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第十七話

雲ひとつない澄み切った空から、昼の柔らかな陽光がゆっくりと降り注いでいた。


その光は山々の麓に広がる緑の大地を包み込み、まるで世界そのものが穏やかでゆるやかな呼吸を繰り返しているかのようだった。


だが、なぜだろう。


その静けさは、どこか整いすぎているように感じられる。


まるで何ひとつ、その律動から外れることを許されていないかのように。


そんな静寂の中心に、一つの存在があった。


エラクリスの樹。


その幹は天へ向かって高く伸びているが、真っ直ぐではない。まるで意志を持つ巨人の腕が、自らの姿を空へ刻みつけようとしたかのように大きく湾曲し、その先端では鋭く伸びた枝々が開かれた王冠を思わせる形を描いていた。


枝の隙間からは黄金色の葉が光を受けて淡く輝き、一枚、また一枚と静かに舞い落ちる。


地面へ触れるその動きはあまりにも軽く、ほとんど音すら立てなかった。


幹のあちこちには琥珀色の結晶繊維が埋め込まれており、堅牢な古木と一体になっている。そこに差し込む光は温かな輝きを生み出し、その姿をただの樹木以上のものに見せていた。


周囲には草原がどこまでも広がり、遠くの山々から吹き下ろす風に合わせてゆるやかに揺れている。


その風は冷たすぎず、澄み切った心地よい涼しさを運んでいた。


少し離れた場所では山脈の影が静かに佇んでいる。


巨大でありながら穏やかで、まるでこの地すべてを見守るためだけに存在しているかのようだった。


この土地に生きる生き物たちにも、不安や焦燥の色はない。


一頭の鹿が草原をゆっくりと歩いていく。


繊細に枝分かれした角は自然が刻んだ彫刻のように美しく、さらに遠くでは大きな熊が別の木陰に腰を下ろし、半ば閉じた目のまま静寂を味わっていた。


淡い色彩の羽を持つ鳥たちは低く空を滑り、その翼は音もなく風を切る。


まるでこの世界の呼吸の一部であるかのように。


彼らは単なる生き物ではない。


守護者だ。


自然を支配するのではなく、共に生きる存在――カストディアン。


エラクリスの樹の低い枝のひとつでは、黄金の葉に隠れるように二羽の小鳥が寄り添っていた。


小さな身体は軽く触れ合い、時折くちばしを動かしては、互いにしか理解できない何かを語り合っているように見える。


風が吹くたびに翼がかすかに震え、柔らかな羽毛が淡い光を反射した。


穏やかで。


温かくて。


そんな時間だった。


しかし、その静けさは長く続かなかった。


遠くから別の音が聞こえ始めたのだ。


かすかに。


そして繰り返し。


金属同士が擦れ合う規則的な響き。


見えない地形の向こう側から、その音は少しずつ近づいてくる。


二羽はほとんど同時に顔を上げた。


小さな瞳が音のする方角へ向けられる。


身体がわずかに強張る。


恐怖ではない。


ただ、本来ここにあるはずのない何かが――近づいてきていた。


そして、その音がさらに迫った瞬間。


二羽は飛び立った。


翼を大きく広げ、軽やかに空気を切り裂きながら、一息に枝を離れる。


その直後。


彼らの下を何かが通り過ぎた。


列車だった。


長く頑丈な鉄の車体。


巨大な車輪が重々しくも規則正しいリズムで回転し、草と岩の間に敷かれた線路の上を進んでいく。


先頭の機関部からは白い蒸気が細く吐き出されていた。


急ぐような速さではない。


だが、確かな意志を持って進んでいる。


列車は草原を横切り、先ほどまで完璧だった静寂を二つに分けながらも、不思議とそれを壊してはいなかった。


線路は丘の側面に開いた天然の裂け目へ続いている。


岩のアーチと絡み合う樹根によって形作られたそのトンネルは、まるで金属という存在が生まれる遥か以前から、そこに道として存在していたかのようだった。


列車はその中へ滑り込む。


車輪の響きが深く反響し、両側の岩壁に吸い込まれていく。


車内へ差し込む光も一瞬だけ弱まった。


そして数秒後――


再び外へと抜け出す。


頭上には広大な空が広がっていた。


先ほどよりも明るく、より開けた景色。


線路はそのまま緩やかに下り坂を描き、列車を文明の気配が色濃く残る場所へと導いていく。


整備された道。


規則的な構造物。


人の営みの痕跡が、少しずつ目に見える形となって現れ始めていた。


列車の中では、空気がわずかに異なっていた。


深紅の布張りの座席が整然と並び、その表面は滑らかで柔らかい。


側面には金色の装飾が施され、天井から吊るされた小さなランプの光を受けて上品な輝きを放っている。


壁は濃い色合いの木製パネルで覆われ、丁寧に磨き上げられた金属の装飾がそれを引き立てていた。


