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ウィッチ・オブ・アクア  作者: 夢前 美蕾
第1章 魔法学校1年生編
36/37

第36話 積み上がる後悔、ついに決壊Ⅰ

 国民のおよそ五割が魔法の力に覚醒し、魔道具と杖によって新たな文明が誕生した国、ディロアマ。

 魔法学校の一年生、イリーナとミシェル、そしてクリスは、学校を去った謎の魔法使い、シルビア・エンゲルスの居場所を突き止め、接触を図る。

 危害を加える素振りは見せず、しかし真意を語ろうともしないシルビア。代わりに彼女が三人に差し出したのは、魔法使いの撲滅を目論む、呪術師のアジトだった。

「要は、ジョンを殺さない限りは終わらないし、ジョンを殺せば呪術師は滅ぶってことよ」

 シルビアの追跡か、呪術師の追跡か。次第に大きくなっていく街の被害を食い止めるため、彼女らは迷うまでもなく後者を選ぶ。

 クリスの奇策により、アジトを突き止めることに成功した一行。仕掛けた水晶によりジョンの姿を視認できたが、彼女がアジトに侵入したことも知られてしまう。

「ジョン・オウタムからの、挑戦状っ!?」

 絶体絶命の危機。呪術師との戦いの最中、イリーナはシルビアに自身の位置を敢えて知らせることにより、乱戦に持ち込んでいく。

 各々の心は一つにならずとも、目的を同じくした四人の魔法使いは、呪術師を着実に追い詰めていく。

 しかし、遂に現れたジョン・オウタムの力は、彼女らの想像を遥かに上回っていた。

「ありえ、ない、そんな……どうして?」

「まだ、その域には達していないのですね」

 最後の一手として放った合体魔法も不発に終わり、万策が尽きてしまった四人に、ジョンは謎の術、アフター・レインを発動する。

 黒くなっていく空に、狭まっていく視界。それでも光に向かって手を伸ばそうとするイリーナ。

 しかし次に目を開けた時、その眼前に映ったのは何故か、寮の自室だった。

「……あれ、そういえば何だったっけ?」

 呪術師のアジトに侵入し、ジョンと戦った時の記憶は、跡形もなく失われてしまっていた。


「お待たせいたしました。間もなく、到着です」

 断続的に聞こえる馬車の音。やがて故郷が近付いてくると、背を伸ばして座席から立ち上がる。

 やがて速度が緩み、完全に止まると、ミシェルは静かに御者へ頭を下げた。

「お疲れ様でした」

「……はい。ありがとうございます」

 音が聞こえない。村が寂しくなったのか、ワズランドの営みを浴びた自分が、変わってしまったのか。

 風を受けた前髪が乱れる。どこか疎外感を覚えながら、見覚えのある風景を進んでいく。

 停留所からは、多く見積もっても五分もかからなかった。

「ただいま、ミシェルだよ」

 自宅の戸をノックする。事前に手紙は送っていたはずだが、カーテンは全て閉まっていた。

 そして耳を澄ませても、足音も全く聞こえてこない。

「お母さん?」

 ほんの少しノックを強くする。深呼吸をし、一歩前に出て持ち手を掴む。

「あれ……?」

 まさか、と焦りが増していく。予想に反し、それは開いた。


 倒れ込んでくる身体。数秒固まった後に凝視すると、それは母だった。

「え、っ……!?」

 光の抜け落ちた瞳に、青白くなった肌。そして腹部を貫かれ、服に纏わり付いた血の跡。

 持っていた鞄を投げ捨て、力の抜けた肩に縋り付く。

 最後の希望が潰えるかのように、感じたのは氷を思わせる冷たさだった。


 もう取り返しがつかない。頭では分かっていても、心は理解することを拒み続けた。

「お母さん……お母さんっ!!」

 瞼一つ動かさない。呼吸も、完全に止まっている。

 どうして、今まで気付かなかったのだろう。どこかぼやけていた景色は、不意に輪郭を取り戻していく。

 道端に転がる村人の手足。窓の外からこちらを恨めしそうに見つめながら、血を流して果てる死骸。

 腰が抜け、後ろに倒れた。全身の震えが止まらないのに、その場から動くことさえできない。

「……いやあああっ!!」


 頭が真っ白になる。晴れやかな心持ちで目にしたのが、母の変わり果てた姿だなんて。

