第二十四話 卒業式と、“最後の隣”
朝、空気が違った。いつもの道の電柱も、家の前の自販機も、全部が一段だけ澄んでいる。吐いた息が細く伸びて、その先でほどける。コートのポケットに手を突っ込んだまま校門をくぐると、紅白の幕が風に揺れていた。いつ見ても、急に大事な人になったみたいに廊下が神妙な顔をする。
昇降口、濡れたマットは乾ききらずに黒っぽい。土の匂いが少しだけ混じっている。上履きに履き替える手元が落ち着かなくて、踵のゴムを一度引っ張ってから入れ直す。廊下の掲示板に貼られた今日の動線図――「卒業生入場」「在校生入場」「開式」「国歌」「卒業証書授与」「校長式辞」「来賓祝辞」「送辞」「答辞」「合唱」「閉式」。黒マジックの太さの差で、どこからが長く感じるかが分かる。俺の目はどうしても「答辞」と「合唱」に引っかかった。
教室に入ると、黒板には昨日の美術部女子が書いた花と、誰かの字で大きく「卒業おめでとう」。チョークの粉がまだ香って、ストーブの灯油の匂いがその上に薄く乗っている。机の上には名札と紅白のリボン。名札を胸につける手が、少し汗ばんでいた。
「おはよう」
聞き慣れた声。振り返る。窓際二列目、十二番。桐ヶ谷ミサは、いつもの席に座っていた。制服はいつも通りなのに、襟元の白がやけにまぶしい。髪はいつもより低い位置で結ばれていて、耳がすこし赤い。
「おはよう」
言い返すと、彼女は小さくうなずいて、机の引き出しから薄い封筒を出した。封筒の端がほんの少し丸まっている。
「……これ、今日返す。忘れないうちに」
中には、銀色の小さなフォーク。第五話の置き土産。丁寧に拭かれて、包まれていた。柄の裏には、小さな付箋が一枚、斜めに貼ってあった。〈借りました〉。字は俺のだ。昨夜貼ったものが、今朝、彼女の手に渡るだけで別の意味を持つ。不思議なことだ。
「ありがと」
「うん。……今日、泣いたら返すの遅れるところだった」
「泣く予定なの」
「予定表にはない」
ふたりで笑う。笑ったあと、少しだけ目をそらして、同じタイミングで深呼吸した。呼吸の形が合うだけで、今日は大丈夫な気がした。
担任の神谷先生が入ってきて、「おい、最後の点呼だぞ」と手を叩く。出席番号順に返事をする。どの「はい」も、いつもより背筋が伸びている。神谷先生は「今日で中学校は卒業です」と言ってから、間を取った。「でも人生は続きます。つまり課題も続きます。提出物も続きます。特にお前ら二名――」と、俺とタカヒロの名をわざとらしく呼び、教室は笑いに包まれた。最後の朝礼で、笑い方を思い出させてくれる先生は、ずるい。
体育館。入場の音楽が流れる少し前、幕の陰で列が整う。先頭のやつが緊張で肩をすくめ、後ろのやつがふざけて背中を軽く叩く。俺はミサと同じ列の真ん中あたり。行進の列は、隣に立つわけじゃないけど、気配は横にある。足の裏に板張りの硬さ。遠くから響いてくるリハーサルの残り香。体育館の天井はどこまでも高いのに、今日は低く感じる。人の目が集まる場所は、天井を引き下げる。
入場。拍手。椅子を引く音が一斉に重なって、すぐ消えた。校長式辞、来賓祝辞。言葉が丁寧に並び過ぎると、心が先に歩いていってしまいそうになる。卒業証書授与。名前を呼ばれる。返事が出る。壇上に上がる。受け取る。下りる。簡単なはずの手順が、今日だけは重かった。手の中の紙の重みが、本当に重い。壇上から戻る途中、ふと視界の端にミサの横顔が入る。胸元のリボンがほんの少し震えている。遠くない距離なのに、遠く見えた。
送辞。後輩の代表がしっかりとした声で読み上げる。「先輩方が残してくださったものを、私たちは受け取ります」。その「残してくださったもの」の中に、俺たちのくだらない紙輪の鎖も入るだろうか、と、どうでもいいことを考える。考えないと泣きそうだった。
