第十六話
すべてが起こる一時間前――
マイアミの街外れからそう遠くない場所に、ひっそりと佇む一軒の家があった。
空気は、どこか本来よりも重く感じられる。
リビングには柔らかな灯りがともり、整った壁に温かな色合いを映し出していた。その中で、壁掛け時計の針だけが静かに、規則正しく時を刻み続けている。
広すぎる家に似つかわしくないほどの静寂を埋めるように。
部屋の片隅では、一人の女性が立っていた。
どこかへ向かうあてもないまま、一歩進んでは立ち止まり、また別の場所へ移る。そして気づかぬうちに元の場所へ戻ってくる。
腹の前で軽く組まれた指先は、ほどけてはまた重なり、その小さな動作を何度も繰り返していた。
視線は時折、玄関へ向かう。
そして時計へ。
また玄関へ。
何かを――いや、誰かを待っているかのように。
本来なら、もうすぐ着いていてもおかしくないはずなのに。
それなのに、ひどく長く感じられた。
ゆっくりと息を吐く。
苦しそうでもなく、焦っているわけでもない。
けれど胸の奥には、何かが引っかかっていた。
うまく言葉にできない、不安とも予感ともつかない曖昧な感覚。
寝室では。
小さな男の子がぐっすりと眠っていた。
幼い体が穏やかな呼吸に合わせてゆっくりと上下し、外で何が起きていようと気づく様子もない。
家全体は、静かだった。
あまりにも静かすぎるほどに。
そしてだからこそ、その違和感はより鮮明になっていく。
女性はわずかに眉を寄せ、無意識に胸元へ手を当てた。
目には見えない何かを確かめようとするように。
「……変ね……なんだか、すごく嫌な予感がする……」
ほとんど独り言のような呟きだった。
本人ですら、気づかないうちに漏れてしまったような声。
「Mom?」
その瞬間、足が止まる。
振り返ると、そこには娘が立っていた。
少し前から様子を見ていたのだろう。
わずかに眉を上げ、澄んだ琥珀色の瞳に好奇心を浮かべながらこちらを見つめている。
女性――美雪の表情がふっと和らいだ。
娘の姿を見るたびに自然と浮かんでしまう、母親としての反射的な微笑み。
もっとも、その瞳に宿る不安までは消えていなかったが。
「……ん? どうしたの、アネ?」
アネはゆっくりと近づいてくる。
二人の距離が縮まり、美雪の表情の小さな変化まで見えるところまで来てから口を開いた。
「さっきからずっと部屋の中を行ったり来たりしてるよね」
その声は柔らかかったが、迷いはない。
「何か考えごとでもしてるの? 何をそんなに気にしてるの?」
美雪は小さく息を吐き、肩の力を少し抜いた。
平静を装うように、口元へかすかな笑みを浮かべる。
「……そんなにわかりやすかった?」
「うん」
アネは小さく頷いた。
「すごく落ち着かないように見える」
美雪はしばらく黙り込む。
視線を落とし、何もない一点を見つめたあと、ゆっくりと顔を上げた。
「……人を待ってるの」
「レンジお兄ちゃん?」
「……そう。ここに来るって聞いてるでしょう?」
その名前が静かに口にされた瞬間。
部屋の空気がわずかに変わった気がした。
アネは頷き、薄く微笑む。
「うん、知ってる。もうそろそろ着く頃なんだよね?」
美雪はすぐに頷こうとした。
だが、その動きはほんの少しだけ遅れた。
「……ええ……そのはずなんだけど。なのに、どうしてか……まるで――」
言葉は軽く聞こえたが、どこか説得力に欠けていた。
アネはしばらく美雪の顔を見つめる。
不安がまだ消えていないことは明らかだった。
言葉が続く前に、そっとその手を取る。
「とりあえず座ろう?」
何気ない口調だった。
けれど、その中には確かな気遣いが込められている。
美雪は少し迷ったものの、最終的には素直に従った。
ソファへ腰を下ろす動作はいつもよりゆっくりで、自分でも気づかないうちに疲れていたことを思い出したようだった。
アネはすぐにテーブルの上のグラスを手に取り、水を注いで差し出す。
「はい。まずはお水飲んで。少し落ち着くから」
「……ありがとう」
美雪は受け取った。