 呼吸も絶え絶えになった自分に、聞き覚えのある声が投げかけられる。

「ミシェル、私……信じてたのに」

「イリー、ナ?」

 顔を上げる。物陰から現れたその姿は、やはり愛する友で間違いない。

 けれど彼女の周囲に纏わり付く、どこか敵意にも感じられる冷ややかな気配。

 地面に何かが落ちたように見えた。歩く度に零れる、透明な結晶にもよく似た……涙。

「ミシェルと一緒に、立派な魔法使いになる。大切な人を守って、恩返しをして、支えていけるような……なのに、どうして?」

 その通りだった。今もなお変わらず持ち続ける、二人の志。

「何を、言って」

 だからこそ……何か糸が切れて、後戻りができなくなったような、後悔の表情が突き刺さる。


「どうして、村のみんなを殺したの……?」

 その瞬間、今までぼやけていた辺りの景色が不意に晴れる。

 道に転がる残骸。窓から血を流し、恨めしそうにこちらを見つめる首だけの存在。

 思わず目を逸らした瞬間に見つけたのは、返り血に塗れた自身の両手。

「う、そ……」

 信じられない。けれど、彼女の視線が全てを物語っていた。

 自分は村の皆を手にかけた。どこか、怒りか、気の迷いのようなものに駆られ、大切な母でさえも……

「違う、違うの。これは、何かの間違いで……」

「これ以上、みんなを傷付けるわけにはいかないの」

 杖を構えたイリーナは、息を吸い込んでこちらに迫る。

 何が嘘なのか分からない。逃げることも向き合うこともできず、腰が引けたまま後退っていく。

「もう戻れないなら、私が止めるしかない。大切な友達として、私が……ミシェルを」

 魔力の集まりを肌で感じる。決して……脅しではない。

「お願いっ! 私を信じてよ、イリーナ!」

 赤く染まった手を広げ、掠れた声で訴えかける。自分にはもう何もできないと、どこかで諦めかけながら。

 それが放たれる寸前、イリーナの口か何度か開いた。

 何を言った、何を伝えようとした。意識が向く間もなく、眼前に迫り来る氷柱。


「待、っ……」


 痛みが来る。そう思った瞬間、自分はベッドから飛ぶように起き上がった。

「あっ、う……あ」

 まだ光が入らないカーテンに、部屋の隅に置かれた鞄。

 頭を抱えた。カルミラに帰る予定は、まだ立てていなかったことをようやく思い出す。

「ダメ、だなあ、わたし」

 あんなことを、するはずがないのに。自分も、彼女も・

 目頭が熱い、閉じられない。足音を立てないように起き上がり、外の空気を吸いに行こうとする。

 すると静かな部屋の中で、少し荒い寝息が耳に入ってきた。

「わあ、たくさんの、ごはんっ……」

「……イリーナ」

 零れている笑顔。先程自分に杖を向けた彼女とは、まるで別人のようだった。

 息が苦しい。頭に焼きついた悪夢を振り払うべく、その顔にゆっくりと手を伸ばす。

「う、っ……」

 しかし、届く寸前で無意識に手が止まってしまう。

 独りよがりな想いをぶつけた、迷惑だってかけた。返り血で汚れ切った、自身の手を思い浮かべる。

 村にいたあの頃は、すぐ近くにいたはずなのに。

「私は、どう、すれば?」

 涙を拭う。寝言を呟くイリーナに背を向け、虚ろな心持ちで部屋を後にする。

 誰よりも弱く、何もできない自分が、心の底から情けなかった。


「超級魔法は……属性魔法の中でも、特に高い練度と意志の強さが求められる術式、と」

 翌日。休日に拘らず、どうも肩の力が抜けない昼下がり。

 僅かに瞼の重い自分をよそに、教本を眺めるイリーナは机で唸り声を上げていた。

「んー、これで大丈夫なのかな?」

「ちゃんと覚えてたら問題ないよ、ただの筆記だもん」

「それはそうだけど、やっぱり不安なんだよね……」

 試験はおよそ三週間後。多くの生徒は二週間前から勉強を始めるため、時間には余裕がある……自分たち以外は。

「属性科は基準が高いからね。油断したらあっさり落ちちゃうかも」

「やめてよ。そんなこと言うのー」

 中間試験は間一髪だった。任務と並行して取り組み、目に隈を作ってまで没頭したことを思い出す。

「……色々あったけど、やっぱり私は戦いたい。戦って、大切な人を守らなくちゃ」

