第十五話
機内の照明は相変わらず薄暗いままだった。
だが、気づくか気づかないかのわずかな変化が、ゆっくりと広がっていく。
体勢を崩すほどではない。ただ、身体の重心を静かにずらすような、ごく微かな圧力。
飛行機が降下を始めていた。
それを知らせるアナウンスはまだない。
聞こえるのはエンジン音の変化だけだった。以前よりも低く、重く、まるで別の負荷を受け止めているかのような響き。
青川蓮司も、その変化をぼんやりと感じ取っていた。
頭で理解したわけではない。
肩がわずかに沈み、呼吸が自然と深くなる。
身体のほうが先に変化へ順応していた。
目元が少し熱い。
まばたきの間隔も長くなっている。
視界が一度ぼやけ、焦点が戻り――そしてまたゆっくりと滲んでいく。
(……眠いな)
無意識のうちに頭を少し傾ける。
肩にもたれたまま眠っているイザベル・アイノ・ラウリネンを起こさないよう、より楽な姿勢を探すように。
ふう、と長い息が漏れた。
穏やかで静かな呼吸。
瞼が再び下りてくる。
半分ほど閉じ、さらに深く沈み込み――やがて完全に閉じそうになる。
意識はゆっくりと漂い始めていた。
覚醒と睡眠の境界線。
音は遠ざかり、時間だけが曖昧に引き延ばされていく。
その時だった。
ドンッ――ガガガッ!
突如として激しい衝撃が機体を揺らした。
飛行機全体が横から強引に引っ張られたかのような鋭い揺れ。
座席が震え、シートベルトが胸に食い込む。
「――っ!?」
蓮司は跳ねるように目を開いた。
呼吸が途中で止まり、何が起きたのか理解するより先に心臓が激しく脈打ち始める。
そして肩にもたれていたイザベルも。
「――なにっ!?」
眠気の残る掠れた声。
反射的に身体を離し、目を大きく見開く。
まだ光に慣れきっていない瞳が戸惑うように揺れていた。
周囲の空気も一瞬で変わる。
ガタガタと座席が軋み、
眠っていた乗客たちが次々と目を覚ました。
慌てて姿勢を正す者。
前の座席を掴む者。
何が起きたのかわからず固まる者。
「な、何だ今の!?」
「何があったんだ!?」
「乱気流か!? タービュランス!?」
声があちこちから上がり始める。
最初はばらばらだったそれらは、やがて重なり合い、静寂に包まれていた機内を不規則なざわめきで満たしていった。
一方で、葉山悠希もはっと目を覚ました。
短く息を呑み、すぐに周囲を見回す。
眉間には深い皺が刻まれていた。
「……何が起きたんだ?」
蓮司も状況を整理しきれていない。
無意識に肘掛けを強く掴みながら、視線を機内へ走らせる。
何か説明できるものを探すように。
「……タービュランスか?」
小さく呟く。
だが、その声には本人ですら確信がなかった。
数列前では、
母親の膝の上で眠っていた少女が目を覚ましていた。
ひゅっと息を吸い込み、
みるみるうちに瞳へ涙が浮かぶ。
「ママ……!」
小さな手が母親の服をぎゅっと掴んだ。
女性はすぐに娘を抱き寄せる。
片腕で身体を包み込み、もう片方の手で髪を優しく撫でた。
「大丈夫よ……大丈夫だからね」
そう言う声もわずかに震えている。
娘を安心させる前に、自分自身を落ち着かせようとしているようだった。
そして数列後方。
先ほどまで眠っていた黒いスーツ姿の男が立ち上がっていた。
動きは速い。
無駄がない。
鋭い視線が一瞬で機内を見渡し、状況を確認する。
慌てる様子は見られない。
そしてそのまま完全に立ち上がると、真っ直ぐコックピットの方向へ目を向けた。
迷いなく通路へ足を踏み出す。
先ほどの揺れの余韻で機体がまだわずかに震えているにもかかわらず、その足取りは安定していた。
「お客様、どうかお席にお戻りください――」
客室乗務員がすぐに駆け寄る。
表情にはプロとしての笑みが貼り付いていたが、その目には明らかな警戒が宿っていた。
「安全のため、シートベルトを着用したままお席でお待ちください」
男は足を止める。
そして短く彼女を見た。
「……何が起きている?」
低い声。
単刀直入だった。
客室乗務員は一瞬だけ言葉を選ぶ。
それでも笑顔は崩さない。
「現在、状況を確認しております。どうかご安心ください。乗務員より改めてご案内いたします」
声は柔らかく、よく訓練されていた。
だが――
その会話が続く前に。
二度目の衝撃が襲った。
今度はさらに重い。
ドォンッ――ガガッ!!
