1話 始まりの朝
夜明け前の街は、まだ青かった。
東の空がわずかに白みはじめる前の時間。人の気配が消えた商店街の裏道を、天城蓮はひとりで走っていた。肩で息をしながら、何度もずり落ちそうになる安物のバッグを抱え直す。靴底はすり減っていて、アスファルトを蹴るたびに頼りない音がした。
止まるわけにはいかなかった。
五時半。
この時間を逃すと、朝の案件が埋まる。
国家冒険者斡旋端末に出る仕事は早い者勝ちだ。特に宝珠職の案件は、数こそ少ないが、危険度と報酬の釣り合いが悪いものばかりで、少しでも条件のましなものは一瞬で消える。
蓮は走りながら、手首のリンク・ブレスを軽く叩いた。薄い光が起動し、半透明の案件一覧が視界の端に浮かぶ。
【午前緊急補助】
【侵食区域《日暮二丁目外周》】
【危険度:C】
【必要クラス:宝珠一名】
【報酬:21,000円】
【午前討伐補助】
【侵食区域《墨田南区画》】
【危険度:B】
【必要クラス:宝珠一名】
【報酬:38,000円】
【早朝追加】
【侵食区域《第三区落下残滓》】
【危険度:B】
【必要クラス:宝珠一名】
【報酬:44,000円】
最後の一件に指が止まる。
B級。高い。
高いが、その分だけ危ない。
しかも“落下残滓”の文字がついている。フォール発生時の濃い侵食がまだ澱のように残っている区域だ。モブの数も質も安定しない。初心者が踏み込む場所ではない。
だが蓮は迷わなかった。
【応募】
光が走り、受付完了の通知が出る。
直後、スマート端末に病院からのメッセージが入った。
『今月分の維持治療費支払期限:本日』
胸の奥がひゅっと狭くなる。
分かっていたことだ。忘れていたわけじゃない。昨日からずっと頭にあった。だがこうして文字で突きつけられると、数字はいつも現実より重い。
蓮は端末を消し、走る速度をわずかに上げた。
朝一の案件を終わらせて、昼前までに戻る。
午後も潜る。
夜は夜で単発の雑魚狩りでも拾う。
それでも足りないことが多い。
だが、やるしかない。
自分が立ち止まれば、そのまま妹の治療が止まる。
アパートの外階段が見えた頃には、息はすっかり上がっていた。二階まで駆け上がり、薄い金属扉の前で一度だけ呼吸を整える。ここで荒い息のまま入ると、妹が気づいてしまう。
鍵を開けて部屋に入ると、古い畳と洗剤の混じった匂いが鼻先をかすめた。
流し台の横に置いたポットへ水を入れ、鍋に残っていた昨夜のスープを温め直す。その間に隣室の襖を少しだけ開けた。
小さなベッドの上で、妹が眠っている。青白い頬。浅い呼吸。枕元には水差しと薬のシート、今朝使う予定の吸入器。
蓮はしばらく、その寝顔を見つめていた。
小さい頃はもっと元気だった。外を走るのが好きで、果物のゼリーだけは妙に目を輝かせていた。今も好きなのは変わらない。だが最近は、好きと言うだけで息が切れる時がある。
侵食性神経崩壊症候群。
数年前、フォール発生以降に確認されるようになった病の一つだ。体の深部に入り込んだ微細な侵食因子が、神経や生命情報をゆっくり擦り減らしていく。普通の薬では進行を鈍らせるのが限界で、根治の報告はまだない。
病院は「安定している」と言う。
その言葉が、蓮は嫌いだった。
安定している、というのは、よくなっているという意味じゃない。
悪くなる速度が、今は少し緩いというだけだ。
「……ん、おにい、ちゃん」
妹が薄く目を開けた。
「起きてたのか」
「いま、起きた……。また行くの?」
「ああ」
妹は少しだけ眉を下げたが、それ以上は何も言わなかった。言っても無駄だと知っている顔だった。そのことが、蓮には少しだけ苦かった。
「スープ飲めるか」
「うん」
背を支え、ゆっくり器を渡す。妹の指先は相変わらず冷たかった。熱を測り、薬を用意し、病院からの指示メモを確認する。毎朝の手順は決まっている。手順が決まっているから、逆に怖い。生活が病気に合わせて整っているということだからだ。
「今日、帰ってきたらゼリーある?」
小さく問われ、蓮は一瞬だけ止まる。
「桃のやつ」
「……買えたらな」
「うん」
それだけで妹は納得したように頷いた。
買えたら、という曖昧な返事でも期待してしまうのを知っていて、蓮は視線を逸らす。
スープの湯気の向こう、壁に立てかけた端末にランキング更新予告が流れていた。
『今週の総合戦闘力ランキング、18時公開』
『急上昇パーティー特集 特設配信あり』
『宝珠クラス別ランキング更新』
画面の中では、きらびやかな装具を纏った上位ランカーたちが笑っている。
同じ冒険者でも、住んでいる世界が違う。
上位者はスポンサーがつく。
装具支給、遠征費補助、専属整備士、配信枠、広告収入。闘技場で勝てば名前が売れ、人気が出ればさらに企業が寄ってくる。
それに比べて、下位の野良はただ侵食区域だけに潜るだけだ。
そして死んだところで目立ったニュースにもならない。
さらに宝珠職はその中でも特に割が悪い。
侵食区域は、モンスターを倒しただけでは終わらない。最後に残った侵食核を閉じ、区域そのものを終息させなければ再発する。だから宝珠は絶対に必要だ。