隅には細い配管が埋め込まれており、そこを流れる蒸気が時折小さくシューッと音を立てる。


床には車輪の振動が微かに伝わっていた。


気づける程度には感じるが、不快さを覚えるほどではない。


その車内の一角で、三人の姿が向かい合って座っていた。


一人は窓際に腰掛ける女性。


背筋は真っ直ぐに伸び、優雅な所作には一切の乱れがない。


ドレスにはひとつとして無駄な皺がなく、両手は静かに膝の上で重ねられていた。


ただ、その瞳だけは時折小さく動き、窓の外へ視線を向けている。


何を考えているのかは表情から読み取れなかった。


向かいには、一人の男性が少し前かがみになって座っていた。


手には数枚の書類。


真剣な表情で目を走らせ、行を追うたびに眉間へわずかな皺が刻まれる。


もう片方の手は膝の上に置かれていたが、指先だけが無意識に小さく動いていた。


そして窓側には、小さな少女が座っている。


身体を少しだけガラスへ寄せ、外を流れていく景色に夢中になっていた。


大きく開かれた瞳には光が映り込み、その虹彩が柔らかく輝いている。


好奇心を隠そうともしないまま、少女は息を潜めるようにして車窓の向こうを見つめ続けていた。


列車は走り続ける。


そして、車窓の向こうに広がる景色も少しずつ姿を変えていった。


少女は座席の上で身をずらし、窓枠に両手をついて身体を前へ乗り出した。


まだ見えない何かを探すように、限られた視界の先を必死に覗き込む。


「お母さん、お母さん。木はどこ?」


弾むような声だった。


期待で息が詰まりそうになっているせいか、言葉が少し途切れている。


「まだ見えないの……?」


だが、返事を待つことはなかった。


小さな身体はそのまま座席の上へ立ち上がり、柔らかなクッションに膝をつくと、ぴょんぴょんと小さく跳ね始める。


少しでも高い位置から外を見ようとしているのだ。


「お母さん、今見たい! 今すぐ!」


声はさらに高くなる。


駄々をこねているようでもあり、抑えきれない嬉しさがそのまま溢れ出しているようでもあった。


隣に座る女性はゆっくりと振り向き、その様子を見てわずかに眉を上げる。


だが次の瞬間には、隠しきれない微笑みが唇に浮かんでいた。


「もうすぐ見えるわよ」


いつもと変わらない穏やかな声だった。


「少しだけ待っていてね」


少女はすぐに振り返る。


頬を少し膨らませながらも、その瞳は期待で輝いていた。


「でも、今見たいんだもん……」


無理を押し通そうとしているわけではない。


ただ、この胸いっぱいに膨らんだ気持ちをどう抑えればいいのか分からないだけだった。


女性は小さく息をつき、肩の力を抜く。


そして席を立ち上がると、少女のそばへ歩み寄った。


「まったく、この子は……」


半ば独り言のような呟きだったが、その声には優しい温もりが滲んでいる。


両手で少女の身体をそっと抱き上げ、そのまま窓際へ近づけた。


片腕で腰を支えながら、安定する位置に立たせる。


「ほら、ここなら見えやすいでしょう?」


その瞬間、少女はぴたりと動きを止めた。


視界が一気に開けたのだ。


瞳が大きく見開かれ、何かを見逃すまいとするように息を潜める。


そんな姿を見て、女性は小さく微笑んだ。


「本当におしゃべりなんだから」


そう言いながら、向かい側に座る男性へちらりと視線を向ける。


「お父さんが今忙しくてよかったわね。そうじゃなかったら、とっくに叱られてるわ」


その言葉に少女はぱっと父親の方を向いた。


そして楽しそうにくすりと笑う。


肩まで弾むような軽やかな笑みだった。


男性は顔を上げない。


手元の書類から視線を離さないまま、小さく鼻を鳴らしただけだった。


眉がわずかに動く。


聞こえていないわけではない。


ただ、わざわざ口を挟む気がないだけだ。


そんな空気はどこか心地よかった。


穏やかで。


温かくて。


きっと何度も繰り返されてきた日常の一場面なのだろう。


そして――


その時だった。


少女の目が遠くに何かを捉える。


動きが止まった。


呼吸も。


「お母さん……あれ……」


思わず零れ落ちたような声。


囁きにも近い小さな言葉だった。


女性もその視線を追う。


そして、見た。


広大な緑の大地と柔らかな昼の光の中に。


エラクリスの樹が立っていた。


荘厳に。


揺るぎなく。


空へ向かって開かれた王冠のような枝を広げ、黄金の葉は風に揺れて穏やかに輝いている。


幹を走る結晶繊維が光を反射し、その姿はまるで呼吸しているかのようだった。


少女は言葉を失った。


瞳は大きく開かれたまま。