機体全体が一瞬落下したかのように沈み込み、
次の瞬間には乱暴に持ち上げられる。
「きゃああっ!」
「ママァ!!」
あちこちで悲鳴が上がった。
少女の泣き声もさらに大きくなる。
イザベルは反射的に座席の肘掛けを掴んだ。
呼吸が速くなる。
そして無意識のうちに蓮司へ視線を向ける。
「蓮司……いったい何が起きてるの……?」
蓮司は小さく首を振った。
顎に力が入る。
「……俺にもわからない。でも、ただのトラブルじゃなさそうだ」
だが、蓮司の胸の奥には拭いきれない違和感が残っていた。
これは普通のタービュランスではない。
そんな気がしてならない。
何かが――違う。
◇ ◇ ◇
コックピット。
短い警報音が鳴った。
それまで安定していた計器パネルに、異常な変化が現れ始める。
機長は即座に姿勢を正し、素早く操作パネルへ手を走らせた。
「今のは何だ……? 乱気流に入ったのか?」
休憩していた副操縦士もすでに目を覚ましている。
身を乗り出しながら計器類へ視線を走らせた。
「この航路に乱気流の報告はありません」
即答しながら、ナビゲーションシステムへアクセスする。
機長は眉をひそめた。
「オートパイロットはまだ作動中……だが、待て」
高度計の針が動く。
滑らかな変化ではない。
不自然に跳ねるような動きだった。
「高度変動が異常だ……さっき一瞬、機体の安定性を失っている」
機長は操縦桿を握る。
「マニュアルへ切り替える」
カチッ。
オートパイロットが解除された。
途端に機体の反応が変わる。
操縦者の手へ直接伝わる感覚が強くなった。
「操縦応答に遅延が……?」
呟く声に緊張が混じる。
副操縦士は首を横に振った。
「違います。遅延じゃない」
その視線はモニターから離れない。
「まるで……こちらが入力していない操作が入っているみたいです」
一瞬の沈黙。
二人は同じ結論へ辿り着いていた。
「フライ・バイ・ワイヤのシステムをクロスチェックしろ」
「確認中です」
指が高速で動く。
システムログが次々と展開されていく。
そして――
副操縦士の目が止まった。
「……キャプテン」
声の調子がわずかに変わる。
機長が横目で見る。
「どうした?」
「操縦入力ログに異常があります」
「異常?」
副操縦士は画面を見つめたまま答えた。
「ピッチとロールの入力記録があります」
そして数秒の間を置く。
「ですが……コックピットからの入力ではありません」
沈黙が落ちた。
聞こえるのはエンジン音と電子機器の微かな作動音だけ。
機長は深く息を吸う。
「……ゴースト入力だと? そんなことがあるはずない!」
副操縦士はすぐには答えなかった。
画面を凝視したまま眉を寄せる。
「どのシステムにも登録されていません。この入力は……私たちのものではありません」
その時。
機体が再び小さく揺れた。
先ほどほど激しくはない。
だが二人の緊張を高めるには十分だった。
機長は操縦桿を握る力を強める。
「メーデー宣言は……」
短く息を吐いた。
顎に力が入る。
「まだだ。まずは持ちこたえる」
その声は冷静だった。
プロフェッショナルとしての判断を崩さない。
「機体を安定させろ。原因を突き止める」
しかしコックピットの外では、状況は違った。
