プロローグ
肺が焼けるように痛かった。
喉の奥から込み上げてきた血を、天城蓮は床へ吐き捨てる。鉄臭い味が口の中いっぱいに広がって、視界の端がじわじわと黒ずんでいった。
ここは、特別侵食区域《冥門》最深層。
都市ひとつを呑み込んだ災厄級ゾーンの、最奥。
幾重にも連なったレイヤーを抜け、ようやく辿り着いた門の先。
――そして、俺たちは、ここで終わる。
リンク・ブレスの表示はもうまともに機能していなかった。
それでも、手首に巻かれた端末のひび割れた表示だけは、嫌でも目に入る。
赤、沈黙。
青、沈黙。
紫、沈黙。
緑だけが、まだ細く明滅していた。
つまり、生きているのは自分だけだ。
「……っ、は……」
蓮は砕けた柱に手をついて、どうにか身体を起こす。
その先、広大な石の広間の中央で、門番はなおも呼吸していた。
三つの頭。
黒鉄のような毛並み。
炉の底みたいに赤い喉。
踏みしめるたび床を軋ませる四肢。
冥門最深層の門番――冥門獄犬ケルベロス。
蓮たちS級パーティー《バベル》は、こいつを倒すためにここまで来た。
自分たちなら勝てる、と。
S級最強。
新宿第七フォール単独閉鎖作戦の英雄。
最速踏破記録保持。
火力も防御も制圧も揃った、理想編成の完成形。
だがそれは、最深層であっけなく砕け散った。
『ケルベロスは俺が取る!』
だが、真っ先に落ちたのは備前隼牙だった。
吠えるように叫び、大剣を振りかぶって飛び込んだ、その直後。
ケルベロスの尾が石床ごと足場を叩き砕き、備前の巨体は崩れた床の下へ呑まれた。
近江はその穴際まで盾を構えていたが、その喉笛をケルベロスの左の首が噛み切った。
常陸はその隙に術式を重ね、空間ごと焼き払うつもりだったのだろう。
だが中央の首が吐いた獄炎が一瞬早かった。
悲鳴も、術式も、全部まとめて焼き切られた。
そして、残ったのが蓮だ。
ヒーラーひとり。
宝珠職。
ゾーン閉域だけが取り柄の、火力のない役立たず。
――そう言われ続けてきた。
「おい……」
かすれた声がした。
床に転がった瓦礫の向こう、まだ息が残っていた備前が、血まみれの顔をこちらへ向けている。
「蘇生は……覚えてねぇのかよ……」
蓮は答えられなかった。
この世界でSSSスキルは、各職たった一人。
そして継承は、保持者の死によってしか起きない。
宝珠職の最上位蘇生を持つ者を、蓮は倒していない。
どこにいるのかも知らない。
だから本来、手に入るはずがない。
欲しかった。
母は初期フォール災害で死んだ。
妹は、侵食性神経崩壊症候群で今も病院のベッドに縛り付けられている。
父は行方不明だ。
何かひとつでも取り戻せるのなら。
何かひとつでも間に合うのなら。
そのために、蓮はバベルに縋った。
ラストアタック制による経験値習得。
火力職に討伐経験値を集中させ、最短で最強を作る合理主義を採用しているのはバベルのみ。
だが同じ戦場にいても、最後の一撃を取れないヒーラーは育たない。
蓮はその現実を理解しながら、それでも食らいついてきた。
レベリングに足りない経験値は、一人モブ狩りで補った。
野良案件を掛け持ちし、眠る時間を削って侵食区域に潜り続けた。
それでも、習得レベルにすら全く到達しなかった。
「……ごめん」
吐き出した声は、自分でも笑ってしまうほど弱かった。
備前は血の混じった息で笑い、歯を剥いた。
「謝ってすむと思うなよ、この能無しが……」
その瞬間だった。
ケルベロスの右の首の影で、何かが蠢いた。
黒い。
細長い。
本体の背後に、もうひとつ首が生まれるように、核のようなものが脈打っている。
(あれは……分裂体……)
今まで本体だと思っていたのは、分裂したケルベロスだった。
(このままただでやられるわけにはいかない!)
