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だが、俺の隣はいつも満席だ。  作者: 妙原奇天


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第二十六話 未来の席、そして“満席”の意味

 大学のカフェは、にぎやかなわりに声が響かない。高い天井と観葉植物のせいだろう。紙のカップを持つ手の熱が、だんだん指に移っていく。提出したレポートの最終版をノートパソコンで確認して、俺はひと息ついた。窓の外では、春の風が低い枝をゆっくりそよがせている。昼の波がやわらいで、席にぽつぽつ空白が見えはじめたころ、背中のほうから、聞き慣れた小さな声。


「……隣、空いてる?」


 その一拍の取り方だけで、名前を呼ばれたみたいに胸が跳ねる。振り向かなくても分かるのに、振り向いてしまう。


 いた。少し伸びた髪を耳にかけ、黒いジャケットに薄いグレーのワンピース。見慣れた歩幅で近づいて、見慣れた距離で立ち止まる。桐ヶ谷ミサ。


「空いてない。……満席」


 言葉が口を出るまで、ほとんど時間がいらなかった。ミサは目だけで笑って、すぐ椅子を引いた。


「じゃあ、座る」


「座るんかい」


「ルールでしょ。満席=私」


「ずっと図々しいね」


「そっちが決めた」


「たしかに」


 笑うと、大学のカフェも中学の教室も、あまり変わらない場所に見えるから不思議だ。ミサはカップに口をつけ、少し目を細めた。苦いのに甘い、という顔。窓の外の色がわずかに傾いて、テーブルの白い線が長く伸びる。俺はパソコンを閉じて、机の右上にずらす。そこは、昔から“隣”のものが来る定位置だ。


「ひさしぶり。先週ぶり」


「先週ぶりは、ひさしぶりって言わない」


「距離感の問題」


「わがままの問題」


「うるさい」


 からかい合いが三往復したあと、ミサはふっと真顔になった。


「……覚えてる?」


「なんを」


「あの日。席替えの日の言葉」


「“だが、俺の隣はいつも満席だ”」


「そう。最初、冗談だと思ってた」


「今は?」


「今は、誓い」


 短く言って、カップのふちを指でなぞる。指の動きは昔より落ち着いていて、でも、なぞる場所はいつも通り少し端。変わるところと変わらないところが交互に見えるから、見ていて飽きない。


「今日は、オープンキャンパスの手伝い、終わった?」


「午前で終わり。高校生、こっちの食堂の味噌汁に感動してた」


「将来有望だな」


「食に真面目なのは、いいこと」


「で、そっちは?」


「ゼミ。配られた資料、漢字が多かった」


「いつもどおり」


「いつもどおり。でも――」


 ミサが少しだけ間を置いた。春の風がガラス越しに微妙に体温を奪う。


「でも、今日は違う。ちゃんと、未来の練習をしに来た」


「未来の練習?」


「うん。席取りの」


 思わず笑ってしまった。笑いながらも、胸の奥に響く単語を、手のひらの上に乗せるみたいに確かめる。“席”。“取る”。それから“未来”。全部、俺たちにとっては現実の言い方だ。


「具体的に言うと?」


「研究棟の一階に、卒業生が寄付した旧式の机が置いてある。ちょっとだけ、うちの中学の机に似てる。あれ、今日の夕方、学生広報の飾り付けで移動するの。二つ、並べたい」


「もうそれ、告白じゃん」


「たぶん、再告白」


「まだ告白するの?」


「定期」


「更新制か」


「更新制。有効期限は一年。延長自由」


「延長希望」


「即日許可」


 言葉のテンポが、昔と同じように弾む。そうやってじゃれ合う間にも、大学のカフェは時間を進めていく。新歓のポスターを抱えた一年がドアを押し、向こうのテーブルでサークルの先輩が声を張る。俺たちのテーブルは島みたいに静かで、でも隣の席の呼吸は、ちゃんと混じった。


「ねえ」


「うん」


「“隣”って、距離のことじゃないんだね」


「今さら」


「うるさい。……気持ちの位置なんだね」


「それは前に言った」


「復習。テストに出る」


「満点取れよ」


「あなたが答案チェックして」


「厳しくいく」


「じゃあ減点覚悟」


 会話の端々に、過去の小さな断片が顔を出しては消える。卵焼きの甘さ、折りたたみ傘の半分の幅、体育祭でほどけたハチマキの結び目、文化祭の紙輪、保健室のカーテン、夏祭りの人混み、冬の階段のマフラー――。それらは今では全部“キーワード”で、いちいち説明しなくても互いに通じる。