グラスに触れた指先は少し冷たい。
水をゆっくりと口に含む。
一口飲み、少し間を置き、また飲む。
乱れていた呼吸が少しずつ整っていった。
肩の力も抜けていく。
そしてようやく。
先ほどから初めて、その顔にわずかな安堵が浮かんだ。
アネはそれを見て、小さく微笑む。
「少し楽になった?」
「……ええ。少しだけ」
今度の答えは、先ほどよりずっと正直だった。
美雪の口元にもかすかな笑みが浮かぶ。
短く、儚いものだったが、確かにそこにあった。
そして、その直後――
コン、コン、コン。
小さな音が窓の方から聞こえた。
アネが瞬きをする。
自然と顔がそちらへ向いた。
「……ん? 今の音、何?」
立ち上がり、軽い足取りで窓へ近づいていく。
抑えきれない好奇心に引かれるように。
ガラスの向こう側には、一羽のカラスが止まっていた。
嘴で窓をつついている。
そのリズムは妙に規則的だった。
速すぎず、かといって無秩序でもない。
まるで誰かの注意を引こうとしているかのように。
アネはゆっくり近づく。
知らず知らずのうちに息を詰めながら。
眉がわずかに寄る。
「カラス……? こんな夜にどうして……?」
手を伸ばしかける。
だが、冷たいガラスに触れる寸前で止まった。
その瞬間。
ばさり、と。
カラスは突然翼を広げ、そのまま夜空へ飛び去っていく。
黒い影は暗闇の中へ溶け込み、短い風音だけを残して消えた。
「……あれ? なんで行っちゃったの?」
アネは目を瞬かせる。
半歩だけ前へ出て、窓際に近づいた。
飛び去った方向を目で追う。
まだ消えない好奇心のままに。
そして――その時だった。
視界の端に、何かが映る。
遠く。
本当に遠く。
闇に沈んだ海の水平線の上。
赤い光。
小さい。
だが、確かに動いている。
アネは目を細めた。
見間違いではないか確かめるように。
「……あれ、何……?」
その光は静止していなかった。
ゆっくりと回転している。
まるで空中で制御を失った何かのように。
「……なんか……花火みたい……?」
小さな呟きだった。
けれど、その声には確信がない。
自分の予想を、自分自身が信じきれていないように。
それでも視線は離れなかった。
瞬きすら忘れたように、その赤い光を見つめ続けていた。
「……お母さん」
アネの声が静かに響く。
視線は空から離れないまま。
「お母さん、見て……」
背後では、美雪がまだソファに座っていた。
手にはグラスが握られているが、もう口をつけてはいない。
窓の方へちらりと視線を向ける。
ほんの一瞬だけ。
「ん? どうしたの?」
「お母さん……空。なんか赤いのがあるの。こっち来て見て」
アネは指を伸ばした。
ガラスに触れた指先が、冷え始めた表面に薄い跡を残す。
「動いてる……でも、なんか変なの」
美雪は小さく息を吐いた。
肩の力がわずかに落ちる。
視線は再び前へ戻り、どこか自分の思考に留まろうとしているようだった。
「……ただの灯りじゃない? それか……海の船とか」
「ううん、違うよ」
アネは首を横に振る。
目は依然として空を見つめたまま。
「もっと上だもん。すごく遠く」
それでも美雪は動かなかった。
少しだけ座り直しながら答える。
「……また鳥でも見つけたんじゃない?」
半分は安心させるため。
もう半分は話題を逸らすため。
アネはむっと頬を膨らませた。
「んーっ! それじゃないってば」
今度の声は少し真剣だった。
それでも大声ではない。
「……なんか違うの。私にも何かわからないけど……お母さん、見たほうがいいと思う」
短い沈黙。
「お母さん、お願い」
無理に促す口調ではなかった。
だが、その声には先ほどまでとは違う何かがあった。
それが美雪を再び振り向かせる。
今度は一瞬ではなく、しっかりと。
美雪はゆっくり息を吐き、立ち上がった。
どこか気乗りしない様子で窓へ向かう。
この話を終わらせるために確認するだけ――そんな足取りだった。
「はいはい、わかったわ。見るから」
アネの隣へ立つ。
そして、示された方向へ目を向けた。
――見えた。
赤い光。
