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だが、俺の隣はいつも満席だ。  作者: 妙原奇天


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第二十五話 離れても、“隣”の証明

 春の匂いは、同じはずなのに、町ごとに違っていた。駅前の並木がいっせいに淡い色をふくらませて、バス停のベンチには新しい制服のしわが増える。俺はその光景の中にいて、しかしどこかで一枚だけ薄い透明の膜に包まれているみたいだった。四月の一週目、教室の席表には、まだ俺の字が馴染んでいない。二列目の端。窓の向こうに見えるのは中学の頃とは違う校庭で、走っているのも違う顔だ。

 チャイムが鳴り、担任が自己紹介を促す。前から順に立っていく声は、知らない苗字と知らない笑い方でつながっていく。俺は立ち上がって名前を言った。拍手は機械的で、悪くないけれど、特別でもない。座る。右隣は空席だった。そこにカバンを置いてから、やや間を置いて、置き直した。癖は新しい教室でもついてくる。

 昼休み、購買の列の速さでこの学校の偏差値が測れそうだな、とどうでもいいことを考えたところで、ポケットのスマホが小さく震えた。画面には、短い文字。

〈そっち、どう?〉

 名前は出ない。見なくても分かる。俺は背もたれに身体を預けて、返す。

〈授業、早い。隣、空いてる〉

 送る前に、少しだけ笑って追記した。

〈換気よすぎ〉

 数秒で既読がつき、返事。

〈こっちは先生が若い。黒板の字がやたらとまっすぐ。隣、空いてる〉

〈じゃあ、埋めといて〉

〈リモート満席、ってこと?〉

〈それ、いい〉

〈満席オンライン〉

 打ちながら、目の前の空席が少しだけあったかくなるのがわかった。空席は寒い。ずっと聞いてきた言葉は、町が変わっても効いた。教室の窓の桟が冷えを運んでくる。俺はそこに、見えない札をまたぶら下げた。“満席”。貼り直すたび、字は少しずつ上手くなる。

 放課後のホームルームが終わると、知らないクラスメイトが知らないノリでじゃれ合い、知らないテンポで掃除に散っていく。その中に混ざりながらも、俺はスマホの向こう側の温度で自分の輪郭を確かめていた。ミサから届くのは、短い報告が多い。〈体育館、広い〉〈図書館に個室がある〉〈自販機のココア、甘すぎ〉。どれも単語が少ないのに、そのあいだに色がある。俺はいつも通り、少し余計な言葉を足して返す。〈体育館の端で小さく拍手してるの俺〉〈図書館の個室はふたりで使う前提〉〈甘すぎるやつは緊張ほぐす薬〉。スタンプはいらない。合図は親指で二回。画面の上で、二回。

 週末の夜、ベッドの上に寝転んで、テレビのニュースをぼんやり見ていると、電話のアイコンが画面の真ん中で震えた。ミサだ。通話に出ると、遠くの空気の音がうすく乗る。

「……聞こえる?」

「聞こえる」

「ねむい?」

「すこし」

「こっちは、勉強が早い。ノートが追いつかない」

「追いつかなくていい。隣が埋まる速度に合わせればいい」

「なにそれ」

「格言」

「自称はだめ」

 電話だと、ミサはすこし饒舌になる。顔が見えないぶんだけ、声が真っ直ぐに届く。パソコンのファンの音、小さく開いた窓から入る車の音、ページをめくる紙の音。彼女の部屋の音だけで、距離が短くなる感じがした。

「ねえ」

「うん」

「“満席オンライン”、時間を決めよ」

「タイムテーブル?」

「うん。朝、同じ時間に“おはよう”。昼は、写真一枚。夜は、二回の合図」

「写真は、なに撮る」

「今日の隣」

「空席じゃないか」

「埋めた証拠。教科書の端、窓の枠、机の右上……あなたの視界の“隣”。それ送って」

「了解した」

「こっちは机の左上と、マグカップ」

「いつものやつ」

「うん。ヒビ割れたやつ。あれ、縁起がいい。割れたところから、お互いがこぼれない」

「それは新しい」

「たまに新しい」

 通話を切ったあと、通知音のない静けさが部屋に流れ込んだ。天井を見上げる。ライトの輪がまぶたに残る。遠距離は、遠いのに、どうしてか行動にすると近くなる。朝は同じ目覚ましで起き、昼は同じ角度で写真を撮り、夜は二回合図を送る。簡単な儀式は、難しい気持ちを勝たせ続ける。

 季節は容赦なく進む。五月の風は校舎のすきまを抜け、六月の雨は教室の匂いを重くした。テストは、遠距離にも容赦がない。昼の写真は、教科書の端から、模試の問題用紙の端に変わった。俺とミサの画角のクセが、少しずつ似てきた。写真の四隅の余白が同じくらいになり、ピントが細かいところに合って、全体が少しボケる。ボケたところに、いつも“隣”がいた。

