だが、その静寂は長くは続かなかった。


小さな瞼がわずかに動いた。


ほんのわずかに。


まるで長い眠りの底から、ようやく浮かび上がってくる者のように。


呼吸が変わる。


少しだけ深くなり――


そして。


ゆっくりと目が開いた。


夕暮れの光が柔らかく瞼を撫でる。


眩しいわけではない。


けれど、その穏やかな明るさは、まだ眠気に引き留められていた小さな身体から意識を少しずつ引き上げていった。


蓮司はすぐには動かなかった。


ただ静かに横たわったまま、新しい呼吸のリズムに身を任せる。


ぼやけていた視界も、徐々に形と色を取り戻し始めていた。


(……やっと……)


(……また起きられた……)


思考は前よりもずっと鮮明だった。


完全に軽くなったわけではない。


それでも、自分がまだ同じ場所にいて、そして今度こそしっかり目覚めていることを理解するには十分だった。


だが、身体はそうではなかった。


動こうとする意思と実際の動作の間に、妙な隔たりがある。


まるで送ったはずの信号が、何かひどく鈍いものを経由しているかのように。


そのせいで彼はただ横たわりながら、その不自由さを感じるしかなかった。


(……どれくらい寝てたんだ……?)


ぼんやりと疑問が浮かぶ。


それに続くのは、全身に残る重さだった。


単なる疲労ではない。


まだ動かす準備そのものが整っていないような感覚。


(……それに……)


視線を少し動かす。


見えるのは同じ天井。


整然と並ぶ木材の線。


そして以前より深く差し込む夕暮れの光。


(……まだ同じ部屋か……)


だが、一つだけ違うことがあった。


もうあの腕の中にはいない。


その事実は、妙なほど自然に理解できた。


胸の奥に小さな空白が生まれる。


寂しいわけでも痛いわけでもない。


ただ、そこにあったものがなくなったと分かる程度の感覚。


(……移されたんだな……)


少し深く息を吸おうとする。


少なくとも、そのつもりだった。


だが身体の反応はあまりにも微かで、ほとんど実感できないほどだった。


(……いやほんと……)


(……この身体、不便すぎるだろ……)


試しに動いてみようという気持ちが湧く。


指先を動かそうとしてみた。


しかし、それすら目に見える変化になるまでに大きな労力を要した。


できないわけではない。


ただ遅い。


あまりにも遅い。


(……まあいいか……)


少しだけ力を抜く。


無理に抗うのではなく、今は慣れるべきだと判断した。


(……まずは身体のリズムに合わせるか……)


その結論には意外なほど早く辿り着いた。


とはいえ、不満が消えたわけではない。


特に、一つの単純な事実を思い出すたびに。


(……赤ん坊に転生するのって……案外面倒なんだな……)


心の中で小さくため息をつく。


あるいは、そういう気分になる。


(……普通こういう話だったら……)


(……そろそろ何か起きるもんじゃないのか……?)


不思議な力とか。


理不尽なくらい便利な能力とか。


せめて、この状況を少しは報われたものに感じさせてくれる何かとか。


だが、今のところ――


何もない。


あるのは、動くだけでも時間がかかる小さな身体だけだ。


(……いや、もしかして……)


思考が途中で止まる。


自分でも何を考えようとしていたのか、はっきりしない。


(……俺、ただの普通の人間なのか……?)


(それとも……)


そこで思考が途切れた。


説明できない何かがあった。


形ではない。


音でもない。


ましてや明確な感覚でもない。


ただ、自分の中に理解できていない部分が存在している――そんな曖昧な認識。


確かにそこにある。


だが、眠ったままの何か。


(……なんだこれ……)


それ以上は考えなかった。


いや、本能的に考えないようにしたのかもしれない。


今はまだ触れるべきではない。


そんな感覚があった。


だから流した。


力を抜き。


思考を手放す。


そして、ちょうどその時だった。


何かを感じた。


音ではない。


触れられたわけでもない。


それは――方向だった。


まるで誰かの視線だけが存在しているかのように。


自分ではない何かが。


今まさに、自分のいる場所へ向けられている。


蓮司は何も言わなかった。


だが意識は自然と一点へ集まり、無理に考えるまでもなく湧き上がった直感に従って、少しずつ視線を上へ向けていく。


急ぐことはない。


けれど迷いもなかった。


そして――視線が辿り着いた先で、それを見つけた。


一対の瞳。


鮮やかな紅色。


大きく見開かれたまま、じっとこちらを見つめている。


近い。


あまりにも近い。


まるで最初から隠れるつもりなどなかったかのように。


寝台の縁には小さな指が掛けられていた。


その手で身体を支えながら、少しだけ身を乗り出している。


覗き込む顔は無邪気そのものだった。


頬にはほんのり赤みが差し、その薄い色づきが妙に目を引く。


蓮司の思考が止まった。


(……は?)