遥か彼方の空に浮かぶそれは、思っていたより大きかった。
そして。
あまりにも不安定に動いていた。
美雪の眉がゆっくりと寄る。
知らず、息が止まった。
「あれは……」
言葉が続かない。
可能性を考えるよりも早く――
轟音が世界を引き裂いた。
白い閃光。
あまりにも眩く、あまりにも唐突だった。
視界そのものが塗り潰される。
体が硬直する。
息が喉で止まった。
目を見開いたまま、瞬きすらできない。
焼き付いた残光が網膜の奥で揺れている。
一秒。
二秒。
そして――
ずしん、と。
遅れて衝撃がやって来た。
大地を伝い、壁を伝い、窓へと走る。
窓ガラスが激しく震えた。
ぴしり、と細い亀裂が表面を駆け抜け、無数の線となって広がっていく。
「アネ!」
反射だった。
美雪は即座に娘を引き寄せる。
強く抱き締め、その体を覆うように抱え込みながら、自らの背中を窓へ向けた。
全身に力が入る。
肩は硬く張り詰める。
いつ砕け散るかわからないガラスから守ろうとするように。
だが。
それ以上は何も起こらなかった。
残響のような揺れだけ。
そして窓を叩く雨音。
ガラスは割れない。
細かな亀裂が広がったまま、その場に留まっているだけだった。
美雪は息を呑む。
胸が速く上下する。
呼吸は乱れ、整わない。
それでも腕は無意識のままアネを抱き締め続けていた。
腕の中から伝わる小さな鼓動。
速い。
自分と同じくらい。
いや、それ以上に。
「お、お母さん……」
アネの声はかすかだった。
まだ整いきらない呼吸の隙間から漏れるような声。
だが、その続きを口にする前に――
「奥様――!」
別の声が飛び込んできた。
慌ただしい足音。
廊下の向こうから駆けてくる音が近づき、危うく転びそうになりながらも、一人の女性が部屋の入口で立ち止まる。
肩口の制服は少し濡れていた。
雨なのか、それとも気づく暇もなかった汗なのかはわからない。
「奥様……外で……今……」
言葉が途切れる。
肩で息をしながら、何とか声を絞り出す。
「……海の方で、飛行機が墜落しました」
静寂。
ほんの一瞬。
それなのに、異様なほど長く感じられた。
アネを抱く美雪の腕から力が抜ける。
離したわけではない。
ただ――動けなかった。
「……飛行機……?」
美雪は静かに繰り返した。
あまりにも静かな声。
まるでその言葉が、自分の中の何かを通り抜けなければ外へ出てこられないかのように。
メイドは素早く頷く。
だが、その瞳にはすでに涙が滲み始めていた。
「はい……私、この目で見ました……海岸線の近くで……爆発が――」
その先は続かなかった。
続ける必要がなかったからだ。
なぜなら、その瞬間――
美雪の瞳が揺れた。
見開かれたわけではない。
涙で満たされたわけでもない。
ただ、かすかに震えた。
まるでその奥にある何かが、無理やり本来の場所から引き剥がされたかのように。
体はすでに理解している。
けれど心だけが、それを拒絶しようとしていた。
呼吸が止まる。
先ほどまで張り詰めていた肩がゆっくりと落ちていく。
それは安堵ではない。
支え続ける力そのものを失ったからだった。
「……そんなはず……ない……」
囁きにもならない声。
力なく動く唇から、かろうじて零れ落ちる。
首を小さく振る。
一度。
そして、もう一度。
「……そんなはずない……!」
それでも。
抱き締める腕だけは強くなった。
アネをさらに引き寄せる。
小さな体を胸へ押し当てるように。
もう届かなくなってしまった何かの代わりに。
守れなかった何かの代わりに。
涙が落ちた。
前触れもなく。
音もなく。
「お母さん……?」
アネが不思議そうに顔を上げる。
まだ何が起きたのか理解しきれていない、純粋な声。
「……もしかして……さっきの飛行機って……レンジお兄ちゃんなの?」
その言葉が空気の中に残った。
美雪は答えない。
答えたくないからではない。
答えられなかった。
唇はわずかに開いている。
だが、声は出ない。
目も開かれたままだ。
それなのに何も見えていない。