答辞。マイクの前に、ミサが立つ。空気が少しだけ引き締まる。彼女は原稿を両手で持ち、最初の一文字に視線を落とす。それから顔を上げた。声は、思っていたより低く、やわらかかった。
「在校生のみなさん、先生方、保護者のみなさま。本日は私たちのために、このような……」
前半は、いつもの彼女の丁寧さだった。言葉を選ぶ速度が速過ぎず、遅過ぎず。数回、間を入れて、そのたびに体育館の空気が呼吸を真似した。最後の段落に入る手前で、彼女の声がほんの少しだけ震えた。紙が揺れたわけではない。空気が震えた。
「中学校での三年間、私たちはたくさんの偶然に出会いました。クラス替え、席替え、行事、雨の日の帰り道。偶然が私たちを隣り合わせにしました。でも――」
彼女は、そこで一度目を閉じた。顔を上げる。体育館の光が黒目に乗る。
「出会いは偶然でも、“隣に座る”のは選択だと、私はこの学校で知りました。私は、この席を選べて、幸せでした」
音になって届くまでの一瞬、時間の端が光った気がした。拍手の前の静寂。そこにだけ、世界が全部集まっていた。胸がぎゅっと縮み、目の奥が熱くなる。俺は下唇を軽く噛んで、すぐやめた。彼女の言葉が、俺の中の何かに直接結びつく。紙の輪っかみたいに、からんと音を立てて。
拍手。天井がわずかに震えて、光がきらきら邪魔をする。隣のタカヒロが袖で目をこすりながら、「なあ、俺、今すげえ名言聞いた気がする」と小声で言う。どうでもいいタイミングでそういうことを言うから、こいつは救われる。俺もつられて笑った。
合唱。「旅立ちの日に」。声が揃う瞬間が、好きだ。音程のずれがぴたりとはまって、体育館がひとつの楽器みたいになる。ミサの声は混ざって、見えない。でも、いる。それが分かるだけで助かる。二番のサビのところで、彼女がわずかに肩をふるわせた気がした。俺は前を向いたまま、拳を指先だけ軽く握る。合図は出さない。出さないで、同じ方向だけを見て歌う。歌い切る。音が消えて、拍手が戻る。拍手の波がゆっくり収まっていくのを、名残惜しく見送る。
閉式。礼。退場。体育館の扉の向こうは、昼の光が平らに伸びていた。出た瞬間、校舎の壁の冷たさが近くなる。クラスごとに教室に戻って、いつもの席に座る。黒板の「卒業おめでとう!」が、今しかない顔でこちらを見ている。机の中には、何もない。教科書もノートも、全部持ち帰った。空っぽのはずなのに、引き出しを開けて確認してしまう。癖は最後まで癖のままだ。
神谷先生が教壇に立って、「お前ら」といつもの声を出す。
「……まとめの言葉なんて、俺に似合わないからなし。最後にだけ言っとく。陰で掃除してたやつ、いつも笑わせてくれたやつ、誰も見てないとこで手伝ってたやつ、全部覚えてる。忘れない。お前らも、それぞれの“隣”を大事にしろ。それが難しかったら、真似からでいい。胸張っていけ」
拍手が自然に起こった。先生は照れたように笑い、「解散」と短く言った。ざわめきが廊下に流れだし、集合写真、花束、記念撮影、保護者の歓声、在校生とのハイタッチ。騒がしいのは平和の証拠だ。
ひととおりの騒ぎが終わった頃、教室に戻ると、もうほとんど誰もいなかった。廊下の音は遠く、ここだけ時間がまばらに落ちる。窓から入る光が、昨日吊るした紙輪を薄く透かす。赤が少しだけオレンジになって、白が少しだけクリーム色になる。黒板の端に、チョークの粉がうっすら。ストーブはもう消されていた。
ミサは、いつもの席に座っていた。背筋を伸ばし、両手を膝の上でそろえている。俺が近づくと、彼女は顔を上げた。
「……本番、する?」
声は小さい。でも、体育館よりずっと近い。俺はうなずく。喉が乾いて、息が少しだけ浅くなる。深呼吸を一度。胸の中で合図を二回。出さない。でも、出ている。
