第35話 全ての終わり、または始まりⅤ
雄叫びを上げるストーリアの軍勢と、距離を取るべくジョニーは後ろへと下がる。
息を潜めて立ち止まっていると、もう一人の人物と微かに背中が合わさる感覚があった。
同じく身構えて様子を伺っていた、険しい表情のラルム。
「……調子悪そうだな。大丈夫か?」
互いに振り返らない。しばらくすると、小さな声だけが返ってくる。
「無論、心配には及ばない」
「踏ん張ってくれよ。この戦いが終わったら、一緒に美味しいモン食いに行くって約束したじゃないか」
「そんな記憶ない……やっぱり、頭打ったかも」
「その返しができるなら、まだまだ元気いっぱいだよ、っ!」
隙を見て飛びかかってきたオオカミのストーリアを鞭で拘束し、地面に引き倒す。
荒くなり始めていた息を気力で整える。可能か、無理かではなく、今自分の背後にいる仲間のために戦う。
指に力を込める。無意識にぼやけていた眼前の景色が、明確な色を取り戻し始めた。
「背中は俺が守る。気にせずぶん回せ、ラルム!」
続けて身を乗り出した、ブタのストーリアに鞭を向ける。
足を掴み、右に大きく振りかぶり、地面に傷を付けながら引きずり回す。
「せいやっ!」
「ウォォォァ!?」
しなりを付け、打ち上げた。空中の的と化した巨体を、ラルムは飛び上がって間合いに入れる。
「はっ!」
質量を有した振り下ろし。綺麗な断面が刻まれ、ストーリアの身体は二つに分断された。
ほっと胸を撫で下ろす。意識の半分を彼女の着地に、もう半分を残りの敵に向ける。
しかしその瞬間、死角に潜んでいたリューズが姿を現した。
「呑気に、お喋りをしている場合かい?」
「っ……!?」
「まずい、伏せろ!」
呪術教典から巨大な針が放たれる。空中で身動きが取れない、その隙を見通した上で。
遮るように鞭を伸ばす。間に合え、間に合ってくれと心の中で何度も祈った。
それでも、彼女の額に針が届く方が、僅かに先を行ってしまう。
目を細める。時間がゆっくりと流れ始めた、その刹那。
何処から投げられた短剣が、針を粉々に砕いた。
「何っ!?」
ストーリアたちの身体を掠め、そのままの勢いで瓦礫に突き刺さる。
漆黒の短剣。何者の姿も映さないその威圧感は、宵闇を表しているかのよう。
敵、味方を問わず、その場の空気が一瞬にして凍り付いた。
「だっ……誰!?」
投げられた方を、一斉に向く。真っ直ぐ、地平線のように続いている道の先から、人影が伺えた。
背の高い、細身の……男性。ゆっくりと、しかし芯のある足並みから、根拠のない想像が頭に浮かぶ。
しかし、その想いは聞こえてきた声で現実となった。
「生徒たちが命を懸けて戦っているのに、教師が恐れ、逃げるわけにはいきません」
以前よりも、どこか凛とした面持ち。潤みそうになった目を擦り、立ち上がって一歩近付く。
「約束を守りに来ました。よく頑張りましたね、ジョニーさん、ラルムさん」
「……エルア、先生!」
一瞬、微笑みを浮かべかけた彼は、不意にその場で立ち止まった。
ストーリアの唸り声が聞こえる。その中心で腕を組むのは、退屈そうにこちらを伺う呪術師たち。
「とうとうお出ましか。楽しませてくれよ?」
「もう一度おうちに送り返してやるよォ、腰抜けが」
鞭を持ち直した自分に対し、エルアは手でそれを制する。
「後は私が引き受けます。お二人は、離れていてください」
残されたもう片方の手を、前に突き出して静かにかざす。
瓦礫に刺さった剣が、独りでに浮き上がった。糸で吊られているように、持ち主のもとへと戻っていく。
やがて、強い力でそれを握りしめたエルアは、姿勢を低くして、狙いを定め始めた。
遠くで爆発が聞こえ、一歩後ろに下がって距離を取る。
ミシェルも、イリーナも……そしてシルビアも、目の前の光景を信じることは、叶わなかった。