「そういえば」


「なに」


「引っ越すって言ってたやつ、進んでるの?」


「進んでる。狭いけど、窓が大きい。机をふたつ置いても、ちゃんと歩ける」


「机、ふたつ」


「“未来の席”。試作一号」


「名前、急についたな」


「名付けは大事。昔から」


「たしかに。“夜の満席”とか」


「続いてるよ。二十二時」


「俺も。二回、二回」


「最近は、三回目、増えた」


「ずるい。俺も増やす」


「競争じゃない」


 窓の外で雲が少しほどけて、光の筋が芝生の上に落ちた。ミサはその光を一度だけまぶしそうに見てから、カップを置いて、両手を膝の上で組んだ。


「ねえ、今日、卒業した中学に寄ってみない?」


「……急だな」


「オープンデーの日らしい。先生に連絡したら、ちょっとだけ教室、見せてくれるって」


「了解。研究棟の机は、そのあと?」


「うん。夕方までに並べる」


「一日で、過去と未来、どっちも“席取り”か」


「忙しい日が好き」


「よくばり」


「あなたに似た」


 俺たちは立ち上がって、カップを捨て、カフェのドアを押した。春の風はさっきよりも強く、でも冷たくはなかった。キャンパスの坂道を下り、駅までの道を歩く。歩幅は学生のときより大きくなっていて、でも角で曲がるタイミングは相変わらず一緒だ。改札を抜け、電車に乗る。窓に映る二人の顔は、重ならないけれど、並んで揺れる。


 中学の校門は、記憶より小さかった。校舎の壁は少し色あせていて、しかし匂いはそのまま。体育館からボールの音。廊下を抜けると、当時の担任が笑って手を振った。俺たちは挨拶をして、靴の底で昔の床を確かめるように歩いた。教室のドアの前で、ミサが小さく息を吸う。ドアを開ける。黒板、掲示、時計。すべての位置が、身体に残っていた。


「……帰ってきた」


「帰ってきた」


 先生が「少しの間なら」と言って、俺たちを二人だけにしてくれた。扉が閉まると、空気が一段やわらぐ。窓ぎわの二列目――あの日、俺が引いた番号の場所に、机はまだあった。番号札は新しくなっていたけれど、机の右上に残る小さな傷は、たぶん、あの頃のままだ。


「座ってみる?」


「うん」


 俺は右、ミサは左。椅子を引く音が、胸の奥の古い引き出しの音と重なる。座ってみると、机の高さが少しだけ低い。背中を丸めないと、手元が遠い。遠いのに、隣は近い。ミサは何も言わず、筆箱から細いペンを出して、メモ用紙を一枚引き抜いた。


「はい」


 差し出された紙には、丸い字で、こう書いてある。


〈満席、更新〉


 俺は笑って、ポケットから自分の手帳を出し、切れ端に走り書きする。


〈また隣ね〉


 交換する。ミサは字を指でなぞって、うなずいた。窓から入る風が、紙の端をわずかに動かす。その動きに合わせるように、心臓が静かに弾む。


「……ここで、いろいろ決めたね」


「うん。卵焼きの味の正解とか」


「それは決めてない」


「甘い」


「だめ」


「じゃあ半分甘い」


「それは新しい争い」


 くだらない会話をしながらも、目の端では黒板のチョークの粉を見ていた。後ろの掲示板には、今年の卒業生の写真。俺たちがあの日の文化祭で撮られて、恥ずかしかった一枚と、よく似ている。ミサが立ち上がり、黒板の前に歩く。チョークを一本取り、ためらいなく書いた。白い線が、まっすぐになる。


〈出会いは偶然でも、“隣に座る”のは選択です。〉


 答辞の一節。あの日、体育館で震えた声。書き終えてこちらを振り向いたミサの顔は、当時よりも穏やかで、しかし目の光は同じだった。


「……あのとき、言い切れてよかった」


「言い切ったのは、すごいことだ」


「自分で自分をほめるの、むずかしい」


「俺がほめる」


「どうぞ」


「よくできました」


「雑」


「ほんとは大変よくできました、だけど」


「じゃあ金色のシール貼って」


「持ってない」


「今日、研究棟で金の紙輪を並べる」


「それで我慢して」


「我慢しない」


 先生がドアの外で「そろそろ」と声をかけてくれた。俺たちはうなずいて立ち上がる。もう一度だけ、椅子の背もたれをそっと撫でて教室を出た。廊下の光が薄く長い。靴音がふたつ。階段をおりるとき、ミサがふと立ち止まって、小さく言った。


「ねえ」


「うん」


「“満席”って、座ってる人数の話じゃないんだね」


「うん」


「その人が、ちゃんと“居る”ってことの証明なんだね」


「うん」


「じゃあ、未来の席も、もう満席」


「まだ椅子も机もないのに?」


「ある。気持ちの位置」


 それを聞いた瞬間、胸の中の予定表が一枚ふえた。今日の予定の最後の欄に、太い字で書くべきこと。〈未来の席、仮予約→本予約〉。どうやって書面化するかは、帰り道に考える。


 学校を出て、夕方の大学へ戻る。研究棟の一階に、飾り付け前の机が積まれていた。角に少し傷があって、天板に薄い線。ミサは迷いなく二つを選び、俺と一緒に運ぶ。並べる。高さがぴったり合う位置を探って、足の微調整をする。手の甲が軽く触れるたび、過去の距離が未来の距離にそのまま上書きされる感じがした。


