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第十八話

アストラヴェル南部の空は、どこか穏やかだった。


開けた海岸沿いほど眩しくはなく、まるで陽光そのものが、この土地には少しだけ優しい形で降り注ぐことを選んだかのように。


なだらかな丘陵が大地の起伏に沿って続き、その一面を豊かな緑が覆っている。


畑は自然な形で広がっていた。きっちりと整えられているわけではない。それでも不思議と生命の息吹を感じさせ、まるで大地自身の鼓動に合わせて育っているようだった。


その中に、一つの村がある。


都市のような密集はない。かといって家々が離れすぎているわけでもなかった。


家々は丘の曲線に沿って並び、互いの存在を感じられるほど近く、それでいてそれぞれの暮らしに十分な余白を残している。


濃い茶色や温かな灰色の傾斜屋根が、風の流れに合わせるように連なっていた。


明るい石壁と年季の入った木材は風景と自然に溶け込み、確かな堅牢さを持ちながらも温もりを失っていない。


そこを流れる空気は涼やかだった。


山から吹き下ろす風が土の匂いと草の香り、そして畑の隙間に咲く野花の淡い香りを運び、肌を優しく撫でていく。


村の営みは、急ぐことのないリズムで続いていた。


収穫した作物を籠に入れて担ぐ男が、土の道を歩いていく。


重みで肩は少し傾いているが、その表情は穏やかで、すれ違う人々へ気軽に声をかけていた。


少し離れた場所では、数人の女性たちが畑の間にしゃがみ込み、鮮やかな色の小さな花を器用な指先で摘み取っている。


時折、他愛のない会話の合間から軽やかな笑い声がこぼれた。


子供たちは草原を駆け回っていた。


その笑い声に曇りはない。


小さな足が土を蹴り上げながら、自分たちの世界よりもずっと大きな何かを追いかけるように無邪気に走り回る。


そんな彼らの中心を、一体の生き物がゆっくりと歩いていた。


大きな体は白熊によく似ている。


分厚く清潔な白い毛並みを持ちながら、その体の一部には軽量な金属装甲が自然に組み込まれていた。


筋肉の流れに沿うように装着されており、動きを妨げる様子はない。


肩に取り付けられた簡素な彫刻入りの装甲板が、柔らかな陽光を受けて淡く輝く。


前脚には騎士の装備を思わせる補強リングが取り付けられていた。


その巨体がわずかに頭を下げる。


一人の子供が何の躊躇いもなく首元に抱きつき、頬を温かな毛並みに擦り寄せた。


生き物は低く鼻を鳴らしただけだった。


半ば閉じられた瞳には警戒も苛立ちもなく、ただ穏やかな安らぎだけが宿っている。


恐れられる番人ではない。


それはこの村の一部だった。


村人たちと共に育った守護者。


そして村の日常は、今日も変わらず続いていく。


穏やかで、素朴で、それでいて満ち足りた日々が。


村より少し高い場所には、一軒の屋敷が建っていた。


過度に目立つわけではない。


それでも他とは異なる存在感を放っている。


二階建ての建物は丁寧に加工された明るい石造りの基礎の上に建ち、外壁は滑らかな石材と深い色合いに磨かれた古木で構成されていた。


その対比は上品でありながら、決して見せびらかすようなものではない。


屋根は高く鋭い傾斜を描き、細い鉄骨の装飾と繊細な彫刻が先端を彩っている。


濃色の木枠に囲まれた大きな窓が左右対称に並び、整然と管理された印象を与えていた。


周囲には広々とした庭が広がる。


小さな畑、手入れの行き届いた花壇、そして正面玄関へと続く石畳の小道。


そのすべてが実用性と美しさの均衡の上に成り立っていた。


貴族の屋敷。


ラインマー家――。


その屋敷の内部では、長い廊下が静かに伸びていた。


床には丁寧に磨き上げられた古木が敷かれ、天井から吊るされた照明の光を柔らかく反射している。


壁面には濃い茶色の木製パネルが並び、その表面には繊細な彫刻が施されていた。


主張しすぎない優雅さ。


しかし確かな品格がそこにはある。


金色の装飾をあしらった金属製フレームも所々に組み込まれ、まるで昔から屋敷そのものの一部であったかのように自然に馴染んでいた。


