19もふ 薄暗がりの書架
高いアーチ型の天井まで四階分の吹き抜けという壮観さと、左右対称となっている石造りの柱や壁は荘厳な造形美を誇る。
20万冊を超える書物が貯蔵されているロングルームとは別の場所。
国立魔導図書館の二階にある書架で書物の整理をしている。書架の端っこには整理中と書かれた柵を置いてあるから人は入ってこない。
「アンジュの奴。なんであんなことしたんだ」
僕の唇に残る微かな感触に戸惑って手をあてる。熱くて長くて……甘かった。あんなに濃厚なキスをされてしばらくのぼせてしまった。
あの後、我に帰った僕は司書のローブを引っ掴んで、アンジュを置き去りにして高級ホテルを一人で飛び出した。僕の頭が熱い。まるで熱でもあるみたいだ。
昼過ぎに出勤してばったり出くわしたクションシュカ館長に小言を言われた後、ずっと書架の整理をしているのに心の中はぐちゃぐちゃだった。
ずっと落ち着かなくて、繊細な作業が必要になる魔導書の修復なんてとてもできないからとこの場にいる。
「僕は男なのに……アンジュも……男なのに。こんなんじゃ穏やかな司書生活が送れないよ」
あの時。僕はアンジュにレクスの面影を重ねていた。同じ白銀狼獣人でゆるく波を打つ白銀の長髪も吸い込まれそうな金色の瞳も耳もしっぽも同じ。
輝くような笑顔はレクスと違って自信に満ちあふれて野生味があるけど確かにレクスを感じてしまう。
そしてさっきは……僕を見下ろす熱い眼差しに胸が締め付けられるような想いだった。
「あんなに迫ってくるなんて。アンジュの奴、どうしちゃったんだよ」
胸に感じる想いだけじゃなくて、一度はしゅんとなったはずの僕なのにまた元気になってる自分がいたんだ。キスだけで、その……もう少しでやばかった。
あのままされてたらと思うと。僕は23にもなってもずっとレクスに操を立ててるのに。アンジュは男なのに。だけど、僕の心も体も熱く反応していた。だからこそ僕の心の中にある戸惑いが消えない。
アミックの顔が思い浮かんだ。
「アミックは……なんであんなことするんだろう」
親愛を込めて親密に接する山猫獣人だからって家族や恋人でもないのにおはようのキスや、おまじないとか言ってお出かけのキスなんてしないでしょ。ほっぺただけど。
男のアミックが男の僕に幼馴染以上の感情を持っているのかもしれないと思ったこともある。だけど僕の思い過ごしであって欲しい。
アミックは僕のことをどう思ってるんだろう。ずっと同居しているけどそれ以上のことはしてこないから僕は友達でいられる。
だけどもしもそれ以上のことがあれば、アミックとの関係が壊れてしまうんじゃないかと思うと怖い。もしもアンジュみたいなことをアミックにもされたら……。
アンジュからの行為を思い出してアミックと比べるようなことを考えてしまった。
ふと薄暗がりの部屋でステンドグラスから差し込む陽射しが薄くなっていることに気づいた。
「そろそろ終業の時間かな? 今日はおとなしく帰ろうかなあ」
「そろそろ終わりか?」
「え?」
振り返るとアンジュが書架に手をかけて優しく微笑みながら僕を見つめていた。
「なんでここにいるんだよ」
この。何もなかったような平然とした顔して。僕はあれからずっとモヤモヤしっぱなしなのに。僕に何をしたか覚えてないの? 少し腹が立ってついついツンと答えてしまった。
「仕事をサボってきた。シュルードの奴、ざまを見ろ」
ふふん。と、不適な笑みを浮かべている。きっと腹黒宰相が血眼になって探してるな。困るのは腹黒宰相だけじゃないだろうに。ほんとみんなに迷惑をかけるダメな奴。
「……正直だなあ。僕に何の用?」
少し冷たい言い方で聞いてしまった。そんなつもりはなかったんだけど、どうしても心が落ち着かなくて。
「聞くのを忘れていたが腹の具合はどうだ?」
今度は心配そうな表情を浮かべてる。ほんとにコロコロと忙しいんだから。そしてそんなアンジュのことをまたしても可愛いと思ってしまう。いつも俺様な王様でみんなを困らせるやつなのに。そしてアンジュは親友なんだ。そうなんだ。
「おなか? なんだっけ?」
別におなかを壊してはいない。昨日のレストランの料理はどれも美味しくていっぱい食べてワインを飲みすぎたみたいたけどお通じの方は快調だった。
「覚えてないのか? 奴隷商に絡まれて腹を殴られていただろう。吐いたり苦しそうではなかったから俺もうっかりしていたが」
「ああ。そういえばそんなことがあったかも」
うっすらとだけど覚えてる。あの時、いかつい男二人にあれこれ言われたところくらいまでは。その後のことはあまりよく覚えていない。もしかして……アンジュに何かされていないかと思ったら顔が熱くなってしまった。
「あったかもってなあ。ジュリを攫おうとした奴らは一匹残らずすべて根絶やしにしてやる。さっそく尋問で口を割らせてやったわ。鳩尾を殴られて痛くはないのか?」