「うん」
隣の席から立ち上がって、彼女の机の前に回る。俺がいちばん言葉をなくしやすい距離。ここで何度も、会話を始めてきた。始めるたびに、少しずつうまくなってきた。今日は、練習じゃない。
目を見る。黒目の先に、俺が映っている。その周りに、教室の白と黒と赤が混ざっている。視界が狭くなる。でも、迷わない。声を置く場所は、知っている。
「好きだ」
短く、正面から。音としては小さいのに、言ったあと、体育館の天井くらいの広さで響いた。心臓が、ひとつ分跳ねて、そのあとは落ち着く。落ち着いた気がした。自分でも驚くほど、言い切ったあとに、余計な言葉がいらなくなった。
ミサは、ゆっくり瞬きをした。瞬きの間が、今まででいちばん長く感じた。次に目を開けたとき、口元が、ほんの少しだけ上がっていた。
「……満席、更新ね」
ああ、と思う。言葉の選び方で全部分かる。彼女の中で“満席”は、もう名詞というより動詞に近い。今の瞬間、満席は更新された。空席は、また遠ざかった。
それから、彼女は小さな声で続けた。
「好き。……本番、成功」
笑ってはいけない場面じゃないのに、笑いが出る。彼女も笑う。笑い方が、ちょっと泣き方に似ている。笑いながら、彼女は立ち上がった。距離が、半歩縮む。
「証拠」
彼女は、制服のポケットから細い金色の紙輪を一つ取り出した。昨日、最後にホチキスで留めたやつの予備だろう。軽く丸みを整えて、俺の手のひらにそっと乗せる。
「これ、渡せたら渡そうと思って、持ってきた」
「俺も」
ポケットから、銀色のフォークを取り出す。ティッシュから外して、そっと差し出す。彼女は、目を丸くしてから、すぐに笑った。
「ずる」
「誉め言葉」
「……じゃあ、やり直し」
「なにを」
「交換の順番」
彼女は金の輪を一度戻して、もう一度俺に差し出した。俺はそれを受け取り、代わりにフォークを渡す。たったそれだけの行為なのに、何年分ものやり取りに区切りがついたみたいに胸が軽くなる。
「ありがと」
「こちらこそ」
「次の“隣”に持っていく」
「うん」
彼女は机に両手を置いて、少しだけ身を乗り出した。額と額が触れるほどには近づかない。けれど、手の甲がかすかに触れる。触れて、二回、親指で合図。俺も、同じ場所に二回。返事が重なる。
「卒業、おめでとう」
「おめでとう」
「……これからも、隣ね」
「もちろん」
窓の外、校庭ではまだ写真が続いている。どこかでハルカが大声を出し、タカヒロが「俺も混ぜろ」と叫んでいる。騒がしいのに、この教室は静かだ。静かさを壊すのがもったいなくて、俺たちはしばらく黙っていた。黙っている間も、紙輪は微かに揺れて、光はゆっくり位置を変える。
「行こっか」
ミサが言った。声は平常運転に戻っていたけれど、体温だけが少し高い。俺たちは席から離れ、扉の前で一度だけ振り返る。並んだ二つの机。黒板の「卒業おめでとう」。昨日貼った付箋が、黒板の脇でひらひらしている。ミサが背伸びして貼った付箋も、そこにある。何が書いてあるのか、結局最後まで見えなかった。
廊下に出る。階段を下りる。階段の踊り場の窓ガラスには、俺と彼女の肩が並んで映った。外は明るい。三月の光は薄くて、やさしい。
昇降口で立ち止まり、上履きを脱ぐ。靴箱にしまう最後の動作が、やけに丁寧になる。俺の指は少し震えていて、ミサの指はもう震えていない。靴ひもを結び終わって、立ち上がる。外気が顔を撫でる。
「写真、一枚」
「うん」
校門の前。紅白の幕の前は人が多いので、少しずらして、いつもの通学路のはじまりのところで。スマホを自撮りモードにして、肩が軽く触れるくらいまで近づく。シャッター音が鳴る直前、彼女が小さく囁く。
「……ねえ」