空気は温かい。


だが、その静寂は完全なものではなかった。


廊下の突き当たり。


固く閉ざされた大きな扉の前に、二人の人影が並んで立っている。


二人は驚くほどよく似ていた。


短い黒髪は同じ長さで整えられ、顔立ちを縁取るように落ちている。


ルビーを思わせる赤い瞳は照明の光を映しながらも、静かな鋭さを宿していた。


身に纏うメイド服にも乱れはない。


黒と白の布地は鮮やかな対比を描き、その姿を寸分の狂いもなく整えている。


二人は背筋を伸ばして立っていた。


手は前で重ねられ、姿勢は真っ直ぐだが不自然な硬さはない。


呼吸も規則正しい。


まるでその所作のすべてが、長年の鍛錬によって身体に染み付いているかのようだった。


それでも。


完全に落ち着いているわけではない。


時折、そのうちの一人が扉へ視線を向ける。


ほんの一瞬。


気づく者などほとんどいないほど僅かな動き。


もう一人も指先を微かに動かしたかと思えば、すぐに何事もなかったように静止へ戻る。


言葉は交わさない。


だが意識は一つの場所へ集中していた。


その扉の向こう側。


そこから微かな音が漏れ聞こえてくる。


抑え込まれたような声。


はっきりとは聞き取れない。


それでも、中で何かが起きていることだけは十分に伝わってきた。


二人は待っていた。


不安に駆られているわけではない。


いつでも動けるよう備えながら。


扉は閉ざされたまま。


頭上の照明がわずかに揺れる。


そして――この廊下の先だけは、時間の流れが少し遅くなったように感じられた。


その部屋の中では――


空気が変わっていた。


温かさは残っている。


だが今は張り詰めている。


一室では厚いカーテンが閉め切られ、揺れる照明の柔らかな光だけが室内を照らしていた。


その影が壁に揺らめき、不規則な呼吸音と重なり合う。


一人の女性がベッドに横たわっていた。


茶色の髪は汗でこめかみに張り付き、乱れた数本の髪が枕の上へ落ちている。


胸は苦しげに上下し、その呼吸は重く不安定だった。


深く寄せられた眉間には、はっきりとした苦痛の色が浮かんでいる。


歯を強く食いしばる。


押し寄せる圧迫感の波は何度も繰り返され、そのたびに強さを増していた。


近づくほどに。


激しくなるほどに。


彼女の手はシーツをさらに強く握り締める。


痛みの波は休むことなく押し寄せ、指先は白くなるほど力が入っていた。


間隔は短くなり、痛みは深くなる。


まるで身体そのものが、もはや耐えられない限界を越えさせられようとしているかのようだった。


「息を吸って……ゆっくり……そう、その調子です……」


傍らから聞こえる声はまだ落ち着いている。


だが今は、その奥にわずかな緊張が滲んでいた。


ベッドのそばには一人の女性が立っている。


袖をまくり上げた腕は休むことなく動き続けていた。


手際は変わらず正確だったが、その動きは先ほどよりも明らかに速い。


視線は一点に集中し、変化し始めた状況の中でも冷静さを保とうとしていた。


「もう少しです……力を押さえ込まないで……流れに任せて……今です、ゆっくり……」


ベッドの上の女性は弱々しく首を振る。


呼吸は途切れ途切れで、胸の上下も不規則だった。


「わ……私も……やってる……」


かすれた声が途中で崩れる。


「でも……これ……は……もっと――」


再び身体が強張った。


先ほどよりもさらに強く。


肩が跳ね上がり、シーツを掴む指先が震える。


呼吸は一瞬詰まり、その直後に荒い吐息となって漏れ出した。


女性はわずかに身を乗り出す。


片手で肩を支えながら、もう片方の手はさらに素早く動いた。


「私の声を聞いてください」


今度の声にははっきりとした強さがあった。


それでも優しさを失ってはいない。


「逆らわないで。その流れについていくんです――我慢すれば、先に身体のほうが持ちません」


呼吸は乱れていた。


途切れ。


揺れ。


今にも崩れそうなほどに。


そして――