蓮は割れた宝珠を握り締め、震える脚で一歩を踏み出した。
「――光弾」
補助術の延長みたいな、初歩の攻撃術。
火力職なら笑うような、情けない一撃。
それが、まっすぐ分裂核へ吸い込まれる。
ぱきん、と。
ガラス細工の砕けるような音がした。
黒い核が割れた瞬間、リンク・ブレスが耳障りな警告音を発した。
経験値が流入する。
視界の端で数値が跳ね、蓮の全身に焼けるような熱が走る。
《レベルが上がりました》
次の瞬間、頭の奥に何かが刻み込まれた。
ずっと欲しかった力。
死の縁から命を引き戻す、禁じられた鍵。
《天命再起・死線超越回帰法》
「……は?」
呼吸が止まった。
ありえない。
保持者は倒していない。
なのに。
「なんでだよ……!」
喉が裂けるような声が漏れた。
蓮の右手の奥で、たしかに力は脈打っている。
本物だ。
夢でも錯覚でもない。
欲しくて欲しくてたまらなかった蘇生スキルが、今、この手の中にある。
だが――遅すぎる。
MPがもう残っていない。
そしてケルベロスの本体は、なおも目の前で息をしている。
手に入ったのに、誰にも間に合わない。
「ふざけんな……!」
その叫びと同時に、中央の首が大きく反り返った。
まずい、と理解した時には遅かった。
喉奥の赤が収束し、灼熱が一直線に蓮へ向かって放たれる。
(避けられない!!)
蘇生を手に入れた、その直後に。
蓮の全身は獄炎に呑み込まれた。
皮膚が裂け、骨が軋み、肺の奥まで焼かれていく。
声も出ない。
何もできない。
妹も。
母も。
誰も助けられない。
その時だった。
焼け落ちる意識の向こうから、声がした。
『……ほう』
低い。
静かだ。
だが、その一音だけで空気の位相が変わる。
ケルベロスの動きが止まる。
『理を踏まず、本来あり得ぬ継承だ』
熱に溶けかけた意識の中、その声だけが奇妙にはっきり響いた。
『見事だ、少年』
慈悲ではない。
称賛でもない。
ただ、珍しい現象を前にした観測者の、冷たい愉悦だけがあった。
『定めの外にあるものほど、見ていて飽かぬ』
『ここで潰えるには、あまりに惜しい』
何を言っているのか、分からない。
世界が軋む。
冥門の天井も、床も、壁も、全部がきしんでずれていく。
『その命、今しばし我が遊興のために預かろう』
蓮の足元が抜けた。
落ちる。
視界が反転する。
砕けたレイヤーの向こう、最後に見えたのは、こちらを見下ろす“何か”の輪郭だけだった。
笑っている。
それだけは分かった。
『次に至る時、汝が何を選ぶのか――見届けよう』
闇が降りる。
音が消える。
痛みが消える。
死の感覚だけが、ひどく鮮明に残った。
そして。
次に目を開けた時、蓮は最深層ではなく、見慣れた薄暗い天井の下にいた。
目が覚めた瞬間、天城蓮は息を呑んだ。
薄いカーテン越しの朝の光。
ひびの入った白い天井。
壁際に寄せた安い棚。
小さな流し台の蛇口から、ぽたり、ぽたりと規則正しく水が落ちる音。
見慣れているはずのその全部が、一瞬だけ現実味を失っていた。
冥門最深層の焼けた空気はない。
獄犬の咆哮も、血の匂いも、砕けた石床の冷たさもない。
代わりにあるのは、古いアパート特有の生活の匂いだった。洗い残しの食器に染みついた洗剤と、安物の布団の湿った温度と、隣室から漏れてくるテレビの音。
蓮はしばらく動けなかった。
夢ではない、と分かっている。
右手の奥に、まだあの感触が残っていたからだ。
誰かのものだったはずの、最上位蘇生スキルの気配。
それから、もっと嫌なもの。
胸の奥――心臓の裏側に、黒い獣の息遣いのようなものが、確かにいた。
じっと耳を澄ませば聞こえてしまいそうで、蓮は反射的に毛布を握り締めた。
「……なんなんだよ、これ」
