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第十四話

別の場所――


彼らが今まさに飛んでいる空から遠く離れた場所。


安定した航空機のエンジン音も届かない場所。


その家は静まり返っていた。


静かすぎるほどに。


足音はない。


会話もない。


ただ空白の空間だけが、あるがままに残されている。


まるで何かを待っているように。


けれど、その何かがどこから来るのかさえ分からないまま。


だが、その静寂の奥には――


ひとつだけ、小さな音があった。


……ぽたり。


かすかに。


耳を澄まさなければ聞き逃してしまうほどの音。


薄暗い浴室の中。


洗面台の上に取り付けられた金属製の蛇口が静かに佇み、その表面には外から差し込むわずかな光がぼんやりと映り込んでいた。


その先端に。


一滴の水がぶら下がっている。


重たげに。


かすかに震えながら。


まるで早く落ちてしまわないよう、自らを支えているかのように。


そして――


……ぽたり。


ついに離れた。


水滴はゆっくりと落ち、洗面台に触れた瞬間、小さな音を立てて静寂を裂く。


薄く広がりながら排水口へと流れ込み、


そして消えた。


後に残るのは、再びの沈黙だけだった。


リビングルーム。


淡い光が整然とした室内の隅々を包み込んでいる。


あまりにも整いすぎていて、まるで長く人のいない家とは思えないほどだった。


小さなテーブルの上には金色の招き猫が置かれている。


片手を上げたその姿は、決して訪れることのなかった幸運を呼び続けているようだった。


その足元で。


光がちらりと反射する。


正面ではテレビが点いていた。


だが、映像はない。


音声もない。


あるのはノイズに埋め尽くされた画面だけ。


白と黒の粒子が規則もなく震え続け、


かすかな砂嵐の音を吐き出している。


まるで無理やり生かされている囁きのように。


――サァァァァ……


光がゆっくりと明滅する。


不安定に。


存在しない何かを捕まえようとしているかのように。


二階へ続く。


蓮司の部屋へ向かう細い廊下は、静寂の中に横たわっていた。


部屋の扉は完全には閉まっていない。


わずかに開いている。


そして、その隙間から――


光が漏れていた。


ただの照明の光ではない。


その奥で何かが微かに瞬いている。


脈打つように。


不規則に。


まるで絶え間なく姿を変え続ける何かのように。


扉がわずかに軋んだ。


何に押されたのかも分からないまま。


隙間が少し広がり、中の光が床へと流れ出す。


木の床には、決して一定ではない影が揺れていた。


その中には――


誰もいない。


ベッドは整えられたまま。


人の気配もない。


だが、机の片隅で。


コンピューターだけが起動していた。


モニターは激しく点滅し、青白い光を壁へと投げかけている。


その光は椅子の長い影を作り出していた。


――空席のままの椅子を。


そこには誰も座っていない。


それなのに。


画面だけは動き続けていた。


コードが一行、また一行と流れていく。


人間の目では到底追い切れない速度で。


数字。


記号。


見覚えのない文字列。


その中には、何なのかすら判別できないものも混じっていた。


湾曲した形。


鋭く尖った形。


まるで記録されたことのない古代の言語のような文字。


それらが絶えず巡り、


変化し、


書き込まれているのではなく、自ら出現しているかのように増殖していく。


――error.


画面の隅で、小さな文字が点滅した。


一度だけ。


そして消える。


次の瞬間には、さらに速いコードの奔流に飲み込まれていた。


――error.


今度は少し長く残る。


画面が明滅した。


それに合わせるように、部屋の光も脈打つ。


コンピューターが微かに震えた。


低く鳴り続けていた駆動音が変化する。


より重く。


より深く。


まるで限界を超えて働くことを強いられているかのように。


――error.