あと少しで。


「――はぁっ、んっ……!」


声が漏れる。


それを聞いた女性の目がわずかに細められた。


「……違う……待って……」


手の動きがほんの一瞬だけ止まる。


ほんの刹那。


だが、それだけで異変に気付くには十分だった。


何かがおかしい。


何かが噛み合っていない。


しかし彼女はすぐに息を整え、自らを落ち着かせる。


「続けます……私の声を聞いて……今、押して――!」


乱れた呼吸が再びリズムへと引き戻される。


完璧ではない。


安定もしていない。


それでも、まだ持ち堪えていた。


「もう一度……あと少し……今です――!」


部屋を満たすのは重い呼吸。


布の擦れる音。


そして、刻一刻と狭まっていく時間の感覚。


一秒ごとに、先延ばしにできない圧力が積み重なっていくようだった。


その中で――


何かが動いた。


暗闇。


形もない。


方向もない。


だが――意識だけがあった。


……俺……


その声は曖昧だった。


自らの存在すら確信できていない残響のように。


青川蓮司。


あるいは、かつてそう呼ばれていた何か。


……なんで……


身体の感覚はない。


だが何かが脈打っていた。


ゆっくりと。


重く。


不安定に。


それが自分の鼓動なのか。


それとも別の何かなのか。


まだ分からない。


(俺……まだ……聞こえるのか……?)


沈黙だけが返ってくる。


だが、完全な無ではなかった。


遠くで――


何かの音が滲むように流れ込んでくる。


ゆっくりと。


遮られながら。


まるで何かの向こう側から聞こえてくるように。


「……息を……」


「……我慢しないで……」


蓮司は動きを止めた。


意識が揺れる。


形すら持たない何かを追いかけるように。


……なんだ……


……どうして……


再び声が聞こえた。


今度は少し近い。


少し鮮明で。


少し現実的だった。


「……はぁっ、んっ……!」


蓮司の意識が震える。


……待て……


……人の声……?


集中しようとする。


意識を一点へ押し集めるように。


だが理解しようとすればするほど――


すべてがひび割れていく。


おかしい。


あり得ない。


こんなことが起きるはずがない。


……あり得ない……


……なんで俺に聞こえる……?


その時。


鼓動が再び鳴った。


今度は先ほどよりも速く。


強く。


静寂だった空間を埋め尽くすように。


そして一つの思考が形になる前に――


不意に白い光が弾けた。


何の前触れもなく。


容赦なく暗闇を貫き、一瞬ですべてを飲み込んでいく。


考える余地すら残さずに。


世界は砕け散り――


再び闇へ沈んだ。


だが、もう同じではない。


何かが開かれたような感覚があった。


ゆっくりと。


霧の中に二つの淡い光点が浮かび上がる。


視界はまだぼやけている。


不安定で。


形を理解することもできない。


それでも光は少しずつ流れ込んできた。


完全なものではなく。


砕けた欠片のように。


色彩が境界もなく溶け合い、ゆっくりと揺れる何かに合わせて流れていた。


そして温もりが広がってくる。


包み込むような感覚。

近い――いや、近すぎるほどに。


まだ自分のものだと完全には認識できていない小さな身体が、意思とは関係なく反応する。


声が聞こえた。


今度ははっきりと。


近くで。

確かに。


「よかった……奥様のお子様は無事にお生まれになりました……」


蓮司はすぐには反応できなかった。


意識が、あまりにも唐突に押し寄せてきた現実に半歩ほど置いていかれている。


ぼやけた視界の先には、一人の女性の顔があった。


少し潤んだ瞳。

まだ整わない呼吸とともに浮かぶ安堵の笑み。


「それに……男の子です……」


その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かがぴたりと止まった。


男。


(……は?)