その奥に宿る輝きはさらに強くなる。


ほんの一瞬、自分が呼吸することすら忘れてしまったかのように。


「わぁ……きれい……」


かすかな呟き。


それだけで十分だった。


胸の中に溢れる感動のすべてが、その一言に込められていた。


少女は無意識に手を伸ばす。


ガラス越しに掌を当て、指先へ力を込めた。


届くはずのないものへ触れようとするように。


「お母さん……あれ……あれがエラクリスの樹なんだよね……?」


女性はゆっくりと頷く。


娘の反応を見つめるその眼差しは、どこまでも優しかった。


「ええ。そうよ」


少女は満面の笑みを浮かべる。


瞬きすら惜しいと言わんばかりに、その景色から目を離さない。


「たしか……」


感嘆の余韻を残したまま、ぽつりと語り始める。


「その木って、ある騎士の願いから生まれたんだよね……」


少し考え込むように言葉を止める。


記憶を辿るように。


「その人は……大切な人が生きられるように、自分から旅立って……それで夢の中で……また会えたんだって……」


少女の視線は、ゆっくりと舞い落ちる黄金の葉を追っていた。


「それで、その夢の中で……その人は何かを残したんだって。約束みたいなものを……ずっとそばにいるっていう……」


女性は口を挟まず、静かに耳を傾けている。


柔らかな微笑みは今も変わらない。


「その希望の種が……」


少女の声は先ほどよりも少し小さくなっていた。


まるで大切な話を語るように、言葉を一つひとつ確かめながら続ける。


「やがてエラクリスの樹になったの。残された人が……もう二度と一人ぼっちだって感じないように……」


そう言って、少しだけ振り返った。


「そうなんだよね、お母さん?」


女性はゆっくりと頷き、静かに息を吐く。


「そういう言い伝えはあるわ」


穏やかな声だった。


「大きな戦争があった時代、一人の騎士が最前線に残ることを選んだの。自分が帰れないと分かっていてもね」


その視線は再びエラクリスの樹へ向けられる。


「愛する人は待ち続けた……」


そこでほんのわずかに眼差しが和らぐ。


だが、その奥には言葉にならない何かが沈んでいるようにも見えた。


「そして最後には、夢だけが二人を引き合わせる場所になったの」


一拍置いてから、再び口を開く。


「あの樹の頂にある冠は……決して崩れなかった約束を表していると言われているわ」


静かに。


まるで昔話を語るように。


「それは力の象徴じゃない。すべてが終わった後でも、大切なものを守り続けようとする意志の象徴なのよ」


少女は黙って聞いていた。


再び樹へ向けられた瞳は、先ほどよりも少し落ち着いて見える。


草原の向こうでは、何体かのカストディアンたちがゆっくりと動いていた。


一頭の鹿が草を食み、大きな鳥が樹の枝の近くを低く横切っていく。


「お母さん」


少女が再び呼びかける。


今度の声には純粋な疑問が混じっていた。


「あのカストディアンたちって……どうしていつもあそこにいるの?」


女性は娘の見ている方向へ目を向ける。


「彼らがあの場所を選んだわけではないの」


そう言ってから、少しだけ考えるように続けた。


「どちらかと言えば……あの場所と調和しながら生きているのよ」


少女は首を傾げる。


「じゃあ……悪い生き物じゃないの?」


「完全にそうとは言えないわね」


女性は穏やかに答えた。


「理由もなく襲うことはない。でも脅かされれば、自分たちを守ろうとするわ」


そこで少しだけ言葉を選ぶ。


「そして、その守り方は……必ずしも人間に理解できるものとは限らないの」


少女はしばらく考え込んだ。


眉がわずかに寄る。


「だったら……どうして狩られることがあるの?」


その問いに、女性は静かに息を吸った。


「人間にとって価値があると考えられているものを持つ個体もいるからよ」


声は変わらず優しい。


だが、どこか重みがあった。


「そして誰もが正しい方法を選ぶわけではないの」


少女は再び黙り込む。


窓の外へ目を向け、草原を行き交う生き物たちの姿を追った。


「私たち、街に行ったら……」


やがてぽつりと尋ねる。


「また会えるのかな?」


女性は小さく微笑み、首を横に振った。


「こういう形では難しいわね」


「そうなの?」


「人の近くで暮らしているものもいるわ。でももう、彼らは完全に同じ世界に生きているわけじゃないの」


少女はゆっくりと頷いた。


理解したわけではない。


それでも、その言葉を受け止めようとしていた。


列車は走り続ける。


やがてエラクリスの樹は少しずつ遠ざかり、視界の奥へ溶け込んでいった。