「クリスが……ジョン?」
重ならない。自分たちと肩を並べ、支えてくれた彼女が、目の前で威圧感を放つ異物と、同じだとは。
追いかけるように一歩前に出たジョンは、ふと首を傾げる。
術を放つわけでも、身構えるわけでもなく、耳に入ったのは……薄い笑い声だった。
「ん、あ、なるほど……」
「っ?」
「何か、大きな勘違いをしておられるようなのですね」
掴み所のない言葉。ほんの一瞬だけ緊張が緩み、口から息が漏れ出す。
「私とクリス・サキュラは別の人物なのです。私が彼女と同じ姿に見えていたのなら……それは見間違いなのです」
ジョンは明後日の方角を向く。自分たちのことは歯牙にもかけず、気怠げに息を吐きながら。
その視線の先には、ワズランドの街並みがあった。
微かに自分の呼吸音が聞こえ、ゆっくりと目を開く。
開いた先も、暗闇が広がる世界。ふとここが現実なのか、夢なのかも分からなくなる。
しかし腕に力を振り絞り、僅かに見えた光を探った。
やがて扉のようなものが伺え、外に出るために身を乗り出した刹那……
「……うぁっ!?」
自室のクローゼットから投げ出されたクリスは、大きな音を立てて床に崩れ落ちた。
「うう……な、何、だっ?」
頭が痛い。全身の力が抜け、思うように動かない。
自分は何をしていたのだろう。夜、眠ってからの記憶が、穴が開いたように抜け落ちている。
こうして倒れ伏しても、周りに誰かが来る気配はない。
異様なまでに静かだった。真っ直ぐ突き刺さる太陽の光が眩しく、思わず目を逸らしてしまう。
「イリー、ナ、ミシェル?」
嫌な予感がした。もし彼女らが見えない場所で、危険に晒されているとしたら。
身をよじって立ち上がろうとし、しかし思うようにいかずに、膝をつく。
今の自分にできることは、身体が動くようになるのをただ待つのみだった。
「貴方にも詳細は伏せておいたのです。少しでも綻びが生まれれば、途中で作戦が知られる恐れがありましたので」
狼狽えたまま動けずにいるメラトに、ジョンは顔さえ向けずに淡々と告げる。
先程まで感じられていた芯は何処かへ消え去り、代わりに放たれる不安と緊張の色。
双方の繋がりは、想像よりも薄く、脆いものに感じる。
「下がっていいのですよ、メラト」
「えっ……いえ、しかし」
自分はまだ戦える。そう言わんばかりに立ち上がろうとする彼女を、ジョンは気迫で制した。
「下がるのです。シルビアが加わったとなれば、一介の呪術師程度が太刀打ちできる相手ではないのです」
何者にも隙を伺わせない低い声。差し出される道はただ、応じるのみ。
「は、はい……」
黒い靄に包まれ、メラトの姿が一瞬にして掻き消える。
逃げられた。無意識に追いかけようとした身体を、立ち塞がったジョンが足を鳴らして止めにかかる。
「一人で戦うだなんて、いい度胸してるじゃない」
「一度負けたにもかかわらず、再び立ち向かってくる貴方こそ、素晴らしい度胸なのです」
溜息をつき、低く身構えるシルビア。避けようのない殺気が身を包み、手に震えが現れる。
しかしそんな自分たちの前に、一人の少女が躍り出た。
恐怖を覆い隠し、自分を奮い立たせ、胸に手を置いて口を開いたのは、イリーナ。
「……ジョン・オウタム。二つだけ、聞いてもいい?」
「ええ、どうぞ」
「貴方とクリスは本当に別人なの? それと、この戦いが終われば、貴方はまた、ストーリアを生み出すつもりなの?」
小さく息を吐く。右手が差し出され、間髪入れずに答えが返ってくる。
「前者は申し上げた通り……後者は概ね、貴方が想像している通りなのです」
瞬きをし、顔を俯ける彼女。冷たい風が吹き、巻き上がった黒いローブを、ジョンは手で押し留めた。
零れ出る声が、先程よりも一段と力強いものへと変わる。
「分かった。それなら私たちは、貴方を全力で止める」