 凛とした顔でペンを走らせる彼女に、自然と目が細くなる。

 戦った先に、自分は隣にいられるのだろうか。それとも、戦う相手の中に……

 正しいはずのその言葉に、肯定も拒絶もできなかった。

「そうだ、図書館はどう? 休日でも開いてるし、意外と穴場かもよ」

「そうなんだ。行ってみようかな」

 手早く教本を鞄に詰める。授業ではないので、最低限の物しか詰め込まない。

 息を吐く。本当のことを言えばと思う弱い心を、自分は精一杯の力で振り払った。


 普段より遥かに穏やかな廊下を潜り抜け、少し寂しくも感じる図書館の戸を開ける。

 がらんとした椅子たち。日向の席を選ぼうと足を進めると。受付に座っている司書に呼び止められた。

「……あっ。貴方たち、属性科の一年?」

「えっ……はい。そうですが」

「ちょうど良かった。こっちに来てくれない?」

 首を傾げながらただ後を追う。緊張から歩幅が小さくなるイリーナに、大丈夫だよと小さく呟く。

「今朝からずっとあの調子なの。声をかけても何の反応もないし」

 足を止めた。図書館の奥で異彩を放つ、本が幾重にも重なった机。

 ペンを走らせる音が断続的に響く。隙間から見える少女の頭が、疲れからか何度も揺れる。

 しかし……覗き込むと、どこかで見たような顔だった。

「うっ……ううん、これもダメか」

 三人が歩み寄るとようやく、その真っ直ぐな視線を本からこちらに向ける。

「クリスっ……!?」

「……ああ、君たちか。奇遇だね」

 イリーナが目を見開き、顔を寄せる。彼女がここまで疲れ果てた表情を目にするのは、初めてかもしれない。

 どうして。そう思い、机上にある本を手に取った自身の思考が一瞬停止する。

「ねえ、大丈夫?」

「この本、って……」

「もう昼か。すまないね、没頭してしまっ……」

 言い終わる間もなく、倒れ込んだクリスの身体がイリーナにもたれかかる。

 沈黙。思わず身を乗り出すと、遅れて絶叫が聞こえてきた。

「ちょ、ちょっと、クリス!?」

 何度か肩を叩くも、反応は鈍い。司書が彼女の額に手をかざし、小さく頷いた。

「熱は無さそうね」

「どうしよう……取り敢えず、寝かさなきゃ」

 幸い、クリスの部屋からはさほど離れていなかった。

 辺りを見回したイリーナは、考えるよりも先に彼女を抱え上げ、動き出す。

 自分も。彼女を助けるために、足を進めかけた瞬間……


 何だか、彼女の背中が果てしなく遠く感じた。

「……あっ」

 もう、イリーナは自分だけの存在ではない。誰よりも優しい彼女のことを愛しているはずなのに、苦しい。

 自分がそばにいられなくなっても、クリスが……代わりの誰かが、その隣に立つのかもしれない。

 ぐらりと強い目眩がする。頭を抑えると、彼女はこちらに振り向いていた。

「ミシェル! ごめん、手伝ってくれない?」

「う、うん」

 時間にして数秒。けれど、尾を引いた想いは決して消えることなく残り続けた。


「寝不足だね」

「どうやら、そうらしいな……」

 横になるクリスに、イリーナがゆっくりと布団をかける。

 床に転がる魔石や魔道具を机上に寄せた。あまり物を置かない自室と比べると、やはり同じ間取りには見えない。

「試験前に自己管理もできないとは、己が恥ずかしいよ」

「まあまあ……私も勉強できてないし」

「いや、勉強はもう終わらせたぞ?」

「……へっ?」

 乾いた笑い声が響く。切り出すべきか迷ったが、自身の胸に手を当て、ゆっくりと息を吸い込む。

「どうして、三種の魔神器についての本を?」

 目を丸くしたクリスは、息を吐きながらそっぽを向いた。

 首を傾げた刹那……その視線が、がもう一つのベッドがあった場所へ向けられていることに気付く。

「シルビアに言われてから、ずっと調べてたのさ。恐らくそれに、彼女や呪術師についての何かがある、と思ってな」

「……そういえば、三種の魔神器って何なの?」

「この世界に眠るとされる三つの秘宝だよ。魔法使いですら扱うのが難しい代物らしいけど、詳細は何も分からない」

 額に汗を滲ませながら、イリーナに語りかける。嘘を重ねる程に、背中は徐々に重くなっていく。

