第九章 実り祭
第九章 実り祭
小春が、冷蔵庫に貼った紙を指さした。
「兄ちゃん、今日やで」
「知ってる」
「忘れてへん?」
「昨日も聞いたやん」
紙には大きく、実り祭と書かれていた。
その下に、神輿の出る時間や、境内で開かれる催しが並んでいる。
陽太が航平の横からのぞいた。
「お父さん、いつ帰るん?」
「夕方。先に行っといてええって」
「お母さんは?」
「あとで来る」
双子は顔を見合わせた。
「ほな、もう行ける?」
小春に聞かれ、航平は洗った皿を棚へ戻した。
「俺の手ぇが乾いたらな」
*
財布を開き、千円札を一枚出した。
双子には、母がそれぞれ小さな財布を用意していた。使っていい分だけ入れてある。
航平も、自分の財布から余分なお金を出して机へ置いた。
祭りへ持っていくのは、千円と小銭。
屋台の焼きそばくらい食べられたらよかった。
「どちらへお出かけでしょう」
卑弥呼が尋ねた。
「祭り」
勾玉をポケットへ入れる。
卑弥呼は冷蔵庫の紙を見た。
「実りを、お祝いするのでしょうか」
「そうちゃうかな。毎年やってるやつ」
「毎年……」
卑弥呼が考えている間に、陽太が玄関から呼んだ。
「兄ちゃーん!」
「今行く」
航平は卑弥呼へ目を向けた。
「人、多いで」
卑弥呼は少し困った顔をした。
けれど、ポケットの辺りを見て、静かにうなずいた。
*
神社へ近づくと、太鼓の音が聞こえてきた。
道沿いに屋台が並んでいる。
焼きそば、たこ焼き、りんご飴。
甘い匂いと、ソースの匂いが一緒に流れてきた。
陽太が航平の手を引いた。
「射的ある!」
「あるな」
「やってええ?」
「まず全部見てから。使ったらなくなるで」
小春は反対側で、りんご飴を見ていた。
真っ赤な飴が、棒に刺さって並んでいる。
「兄ちゃん、これ食べたら歯も赤なる?」
「なるかもな」
「舌も?」
「食べたら分かる」
航平の後ろで、卑弥呼が小さく声を上げた。
すれ違った人に、びっくりしたらしい。
航平は少し振り返った。
卑弥呼は袖を胸の前へ寄せていた。
「ぶつからへんからな」
小声で言う。
「……はい」
返事をしても、避けずにはいられないようだった。
航平は双子の手を引き、人の流れの端へ寄った。
*
通りの向こうから、掛け声が上がった。
陽太が背伸びをする。
「来た!」
神輿だった。
金色の飾りが、担ぎ手の肩の動きに合わせて揺れている。
道沿いの人たちが脇へ寄り、双子も航平の前に並んだ。
「押したらあかんで」
「押してへん」
小春がすぐに答えた。
航平は二人の後ろから神輿を見た。
去年も、その前も見ている。
今年は陽太を抱き上げなくてもよくなった。
小春も、自分で人の隙間を探していた。
神輿が近づく。
卑弥呼が、急に黙った。
さっきまで、人が横を通るたび小さく身を引いていたのに、動かない。
航平が見ると、神輿の上を見つめていた。
「どしたん」
卑弥呼が航平のほうへ顔を向けた。
口を開け、閉じる。
もう一度、神輿を見た。
「……あちらに」
「神輿?」
「女の子が……」
航平も見上げた。
飾りはある。
人は乗っていない。
「どこ?」
「お屋根のところに、お座りになって……」
卑弥呼の声が細くなった。
航平は神輿の屋根を見た。
やはり、誰もいなかった。
卑弥呼が一歩下がった。
「この世ならざるものと、目が合うてしまいました〜」
「……あんたもな」
卑弥呼が振り返った。
航平と目が合った。
少しの間、二人とも黙った。
「……そうでした」
神輿は二人の前を通り過ぎ、境内へ向かっていった。
*
小春が航平を振り返った。
「兄ちゃん、誰と喋ってるん?」
「ちょっと独り言」
「独り言、多いな」
陽太にまで言われた。
「ほな、屋台見よか」
航平は話を変えた。
双子はすぐに金魚すくいの前へ向かった。
水槽の中を、赤い金魚が泳いでいる。
陽太がしゃがみ、小春も横へ並んだ。
航平は二人の後ろへ立った。
卑弥呼は、まだ神輿のほうを見ていた。
境内へ入った神輿は、いったん下ろされたらしい。担いでいた人たちが汗を拭き、飲み物を受け取っている。
「まだおるん?」
航平が小さく尋ねた。
「はい」
「どんな子?」
卑弥呼は神輿へ目を向けたまま答えた。
「小春さんたちと、同じくらいに見えます」
航平はもう一度、屋根を見た。
何も見えない。
卑弥呼が言葉を続けた。
「せやけど……浮かないお顔を、なさっています」
小春が金魚を指さした。
「これ、ちっちゃい」
「こっち、黒いの」
陽太が言う。
卑弥呼の視線が双子へ移り、それから神輿へ戻った。
「皆さん、楽しそうですのに」
航平は双子を見た。
金魚を見ているだけで、二人とも楽しそうだった。
「……あの子、どうしたんでしょう」
卑弥呼が、ぽつりと言った。
航平はポケットの上から勾玉を押さえた。
「聞いてみたら?」
卑弥呼がこちらを見た。
「私が、ですか」
「俺には見えへんし」
「せやけど、初めてお会いする方ですし……」
「それは向こうもやろ」
卑弥呼は神輿を見た。
航平が金魚の水槽へ向き直ると、二人分の顔が上がってきた。
「兄ちゃん、やってええ?」
「一回、いくら?」
小春が屋台の札を指さした。
航平は金額を見て、双子の財布を思い出した。
「これやったら、その分ほかのはできへんで」
二人は水槽へ目を戻した。
相談が始まる。
航平がそれを待っていると、卑弥呼が小さく声をかけた。
「……近くまで、行っていただけますか」
神輿のそばへ行きたいらしかった。
航平は双子へ言った。
「ちょっと神輿のとこ行こか。考えといて」
「もう一回見るん?」
「うん。もう一回」
双子と一緒に、境内へ入った。
卑弥呼は航平の横で、袖を整えた。
神輿が近づくと、歩みが少し遅くなった。
「……あの」
誰もいない屋根へ、卑弥呼が声をかけた。
航平はその顔を見ていた。
卑弥呼が小さくうなずく。
何か聞こえたらしい。
「はい。私には、見えております」
卑弥呼はもう一度うなずき、航平のほうへ顔を寄せた。
「……こちらの神様やそうです」
航平は屋根を見上げた。
金色の飾りが、夕方の光を受けていた。
「神さん?」
「五穀豊穣の」
卑弥呼は、また屋根へ向き直った。
「お祭り、何かお困りのことが……?」
返事を待つ間、太鼓の音が聞こえていた。
双子は神輿の飾りを見ている。
卑弥呼の表情が、少し変わった。
困ったような、意外そうな顔だった。
「航平さん」
「うん」
「こちらの神様、お祭りで遊んだことがないそうです」