客室には不安と混乱が広がり続けている。
質問。
恐怖。
戸惑い。
それらが行き場を失ったまま重なり合っていた。
その中で、蓮司だけは静かに座っていた。
視線は前を向いている。
だが意識はそこにない。
心臓はいまだに普段より速く鼓動していた。
そして――
なぜだろう。
あの妙な感覚が再び胸をよぎる。
微かなのに、はっきりと。
まるで何かがこちらへ近づいてきているような。
背景音だったエンジン音も変わりつつあった。
以前より重く。
より圧迫感を帯びて聞こえる。
機体の骨組みにはまだ細かな振動が残っている。
何かが完全には安定していない。
そんな印象を与えていた。
ざわめきが完全には収まらないまま、数秒が過ぎる。
そして――
『乗客の皆様にお知らせいたします』
機内放送が流れた。
機長の声だった。
落ち着いている。
慎重で、よく抑えられている。
だが、その奥にあるわずかな緊張までは隠しきれていなかった。
『現在、降下中に飛行制御システムの一部に不具合が発生しております』
短い間。
それだけで何人もの乗客が無意識に息を呑む。
『現在は手動操縦へ切り替え、機体が正常な状態を維持できるよう確認を行っております』
声は変わらず安定している。
『皆様は必ずお席にお座りいただき、シートベルトを正しく着用したままでお待ちください』
放送が終わる。
機内のざわめきはすぐには消えなかった。
だが性質は変わった。
パニックは少しずつ薄れ、
代わりに重苦しい緊張感が広がっていく。
「……システムの不具合か」
葉山悠希が小さく呟く。
眉間に皺を寄せたまま、少し前へ身を乗り出していた。
一言も聞き漏らすまいとするように。
イザベルは唾を飲み込む。
肘掛けを握る手にはまだ力が入ったままだ。
呼吸も完全には落ち着いていない。
「これ……大丈夫なんだよね……?」
不安げな声。
視線は自然と蓮司へ向かう。
答えを求めるように。
だが、その答えを蓮司自身も持っていなかった。
蓮司は静かに息を吐く。
まず自分を落ち着かせるように。
「……まだ制御できてるって話だった」
そう答える。
しかし、その声は自分が思っていたほど頼もしくは聞こえなかった。
少し離れた座席では、
乗客たちが声を潜めながら話し始めていた。
「制御系統の不具合って、どういう意味だ……?」
「オートパイロットが故障したとかじゃないのか……?」
「まだ操縦できているなら、大丈夫なはずだ……」
誰かがそう呟いた。
先ほどの母親も、依然として娘を強く抱きしめている。
震える小さな背中を何度も撫でながら。
もっとも、その手もわずかに震えていた。
「大丈夫よ……ほら、機長さんもまだ安全だって言ってたでしょう……」
そう言い聞かせる。
だが少女は小さく泣き続け、顔を母親の胸へ押しつけたままだった。
黒いスーツ姿の男は背筋をさらに伸ばす。
視線は機内前方へ。
口には出されない情報を拾い集めるように、細かな変化を観察していた。
その頃――
コックピットでは。
機長が依然としてマイク越しにアナウンスを続けていた。
片手は操縦桿を握ったまま。
以前より反応の鈍くなった機体をどうにか制御し続ける。
『機体が完全に安定し次第、改めてご案内――』