「イリーナ……」
「決めたんだ。もう、迷ったりしないって!」
魔力を込めた杖を真っ直ぐ、ジョンの方へと向けた。
深呼吸。しかし瞬きをした刹那、ジョンの姿は掻き消える。
「殊勝なことなのです。尤も、力が伴っていればの話……でしょうが」
直後、右からの声。振り向く前に、イリーナは盾を構えた。
対するジョンは、盾を中指で軽く弾く。堅牢な氷は粉となり、瞬時に守りの力を失ってしまう。
距離を取る前に、肩部に裏拳。空中で回転した彼女は、動きを追う前に吹き飛ばされた。
「え……ぁぁっ!?」
「フレイム・ソード……!」
踏み込んで飛び上がり、頭頂部を狙って剣を振り下ろす。
しかし、手応えがない。顔を上げ、首に向かって突き立てても、一滴の血も伺えなかった。
「すり抜け、た!?」
「どうしたのですか、そんなに慌てて?」
「下がりなさい、ミシェルっ!」
頷くより先に、剣を引き抜いて飛び退く。すると今までいた場所に、数本の矢が放たれた。
首、胸、そして頭。しかし、結果は先程と変わらない。
すり抜けた瞬間、ゴポ、ゴポと泡のような音が聞こえた。身体に空いた透明な穴は、瞬時に塞がる。
他者から攻撃を受けるその瞬間だけ、身体に術をかけているようだった。
「リバース・アクア」
手を合わせるジョン。すると全身が溶けていき、透明な液体へと変化する。
「何、これっ!?」
「ひやぁっ!」
空中に浮遊し、規則性のない動きで飛びかかってきた。
右に転がり、寸前で避ける。勢い余って建物にぶつかり、瓦礫が地面に覆い被さる。
シルビアも弓矢を構えた。しかし、狙いが定まらない。
「アイス・エル・ムルバ!」
その時、背後から放たれた氷柱がジョンを捉えた。
液体が凍り付き、重みで地面へと落ちていく。身体が再度元に戻り、動きが封じられた。
自らの足を見つめたジョンは、僅かに意表を突かれたように息を漏らす。
「……ほう?」
「あんたにしてはよくやったわ、イリーナ!」
シルビアがすかさず照準を合わせる。先程のような牽制ではなく、確実に仕留める覚悟を持った視線。
弓矢の先に魔法陣が現れ、周りの風が彼女のもとへと集まっていく。
「ウインド・ラファ・エル・ムルバ!!」
放たれた一発。音の速さにも匹敵するような俊敏さと、岩をも穿つ力強さ。
身を低くし、突風に耐える。自分にはまだ辿り着けなかった、超級魔法の領域。
相手の身を貫き、周囲のものを巻き込み、凄まじい爪痕を残すはずだった、その一撃を……
ジョン・オウタムは、片手で軽く殴って受け止めた。
「う、そ……?」
「超級魔法を、正面から?」
目を開ける。地面の抉れは相手の寸前で止まり、目立った傷があるようにも見えない。
及ばなかった。今まで目にした中でも、最高位の術式が。
動きの止まったシルビアが、ただ静かに腕を震わせる。怒りも、悲しみも全て通り越した、無の境地。
「三人でかかれば、私の力量が分かるとでも思ったのでしょうが……」
瞬間、自分たちの間に入り込んだジョンに、足を掬われる。
「まだ貴方は半端なのです、シルビア・エンゲルス」
避ける術を失ったシルビアに、拳が連続で叩き込まれる。
上段、下段、腹部、肩部。両手で構えるも防ぎ切れず、とどめの蹴りで瓦礫へと飛ばされた。
「う、ぁぁっ!!」
立ち上がろうとするも、腕に力を抜けて倒れ込んでしまう彼女が視界に映る。魔力の限界が、近付いてきた。
背中を狙い、右上から剣を振り下ろす。しかし目が付いているように避けられ、肩に膝蹴りを受けてしまう。
「ううっ……!」
「アイス・エル・ムルバ!」
受け身を取って転がった矢先、頭上を氷塊が通り過ぎる。
剣を収め、箒を手繰り寄せた。魔力が残っているうちに、撤退の判断を出さなければ。
しかし、ジョンの突き出した手がそれを再度遮ってしまう。