「ここ」


「ここ」


 机が並んだ。上に、金色の紙輪をひとつずつ置く。紙輪のつるつるした手触りは、子どもの頃より丈夫で、でも、指にからまる静かな軽さは同じだ。


「完成」


「証明書、置いとく?」


「置く」


 ミサは鞄から小さな封筒を出した。中には、折りたたんだメモ。表には、丸い字。


〈“未来の席” 満席〉


 俺は笑って、胸ポケットからペンを取り出す。封筒の下に、一行を足した。


〈席替え禁止。延長自由。〉


「強気」


「強気でいこう」


「うん」


 窓の外は、もう夕暮れに傾いていた。研究棟のガラスがオレンジに染まり、廊下を歩く学生の影が長く伸びていく。ミサは椅子に腰掛け、軽く背もたれに体重を預けて、天井を見上げた。


「思ってたより、あっさり並んだね」


「難しいことは、難しく言わないほうがうまくいく」


「格言」


「今つくった」


「採用」


 そのとき、ミサのスマホが小さく震えた。画面を一瞬だけ見て、すぐ伏せる。眉がすこしだけ揺れる。


「だいじょうぶ?」


「うん。母。晩ごはんの時間」


「呼び出し」


「うん。でも――」


 ミサは立ち上がって、机の角を人差し指で軽く叩いた。


「毎日ここに座るわけじゃない。きっと、座れない日もある」


「あるな」


「でも、“隣”は減らない。座れなくても、減らない」


「減らない」


「心配性の自分に言ってる」


「届いた」


「届いた?」


「届いた。俺にも」


 廊下の時計が、ちょうどの時刻を指した。夜の入口の匂いが、窓から少し入る。ミサがカバンの肩ひもを握り直して、俺のほうを見る。ゆっくりと、いつもの合図。親指で、二回。


 俺も、二回。簡単で、強い。


「じゃあ、今日は帰る」


「送る」


「ううん、駅までひとりで大丈夫。……夜の満席、二十二時」


「了解。二回、二回」


 研究棟の扉のところで、ミサはふと振り返った。目が少しだけいたずらっぽくなる。


「最後に、もう一回、確認」


「なにを」


「未来の席」


 近づいて、机に置いた紙輪を指さす。金の輪が、夕陽の端で小さく光る。


「満席」


「満席」


 言葉は短くて、十分だった。ミサが歩き出す。廊下の足音が、階段で軽く跳ねる。外の風が頬を撫でて、そのあと少しだけ背中を押す。俺は並べた二つの机をもう一度だけ見て、目に焼きつけた。見失うのが怖いときは、写真じゃなくて、目で覚えると決めている。


 校門を出るころには、空に一番星が見えた。駅までの道で、学生たちの笑い声がしりぞいていく。信号待ちの横断歩道で、スマホが震えた。画面には短い文字。


〈また隣ね〉


 歩き出しながら、俺は親指で二回、画面を軽く叩いた。返信はしない。合図で足りる夜だって、ある。


 アパートに帰り、部屋の灯りをつける。机の右上にノートパソコンを置き、左上に、昔からの癖で空白を残す。その空白に、見えない札を立てる。“満席”。今日は二枚、立てる。研究棟の机と、この机。二十二時が来たら、窓を少し開けて空を見る。たぶん、ミサもどこかで同じ空を見ている。見えなくても、見る。二回、二回。


 呼吸が落ち着くと、部屋の音が急にやさしくなる。冷蔵庫の低い唸り、壁越しの水の細い音、遠くの電車の抜ける気配。全部が今日の“証明書”みたいだ。机の角を指で弾いて、俺は小さく声に出す。


「満席、更新」


 言い終わると、胸の奥の椅子が、きちんと音を立ててはまった気がした。未来は長机みたいに長いけれど、座れる場所は最初から決めておけば迷わない。たとえば、窓際二列目。たとえば、研究棟の一階。たとえば、大学のカフェの窓ぎわ。たとえば、どこでも。


 明日の予定表に〈買い出し〉と〈洗濯〉と並べて、もうひとつ小さく書き足す。


〈また隣〉


 書いた字を自分で見て、少し笑う。笑いながら、天井の白い輪を目に入れて、まぶたを閉じる。目を閉じても、席の位置は動かない。目を開けても、もちろん動かない。


 思い出す。はじまりの日の自分。運悪く最後にくじを引いて、十二番を引いた自分。窓際の二列目。右隣の椅子に座った、しゃべらないけれど距離の近い女の子。卵焼きの甘さ。雨の日の傘。体育祭のハチマキ。文化祭の紙輪。保健室の白いカーテン。夏祭りの手の温度。冬のマフラー。卒業式の答辞。遠距離の夜の満席。大学のカフェの“満席”。研究棟の“未来の席”。


 全部が一列に並んで、そこに、ずっと同じ名前が書かれている。


 その名前を頭の中で呼んでから、俺は最後に、いつもの一行をそっと置いた。


 ――だが、俺の隣は今日も満席だ。

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