その言葉は最後まで続かなかった。
自ら止めたわけではない。
声が突然消えたのだ。
まるで見えない何かによって途中で切断されたかのように。
客室内。
息を潜めて放送を聞いていた乗客たちが、一斉に顔を上げた。
眉がひそめられ、
互いに視線を交わす。
「……え?」
誰かが小さく漏らす。
中央付近の座席にいた男性は天井のスピーカーを見上げた。
続きを待つ。
だが、何も流れてこない。
娘を抱きしめていた母親も手を止めた。
宙で一瞬だけ動きを失ったその手は、
やがて再び背中を撫で始める。
だが先ほどより落ち着きのない動きだった。
「……なんで止まったの?」
囁き声が広がる。
小さく、抑えられている。
それでも空気は確実に変わっていった。
まだパニックではない。
だが誰もが気づき始めている。
何かがおかしい。
何かが予定通りに進んでいない。
◇ ◇ ◇
コックピット。
機長は固まっていた。
視線は真っ直ぐ前方へ固定されている。
顎は無意識に強張り、
マイクを握る指先がわずかに震えた。
やがてその手がゆっくりと下がる。
隣では副操縦士も前へ身を乗り出していた。
目がわずかに見開かれている。
喉の奥で呼吸が止まっていた。
何かに押さえつけられているかのように。
「……き、きゃ……キャプテン……」
声がうまく出ない。
恐怖というより、
脳が現実を受け入れきれていなかった。
喉が一度動く。
唾を飲み込む音がやけに大きく響いた。
「……前方です……あなたも……見えてますよね……?」
機長はすぐには答えなかった。
視線は微動だにしない。
まばたきをすれば消えてしまうのではないか。
そんな錯覚すら覚える。
「……あ、ああ……」
ようやく返事が漏れる。
反射的なものに近かった。
二人の前。
本来なら何も存在しないはずの飛行ルート。
夜空は――もはや正常な姿を保っていなかった。
そこには何かがあった。
輪郭は曖昧。
完全に存在しているとも言い切れない。
だが、見間違いでは済まされないほど確かにそこにある。
まるで亀裂。
内部を走る細い緑色の光が不規則に明滅していた。
壊れたコードのように瞬きながら、
巨大な斜めの裂傷となって空間を切り裂いている。
それは物体ではない。
自然現象でもない。
むしろ――
損傷。
世界そのものが内側から壊れているような光景だった。
機長は息を呑む。
目を離せない。
呼吸を止めたまま数秒が過ぎ、
ようやく歯の隙間からゆっくり息を吐き出した。
「……何だ、あれは……」
副操縦士も首を横に振る。
視線は一瞬たりとも逸れない。
指先は無意識にパネルの縁を握り締めていた。
「レーダーには映っていません」
声が少し速い。
それでも必死に冷静さを保とうとしている。
「雲じゃありません……気象現象でもない」
再び唾を飲み込む。
眉間の皺が深くなる。
「……視覚異常……なのか……?」
一秒。
二秒。
それでも亀裂はそこにあった。
動かない。
消えない。
変化もしない。
まるで最初からそこに存在していたかのように。
現実として。
機長は深く息を吸い込んだ。
鼓動は重くなり始めている。
それでも訓練された思考を取り戻す。
手が再びマイクへ伸びた。
『こちら――』
ザザザザッ――!!