拒絶と理解の狭間で、意識だけが立ち尽くしていた。
部屋の反対側では、メイドが両手で口元を覆っていた。
今にも崩れそうな声を押し殺すように。
肩が小さく震えている。
必死に立っているのがやっとだった。
外では雨が降り続いていた。
ひび割れた窓を静かに叩きながら。
変わらないリズムで。
まるでこの家の中で何が変わったのかなど、知りもしないかのように。
美雪はさらに強くアネを抱き締める。
顔を伏せ、娘を胸元へ引き寄せた。
その姿を隠すように。
今の自分に残された、たった一つの守れるものを抱き締めるように。
呼吸は乱れている。
手も震えている。
それでも離さない。
ほんの少しも。
まるで今ここで手放せば――
別の何かまで失ってしまうかのように。
そして。
雨音だけが鮮明になっていく中で。
ついに嗚咽が漏れた。
静かに。
押し殺すように。
それでも、もう止めることはできなかった。
雨は降り続く。
残された声を覆い隠すように。
遠くで燃えていた光も、やがてゆっくりと薄れていき、説明のつかない影だけを残して消えていった。
だが――
そこから遥か離れた場所。
海を遮るものなく見下ろせる高層ビルの屋上では。
一人の男が、なおも動かずに立っていた。
瞬きひとつせず。
すべてを見届けながら。
そして彼にとっては――
これですら、まだ始まりに過ぎなかった。
雨粒が静かに降り注ぐ。
急ぐこともなく。
夜の光を受けてかすかに輝きながら、屋上の床を薄く濡らしていく。
その男は、まだそこにいた。
頭上の傘も変わらず開かれたまま。
絶え間なく降る雨を受け止めながら、その視線は海へ向けられている。
先ほどまで光が存在していた場所へ。
もう手の届かない何かが沈んでいるかのように。
風が静かに吹き抜ける。
濡れた髪が揺れる。
それでも体は微動だにしない。
まるで何一つ変わっていないかのように。
――だが、その背後で。
空気そのものが軋み始めた。
音もなく。
細い赤い線が現れる。
あまりにも整いすぎた一筋の傷跡のように。
それはゆっくりと伸び、やがて砕けるように開いた。
幾重ものプリズム構造。
その内部を淡い紫の光が静かに流れている。
ポータルだった。
沈黙したまま。
揺らぐこともなく。
まるでずっとそこに存在していたかのように。
ただ、誰かが気づくのを待っていたように。
男はすぐには振り向かなかった。
視線はなおも海へ向けられている。
半ば閉じられた瞳。
何かを見定めているようでいて、答えなど最初から必要としていないようにも見えた。
「……この世界で生き続けても、お前は何も得られない」
声は静かだった。
コンクリートを叩く雨音の中へ溶け込むように。
「世界がお前を拒んだからではない。居場所がないからでもない」
短い沈黙。
吐き出された息は薄く、ほとんど見えない。
「ただ――意志を持たぬまま立ち止まり続ける者には、越えられない境界がある」
わずかに視線を落とす。
そこには何もない。
それでも何かを見ているようだった。
「……このまま留まれば、お前はすべてが崩れていくのを見届けるだけだ。何一つ変えられないまま」
声色は変わらない。
冷たくもない。
優しくもない。
ただ、長い昔から受け入れられてきた事実を語るように。
「この世界はいずれ滅びる。早いか遅いか、その違いしかない」
傘の表面を打った雨粒が縁を伝い、一定のリズムで床へ落ちていく。
「……そして、私ですら完全には理解できていない何かが、そこへ向かって近づいている」
男は一度だけ目を閉じた。
ほんの短く。
そして再び開く。
「もし混沌の波が別の場所で食い止められなければ――お前が生まれた世界もまた巻き込まれる」
静かな声が続く。
「破滅の中へ沈んでいくことになるだろう」
体の横に下ろされていた手が、わずかに動く。
閉じていた指先が、ゆっくりと開かれていった。
「……だから、別の場所で生きたほうがいい」
声はわずかに低くなった。
それでも穏やかさは変わらない。
「逃げるためじゃない。生き残るためだ」
そして、ようやく振り返る。