その代わりに、線路の先に別のものが姿を現す。


人工的に造られたトンネルだった。


壁面は長い通路を形作り、先ほどの自然洞窟とは違う、明確で直線的な構造をしている。


そして入口の境界には、薄い金色の光が静かに揺らめいていた。


まるで波ひとつない水面のように。


その時、男性がようやく書類から顔を上げた。


手元の紙を丁寧に畳み、脇へ置く。


そして前方へ視線を向けた。


「もうすぐ着くな」


落ち着いた低い声が車内に響く。


少女はすぐに振り返った。


「あ、そうだ。お父さん」


瞳が再び期待に輝き始める。


「どうして私たち、アストラヴェルに行くの?」


男性はわずかに微笑んだ。


「大事な用事がたくさんあるからだよ」


軽い口調でそう答える。


そして少しだけ楽しそうに続けた。


「それに……きっとお前が気に入るものもたくさんある」


その言葉を聞いた瞬間、少女の目はさらに明るく輝いた。


「本当? お父さん、嘘じゃないよね?」


少女が身を乗り出しながら尋ねると、男性はわずかに眉を上げた。


「お母さんに聞いてみるといい」


気負いのない口調でそう言う。


「最初に連れて行った時なんて、もう住みたいって言い出したくらいだからな」


その言葉に、女性は少し目を見開いた。


頬がほんのりと熱を帯び、浮かべていた微笑みもどこか照れくさそうなものへ変わる。


「そこまでじゃないわよ……」


小さく呟く声には、否定しきれない気配が混じっていた。


その時、列車はトンネルへと入り始める。


入口を覆う金色の光が機関車の先端へ触れた。


そして静かに広がっていく。


まるで車体全体をなぞるように。


鉄の骨組みを伝いながら、その光は薄い輝きの膜となって隅々まで染み渡っていった。


機関部の音が変わる。


より滑らかに。


より深く。


ほんの一瞬だけ、周囲のあらゆる音が遠のいたような感覚が訪れる。


心臓の鼓動さえ、いつもよりわずかに遅れて聞こえる気がした。


やがて金色の粒子が現れる。


車輪の周囲や車体の側面を漂いながら、列車の動きに合わせてゆっくりと旋回していた。


その軌跡は淡い光となって空中へ残されていく。


少女は息を呑んだ。


瞬きすら忘れたように見つめる。


「お父さん……あれ、何……?」


「調整工程だよ」


男性は短く答えた。


列車はそのまま進み続ける。


そして――トンネルの出口へ到達する。


前方に見える光が大きく広がった。


だが、その瞬間は何も見えなかった。


ただ白い。


眩しすぎて認識できないほどの光だけが視界を満たしている。


そして次の瞬間。


世界が開かれた。


広大な海が目の前に広がっていた。


昼の光を受けて水面はきらめき、その遥か先では巨大な門がゆっくりと開いていく。


それまで隠されていた道を解き放つように。


列車は止まらない。


そのまま前へ進む。


だが――落ちることもなかった。


車輪はわずかに地面から浮き上がっている。


車体の周囲に残る光のエネルギーが支えとなり、水面の上を滑るように進んでいた。


ほとんど音も立てずに。


少女は言葉を失った。


瞳が大きく見開かれる。


唇は開いているのに、声が出てこない。


「これ……本当に……?」


そして次の瞬間。


「わああっ!」


今度こそ感嘆の声が弾けた。


抑えきれない驚きと喜びがそのまま形になったような声だった。


その先に――


ひとつの都市が姿を現していた。


壮大だった。


空へ届かんばかりに高く伸びる建造物。


その表面には無数の装飾が施され、陽光を受けて美しく輝いている。


橋と塔は複雑な構造で結ばれていたが、不思議と調和が取れており、まるで一つの芸術作品のようだった。


建物の間には白い蒸気がゆるやかに流れている。


さらに各所では青みを帯びた黄金色の光が静かに脈動し、この都市そのものが生きているかのような印象を与えていた。


――アストラヴェル。


その姿を前にした瞬間。


あまりにも大きすぎて。


あまりにも壮麗で。


まるで「見る」ためではなく、「足を踏み入れる」ために存在している世界なのだと感じられた。


列車は大きく弧を描く線路を辿って進んでいく。


都市の外周を巡りながら、その中心へ向かうように。


少女はもう動かなかった。


視線は都市へ釘付けになっている。


そして気づかないうちに、口元の笑みは少しずつ広がっていた。


列車はなおも走り続ける。


彼女がまだ一度も見たことのない街へ向かって。


ゆるやかな軌道の先へ向かって。

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