荒れたノイズが言葉を切り裂く。
マイクが小さく震えた。
不安定な電流音を発した直後、
完全に沈黙する。
静寂だけが残った。
不自然なほど空虚な沈黙。
「……何だ?」
機長の眉が深く寄る。
通信ボタンを押し直す。
反応はない。
副操縦士も即座に動いた。
指が通信パネルの上を走る。
チャンネルを次々と切り替えていく。
速度は徐々に上がっていた。
「応答しません……まるで……」
呼吸が少し荒くなる。
「……遮断されているみたいです」
機長が鋭く振り向く。
「何に遮断されている!?」
答えは返ってこない。
聞こえるのはエンジンの低い唸りだけ。
そして前方には、
依然として存在している。
存在してはいけないはずのものが。
その時だった。
機長はある異変に気づく。
視線がわずかに下へ落ちた。
計器パネル。
そしてコックピット前方の機体構造部へ。
「……見ろ」
機長の声は低かった。
視線の先。
計器パネルの表面。
ごく薄く。
注意して見なければ気づけないほど微細な変化。
だが確かに――その縁が変質し始めていた。
まるで削り取られているかのように。
本来なら一直線であるはずの輪郭が崩れ、小さな破片へと分解されていく。
その欠片は緑色の光を帯び、
そして一つずつ消滅していた。
何か見えない場所からデータそのものを削除しているかのように。
副操縦士は息を呑んだ。
胸の動きが止まる。
瞳がゆっくりと見開かれていく。
理解してしまったのだ。
今、自分が何を見ているのかを。
「そ……そんな……ありえない……」
前方の亀裂は依然としてそこにあった。
はっきり見えている。
だが、それはもう遠くに存在するだけのものではない。
機体は進み続けている。
そして確実に近づいている。
両者の距離は急速に縮まっていた。
冷静に処理できる速度ではない。
それどころか、亀裂そのものが変化し始めていた。
内部を走る緑の光が微かに震える。
まるで接近してくる何かへ反応しているかのように。
機首。
飛行機の最前部。
そこが亀裂の領域へ触れ始める。
本当に僅かだった。
ほとんど視認できないほどの接触。
だが、それだけで十分だった。
機首の表面が異様な振動を見せる。
空気抵抗ではない。
もっと根本的な何か。
形を持たない力に侵食されているように、
外装が緑色の粒子へ分解され、
静かに消えていく。
副操縦士の身体が強張った。
「キャプテン! あれは……あれは俺たちを――消している!」
最後まで聞く必要はなかった。
機長の目が鋭く細まる。
観察から判断へ。
思考が一瞬で切り替わった。
「旋回する」
短く告げる。
鋭い声だった。
「今すぐだ!」
操縦桿を強く引く。
躊躇はない。
システムが滑らかに補正する余地すら与えず、
機体を左へねじ込むように回頭させた。
飛行機が悲鳴を上げるように傾く。
通常限界に近い急旋回。
まるで何かに呑み込まれる直前、
無理やり軌道を引き剥がそうとしているかのようだった。
◇ ◇ ◇
客室。
機体が突然大きく傾いた。
予兆はなかった。
乗客全員の身体が一斉に横へ流される。
「うわっ!?」
あちこちから悲鳴が上がる。
頭上の収納棚が激しく揺れた。
衝撃で扉がわずかに開くものもある。
イザベルは反射的に肘掛けを掴んだ。
だが身体は大きく流される。
そのまま蓮司の方へ倒れ込んだ。
息が詰まる。
「蓮司――!」
蓮司は即座に反応した。
片手で座席を支え、
もう片方でイザベルの身体を引き寄せる。
「しっかり掴まれ!」
機内は一気に騒然となった。
シートベルト着用サインが激しく点滅する。
警報音も鳴り始める。
そして。
あまりにも一瞬だった。
頭上の収納棚からスーツケースが飛び出す。
重力に引かれながら一直線に落下。
その先にいたのは――イザベルだった。
見えた。
蓮司には見えた。
考えるより先に身体が動く。
イザベルを胸元へ強く引き寄せる。
身体を捻り、
自分の背中を盾にする。
ドガッ――!