だが必要とされるのは、最後の“閉じる”場面だけだ。
道中で派手に敵を吹き飛ばすわけでもない。大剣のように目立つわけでも、杖のように画面映えする術式を見せられるわけでもない。盾のように分かりやすく前へ立つ姿もない。
だから、世間は軽く見る。
宝珠なら誰でもデフォルトでついている閉域スキルを吐く係。
お気持ち程度の回復係。
いてもいなくても同じ――とまでは言わないが1人いるだけでいい、戦力としてはノーカウント。わざわざ育てるほどではない。
そう言われ続けてきた。
それでも蓮が宝珠で上を目指す理由は一つだ。
妹を治したいからだ。
そのために必要なのが、宝珠職の上位治療系統。まだ正式名称すら現場では都市伝説みたいにしか語られないが、上位の医療機関や研究者の間ではたしかに存在が囁かれている。
囁かれている、というのは、そもそもレベルの高い宝珠が1人しかいないためである。
だがその宝珠は姿を隠していてどこにいるのかわからない。
だから、半ば都市伝説のように囁かれている。
生命情報の再構築。
壊れた神経と侵食された情報そのものを修復する、ありえない治療術。
レベルが届けば、もしかしたら――。
そこまで考えた時、視界の端に別の通知が流れた。
『特集:理想編成が築く最速攻略の現在地』
『新宿第七フォール単独閉鎖作戦、その後』
蓮の指が止まる。
記事のサムネイルには、まだ詳しい顔ぶれは映っていない。だが、最近よく聞く単語がそこにあった。
理想編成。
大剣。盾。杖。宝珠。
四職が一人ずつ。最も無駄がなく、最も効率がいいとされる構成。
その中でも、最近とくに名前を聞くのが、S級のとあるパーティーだった。
バベル。
それが正式名称なのか、通り名なのか、蓮はまだ知らない。
ただ、強いという噂だけは知っていた。
ラストアタックで経験値を火力へ集中させることで強い敵を次々と倒してゆく。
当然、敵が強ければ強いほど得れる経験値は高くなる。
均等経験値なんて、生ぬるい。
伸びるべき人間に全部集めてこそ効率がいい。
「……ラストアタック、か」
蓮は小さく呟く。
均等取得が公平なのは分かっている。パーティー全体で見るなら、その方が波風が立たない。
だが、それでは穏やかにしかレベルは上がらない。
旨みがあるようで全く無いのだ。
この世界は弱者から切り捨てられる。
治療費は待ってくれない。
妹の症状も待ってくれない。
なら、一発で跳ねるしかない。
最後の一撃。
ラストアタック。
おこぼれでもいい、一度でも高経験値を得れれば一気に景色が変わるかもしれない。
火力職ばかりが夢を見る仕組みだと分かっていても、その夢の眩しさを蓮はまだ捨てきれていなかった。
たとえ笑われても、たとえ役立たずと呼ばれても、いつか一発だけでも当てれたら――。
「……お兄ちゃん?」
妹の声で、蓮は我に返った。
「どうしたの」
「いや。何でもない」
器を洗い、端末をポケットへ滑り込ませる。黒いジャケットを羽織ると、袖口の内側に縫い込まれた緑のラインがわずかに光を返した。普段着にしか見えないが、リンク・ブレスと同期すればこれは侵食対応装具として起動する。
高級品ではない。何世代か前の型落ちだ。中古屋で分割払いにした。袖の補修は自分で縫った。けれど、今の蓮には十分高かった。
靴紐を結びながら、蓮はもう一度だけ妹を見る。
「昼前には一回戻る」
「うん」
「端末、知らない番号は出なくていい」
「うん」
その顔を焼き付けるように見て、蓮は部屋を出た。
外はすっかり朝になっていた。アパートの階段を下りると、通りの電光掲示板に今朝のフォール観測情報が流れている。
『第三区残滓観測値 前週比増』
『宝珠職不足 各地で深刻化』
『闘技場リーグ予選受付 本日締切』
人の流れの中を、蓮はひとり駅とは逆の方へ歩いた。向かうのは、ジョインポート指定の現地集合場所。今日の仮パーティーと合流して、B級残滓へ潜る。
朝の空気はまだ冷たい。
そのくせ、遠くの空だけが妙に白く濁っていた。
フォールが起きてから、世界の空は少しだけおかしくなった。完全に青い日が減った。雲の形が時々歪んで見えた。ニュースでは「大気中の微細位相ゆらぎ」などと難しい言葉で説明していたが、蓮にとってはどうでもよかった。
大事なのは、今日も区域が開いていること。
そして、その中に金があること。
路地を抜けた先、集合場所の広場にはすでに数人の冒険者が集まっていた。大剣、盾、杖。赤、青、紫のラインが朝の光の中で揺れている。その中に緑は見当たらない。
蓮は少しだけ背筋を伸ばした。
またか、と思う。
でも、いつも通りでもある。
宝珠は足りない。
そういう世界だ。
それでも蓮は、一歩ずつ広場の中央へ向かった。
ここで立ち止まっている暇はない。
今日はまだ、ただの朝だ。
ただのB級残滓案件だ。
それでも、全部はこの朝の延長線上にある。
だから蓮は、まだ見ぬ最後の一撃を信じて、手首のリンク・ブレスを起動した。
緑の光が、静かに灯った。