呟いた声は、自分で思っていたよりずっと掠れていた。
答えるものはいない。
ただ、隣の部屋から小さな咳が聞こえた。
その音だけで、蓮の意識は一気に現実へ引き戻された。
飛び起きる。
床に投げ出されていた端末を拾い上げ、時刻を確認する。
日付を見た瞬間、喉の奥が強く鳴った。
時間が巻き戻っている。
間違いなく、バベルに正式加入する前だ。
そこまで確認してから、蓮は急いで隣室の襖を開けた。
六畳にも満たない小さな部屋の奥。
窓際に寄せたベッドの上で、少女が身じろぎをした。
「……おにい、ちゃん?」
眠たげな声だった。
けれど、その声を聞いた瞬間、蓮の肩から一気に力が抜けた。
生きている。
それだけで、膝から崩れそうになる。
妹はまだ幼さの残る顔をこちらへ向け、半分だけ目を開けた。頬は青白い。枕元には体温計と薬のシート、使いかけの水差しが並んでいる。
「どうしたの……そんな顔して」
「……いや」
蓮は言葉に詰まり、すぐに首を振った。
「起こした。悪い」
「ううん……起きてたから大丈夫だよ」
妹は小さく笑おうとしたが、途中でまた咳き込んだ。細い肩が震える。蓮はすぐにベッド脇へ寄り、水差しを手に取って支えた。
「ゆっくりでいい」
少女はこくりと頷き、少しだけ水を飲んだ。
その指先は、前と同じように冷たかった。
侵食性神経崩壊症候群。
フォール由来の微細侵食が、神経と生命情報そのものをゆっくり壊していく病。
普通の医療で出来るのは、進行を遅らせることだけだ。
治すことはできない。
それでも月ごとの治療を止めれば、確実に悪化する。
感覚が鈍り、脚が動かなくなり、発作的な昏睡が長引くようになる。
前の時間軸で、蓮はそれを何度も見た。
「熱、測るぞ」
「また?」
「また」
妹は少しだけ口を尖らせたが、素直に体温計を受け取った。
その何気ない仕草まで見覚えがありすぎて、蓮は視線を逸らす。
少し遅れて、端末に着信通知が灯った。
病院からの定期連絡。
続けて、支払い通知。
無機質な画面に表示された数字を見て、蓮は奥歯を噛んだ。
今月分の維持治療費。
薬剤更新費。
検査費。
次回処置の予約金。
知っている額だった。
夢じゃないのなら、これからまたこの金額を払わなければならないのも知っている。
だが今は、それが妙に救いでもあった。
払えばいい。
稼げばいい。
間に合う時間が、まだある。
「今日もまた行くの?」
体温計を脇に挟んだまま、妹が訊いた。
「ああ」
「……無理しないでね」
その言葉に、蓮は一瞬だけ笑いそうになった。
無理しないで済む世界なら、最初からヒーラーなんてやっていない。
けれどそんなことを妹に言っても仕方ない。
「すぐ帰るから」
前の時間軸の蓮なら、今日のうちに少しでも高い案件を取りに行っただろう。
少しでも深い区域へ。
少しでも経験値の入る戦場へ。
だが今は違う。
焦って同じ道を踏む気はない。
少なくとも、あいつらとはもう組まない。
蓮は立ち上がり、流し台へ向かった。
鍋に残っていた昨夜のスープを温め直し、その間に自分の端末を立ち上げる。
国家冒険者斡旋端末。
野良案件、欠員補充、危険度別募集、報酬、必要クラス。
冒険者登録をした人間なら誰でも使う、公認斡旋網だ。
起動画面に指を滑らせると、いつもの味気ない一覧が開く。
【午前案件】
【侵食区域《灰街区》外周 危険度B】
【三層目までの安全確保】
【必要クラス:宝珠一名】
【報酬:48,000円】
【午後案件】
【封鎖補助・閉域補助】
【必要クラス:宝珠一名】
【報酬:32,000円】
画面を見下ろしたまま、蓮の指先が一瞬だけ止まる。
灰街区。
その名前に、胸の奥で嫌な感覚がざわついた。