意識が一瞬だけ固まる。


目の前の光景を処理しようとして――やがて一つの推測に辿り着いた。


そして、それに伴う信じ難さも。


(……何してるんだ、この子……)


(……まさか……)


数秒前までの記憶を辿る。


(……ずっとそこにいたのか……?)


(……俺のこと見てた……?)


短い沈黙。


そして次の結論が、さらに理解不能だった。


(……いや本気で、いつまでその体勢で見てるつもりなんだ……)


小さく瞬きをする。


外から見れば相変わらず無表情な赤ん坊だ。


だが内心では、すでに一つの感情がはっきり形になりつつあった。


(-_-)


表情こそ変わらない。


それでも真っ直ぐ向けられた視線には、無言の抗議めいたものが滲んでいた。


その時。


指先がわずかに動く。


ほとんど気づけないほどの小さな反射。


だが、その瞬間――


少女がびくりと肩を震わせた。


「ぁっ――」


途中で息を呑む。


見開かれた瞳がさらに大きくなり、次の瞬間には隠しきれない輝きに満たされていた。


「起きた……!」


囁き声は弾むように漏れ出た。


秘密にしておくつもりだったのに失敗してしまった子供のように。


気づけば身体はさらに近づいている。


ただでさえ近かった距離が、また少し縮まった。


「坊ちゃま、起きたんですね……?」


声が弾んでいる。


抑えようとしているのに、嬉しさが溢れてしまっていた。


「さっきまで本当に気持ちよさそうに寝てたんですよ?」


蓮司は黙って見返した。


(……ご丁寧に監視してくれてどうも)


(……声だけで分かるな。アステリアだ……)


アステリアは首を少し傾げる。


その赤い瞳は、わずかな変化すら見逃すまいとするように蓮司を観察していた。


まるで珍しい宝物でも眺めているかのように。


「わ……目が動いた……」


小さな囁き。


思わず息を止めた後、今度は少し慎重な声で続ける。


けれど興奮だけは隠しきれていなかった。


「すごく可愛い……もしかして、ちゃんと分かってるのかな……」


(……勝手に決めるな)


蓮司の視線は変わらない。


ほんの少しだけ険しくなった気がするが、赤ん坊の顔は思考に追いついてくれない。


(……分かってるのは事実だけど)


(……たぶんお前の想像してる意味じゃないぞ……)


内心で小さくぼやく。


だが次第に苛立ちの矛先はアステリアではなくなっていた。


問題は別にある。


どうしようもない現状そのものだ。


(……あーもう……)


(……これ、本当に面倒だな……)


盛大にため息をつきたい。


無理だった。


腕を自由に動かしたい。


それも無理だった。


(……反応ひとつ満足に返せないのかよ……)


思考がぐるりと巡り――一つの結論へ辿り着く。


あまりにも単純な答えだった。


(……意識がある状態で赤ん坊やるのって……こういう感じなのか……)


妙な感覚だった。


腹立たしいだけではない。


むしろ現実を突きつけられたような感覚に近い。


(……そりゃ赤ん坊も泣くよな……)


そして少し考え直す。


(……いや、違うか)


(……理由がないわけじゃないんだよな)


(……伝えられないだけで……)


視線は相変わらず前を向いている。


外から見れば静かな赤子。


だが内側では、すでに延々と文句が続いていた。


(……まあいいや……)


(……とりあえず早く大きくなりたい……)


(……もう諦めた……)


その時だった。


蓮司自身も気づかないうちに――


小さな口がわずかに開いた。


話そうとしたわけではない。


ただの反射だ。


少し深く息を吸おうとしただけ。


だが、アステリアの目には違って見えた。


それだけで十分だった。


彼女はぴたりと固まる。


瞳がゆっくり見開かれ、呼吸まで止まった。


信じられないものを見たかのように。


「え……?」


さらに身を寄せる。


今度は慎重に。


壊れ物へ触れる時のような注意深さで。


「今……坊ちゃま……」


声はかすかな囁きだった。


「お話ししようとしました……?」


蓮司は黙ったまま。


(……ああ……)


小さな間が生まれる。


ようやく自分でも状況を理解した。


確かに――


今、口は動いていた。


だが――


(……これ、動かせるのか……?)