「……概ね同じ結論だ。ただ、そいつを三つ集めると、生態系を操る力が手に入るらしい情報は掴んだ」

 追いかければいつか、その一つがすぐ近くにあることを気付かれる。

 それでも、口は鉛のように重かった。彼女を守るために掴んだ力を、今手放すことはできない。

 強くならなければ……自分が、ここにいる意味を。

「シルビアが、それを全て集めようとしてるってこと?」

「正確には先回りだろう。本当に狙っているのは、恐らく呪術師だ」

 二人に背を向け、僅かにカーテンを閉める。話を逸らそうとした寸前、机上に置かれている水晶が光った。

「……お、誰だ?」

「お休みなのにね。私、代わりに出るよ」

「ああ、助かる。ありがとう」

 何かあったのだろうか、と別の不安が頭をよぎる。

 息を吐いて全身の力を抜くクリスを横目に、水晶へ向かうイリーナを追いかける。


 魔力を込めた瞬間、見覚えのある顔が大きく映った。

「お困りのようですね、クリス」

 微笑みながら話しかけるその相手は、学園長のメルアチア・ラルド。

 思わず一歩後ろに退いたイリーナと、僅かに身体がぶつかってしまう。

「ふえっ!?」

「おや、イリーナさんでしたか。クリスはどちらに?」

「ちょ、ちょっと体調不良で……」

 背後から起きあがろうとするクリスを、彼女は首を横に振って制した。

「では、イリーナさんとミシェルさんでも構いません。今から、学園長室にお越しいただけますか?」

「えっ……私もですか?」

 前触れもなく名を呼ばれ、思わず水晶の側へ駆け寄る。

 一抹の不安。しかしそれに反し、メルアチアの顔は幾分か優しさを含んでいるような気がした。

「三種の魔神器について、お話ししたいことがあります」


「クリスが魔神器について調べているという話を聞きましてね。どうにか、力になれないかと」

 最初は緊張の面持ちで入っていた学園長室も、今はほんの少し足が軽くなっていることに気付いた。

 司書から噂を聞いたらしいメルアチアは、やはり穏やかな表情で自分たち二人を招き入れる。

 椅子にかけて淹れられたのは、湯気から香ばしい匂い負が漂う紅茶だった。

「どうぞ、少し熱いですよ」

「すみません。ありがとうございます」

「……それで、呪術師が魔神器を狙っているというのは、本当なんですか?」

 息を吹きかけながら啜る。しかし口を付けるよりも先に、イリーナはすかさず切り出していく。

「その通りです。あれは全て揃えると生態系を操る力があり、呪術師はそれを利用して魔法使いを絶滅、呪術が中心となるような世界を創ろうとしています」

「そうか、だから……」

 メルアチアの視線がこちらの杖に向いたように思え、慌てて顔を逸らしてしまう。

 そうだ。この人も、どこまで知っているのかは分からない。

 爆薬を抱えたような心持ちになりながら、一歩引いて二人の会話を見守る。

「それで、魔神器は今どこに?」

「ちょっとイリーナ、いきなり色々聞くのは……」

「構いませんよ。気になるのは当然のことでしょう」

 周りに聞こえない大きさの、ため息が漏れ出てしまった。

「明確には私も分かりません。しかし、その行方を知っていそうな人物に心当たりがあります」

 窓を差すメルアチア。視線の先にあったのは、ワズランドの西部だった。

 活気のある中心街、穏やかなゴオツ境界とも違う、踏み入れたことにない未開の地。

「十年前、魔神器の一つが街で暴走しましてね。それを一人で止めた勇敢な魔法使いが、今もワズランドにいます。その名を、バアル・ラモン」

「っ!?」

「バアルさん……そうか、その人なら」

「今は引退されていますが、その実力と見識は確かなものでした。情報を得る以外にも、学べることは多いでしょう」

 何度か相槌を打つイリーナ。二つ返事で答えようとした彼女に、メルアチアは不意に待ったをかける。

「ただ、確証はありません。それに魔神器に近付くということは、今まで以上に命の危機に晒されます。詳細な文献が残っていないのも、それが理由でしょう」

 行かせてはいけないと叫び出しそうな口を、金縛りにあった身体が繋ぎ止めた。