その文字が再び現れる。


そしてまた。


さらにまた。


途切れることなく。


際限なく。


やがて――


閃光が弾けた。


鋭い光が部屋を切り裂き、直後に狭い空間へ押し込められたような破裂音が響く。


それは、この家を支配していた静寂を打ち破るには十分だった。


画面が落ちる。


闇。


静寂。


数秒が過ぎた。


何も起こらない。


そして――


……カチッ。


コンピューターが再び起動した。


誰の手も触れていないのに。


画面が点灯する。


だが、今度はコードではなかった。


数字もない。


表示されているのは、たった一文。


白く。


鋭く。


暗い画面の中央に。


TARGET: AOKAWA RENJI — TERMINATION QUEUED


その下に――


別の名前が現れ始める。


一つ。


また一つ。


合計十四名。


静かに並び続ける名前の列。


まるで何かを待っているかのように。


再び数秒。


沈黙が流れた。


やがて文字列が変化する。


点滅し、


消去され、


新たな一行へと置き換わる。


PROTOCOL LINK ESTABLISHED


画面の光がゆっくりと脈打った。


まるで呼吸しているかのように。


そして――


次の文字が現れる。


先ほどより小さく。


より冷たく。


PROTOCOL INITIATION: DISTORTION GATE


わずかな間。


ACTIVATION IN 30 SECONDS


その下に数字が表示された。


30


そして動き始める。


29


28


画面の光はなおも脈打ち続ける。


その一方で――


家の外は変わらず静かだった。


何も変わっていないかのように。


まるで――


今まさに何かが始まったことなど、最初から存在しなかったかのように。


◇ ◇ ◇


21:07――太平洋上空


窓の外に広がる空は果てしなく暗い。


ときおり雲の合間で翼端灯の淡い光が瞬くだけで、それ以外には何も見えなかった。


機体を支えるエンジン音は一定のリズムで響き続け、その音はいつしか子守歌のようになって、客室のほとんどを眠りへと誘っている。


多くの乗客はすでに眠っていた。


座席や窓に頭を預け、


薄いブランケットに身を包み、


照明も落とされた機内は柔らかな光だけに包まれている。


まるで時間から切り離された別世界のような静けさだった。


蓮司はまだ起きていた。


身体はすっかりシートに預けているものの、まぶたは時折重そうに瞬き、眠気の混じった長い吐息が漏れる。


少しずつ睡魔は近づいてきていた。


だが、まだ完全に意識を奪うほどではない。


「……ふぁぁ……」


手の甲で口元を隠しながら小さくあくびをする。


目尻にはわずかに涙が滲んだ。


それを瞬きで追い払いながら、なぜかもう少しだけ起きていようとしている。


(……まだ寝るのはいいか)


そんな考えがふと頭をよぎる。


視線を横へ向けた。


イザベル・アイノ・ラウリネンは眠っていた。


頭をわずかに窓側へ傾け、


規則正しい呼吸を繰り返している。


胸が静かに上下し、その表情は穏やかだった。


起きていたときに見せていた微かな緊張や迷いも、今はすっかり消えている。


蓮司は無意識のうちに彼女を眺めていた。


思ったより長く。


かすかな吐息の流れや、


夢でも見ているのか時折わずかに動く眉先まで、


不思議なほど鮮明に目に入ってくる。


(……ぐっすり寝てるな)


口元が少しだけ緩んだ。


否定しようのない事実だった。


彼女は綺麗だ。


人気があるのも分かる。


そんな考えが、ふと頭に浮かぶ。


深い意味などない。


ただ、ごく自然にそう思っただけだった。


だが――


(……だからって、な)


目をわずかに細めながら、小さく息を吐く。


(俺があんな子と付き合えるわけないだろ)


頭の中の声はどこか淡々としていた。


本気で挑戦する前に、自分自身を先に笑ってしまうような諦めにも似た声。


そして、そのときだった。


イザベル・アイノ・ラウリネンの頭がふらりと動く。


ゆっくりと。


無意識のまま。


そして――


ことり、と。


蓮司の肩へ預けられた。


「――え?」


思わず小さな声が漏れる。


ほとんど聞こえないほどの反応だったが、それでも一瞬だけ呼吸が止まった。


肩がわずかに強張る。


動くべきか。


それとも動かないべきか。


判断がつかない。


(……これ、いいのか?)


妙な居心地の悪さが胸の中を巡る。


手が少しだけ持ち上がった。


彼女の頭を元のシートへ戻した方が楽なのではないか。


そんな考えが浮かんだからだ。


だが、その動きは途中で止まった。


視線が再び彼女の顔へ向く。


表情は穏やかなまま。


苦しそうな様子もない。


むしろ無意識のうちに、一番落ち着ける場所を見つけてしまったように見えた。


やがて指先から力が抜ける。


持ち上げかけた手は静かに下ろされた。


(……まあ、いっか)


小さく笑う。


気負いのない、自然な笑みだった。


(本人が楽なら、そのままで)