 もちろん、全部がスムーズにいくわけじゃない。こっちの部活の練習試合と、向こうの委員会の会議が同時にぶつかる週末もあった。返信は既読がついてから数時間後に来たり、朝の「おはよう」が昼の「こんにちは」に化けることもあった。そんな日の夜は、二回の合図を三回にする、と勝手に決めた。三回は“遅刻”。四回は“ごめん”。五回は“好き”。五回目までいく日は、少ししかなかった。少ししかないから、効く。

 ある夜、風呂上がりに髪を拭いていると、スマホが短く震えた。メッセージじゃない。通話。画面のミサの名前の隣に、小さく“音声”の文字。

「もしもし」

「……会いたい」

 最初に届いたのは、息の音だった。次に、短い言葉。

「行く。どこでも」

「じゃあ、駅前。あしたの午後」

「了解」

 切ったあと、しばらく動けなかった。明日の午後は遠い。遠いのに、突然ちかくなる。机に広げていた参考書の上で、ペンが勝手に踊って、〈明日〉の字が三回ほど勝手に書かれた。

 翌日。電車の時間を何度も確かめる。改札の前でチャージしたICカードが、いつもより頼もしい音を鳴らす。ホームに立って、電車の風を受ける。窓に映った自分の顔は、少しだけ引き締まって、しかし緩んでいた。車内の吊り革を握り、窓の外の町が後ろに流れていくのを見ていると、胸の位置が定まっていく。

 駅に着いた。待ち合わせは北口、時計台の下。人の流れが重なってほどける場所。時間に正確なミサは、だいたい先に着いている種類の人だ。案の定、遠くからでも分かる歩き方で近づいてくる人がいた。白いシャツに薄いベージュのスカート。髪は中学のときよりすこし伸びて、肩の上でふわりと揺れる。目が合った瞬間、手のひらが勝手に熱くなる。

「……来た」

「来た」

 近くで見ると、変わっているところと変わっていないところが同時に目に入った。頬の色、まつ毛の影、声を出す前の息の吸い方。違うのは、立っている足の幅がすこしだけ広くなったこと。新しい町で覚えたバランスだ。

「なんか、少し大人っぽくなった」

「そっちこそ。髪、まとまってる」

「朝、戦った」

「勝ったね」

 自然に笑いが出る。笑い方は、あの頃のままだった。駅前のパン屋から甘い匂いが流れ、バスのアナウンスが一定のリズムで繰り返される。そのリズムに合わせるみたいに、ミサが小さく手を上げた。手の甲が、光を拾う。

「……また隣ね」

「もちろん」

 指先が触れる。ためらいは、思っていたより短かった。からむ。駅前の人波はちょうどいい障害物で、世界をふたり分に切り分けてくれた。手の中の温度が、これまでの写真の余白をぜんぶ埋めるみたいに広がる。

「どこ行く」

「歩こ」

「歩く」

 並んで歩く。駅から続く商店街は、違う町なのに、既視感があった。八百屋の店頭に並ぶ青いトマト、古い玩具屋のショーウィンドウの色あせたガチャ、駄菓子屋の入り口の風鈴。新しくて、懐かしい。途中の小さな公園で、ベンチに座る。子どもが砂場で山を作り、近くの犬が首輪をカリカリ掻く音がよく聞こえる。

「どう」

「なにが」

「遠距離。やってみての、感想」

「想像より、忙しい。けど、想像より、寂しくない」

「評価高い」

「“満席オンライン”の効果はある」

「理論が立証された」

「でも、一個だけ、実験しないと確かめられないことがある」

「なに」

「直接会ったとき、“隣”が前よりも近くなるかどうか」

 ミサはそう言って、握っている手を少しだけ強く握った。たぶん、それで十分だった。たぶん、それ以上を探すのは、今日じゃない。今日じゃないから、覚えておく。覚えておいて、今度、また試す。研究は地道だ。

 ベンチの背もたれに寄りかかり、視線を空に上げる。雲が綿菓子みたいに散って、端が光に透けている。風がゆっくり。ミサが、突然何かを思い出したみたいにポケットを探った。

「はい」

「なに」

「紙輪」

 手のひらに乗せられたのは、小さな金色の輪。文化祭のときのやつに似ているけれど、紙が違う。少し厚くて、表面がつるつるしている。

「新しい町の百均で買った。前のより丈夫」

「研究者は道具から」

「そう。で、これ、証明書」

「なんの」

「“隣”の証明」

「資格制になった」

「更新制。有効期限は、一年。ただし、延長自由」

「延長希望」

「即日、許可」

 俺は、笑った。笑いながら、ポケットから薄いものを取り出す。小さなメモ帳の一枚を破って、そこに走り書きをする。〈満席オンライン 更新〉。日付も書いた。渡す。ミサは受け取って、同じように笑った。