(……マジか?)


思考はひどく鈍い。


まるで無理やり再起動させられた機械のようだった。


(……よかった……)


不思議な安堵が込み上げてくる。


理屈ではない。


けれど確かにそこにあった。


まるで最初から、自分の中のどこかが別の可能性を拒んでいたかのように。


(……ちゃんと男のままだ……)


(……正直、女になってたら色々大変そうだったし……)


だが、その安堵の裏側から別の感情がゆっくりと浮かび上がる。


途切れ途切れの記憶。


飛行機。


衝撃音。


そして二つの名前。


一瞬だけ過ったその名前は、それでも胸を刺すには十分だった。


イザベル。


そして悠希。


何の前触れもなく、その名が脳裏に浮かぶ。


(……二人は……)


(……無事なのか……?)


手を伸ばしても届かないものを掴もうとするように、思考が彷徨う。


(あの二人も転生したのか……?)


(それとも――)


そこで思考は途切れた。


答えはない。


あるのはただ、ゆっくりと広がっていく空白だけだった。


そして、その空白を埋めるように一つの現実が静かに降りてくる。


もう二度と戻れない場所を、自分は通り過ぎてしまったのだと。


(……これが……)


(……本当に起きたことなのか……)


笑えばいいのか、それとも黙っているべきなのか分からない。


こんな出来事は物語の中だけの話だった。


遠い世界の。


現実味のない出来事のはずだった。


それなのに――


今、自分はその中にいる。


そして、なぜか。


もう一度生きていた。


ぼやけた視界をゆっくりと巡らせる。


周囲の景色はまだ不鮮明で、形も色も曖昧に混ざり合っていたが、それでも雰囲気くらいは伝わってくる。


整っている。


暖かい。


そして――妙に行き届いている。


(……普通の家じゃないな……)


ふと、そんな考えが浮かんだ。


(……貴族とかか……?)


そこまで考えたところで、不意に意識が扉へ向く。


わずかに開いた隙間から、二つの顔が同時に覗いていた。


まったく同じ紅い瞳。


溢れそうな好奇心を隠しきれていない。


蓮司はただ見つめる。


(……誰だこいつら。使用人か?)


出産を手伝っていた女性もその視線を追った。


少し眉を上げ、それから小さく微笑む。


「二人とも……そんなふうに覗いていなくていいのよ」


穏やかな口調だったが、やんわりとした注意も含まれている。


「もう終わったから、中に入りなさい」


扉がさらに開いた。


二人のメイドが部屋へ入ってくる。


片方は迷いなく足を進めた。


顔いっぱいに浮かぶ期待。

長い間待ち続けていたものをようやく見つけたかのように、瞳がきらきらと輝いている。


「わぁ、本当に男の子なんですね……! 可愛い……っ。抱っこしてみたいです」


ぐいっと距離を詰めてくる。


ほとんど遠慮もない。


顔は赤ん坊のすぐ近くまで寄せられ、隠そうともしない感嘆の眼差しで細部まで眺めていた。


手も少しだけ伸びる。


触れていいのか迷っているらしい。


蓮司は黙った。


(……こっちは絶対うるさいタイプだな……)


もう一人はずっと落ち着いていた。


歩幅も穏やかで、所作に無駄がない。


薄く浮かべた微笑みは控えめだが、どこか誠実さを感じさせる。


静かな瞳は、急ぐことなく状況を見つめていた。


「アステリア、あまり近づきすぎないでください」


柔らかな声だった。


叱責というより、優しい注意に近い。


「この子が落ち着かなくなってしまいます」


蓮司はその名前をぼんやりと拾う。


(……アステリアっていうのか……)