「アナリシス……アイ・フォー・アイ」
相手の周囲に張られた、無色透明の薄い膜のような結界。
イリーナの放った氷塊がそれに触れると、徐々に溶けていき、やがて塵と化して消えていく。
「なっ!?」
「受けた術式を解析し、無力化させる術なのです。同じ手は二度通用しない、ということなのですよ」
「そ、そんな……」
イリーナの懐に入り込んだジョンが、地面に向かって拳を打ち込む。
「イリーナ。大丈夫!?」
「うん……でも、このまま、じゃ」
顔を上げ、こちらに迫ってくるジョンを睨み付けた。
シルビアは魔力が切れかけ、イリーナの術も通用しない。頭を必死に動かし、この場を凌ぐ術を探る。
可能性があるとするなら、超級魔法を超える術……
「合体魔法を使おう。もう、それしかないよ!」
彼女の手を掴んで立ち上がらせ、二人で杖を重ね合わせた。
魔力を溜め込み、眼前に魔法陣が現れた瞬間、脳裏に今までの光景が蘇ってきた。
抑えていた感情が溢れてしまったこと、合体魔法の練習で、失敗してしまったこと。
生じた心の靄を、イリーナと頷き合いながら、少しずつ振り払っていく。
「大丈夫。私たちなら、きっとできる……」
氷と炎が渦を巻く、以前よりも大きく、そして明確に。
「……っ?」
ジョンの動きが不意に止まる。僅かに揺らいだ声が耳に入り、杖を握る力が強まった。
「よし。いくよ、イリーナ!」
「うんっ!」
目を閉じ、強く念じる。一度掴んだこの感覚を、決して手放さないために。
しかし魔力を解き放った瞬間、二人で作り上げたそれは、不意に形を崩していく。
「……え、っ!?」
渦が小さくなり、薄まっていき、跡形も無くなってしまう。
今なら、と息を合わせて築いた術は、再び何も残せずに終わってしまった。
「ミ、ミシェル……」
「ありえ、ない、そんな……どうして?」
杖に触れ、もう一度天に掲げる。光すら放たなくなったそれに、焦りの感情が増していく。
「タイミングは合わせた。魔力量だって、ほぼ同じはず。失敗するはずが、失敗、するわけ……」
これ以上、自分たちに一体何を求めるというのだろう。
同じ志を持ち、同じ場所で戦い、努力し続けた。この状況を打開する、ただ一つの打開策なのに。
もう一度、次こそは。淡い期待を抱いた自分を、ジョンの鋭い声が遮る。
「まだ、その域には達していないのですね」
「っ!?」
手から伸び始める、虹色の光。瞬く間に空が黒くなり始め、雷の落ちる数瞬前のような、淀んだ空気が広がった。
「殺しはしないのです。素質はありますし、何より貴方はまだ、生きる意味がありますので」
足が小刻みに震える。イリーナを庇おうと手を出すが、それ以上、動かない。
「しかし……少々、痛い思いをしてもらうのです」
無数のストーリアが切り捨てられ、爆散し、ジョニーの目で追いつけないほどの速さで、戦いが進んでいく。
「ぐぁぁっ!?」
リューズの眼前に躍り出たエルアが、回し蹴りを放つ。
地面が抉れ、何度も転がり、立ち上がる力が失われてようやく、勢いが止まった。
「くそぉッ……」
「これが、エルア・ラーナの……力だと?」
既に倒れ伏したグレオと並ぶ。一目見ただけで、勝敗は決していた。
一人で終わらせたエルアは静かに息を吐き、足音を立てながらリューズのもとへ歩み寄る。
襟首を掴んで立ち上がらせた。離れていた目線が、重なる。
「呪術師、リューズ・ファスタ。貴様に聞きたいことがある」
「あ、あぁん?」
「魔法学校三年、アセビ・マルティにストーリアをけしかけ、殺したのは貴様だな?」
顔の内側は伺えない。伺うことが躊躇われるほどの、殺気。
「ははぁ。いや、どうも最近、物覚えが悪くてね。見当もつかな……うぐゥゥッ!」
手が不意に離される。彼の身体が宙に浮いた刹那、鼻の中心に打ち込まれる拳。