「なに」
「今の“好き”、録音した?」
「してない」
「そっか。……じゃあ、また言わせて」
「言わせるの」
「うん。何回でも」
シャッターが切れる。画面の中の俺たちは、少しぎこちないけれど、目の高さが揃っている。背景には、校舎の白と、空の薄い青。スクリーンの向こう側みたいだ。保存して、ロック画面に設定するか迷って、やめた。今は、ここに居る時間をそのまま持っていたかった。
校門を出ると、風が少し強くなった。マフラーは今日は家に置いてきた。彼女はポケットから薄手の手袋を取り出して、片方を俺に渡そうとする。俺は首を振る。
「いい。……その代わり」
「なに」
「手」
言いながら自分でも笑ってしまう。彼女も笑って、そっと手を差し出した。指先が触れて、からむ。掌の温度は、冬の最後の日の温度だ。冷たくもなく、暑くもない。ちょうどいい。歩き出す。靴音が同じリズムになる。教室で何度も合わせた呼吸が、通学路でもそのまま残る。
「ねえ」
「うん」
「“最後の隣”って、今日のこと?」
「……今日の“隣”は最後。けど、“隣”自体は続く」
「上手い」
「誉め言葉でしょ」
「うん。……じゃあ、こう言う」
彼女は少しだけ歩幅をゆるめ、顔をこちらに向けた。
「“最後の隣”を終わらせて、“これからの隣”にする」
「採用」
「はやい」
「今日だけ特別」
「毎日特別にして」
「検討」
笑いながら歩く。信号はタイミングよく青になり、コンビニの前のガラスには、さっきの写真より少し近い俺たちが映る。通り過ぎる小学生が、卒業式の花束を持ってはしゃいでいる。世界は、平和の片づけをしながら次の準備を始めていた。
分かれ道。彼女の家へ行く角で、立ち止まる。手を離す前に、親指で二回。二回。今日ほど、この合図がはっきり聞こえた日はない。彼女も、同じ場所に二回。
「また明日」
「また明日」
「入学式、遅刻しないで」
「桐ヶ谷も」
「ミサ」
「……ミサ」
「合格」
言い慣れた名前を、今日だけは少しだけゆっくり言う。名前には、席の指定券みたいな効き目がある。呼ばれるたび、自分の席に戻れる。
彼女が角を曲がる。振り返らない。振り返らないのに、手を振りたくなる。振らない。ストレートでいい球を投げたあとは、見守るだけ。そういうのが格好いい、と昨日決めた。格好つけが似合う日が、一年に一度くらいはあっていい。
家に向かいながら、ポケットの中のスマホが軽く震えた。画面を開く。メッセージが一件。
〈満席、更新〉
短い。短いほど、長く効く。道路脇の植え込みに残った雪が、日の光でゆっくり縮んでいく。その速度と同じくらいの速さで、胸の中の緊張も縮み、代わりに温度が広がる。
返す。
〈こちらも、更新済み〉
送って、スマホを眠らせる。ポケットの中で、まだ微かに温かい。空を見上げる。雲がちぎれて、青が広がっていた。たぶん明日は、少し風が強い。強い風の中でも、歩幅が合うなら心配ない。もし合わない日が来たら、減速すればいい。誰かが前を歩き過ぎたら、手を伸ばせばいい。寒くなったら、満席の札を裏返さずに握り直せばいい。
玄関の前に立ったとき、ふと振り返る。通ってきた道が一枚の写真みたいに、平らになって見えた。そこに、今日の俺たちの靴跡が重なっている気がした。実際には残っていない。でも、残っている。そういう跡で、十分だ。
玄関の扉を開ける前に、小さく声に出してみる。
「だが、俺の隣は今日も満席だ」
声は扉に吸い込まれ、家の匂いと混ざって消えた。消えたあとに残るもののほうが、案外長持ちする。靴を脱いで、深呼吸を一つ。今日が終わる。けれど、終わりが続きの前に置かれているだけだと、ようやく理解する。扉を閉める音が、小さく、軽く響いた。明日へ向けての準備運動は、もう始まっている。