鈍い衝撃音。
呼吸が一瞬止まる。
激痛が背中を走った。
奥歯がきしむ。
それでも声は上げない。
イザベルは蓮司の腕の中で固まっていた。
瞳が大きく見開かれている。
呼吸は乱れたまま。
「れ、蓮司くん……!」
返事はなかった。
蓮司はただ重い息を吐く。
意識を保とうとしていた。
だが――
問題は終わっていない。
確かに機体は回避に成功した。
だが完全ではなかった。
右翼。
その翼端が。
亀裂へ触れてしまったのだ。
衝突音はない。
激しい振動もない。
通常の空中接触なら起きるはずの現象が何一つ起こらない。
あまりにも静かだった。
あまりにも自然で。
だからこそ異常だった。
何かが接触した。
それだけは確かだった。
◇ ◇ ◇
右側の座席列。
葉山悠希はずっと息を潜めていた。
そしてふと、
窓の外へ視線を向ける。
何かが引っ掛かった。
理由はわからない。
だが見ずにはいられなかった。
眉が寄る。
窓の向こう。
翼の先端付近。
そこに映る光景を見た瞬間――
「……なんだ、あれ……?」
思わず声が漏れる。
理解できない。
それでも異常だけははっきりわかった。
「なんか……めちゃくちゃ変じゃないか……?」
声は小さかった。
再び高まり始めたざわめきの中では、ほとんどかき消されてしまうほどに。
隣に座っていた女性もつられるように顔を向け、少し身を窓の方へ乗り出した。目を細めながら、葉山悠希が見ているものを追おうとする。
そして――二人は同時に固まった。
機体の右主翼は、まだそこにあった。
だが、もう元の形ではなかった。
翼の先端が変わり始めていたのだ。
折れたわけではない。
燃えているわけでもない。
ただ――消えていた。
外側の表面が淡い緑色の微細な粒子へと分解されていく。まるでデジタルの光の欠片のようにぼんやりと輝きながら、一つ、また一つと剥がれ落ち、空気の中へ溶けるように消滅していく。
最初から存在していなかったかのように。
その現象は静かに進行していた。
音もない。
痕跡も残さない。
だからこそ、なおさら恐ろしかった。
「……一部が……消えてる……?」
悠希の隣にいた女性は息を詰まらせ、ゆっくりと前の座席の背もたれを握り締めた。
悠希は答えない。
瞳は窓の外に釘付けのまま。
わずかに揺れる瞳孔が、自分の知るどんな常識にも当てはまらない光景を理解しようとしていた。
機外では、主翼がなおも削られ続けていた。
少しずつ。
確実に。
やがて残された構造は、高速で押し寄せる空気圧に耐えられなくなる。
その瞬間――
機内の揺れが突然変わった。
単なる振動ではない。
引きずり込まれるような感覚。
機体が急激に右へ傾き、シートベルトを着けている乗客たちでさえ座席の中で大きく体勢を崩した。
「きゃあああっ――!」
あちこちで悲鳴が弾ける。
機体はさらにバランスを失っていく。
右へ回転しながら機首が落ち、
そのまま急降下へ入った。
客室の照明が一度明滅する。
そしてまた。
さらにまた。
規則性のない不気味な点滅が続いた。
ビーッ! ビーッ! ビーッ! ビーッ!
警報音が容赦なく鳴り響く。
高く鋭く、異様なほど短い間隔で繰り返されるその音は、機内にいる全員へ突きつけていた。
これはもう単なるトラブルではないのだと。
その音はすべてを切り裂いた。
呼吸も。
悲鳴も。
心臓の鼓動さえ、その暴力的なリズムの下へ沈んでしまう。
『Engine two—fire warning!』
コックピットからの声が聞こえた。
ノイズ混じりで歪んでいたが、それでも十分だった。
耳にした者の心をさらに深い絶望へ突き落とすには。
そして窓の外では――
炎が現れ始める。
最初は小さく。
だが瞬く間に大きくなり、残された主翼をなぞるように燃え広がっていく。