流血。飛ばされながら大きく体勢を崩し、リューズは頭から倒れ込んだ。
「リューズッ!」
「エルア、先生……」
「どうだ。これで少しは、頭が冴えるようになったか?」
グレオが思わず掠れた声で叫ぶ。しかしこの場にいる誰も、間に入ることは叶わない。
何があっても感情を見せない教師としてのエルアとは、別人以外の何物でもなかった。
息が絶え絶えになった相手を一心に睨み付けながら、彼はその首元に剣を突き立てる。
「人にはそれぞれ事情というものがある。しかし罪のない者を殺すことは、何があっても揺るがない悪事だ」
恐ろしい。しかし思わず釘付けになり、目を離せない。
重圧にも近しい緊張が流れる最中、その中心にいたリューズの口角が、くっきりと上がる。
「……僕を殺しても、戦いは終わらないさ」
「何だと?」
「ジョン様に見つかれば、いくら君でも無事では済まない。何も残せず、何の意味もなく、死ぬだろう」
方便と切り捨てるには、どこか芯を有した奇怪な呪詛。
「そうだとしても、最後まで戦い抜くのみだ。それが今の僕に与えられた、ただ一つの使命なのだから」
けれど、エルアがその言葉を恐れ、剣を下ろすことは決してなかった。
剣が首筋に触れる。ほんの少し滲み、滴り落ちていく血。
やがて高く振り上げたエルアは、精一杯の力を込めてそれを振り下ろしていく。
しかし……それよりも一歩早く、荒れ果てた辺りの様子に変化が訪れる。
「ん?」
「何、これ」
「空が、黒くなっていく……?」
染みのように、黒ずんだ景色が広がる。ワズランドを、ボストレンを、そしてゴオツを包んだ闇は、やがて青空を隅まで奪っていく。
異様な光景に、エルアさえも一歩下がって身構える。
「なるほど。これがジョン様の……真の力か」
そんな中で一人、リューズだけが余裕を含んだような面持ちで佇んでいた。
絶え間なく聞こえていた爆発は、いつしか不安を感じる程の穏やかさに。
溜息をつきながら紅茶を淹れたメルアチアは、口に含む前にその香ばしさを確かめる。
「……まったく、ヒヤヒヤさせてくれますね」
身体が芯から温まる感覚を味わっていると、扉の向こうから足音が聞こえてきた。
「学園長。大変です、街に異変が!」
「ん……ああ、これのことですね」
駆け込んできたキャロルを横目にカップを置き、ゆっくりとカーテンを開く。
空が黒い。雷雨の前触れとも少し違う、何者の入る余地もない暗闇。
一目見て、ようやく始まったのだということに気付く。
「何らかの術でしょうか。念のため、防御結界を……」
「いいえ、それには及びませんよ」
「はい?」
椅子に向かって手を差し伸べる。深呼吸の後、自分も席について欠伸をした。
「命を脅かす術ではありません。ただ……今までに起きたことを、ほんの少し忘れるのみです」
怪訝な顔を続ける彼女をじっと見つめ、微笑みかける。
今の風景も、交わした言葉も、全てが不透明な夢へと消えていく。先走る気持ちから、口を滑らせた。
「どうして、そのように?」
「知っているからですよ。この術を扱える、ただ一人の者を」
それは一体、と歩み寄るキャロル。しかしそれから先、次の言葉が紡がれることはなかった。
視野が、徐々に狭まっていく。恐怖に駆られていた頭が不意に落ち着き、妙な安心感を覚えてしまう。
前後左右さえも分からなくなる寸前、ジョンの前に、一瞬だけ虹が見えたような気がした。
「戻るのです。本来あるべき世界へ」
全身から力が抜けていく。目を閉じてはいけないと念じることも、やがてすっかり忘れていく。
「アフター・レイン」
隣にいる、イリーナは。せめて顔を向けようとするが、指先の一つさえも動かない。
自身の口元に人差し指を添えるジョンの姿を最後に、糸が切れたように意識が消失した。
「貴方たち魔法使いが……真の意味で私に辿り着ける日を、待っているのです」