「書類に弱いタイプ」

「書類に強くなろうとしているタイプ」

「じゃあ、もう一個」

「まだあるの」

 ミサは視線を足元に落とし、スニーカーの紐を指で弾いたあと、顔を上げた。

「さっき、駅まで来るとき、ふと考えた。私たち、“会えない日”も“隣”を証明できないと弱い」

「弱点の自己申告」

「なので――」

 彼女は少し屈み、ベンチの木目を指でなぞってから、続けた。

「“同時刻儀式”を追加」

「急に宗教じみた」

「簡単。毎晩、二十二時に、空を一分見る。天気が悪くても、窓。見えなくても、見る。終わったら、二回」

「了解」

「名前は“夜の満席”」

「アニメの副題みたい」

「目指してる」

 誰に聞かれても恥ずかしくない程度に、真面目で、ちょっとくだらない。そういうやり方で、俺たちは距離を縮める。俺たちにしか効かない薬で、俺たちだけ治せばいい。そんなことを思いながら、ベンチから立ち上がった。

「歩こ」

「歩く」

 午後の町は、日曜日特有のゆるさで膨らんでいる。本屋の入口には新刊の平積み。スポーツ店の前には部活帰りの高校生。アイス屋の列は短くも長くもない。俺たちは列に並んだ。ミサは迷わずチョコミント。俺は、むきになってバニラ。コーンを受け取って、公園の外に出る。舌の上で冷たさが暴れて、頭に軽い痛みが走る。

「歯磨き粉」

「言ったら、殺す」

「じゃあ、言わない」

「賢い」

 コーンの先がとがるまで、ゆっくり食べる。アイスの冷たさで、さっきまで熱かった手のひらが少し冷える。握り直す。温度が、またちょうどよくなる。

 駅に戻るころには、空がオレンジに傾いていた。時計台の影が長く伸びて、地面のタイルをいくつも跨いでいる。改札の手前で、足が止まる。別れの合図を出す場所は、どこでも難しい。今日は、ここだ。

「じゃあ」

「うん」

「次、いつ」

「決める。テストのあと」

「こっちも」

「……ねえ」

「うん」

「“離れても隣”って、言ったら、軽い?」

「軽くない。重い」

「重いのは、嫌?」

「嫌じゃない。持てる」

 ミサは、ふっと笑って、それから急に真面目な顔になった。制服の襟を指で整えて、目をこちらに戻す。

「証明、もう一個」

「なに」

「言葉。――好き」

 短かった。短くて、長かった。駅の音がいったん遠ざかって、戻ってくる。改札を抜ける人の足音、アナウンス、子どもの笑い声。その全部の上に、彼女の声が乗る。俺は、返す。

「好き」

 間に何もはさまず、そのまま。握っていた手は、そのまま少しだけ強くなる。親指で、二回。二回。彼女も、二回。

「……また隣ね」

「また隣」

 改札に入る直前、ミサが振り返って、小さく指を立てた。五回分の意味は、今日じゃなくたっていい。今日は二回で十分だ。俺は彼女の背中が人の流れに溶けていくのを見送って、同じくらいのスピードで呼吸を整えた。スマホが震く。画面には、短い言葉。

〈夜の満席、二十二時〉

〈了解。満席オンライン、更新〉

 駅を出ると、風が一段だけ冷たかった。ポケットの中の手は確かに温かく、その温度は、写真では足りなかった部分を埋めてくれた。国道沿いの歩道を歩きながら、思う。離れているのに、隣にいる。誰に説明しても伝わりきらないけれど、本人たちは分かっている。分かっているから、証明はいくらでも作れる。紙輪でも、メモでも、二回の合図でも、空でも。

 家に着く少し前、空がうっすら青に戻り始めた。二十二時にはまだ早い。早いけれど、ベランダの窓を少しだけ開ける。外の空気を押し込むみたいに吸って、吐く。夜の匂いは、春の匂いに比べると真面目で、でもやわらかい。窓を閉めて、部屋の明かりをつける。机の右上に置いたスマホの横に、今日も見えない札を置いた。“満席”。更新。延長。延長。延長。

 時間になったら、空を見る。二回。彼女も、どこかで同じ空を見て、二回。離れても、隣。証明はいくつもある。全部、俺たちの字で書ける。

 枕元の画面が、ゆっくりと暗くなる。その手前で、俺は小さくつぶやいた。

「だが、俺の隣は今日も満席だ」

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