特別な区域じゃない。
冥門でもない。
画面の端には、今朝の速報ニュースが小さく流れていた。
『第三区フォール残滓観測値、前週比一七%上昇』
『宝珠職不足が各地で深刻化』
『今週の総合戦闘力ランキング更新、本日十八時公開予定』
朝は、いつもこんな感じだ。
空から落ちてきた落下領域によって世界が壊れたあとも、人間はちゃんと朝を迎える。学校へ行く者は行き、会社へ行く者は行き、そして侵食区域へ潜る者は、今日も端末の前で案件を選ぶ。
蓮はスープを器によそいながら、もう一度募集一覧を見る。
報酬だけを見るならいい案件は沢山ある。
だがそれは深層寄りでレベルの低い宝珠の蓮には危険な案件だ。
レベルが低い宝珠は蓮だけではない。
宝珠自体の攻撃力が低くレベリングが進まないため、強い宝珠が全く育っていないのだ。
だから、危険度の高い案件では宝珠だけが最後まで埋まらない。
そもそもヒーラーへの扱いが酷い。
侵食区域の閉域に必要だからただ呼ばれるだけだ。
いつも必要最低限の扱いしかされない。
もちろん、レベリングの手伝いもしてくれない。
そんな様々な理由で、宝珠の適正があってもこの仕事に就く人間はほとんどいない。
難易度の高いゾーンに入れる宝珠などいないに等しいのだ。
蓮はその理不尽を知っていた。
だが危険でも、金にはなる。
金になる以上、自分のレベルが足りていなくても潜るしかない。
端末の【応募】を押しかけたその時、妹が小さく声を上げた。
「お兄ちゃん」
「どうした」
「今日……帰ってきたら、ゼリー食べたい」
振り返ると、妹は少しだけ気まずそうに笑っていた。
「ふつうの。桃の」
蓮は数秒だけ黙り、それから短く息を吐いた。
「分かった」
「ほんと?」
「ほんと」
それだけで、少女の表情が少し明るくなる。
その顔を見て、蓮はようやく応募ボタンを押した。
受理通知。
案件確定。
報酬の仮押さえ。
ジョインポートの画面に緑の線が走る。
その瞬間、右手の奥が微かに疼いた。
蘇生スキルの気配。
それから、もっと深い場所で、黒い獣のようなものがうっすらと身じろぎする。
蓮は無意識に手首を押さえた。
気配がしても、どのみちレベルが到達していないので使えるのかどうかもわからない。
分かっているのは、何かが以前とは違うという感覚だけだ。
蓮は古びた椅子の背に掛けてあった黒いジャケットを取った。
普段着にしか見えないそれは、リンク・ブレスと同期すれば侵食対応装具として起動する。袖口の内側には、宝珠職用の緑のラインが細く縫い込まれている。
テーブルの端に置かれた安い財布を掴み、蓮は一度だけ妹の方を見た。
「昼には病院の連絡くるかもしれない。端末鳴ったら出なくていいからな」
「うん」
「知らない番号も無視しろ」
「うん」
「……ゼリー、買って帰ってくるから」
そう言うと、妹は少しだけ笑って、布団の中で丸くなった。
その小さな背中を見てから、蓮は玄関へ向かう。
靴を履き、ドアノブに手をかけたところで、端末の下部に速報が走った。
【国家侵食区域対策局】
【特別侵食区域観測レベル変動】
【災厄級指定候補:一件】
蓮の足が止まる。
だが、蓮はゆっくり息を吐き、端末を閉じた。
――まずは灰街区だ。
アパートの薄い扉を開けると、朝の冷たい空気が頬を撫でた。
遠くの高架上を、侵食区域封鎖用の監視ドローンが静かに横切っていく。
世界は何も変わっていない。
蓮はジャケットの袖を引き、階段を降りた。
「……夢、じゃない」
乾いた声が漏れる。
世界は巻き戻った。
なら。
もう、あいつらとは組まない。
何の協力もせず、宝珠を雑用係としてあつかい、挙句能無しだと罵ったあんなやつらとは、
……絶対に。