薄い靄がかかったような森を、ただ一心に歩き続ける。
絶え間なく聞こえる雨と、時折刺さる雷の音が、奥底から焦りを呼び起こしていく。
「っ……」
幾分か小さくなった自分の足を見つめる。どこか、覚えのある景色。
少し歩けば村に戻れる。抱いていた淡い期待は、徐々に深くなっていく緑に打ち砕かれる。
先の見えない中、やがて辿り着いたのは小さな洞窟だった。
座り込み、雨の終わりを待つ。太陽が差し込むことはなく、爆発音のような雷鳴が轟く。
「えっ?」
しかしその瞬間、真っ暗だった洞窟に大きな変化が起きた。
深部に、光が灯り始める。自然に生じたものではなく、足を踏み入れた者を誘う、意志の込められた眩しさ。
足が震えて、緊張で動けなかった。しかしその全貌を、視界に収めずにはいられない。
「あ……っ」
誘惑に負けた自分は、その光に向かって手を伸ばした。
勢いよく吹いた風に窓が軋み、その音で不意に意識が戻る。
頭が痛む。差し込んでくる日光の明るさから、どうやら長い時間眠っていたことに気付く。
全身に気怠さを抱えながら、イリーナは自室のベッドから起き上がった。
「う……うーん」
視界には、机に向かって教本を読み込むミシェルの姿。挨拶しようとした傍ら、急に目が覚めていき……
「……はっ、もうお昼!?」
「何言ってるの。今日はお休みでしょ、イリーナ?」
「あ、ああ……そうだったね」
頭を押さえる。洗面台に足を運び、耳だけを彼女の方へと傾けた。
「アジトの潜入とか色々やったし、疲れてたのかも」
「えっ、アジトって何?」
思わず吹き出してしまう。ついこの間の出来事なのだから、忘れるはずがない。
しかし、純粋に疑問の色を滲ませた彼女の声に、ふと違和感を持ってしまう。
「……あれ、そういえば何だったっけ?」
口に出そうとした瞬間、思い出せなくなってしまっていた。
頭を捻ろうとすると、より遠くなっていく。言い表せない不快感に唸り、それでも答えは出てこない。
諦めかけた刹那、軽快なノックの音が耳に入ってきた。
「たのもーっ!!」
「うひゃっ!?」
「何だ今起きたのか、遅寝遅起きは不健康のもとだぞ?」
眩しい声が耳に突き刺さる。箒を抱え、鞄を片手に、準備万端のクリスが歩み寄ってくる。
「合体魔法に苦戦していると聞いた。不安があるなら、ボクが練習相手になろうと思ってな」
「あは、はは……」
「ありがとう……ああでも、それなら早く着替えて、準備しなくちゃね」
痛い所を突かれた苦しみと、支えてくれる嬉しさが交じる。
立ち止まりかけていた自分に喝を入れ、鞄をベッドの上に置き、手早く着替えを始めた。
眠って過ごした数時間は、汗を流して取り返してみせる。
「ボクは成功したことがあるが、やっぱりあれは感覚だな。余計な考えは捨てて、バーッと真っ直ぐ……」
「ん、何これ?」
彼女の言葉を片耳で聞きながら、忘れ物がないか確かめようとした直後。
制服のポケットから、一枚の紙が床へと零れ落ちた。
「手紙かな。ミシェル、何か知ってる?」
「ううん、分かんない」
何か……書いてあるような気がする。水でふやけ、極限まで薄く書かれたような文字の残骸は、凝視しても、日に当ててもその全貌を示さない。
いつ、入れた物だろう。頭を捻れば思い出せそうに思えるが、靄がかかって判然としなかった。
「どうした、イリーナ?」
クリスも顔を近付けて覗き込んでくる。この場にいる誰も、手紙の正体に気付くことはない。
「読めないなあ……まあ、いっか」
何気なく過ごしていくうちに、きっと思い出すだろう。
根拠のないいつかを信じ、送り主の分からない手紙を机上に置いて、自室を後にする。
昨日食べたご飯も、眠った時間も、交わした言葉も、何一つ言えないまま。
自分たちはまた、今までと同じ日常に戻っていった。
続く