まるで告げているかのようだった。
今起きた何かは、すでに取り返しのつかない段階へ達しているのだと。
コックピットからの声はなおも雑音に埋もれながら続いていた。
一方で炎は、高速飛行による激しい風に引き裂かれながら、さらに勢いを増していく。
客室は混乱に包まれた。
叫ぶ者。
泣き出す者。
あるいは青ざめた顔のまま、何も理解できず呆然と座り尽くす者。
中央列に座っていた女性客は前の座席を必死に掴んでいた。
力の入りすぎた指先は白くなり、肩は激しく震えている。
目は大きく見開かれ、焦点も定まらない。
何か説明を求めるように周囲を見回しているが、答えなどどこにもなかった。
「違う……こんなの……普通じゃない……! 普通じゃないっ!!」
声は途中で割れた。
掠れ、まるで自分の呼吸に喉を締め付けられているようだった。
少し離れた場所では――
イザベル・アイノ・ラウリネンが青川蓮司の腕の中で震えていた。
背中の服を掴む指先に力がこもる。
まるで崩れ始めた世界の中で、それだけが最後に残された拠り所であるかのように。
顔を蓮司の胸へ押しつける。
乱れた呼吸は温かいのに、どこまでも不安定だった。
必死に安らぎを求めている。
だがその安らぎは、少しずつ手の届かない場所へ遠ざかっていく。
「蓮司……怖い……」
震える息に遮られながら、声が途切れる。
もう隠しきれない恐怖が滲んでいた。
蓮司はわずかに俯いた。
顎がイザベルの頭に触れそうになる。
彼自身の呼吸も重く、乱れていた。
何かを追いかけるように胸が上下している。
反射的に腕へ力が入った。
イザベルをさらに強く抱き寄せる。
それだけで全てを守れるかのように。
全てを失わずに済むかのように。
だが――
小刻みに震える窓の向こうには、すでに街の灯りが見えていた。
海岸線に沿って伸びる無数の光。
暗闇の中を走る光の血管のように広がり、その輝きが黒く深い海面へとかすかに映り込んでいる。
本来なら美しい光景だったはずだ。
だが今は違う。
近すぎた。
あまりにも。
そして速度も――速すぎる。
この飛行機は、もう飛んでいない。
制御を失ったまま落下していた。
蓮司は一度だけ目を閉じた。
眉間にわずかな皺が寄る。
胸の奥で膨れ上がる何かを押し留めるように。
そして再び、ゆっくりと目を開く。
重く。
静かに。
腕の力は緩まない。
むしろさらに強くなっていく。
そして全てが始まってから初めて――
誤魔化すことも、
否定することもなく、
心の奥から正直な声が浮かび上がった。
(……これで……全部終わりなのか……?)
その頃――
街の海岸沿いでは。
何人もの人々が足を止めていた。
空から聞こえてくる異音に、無意識のうちに視線を引かれたのだ。
彼らは空を見上げる。
一つの光点。
不安定に揺れながら移動している。
長い炎の尾を引いて。
「……あれ、飛行機じゃないか?」
誰かがわずかに震える手で空を指差した。
小さな声だったが、それだけで周囲の視線が一斉に引き寄せられるには十分だった。
周囲にいた人々も次々と顔を上げ、その方向へ視線を向けた。
そして、ほとんど同時に。
彼らの目がゆっくりと見開かれていく。
誰もすぐには言葉を発しなかった。
ただ黙って見つめていた。
その光点が近づくにつれ、輪郭が徐々に鮮明になっていく。
炎の輝きの向こう側に隠れていたシルエットが、少しずつ正体を現していった。
その動きは不安定だった。
揺れている。
真っ直ぐ進むべき軌道から、少しずつ外れていく。
まるで、ずっと前から制御を失っていたかのように。
そして見続けるほどに――
それが本来、夜空に存在していてはならない光景であることがはっきりと分かっていった。
その直後だった。
ドォォォンッ!!