蓮司はもう一度試してみた。


何かをしようという明確な意図があったわけではない。


ただ純粋な好奇心だった。


先ほどの反射を、そのままもう一度起こしてみる。


小さな口がわずかに開く。


吐き出されたのは息だけ。


声にはならない。


だが、アステリアにとっては――


それだけで十分だった。


「奥様――!」


弾けるような声が飛び出した。


思わず叫んでしまったらしく、次の瞬間には自分で驚いたように口を押さえる。


「マ、マリアーネ様……!」


慌てて声量を落としたものの、興奮までは隠し切れていなかった。


小さな寝台から少し離れた場所。


先ほどまで横になっていた女性の身体がわずかに動く。


シーツがかすかに擦れる音。


深かった呼吸のリズムがゆっくりと変わる。


「ん……」


小さな声が漏れた。


そして母親はゆっくりと瞼を開く。


まだ眠気の名残に包まれたまま。


「どうしたの、アステリア……?」


柔らかな声だった。


少し掠れているのは、目覚めたばかりだからだろう。


アステリアは勢いよく振り返った。


今にも飛び跳ねそうな勢いで。


握り締めた拳が、その高揚を必死に抑えている。


「起きたんです! それに、それに――さっき――坊ちゃまが何か喋ろうとしたみたいで……!」


マリアーネは一瞬だけ目を瞬かせた。


まだ完全には覚醒していなかった意識がゆっくり戻り、やがて小さく眉を上げる。


「生まれたばかりなのよ、アステリア……」


小さく息を吐きながら身体を起こす。


背もたれに寄りかかったその姿には、まだ出産後の疲労が色濃く残っていた。


「さすがに、もう話せるはずはないでしょう?」


「でも本当なんです!」


アステリアはぶんぶんと首を振った。


頬はすでに真っ赤だ。


恥ずかしさと興奮が入り混じっている。


「だって、はっきり見たんです! お口が動いて……何か言おうとしてるみたいで――」


「赤ちゃんはそういう声を出すものよ」


マリアーネは穏やかに言った。


咎めるような響きはまったくない。


身体の向きを少し変え、寝台のほうへ視線を向ける。


その瞳には先ほどと同じ温かな光が宿っていた。


「あなたが興奮しすぎて、何もかも特別に見えているだけ」


アステリアは少し唇を尖らせた。


肩もわずかに落ちる。


それでも視線だけはまったく揺らがない。


「特別ですもん……」


ぼそりと呟く。


まるで自分に言い聞かせるように。


その目は相変わらず蓮司へ向けられていた。


マリアーネが小さく笑う。


その笑い声は柔らかく、先ほどまでの慌ただしさを自然に和らげていった。


「そんなに子供が好きなら――」


ふとアステリアへ視線を向ける。


唇に浮かんだ笑みが少しだけ悪戯っぽくなった。


「自分で産めばいいじゃない」


アステリアが固まった。


「えっ……!?」


顔が一瞬で真っ赤になる。


身体をこわばらせたまま俯き、指先を慌てて絡め合わせる。


「ち、違いますっ……! そういう意味じゃなくて……ただ、その……可愛いから……」


視線は床へ落ちたまま。


指先はますます落ち着きなく動いている。


「それに……私なんて……その……」


声がどんどん小さくなっていく。


頬の赤みも消えない。


マリアーネはその反応を楽しそうに眺めていた。


今度はすぐに逃がしてくれそうにない。


少しだけ首を傾げる。


面白いものを見つけたように。


「相手がいないわけじゃないでしょう?」


気楽な口調だった。


だが言葉の奥には別の意味が含まれている。


「あなたが選びすぎているだけじゃないの?」


アステリアがぴたりと止まった。


一秒。


二秒。


そして――


「えぇっ!?」


肩がびくりと跳ねる。


顔は再び真っ赤になった。


今度は羞恥だけではない。


少しだけ不服そうでもある。


「わ、私そんなに選り好みしてませんよ!?」


反射的に手を振る。


否定するように。


けれど声には先ほどほどの勢いがない。


「ただ……その……まだ、ぴったりの人がいなかっただけで……」


語尾がだんだん弱くなる。


視線も一度逸れ――


そして何気なく寝台へ戻った。


短い沈黙。


本当に短い間だった。


「……でも、ケイル様なら……」


ぽろりと零れた。


本人すら口にしたことに気づいていないような小さな呟き。