「うん、なんとも。全然痛くないよ」
鳩尾のあたりをさすってみるけどなんともない。尋問て普通の尋問じゃなさそう。まあ奴隷商なんて地獄の底の底に落ちればいいけど。
これは後々のこと、すべて一網打尽にして極刑にしたとか。
「失神させようとする打撃はそこそこ威力がありそうだったが? ほんとに大丈夫なのか?」
ほんとになんともないんだよなあ。子ども時代に鍛えていた腹筋は今でも健在だし、三日に一度はアミックに何度も何度も麻袋を腹に投げつけられていたからね。ボクサーのパンチにだって耐えられるつもり。そして細筋だけど筋肉は裏切らない。
「うん。ほんとに大丈夫だって。僕のおなかは腹筋が100個に割れるくらいに鍛えてるからね」
100個と言えばバロンとボトールさんのやりとりが懐かしい。あれからずっと鍛えてるけど結局腹筋は6個のまま。
「100個とはすごいな」
「ほら。見てみる?」
司書ローブの紐を解いてゆるシャツを捲り上げてみる。
「痣になってないか見てやろう」
アンジュがすっと足を進めて目の前でしゃがんできた。あ。これ失敗だったかも。下ろそうとしたゆるシャツをさらに捲り上げられた。
「えと。あの」
「ふむ。なんともないと言ったが青痣になっているな」
ゆるシャツを捲り上げたまま、あごに手をかけて僕のおなかをまじまじと眺めてる。あれ? お酒を飲みすぎて魔力操作と肉体操作がうまくできてなかったのかな? なんか恥ずかしいんですけど。さっきまでのこともあったから余計に混乱する。
「でも痛いとかはないから。もういいでしょ」
ゆるシャツを下ろそうと下に押すけど伸びるだけで全然びくともしない。純粋な筋肉の強さはアンジュの方がよっぽど強い。
「どれ」
「ふわ!」
アンジュの大きな手のひらが僕のおなかを撫でてる。素肌にすりすりさわさわと絶妙な手触りで艶かしく動いてる。それがなんだか心地よくて……
「な、何をしてるの!?」
「ん? さすがに9歳の頃から鍛えてるだけある。引き締まったいい腹筋だな」
あれ? 僕が筋トレをしていることをアンジュは知ってるけど。9歳から始めたなんて言ったことあったっけ?
「へへ。真面目にトレーニングしてるからね。そろそろおなかをしまっていいかな?」
褒められると素直に嬉しい。魔力操作の修行はもちろん、肉体操作ができるように今でも鍛えてある。それは当然レクスに何か会った時のためのもので。
「いや……放ってはおけない。舐めて治してやろう」
「ひあ!? な、何してるの!?」
白い牙を覗かせて、アンジュの長い舌が僕の殴られた鳩尾を少し乱暴に舐めつけている。逃げようとする僕の腰をたくましい腕でホールドされた。
僕の質問には答えないでおなかの外側へと移っておへその上に戻ってくる。ぞ、ぞわぞわする。そっちも痣があるの? 顔が熱い。心臓がばくばく言ってる。どうして? なんでそんなことするの?
「獣族は傷を舐めて治すこともある。知ってるだろう?」
「ええ!? そうだけど! だって! ……や」
確かに知ってる。犬や猫、野生の獣と同じ。古来から現在でも変わらない獣族の本能による民間療法だ。
唾液には治癒を促進させる上皮成長促進因子や粘膜の傷を修復する成分がある。
さらに言うと抗菌・抗ウイルス作用を持つ酵素やたんぱく質が含まれている。だけど口の中にいる常在菌は衛生的に良くないし感染症にも注意しないといけないから、唾をつけて傷を治すなんていう行為は推奨されず消毒薬や抗菌薬を使うことが優先される。
前世の知識が急に湧いて出た!
だけど昨日からお風呂に入ってないし、変な汗かいたし。く、臭くない!? いやそういうことじゃなくて。ちょっと……あの。
治療。これはあくまでも治療。そうなんだよね?
アンジュの舌が僕のへその下へと移動してさらに下へと……だぼだぼハーフパンツのベルトが外されて……
アンジュに可愛いと言われた僕のしっぽへの窮屈な締め付けが解放されていく。ねえ。何するつもりなの? 治療なんだよね?
「ジュリ様。どちらですかー?」
心臓が激しく波打った。書架の列の端っこに同僚の司書が立っていた。背中越しに急に呼びかけられて焦る。司書のローブを広げてアンジュを隠してしまった。ここは光に弱い書物を傷めないように薄暗がりになってるからはっきりとは見えないはず。
「こちらにおいででしたか。先ほど王陛下がジュリ様を訪ねてお越しになりました。こちらにいらっしゃいませんでしたか?」
ここにいます! そう言おうとして言えず。口がぱくぱくするだけだった。
「あ。作業中にお声がけをして申し訳ございません。そろそろ終業のお時間ですしお手伝いいたしましょう。クションシュカ館長からジュリ様が定時に帰れるようにしろと言われておりますから」
つかつかとこちらに歩いてくる。書架の列は横に長く距離があるけど。
ちょっと!?
どうしたらいいの!?