落ち着いた方のメイドはベッドの傍で足を止めた。


軽く頭を下げ、整った所作のまま口を開く。


「奥様のお子様が無事にお生まれになったこと、私も心より嬉しく思います」


静かな声でそう告げる。


そして赤ん坊へ視線を向けた。


穏やかに観察するような眼差しだった。


「どうか将来……あまり手のかかる男の子になりませんように」


するとアステリアがすぐさま振り返る。


「えっ、なんでいきなりそんなこと言うんですか? まだ赤ちゃんですよ?」


少し眉を上げながらも、声は変わらず明るい。


ベッドの上の女性が小さく笑った。


呼吸はまだ重い。


それでも先ほどよりずっと柔らかな表情をしている。


「大丈夫よ……」


そう呟き、再び我が子へ視線を向ける。


「この子が元気に育ってくれるなら……それだけで十分だから……」


出産を手伝っていた女性も微笑み、それから落ち着いた方のメイドへ顔を向けた。


「エアリン」


優しく呼びかける。


「旦那様に知らせてきてちょうだい。お子様が無事にお生まれになったと」


エアリンは静かに頷いた。


「かしこまりました。すぐにラインマー様へお伝えいたします」


軽く一礼する。


「それでは、失礼いたします」


振り返る動作にも無駄はなかった。


急ぐわけでもなく、かといってぐずぐずすることもなく、エアリンは静かに部屋を後にする。


その一方で――


アステリアはもう落ち着いていられなかった。


「奥様……少しだけ抱っこしてもいいですか……? お願いです……」


声量は抑えているものの、その瞳は期待で輝いている。


女性は小さく頷いた。


優しい笑みはそのままだ。


やがて慎重に赤ん坊がアステリアの腕へと渡される。


そして、その瞬間――


彼女の表情がぱっと花開いた。


隠しようのない、純粋な喜び。


「はぁ……可愛い……。早く大きくなってくださいね……。今度いっぱい遊びましょう……」


ほとんど独り言のような小さな呟きだった。


蓮司はただ見つめる。


(……なんなんだ、この人……)


(……変なこと教えないでくれよ……)


妙な感覚が胸の奥に生まれる。


鬱陶しいわけではない。


かといって心地いいとも違う。


ただ――まだ名前の付けられない何か。


それでも、不思議と悪い気はしなかった。


そのとき。


部屋の外から足音が響く。


慌ただしい。


先ほどまでとは明らかに違う速さだった。


そして空気が落ち着きを取り戻すより早く――


扉が開いた。


一人の男が部屋へ飛び込んでくる。


呼吸はわずかに乱れていた。


足早に進み――だが、探していたものを見つけた瞬間、その動きが止まる。


赤ん坊。


その姿を目にした途端、男はその場で立ち尽くした。


目が大きく見開かれる。


そして、たった一秒にも満たないその瞬間に。


顔に張りつめていた何かが崩れ落ちた。


「……」


言葉が出ない。


言いたいことは数え切れないほどあるはずなのに、それらすべてが喉の奥で詰まってしまったかのようだった。


「……私の子だ……」


アステリアから赤ん坊を受け取る手は、かすかに震えていた。


抱き方は慎重だった。


慎重すぎるほどに。


まるで少しでも力を込めれば、この小さな命が消えてしまうとでも思っているかのように。


蓮司は男を見つめる。


(……父親……か?)


(……なんというか……)


その表情には何かがあった。


温かい。


けれど重い。


長い間押し込めていた感情が、ようやく行き場を見つけたような顔だった。


「ようやく……」


掠れた声が漏れる。


今にも途切れそうなほど弱々しい。


「三度も……三度も……」


そこで息が詰まる。


瞳がわずかに揺れた。


「……ようやく……」


部屋は静まり返っていた。


沈黙が支配しているわけではない。


誰も、この瞬間を遮ろうとしなかっただけだ。


蓮司でさえ言葉を失っていた。


(三度……?)


(……どういう意味だ……?)