気まずそうに頬を掻く。


そして抑えきれない微笑みが浮かんだ。


マリアーネは一瞬黙った。


そして――


「ふふっ」


笑いが漏れる。


肩が小さく揺れた。


「その人、まだ赤ちゃんよ。アステリア」


声は温かい。


だが、しっかりと揶揄いが含まれていた。


アステリアが飛び上がるように反応する。


「あっ――ち、違いますっ! そういう意味じゃなくて!」


必死な否定。


だがマリアーネは楽しそうに微笑むだけだった。


やがて視線をゆっくり寝台へ戻す。


何かを確かめるように。


「でも……」


その声が少しだけ柔らかくなる。


「この子、私たちの話を聞いている気がするのよね」


視線が真っ直ぐ小さな寝台へ向けられる。


そして――そこにいた蓮司は。


相変わらず無表情だった。


少なくとも、外から見る限りは。


穏やかだった。


何の反応もない。


アステリアもつられるように視線を向け、ぱちりと瞬きをする。


「えっ……?」


わずかに眉を寄せながら身を乗り出した。


もう少し近くで確かめるように。


「なんだか急にそんな顔になってません……?」


蓮司は黙っていた。


(……別に何もない……)


(……察してくれればそれでいい……)


マリアーネが再び小さく笑う。


今度こそ先ほどのからかいは終わりらしい。


「冗談よ」


そう言いながら、再び赤子へ視線を戻す。


指先がゆっくりと動き、小さな身体に掛けられた布を整えた。


アステリアはほっと息を吐く。


それでも頬にはまだ少し熱が残っているようだった。


数秒ほどの静寂。


そして――


アステリアが再び顔を上げる。


瞳はもう元の輝きを取り戻していた。


「マリアーネ様……その……」


声色が変わる。


少しだけ遠慮がちに。


「坊ちゃまを……少し外へお連れしてもいいでしょうか?」


マリアーネが目を向ける。


「外へ?」


「お屋敷の前庭だけでも……それか少し村のほうまで」


アステリアは慌てるように続けた。


説得するような口調で。


「夕方の空気は気持ちいいですし……きっと皆さんも喜びます」


一度言葉を切る。


そして小さく息を吸った。


「もちろん……絶対に気をつけますから」


蓮司は固まった。


(……ちょっと待て)


(……生まれたばっかりなんだが?)


(……いきなり外出イベント発生か?)


思考が即座に反応する。


(……まだ社交デビューする準備できてないぞ……)


(……やめてくれ……)


マリアーネはすぐには答えなかった。


しばらく我が子を見つめる。


何かを考えるように。


そして静かに息を吐いた。


「私はまだ外には出られないものね……」


そっと手を伸ばす。


小さな頬をもう一度だけ優しく撫でた。


「それに、あなたが無茶をするとも思わないわ」


アステリアの身体がぴくりと緊張する。


返事を待っていた。


「……そうね」


やがてマリアーネは頷く。


声音は変わらず穏やかだった。


「いいわ。でも長居はしないこと」


アステリアの瞳がぱっと輝いた。


「はい!」


返事が早すぎる。


待ち構えていたかのようだった。


そのまま小走りになりそうな勢いで寝台へ近づく。


もちろん動作自体は慎重だ。


壊れ物を扱うように、そっと小さな身体を抱き上げる。


「わぁ……やっと……一緒に遊べます」


嬉しさを隠そうともしない笑顔だった。


蓮司はただ黙るしかない。


(……いやだ……)


(……誰か助けてくれ……)


小さな手がわずかに動く。


だが意味を成さない。


何かを止められるほどの力などなかった。


アステリアはもう振り返っている。


足取りは軽い。


今にも跳ねそうなくらいに。


それでも抱き方だけは不思議なほど安定していた。


「それでは、少しだけお連れしますね、マリアーネ様!」


「走ったら駄目よ」


「はーい!」


元気な返事が返ってくる。


だが足は明らかに言葉より速かった。


蓮司は前を見つめる。


開かれた扉の向こうから、夕暮れの光が差し込んでいた。


(……終わったな……)


(……俺の一日目……)


そして、これ以上抗議する暇も与えられないまま――


彼は外へ連れ出された。

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