蓮司は肩を動かさなかった。


むしろ少しだけ姿勢を調整し、彼女の眠りを邪魔しないようにする。


もっとも、そのせいで自分の呼吸はまだ少しだけ落ち着かなかったのだが。


視線を反対側へ向ける。


葉山悠希も眠っていた。


頭を軽く横へ傾け、


規則正しい呼吸を繰り返している。


先ほどまで手にしていたスマートフォンは膝の上に置かれ、画面はすでに消えていた。


そして、その隣では――


先ほど同じ列に座っていた女性も眠っている。


頭を悠希の肩へ軽く預けながら。


イザベルが蓮司に寄りかかっているのとよく似た光景だった。


もっとも、悠希本人はまったく気づいていないらしい。


微動だにせず熟睡していた。


蓮司はしばらくその様子を眺め、


そして苦笑する。


(……本当にか)


それ以上の感想はなかった。


ただ、静まり返った機内の中で、その光景がなぜだか少しだけ温かく感じられた。


視線はさらに客室へと流れていく。


小さな女の子が母親の膝の上でぐっすり眠っていた。


身体を丸めるようにして寄り添い、


母親はその髪を何度も優しく撫でている。


穏やかで、繰り返されるその仕草。


唇には小さな微笑み。


それだけで世界が満たされているかのようだった。


数列後ろには黒いスーツ姿の男性。


眠っているにもかかわらず背筋は真っ直ぐで、


腕を組んだ姿勢も崩れていない。


無意識の中ですら規律を失わない人間なのだろう。


反対側では二人の少女が寄り添うように眠っていた。


互いの頭が触れそうなほど近く、


呼吸のリズムまで自然と揃っている。


どれもありふれた光景だった。


あまりにも普通で。


あまりにも平穏で。


だからこそ――


その視線は止まった。


五人組。


客室の別の区画に座る者たち。


何人かは目を閉じ、


休んでいるように見える。


だが、一人だけ起きていた。


窓際の席。


その人物は外の闇を見つめている。


まるで誰にも見えない何かを探しているように。


表情は無機質だった。


落ち着いている。


だが、その奥には微かな冷たさがあった。


蓮司は一瞬だけそれを見る。


そしてすぐに視線を逸らした。


なぜか、あまり長く見ていたくないと思ったからだ。


◇ ◇ ◇


コックピット。


計器類のランプが安定して点灯している。


無数の数値やインジケーターが規則正しく動き続け、


機内とはまた違う静かな光景を作り出していた。


一人のパイロットは姿勢よく座り、


軽く操作パネルへ手を伸ばしている。


もう一人はシートにもたれ、


目を閉じて休息を取っていた。


数秒の静寂。


そして――


起きていたパイロットが通信パネルへ手を伸ばした。


落ち着いた、職務的な声。


その声が機内放送を通じて客室へ流れる。


「皆様、こんばんは。機長です」


穏やかだが聞き取りやすい声だった。


「当機は現在、巡航高度を順調に飛行しております」


短い間を置く。


「ロサンゼルスには予定通り、数時間後に到着する見込みです。到着地周辺の天候も良好となっております」


声の調子は終始変わらない。


「降下を開始する際には、改めてご案内いたします。それまでどうぞごゆっくりお休みください」


カチッ。


放送が終了した。


客室では――


何人かの乗客がわずかに身じろぎする。


寝返りを打つ者。


一度だけ目を開き、再び眠りへ戻る者。


それでも空気は変わらない。


静かで穏やかなままだった。


蓮司はゆっくり息を吐く。


「……あと数時間か」


ほとんど独り言だった。


その肩で、


イザベルが小さく動く。


眉がかすかに寄る。


まぶたが震え、


ゆっくりと目が開いた。


まだ眠気が残っているらしく、表情はどこかぼんやりしている。


蓮司は彼女を見て、


無意識に微笑んだ。


「さっきのアナウンスで起きたのか?」


イザベルはゆっくり瞬きをする。


意識がはっきりするまで数秒かかった。


「……ん……」


寝起きの掠れた声。


「もう着いたの……?」


蓮司は小さく首を振る。


「いや。もう少ししたら降下が始まるくらいかな」


「んー……」


力なく頷く。


だが、その目は再び閉じ始めていた。


頭を起こしきる前に。


そして、ほとんど抵抗することなく――


再び寄りかかる。


同じ場所へ。


蓮司の肩へ。


今度はさっきよりも深く。


蓮司は少しだけ黙り込んだ。


それから小さく笑い、


諦めたように息を吐く。


(……まあいいか。寝てろ)


もう動かなかった。


何も変えない。


そのままの距離を保ちながら。


やがて二人の間を満たすのは、再び一定のリズムで響く飛行機のエンジン音だけだった。

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