理由は分からない。


それなのに胸の奥が少しだけ苦しくなる。


この小さな身体が、意味を理解できないまま何かを感じ取っているようだった。


男は静かに頭を下げる。


額が赤ん坊の頭に触れそうなほど近づく。


「ありがとう……」


囁くような声だった。


先ほどよりも低く、深い。


「ようやく……この世界がお前に、この家に生まれることを許してくれた……」


呼吸が震える。


「本当に……ありがとう……」


蓮司は答えない。


答えられない。


それでも――


胸の奥で何かが静かに揺れていた。


男はゆっくりと息を吐いた。


感情を落ち着かせるように。


わずかに肩の力を抜き、それから改めて赤ん坊を見つめる。


今度はしっかりと。


その姿を確かめるように。


「目が……」


感嘆を隠さない声だった。


「青いな……。なんて綺麗な青だ……」


薄い笑みが浮かぶ。


そこには誇らしさがあった。


「その目も……」


男は静かに続ける。


「強いな。まるで最初から、この世界を知っているみたいだ」


蓮司は見返した。


(……いや、俺の目って前から青かったっけ……?)


あるいは。


それは前世の自分ではなく、この身体の話なのかもしれない。


そこまで考えた瞬間だった。


身体が先に反応した。


「うああああぁぁっ――!」


突然の泣き声。


抑えようもない。


完全な反射だった。


男は即座に慌てた。


「えっ!?」


「あっ――す、すまない……。泣かせてしまったか……?」


男は慌てたように呟きながら抱き方を直した。


ほんの少しの失敗でも、この小さな命を傷つけてしまうのではないか。


そんな不安が伝わってくるほど慎重な手つきだった。


ベッドの上の女性が小さく微笑む。


「……その子を、見せてもらえるかしら?」


柔らかな声だった。


先ほどよりも落ち着いている。


それでも、出産を終えたばかりの疲労はまだ完全には消えていなかった。


「ああ、もちろん。気をつけて」


赤ん坊は丁寧に母親の腕へと渡される。


そして――


不思議なことに。


泣き声が少しずつ弱まっていった。


ゆっくりと。


まるで単なる反射よりも強い何かに引き寄せられるように。


やがて残ったのは、かすかに乱れた小さな呼吸だけだった。


蓮司は黙り込む。


温かい。


穏やかだ。


母親の腕の中は、どこか違っていた。


何が違うのかは分からない。


言葉にもできない。


それでも、その何かは確かに存在していた。


小さな身体から力が抜けていく。


まるでようやく――


安心して留まれる場所を見つけたかのように。


女性はしばらくの間、我が子を見つめ続けた。


琥珀色の瞳が優しく細められる。


溶けてしまいそうなほど柔らかく。


「その目……」


そっと囁く。


指先が小さな頬に触れる。


壊れ物を扱うように慎重に。


「まるで海みたい……」


ゆっくりと息を吐く。


「広くて……深い……」


瞳がわずかに潤んだ。


「どこまでも続く希望みたい……」


そう言って、隣にいる夫へ視線を向ける。


「あなたはどう思う?」


男は微笑んだ。


迷うことなく静かに頷く。


女性は再び赤ん坊へ目を落とした。


しばしの沈黙。


迷っているわけではない。


ただ理解していたのだ。


この瞬間は――


二度と戻ってこないのだと。


「それなら……」


静かでありながら、確かな声だった。


「あなたの名前は――」


ほんの一瞬、息を止める。


そして。


「……ケイル」


蓮司は黙った。


(……ケイル、か……)


聞き慣れない名前だった。


だが、不思議と嫌な感じはしない。


(悪くないな)


男もゆっくりと頷く。


「ケイル……」


今度はよりはっきりと。


確かめるように口にした。


「ケイル・ラインマー」


その名は静かに部屋へ落ちた。


けれど、その響きはただの音では終わらない。


そこに留まり。


深く根を張り。


これから先もずっと共に在り続けるものになる。


母の腕の中で。


少しずつ整っていく呼吸と。


この世界で刻み始めたばかりの小さな鼓動の中で。


新たな人生は、本当の意味で幕を開けた。


静かな場所で。


今、生まれたばかりの名前と共に。


ケイル・ラインマー。

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