 俯いたイリーナは、しばらく何も言わずに考え込む。

 宙ぶらりんになった天秤をこちら側に傾けようと、できる限りの力を込める。

「……正直に申し上げると、大丈夫だとは言い切れませんよ」

「そうだよ、イリーナ。気持ちは分かるけど、今は関わらない方がいいと思う」

 彼女の手を軽く握る。きっと、改めて考え直せば。

 しかし、返されたのは小さな頷きと、どこか覚悟が込められた鋭い瞳だった。

「でも、いつか向き合わなくちゃいけないことだよ。呪術師を止めるためには、魔神器を見つけ出さなくちゃ」

 心配そうな面持ちでこちらを見つめるメルアチアに、イリーナはゆっくりと告げる。

「教えてください。バアルさんの居場所を」

「分かりました。連絡が付くかは分かりませんが……どうにか、掛け合ってみましょう」

 何も言うことができず、誤魔化すようにカップを手に取る。

 あの時、自分だけがワズランドに行っていれば良かった。そうすれば、彼女が変わることも……

 水面に映る自分は、他の誰よりも情けなく、弱い顔だった。

「どうしてなの……イリーナ?」


 その日の夕暮れ。長い夜に向けて店が準備を始める、ボストレンの路地を通り抜ける。

 呪術師の少年グレオは、リューズの経営するバー・ミルキーを訪ねた。

「いらっしゃい。まあ好きなトコに座りなよ」

「……良かったなァ、ちゃーんと元通りになって」

 突然の訪問とはいえ、彼の表情はどこか穏やかで明るい。

 まだ店は開いておらず、少し広くも感じる中のカウンターに腰を下ろす。

 しばらく頬杖を突いて待っていると、水が一杯置かれた。

「そうだな。ジョン様の術が無ければ、今回ばかりは危なかっただろう」

 全て無かったことになるのは、時間を巻き戻すことにも近しい不思議な感覚だった。

 ここで戦いが起きたことは、ボストレンの住民も含めて誰も覚えていない……不自然なほどに。

 わざと大きな音を立てて啜った。全身に行き渡る冷たさに、不意に頭が平静を取り戻す。

「しかしよ、兄貴は一体何モンなんだ?」

「と……いうと?」

「記憶飛ばしの術なんざ、呪術でも魔法でも聞いたことねェ。ぶっちゃけ、胡散臭くなってきたつーか」

 本当にあの人は、自分たちの望む世界を与えてくれるのだろうか。

 疑いもしていなかったそれは、人智を超えた力を目の当たりにして以降、ずっと心を蝕んでいる。

 グラスを握った拳が震える。大事なことは、何一つとして教えてくれないのに。

「気持ちは分かる。だが今は、恩人を疑う時ではないはずだ」

 首を横に振ったリューズが静かに遮る。何か言い返そうとした刹那、眼前に一枚の手紙が置かれた。

「あん……?」

「指示があった。あの魔法使いたちがワズランドの西部に向かうので、その行方を追ってほしいとのことだ」

「ほう、いちいち人を振り回すのが得意なこった」

 ワズランドに、三種の魔神器の行方を知る魔法使い、バアル・ラモンあり。イリーナ・マーヴェリら三名の動きを偵察し、状況次第で殺害を命ずる。

 理由も分からず、顔も合わせてくれず。それでも命令があれば、従って戦うしかない。

 弱いから。得体の知れないあの人と違い、負け続けてきた自分は……

「結局は力がモノを言うのかよ。ったく……」

 断ることもできないまま、舌打ちの後に水を飲み干す。

「彼女らも強くなっていることだろう。ジョン様が何と言うか分からないが、難しいなら手を貸してやろうか?」

「冗談じゃねェ。そこまで落ちぶれるモンかよ」

 わざとらしく手を差し伸べる彼に、口角を上げて鼻で笑う。

 却って、自信が湧き上がってきた。一人で戦い結果を上げれば、誰も自分に逆らえない。

「行ってやるよ、行けばいいんだろォ?」

「行ってらっしゃい。応援しているよ」

 呪術教典を抱え、手を振るリューズに背を向ける。

 負けるわけにはいかない。リューズやメラトを超え、ジョンに見下されない呪術師になってみせる。

 店を後にする自分の足取りには、想像していた以上の怒りが滲み出ていた。


 続く

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