その動作は静かで淀みがない。
視線の先には、背後で開かれたポータル。
赤紫の光が幾重にも重なり合い、未完成の現実の断片のような輝きを放っていた。
「崩壊しきっていない世界で――別の存在として生きるんだ」
一歩、前へ。
ゆっくりと。
だが迷いなく。
靴先が床に溜まった薄い水溜まりへ触れる。
波紋が静かに広がった。
穏やかな円を描きながら。
その水面には、自らの姿が映っている。
だが、それだけではなかった。
まだ消えきらない波紋の奥。
もうひとつの影が浮かび上がる。
一人の女性。
鋭い紅の意匠が施された黒いドレスを纏い、深く被ったフードが顔の半分を隠している。
胸元には、一輪の花。
静かに抱くように握られていた。
動かない。
まるで取り残された記憶の欠片のように。
男はその影へ目を向けない。
足を止めることもなく、ポータルへ向かって歩き続ける。
赤紫の光が体を包み込む。
輪郭が少しずつ呑み込まれ、静かに消えていく。
やがて半身が向こう側へ沈んだ。
だが、その時。
ほんの一瞬だけ足を止める。
手がゆっくりと持ち上がった。
開かれた掌の上に、一枚の黄金の羽根が現れる。
雨に濡れた夜の中で、淡く輝きを放ちながら。
男は何も言わない。
ただ、それを手放した。
羽根は落ちていく。
ゆっくりと。
降り続く雨と同じ速度で。
そして――
男の姿が完全にポータルへ消えた瞬間。
光は跡形もなく閉じた。
残されたのは夜だけ。
そして雨音だけ。
黄金の羽根はなおも舞い落ちる。
やがて水溜まりの表面へ触れた。
小さな波紋。
静かに広がっていく。
水面に映る女性の影は動かない。
世界の変化など届かない場所にいるかのように。
数秒。
沈黙。
そして、その後――
風が吹いた。
穏やかに。
水面を撫でるように。
黄金の羽根は再び浮き上がる。
目には見えない流れに乗り、水溜まりから離れていく。
どこへ向かうのかもわからないまま。
そして――
どこか別の場所で。
同じ風が吹いていた。
見渡す限り咲き誇る花々の海を渡り、その花弁を揺らしていく。
色彩の波が広がる。
まるでその世界が今なお呼吸を続けているかのように。
何かが少しずつ変わり始めている、その最中でさえ。
だが風はそこで止まらない。
見えない境界を越え。
起こった出来事の残滓を運びながら。
別の時へと向かう。
――過去へ。
果てのない花園が広がっていた。
地平線の彼方まで続く花々。
柔らかな色彩は、曇りひとつない青空へ溶け込むように続いている。
風が静かに吹く。
一枚一枚の花弁へ触れながら。
あまりにも穏やかで。
あまりにも美しい。
現実とは思えないほどに。
まるでこの世界が――
まだ一度も滅びを知らなかった頃のように。
花の海の中を、一人の女性が歩いていた。
その歩みは優雅で静かだった。
急ぐこともない。
壮麗な黒のドレスが足元で揺れ、通り過ぎる花々の先端をそっと撫でていく。
長い白金の髪は真っ直ぐに流れ、風に揺れるたび柔らかな光を返していた。
その胸元には、一輪のジャスミン。
白く。
儚く。
それでも彼女は、それをまるで世界に残された最後の宝物のように抱いている。
美しかった。
穏やかだった。
けれど、その静寂の奥には――
もっと深いものが沈んでいる。
誰にも聞こえなかった涙。
望んだことのない権能。
そして、いつも破滅へ辿り着く犠牲。
世界は彼女を憎んだ。
例外なく。
誰もが。
だが、どんな終焉が訪れようとも。
最前線に立つのは常に彼女だった。
誰にも理解できないものを背負いながら。
彼女の死を願った者たちでさえ。
いつも先に死んでいった。
あまりにも救いのない形で。
それでも彼女だけは立ち続けた。
王として。
虚無の宇宙に存在する十の座を統べる支配者として。
終わりなき混沌の紅き墨から生まれた権能を監視し続ける者として。
ふと、その足が止まる。
先ほどまで優しかった風が変わった。
重く。
どこか不吉に。
澄み渡っていた青空にも陰りが差し始める。
灰色がゆっくりと広がっていく。
止めようのない染みのように。