爆発は何の前触れもなく訪れた。
白い閃光が一瞬で視界を埋め尽くし、誰も反応する暇もないまま、その姿を飲み込んでしまう。
轟音がわずかに遅れて空気を震わせた。
重く、深く。
それはまるで、そう遠くない場所から胸を直接殴りつけられたような衝撃だった。
炎が海面の上で花開く。
荒々しい爆発と共に膨れ上がり、その衝撃波が海を叩いた。
高く巻き上げられた水飛沫は夜空へ散り、やがて重々しい音を伴って再び海へと落ちていく。
爆風が海面を駆け抜けた。
強烈な風となって街の沿岸部へ到達する。
人々は言葉を失った。
誰一人として動けない。
今、自分たちが何を目撃したのか。
それを理解できる者は誰もいなかった。
そして――
街でも有数の高層ビルの屋上。
そこに一人の人物が立っていた。
静かに。
ただ静かに。
淡い桃色の長髪が夜風に揺れる。
頭上に浮かぶ明るい月光を受け、その髪はかすかな輝きを帯びていた。
梟の目を模した黄金の仮面が顔の一部を覆っている。
だが、その奥にあるフューシャ色の瞳は隠されていない。
瞬きひとつせず。
たった今起きた爆発の光を映していた。
その虹彩の中では――
先ほどの破壊が繰り返されていた。
まるで記録されているかのように。
数えられているかのように。
理解されているかのように。
ドレスの裾が風に揺れる。
身体を覆う薄い装甲が一瞬だけ残光を反射し、すぐに再び静かな闇へ溶けていった。
彼女は何も反応しない。
ただ見ている。
まるで今の出来事こそが――
長い間待ち続けていたものだったかのように。
ゆっくりと唇が開く。
低い声。
静かな声。
「この世界は……ようやく最も残酷な方法を選んだのね」
夜風がさらに強く吹き抜けた。
ビルの表面を長い風音と共に撫でていく。
やがて雲がゆっくりと月を覆い始める。
先ほどまで海を照らしていた光も、少しずつ弱まっていった。
ぽつり、と。
最初の雨粒が落ちる。
一滴。
二滴。
そして数を増やしながら、やがて途切れない雨へと変わっていった。
まるで空そのものが、長い間抱え込んでいた何かを少しずつ手放していくように。
彼女はわずかに手を上げた。
小さな指の動き。
その瞬間、一本の傘が手の中に現れる。
黒桜の意匠が施された傘だった。
柔らかな音と共に開き、降り始めた雨を受け止める。
だが視線は変わらない。
海へ。
あの光が消えた場所へ。
何かが――
取り戻された場所へ。
「これは終わりじゃない」
感情もない。
強調もない。
ただ事実を述べるような声音だった。
誰かの同意など必要としていない言葉。
雨はさらに強くなっていく。
街を濡らし。
海を濡らし。
やがて空と海の境界さえ曖昧になるほどの薄い霧が漂い始めた。
「……これは、世界が痛みを押し殺すことをやめた瞬間」
その声は雨音の中へ溶けていく。
平坦で。
遠く。
誰かに向けられたものではない。
「拒み続けてきた重荷は……決して消えてなんかいなかった」
風が静かに渦を巻き、濡れた髪を揺らす。
それでも彼女は目を逸らさない。
「……ただ待っていただけ」
短い沈黙。
雨だけが降り続く。
「……再び呼び戻される時を」
瞳は開いたままだった。
瞬きひとつしない。
今は穏やかに見える海の闇を映しながら、そのさらに深い場所に眠る何かを見つめている。
「強すぎるがゆえに退けられたもの」
静かな声がさらに低くなる。
「無敵であり――そして、あまりにも崇高だったもの」
雨は止まない。
絶え間なく降り続く。
まるで世界そのものが泣いているようだった。
失ったからではない。
ようやく――
抱え続けることができなくなったから。
隠し続けてきたものを。
「……これは終焉ではない」
かすかに唇の端が動く。
ほとんど誰にも気づかれないほどに。
「……これは――返還だ」
彼女はそこに立ち続ける。
静かに。
ただ見つめながら。
まるで自分だけが知っているかのように。
先ほどの破壊は、何かの終わりなどではないことを。
それはむしろ――
世界ですら、もはや制御できなくなる何かの始まりなのだということを。