「……我が王よ……」
その声は静かだった。
もう目の前にはいない何者かへ向けられた囁きのように。
風に溶けるほどかすかに。
「どうか……早くお戻りください……」
ジャスミンを握る指先に、わずかに力が込められる。
「私たちは、ずっと待ち続けています……あなたが残した約束を」
周囲の花々が萎れ始めた。
一輪。
また一輪。
鮮やかだった色彩は少しずつ褪せていき、やがて鈍く濁り、花弁の先から黒く染まっていく。
まるで、その存在意義そのものを失っていくかのように。
「この世界は……すでに滅びました」
風が強くなる。
ドレスの裾が揺れる。
白金の髪も風に持ち上げられる。
それでも彼女は真っ直ぐ立ち続けていた。
「あなたが成したすべては……さらなる破滅しか生みませんでした」
声は荒げられない。
どこまでも穏やかだった。
だが、その奥には。
確かに何かが壊れていた。
慈愛に満ちた王。
残酷な王。
かつて生まれたあらゆる存在の中で、最も偉大なる者。
無敵。
絶対。
だが――
その王は消えた。
沈黙が降りる。
残されたのは風の音だけ。
今や荒々しく吹き荒れながら、ゆっくりと腐敗していく花園を撫でていく。
花々はもはや生きていない。
萎れ。
朽ち。
黒ずみ。
足元の大地もまた静かにひび割れていく。
その下に隠されていた真実を露わにしながら。
「……それでも、私たちは待ち続けます」
ゆっくりと手を上げる。
ジャスミンの花は指先に支えられ、激しさを増した風にかすかに震えていた。
「千年」
風がさらに強まる。
周囲の花弁が次々と剥がれ、宙へ舞い上がった。
行き先もなく。
ただ流されるままに。
「二千年……」
空は完全に曇りに覆われる。
光は失われていく。
「たとえ……七千年が過ぎようとも……」
そして。
彼女は花を手放した。
白いジャスミンは風にさらわれる。
指先を離れ。
ゆっくりと回転しながら。
さらに高く。
さらに遠くへ。
「……私は、ここにいます」
その瞬間――
彼女の体が止まり始めた。
指先から。
腕へ。
肩へ。
肌は静かに硬化していく。
色彩を失い。
冷たい石へと変わりながら。
音ひとつ立てずに。
表情は変わらない。
穏やかなまま。
けれど、その穏やかさは永遠のものとなった。
そして。
石化が顔へ到達した瞬間。
花園が崩壊した。
世界を覆っていた幻影が砕け散る。
内側からひび割れた薄いガラスのように。
残されたものは――
花園ではなかった。
瓦礫だった。
崩れ落ちた建造物。
亀裂だらけの壁。
折れた柱。
頭上には灰色の空だけが広がっている。
果てなく。
空虚に。
希望など最初から存在しなかったかのように。
その中央で彼女は立っていた。
彫像として。
かつて命を持っていた何かの残骸として。
一方で――
ジャスミンの花はなおも風に運ばれていた。
命なき者たちで埋め尽くされた大地の上を越えながら。
剣を地面へ突き立てたまま座り続ける騎士。
砕けた鎧。
転がる兜。
無数の剣。
決して勝利へ辿り着けなかった戦いの墓標のように、大地へ突き刺さっている。
風は花をさらに運ぶ。
より遠くへ。
より高くへ。
そして、遥か彼方に――
一つの巨大な城が見えた。
古く。
悠久で。
そして滅びている。
城壁は各所で崩れ落ち。
尖塔は砕け。
失われた部分からは、巨大な空洞が空へ向かって口を開けていた。
ジャスミンはその中へ入っていく。
崩壊した屋根の裂け目を抜け。
ゆっくりと降下する。
塵と歳月だけが積もる暗闇の中へ。
その奥に。
玉座は残っていた。
完全な姿のまま。
傷ひとつなく。
まるで時そのものが触れることを拒んでいるかのように。
周囲がどれほど朽ち果てていても。
その深紅だけは今なお生きていた。
ジャスミンは降り続ける。
静かに。
小さく回りながら。
そして――
やがて辿り着く。
玉座の上へ。
そっと。
音もなく。
まるで、まだ帰らぬ誰かを待ち続けているかのように。
ただ静かに。
そこに在り続ける。
そして少しずつ――
世界は闇へ沈んでいった。




