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三章 赤子を失った主婦①

六月に入ってから、事務所の窓を開ける回数が増えた。

けれど、開けたところで入ってくるのは涼しい風ではない。湿った空気と、道路の熱と、どこかで降りそびれた雨の匂いだった。

紙屋町の方へ向かう路面電車の音も、いつもより重く聞こえる。

瀬尾明里は、窓際に置いた小さな観葉植物を見下ろしていた。

「片桐さん」

「うん」

「この子、元気ないです」

片桐亮介は、机の上の修理依頼票から顔を上げた。

「水をやりすぎたのでは」

「昨日、水をあげたの片桐さんですよね」

「そうだったかな」

「そうです」

「では、水をやりすぎたんだろうね」

「他人事みたいに言わないでください」

明里は鉢を少し持ち上げ、受け皿に溜まった水を見た。

「根腐れしたらどうするんですか」

「植物も腐るんだね」

「片桐さん」

「はい」

「余計なことを言う前に?」

片桐は机の正面に貼られた紙を見た。

余計なことを言う前に、三秒待つ。

一秒。

二秒。

三秒。

「気をつけます」

「よろしい」

明里は満足そうに頷いた。

先日から始まった片桐真人間計画は、遅々として進んでいない。

それでも、まったく進んでいないわけではなかった。

たとえば、片桐は「使わないなら捨てればいい」と言う前に三秒待てるようになった。

たとえば、「ひどい顔色ですね」と言う前に、少しだけ眉を寄せるようになった。

そしてたまに、その三秒の間に明里が止められるようになった。

大きな進歩である。

本人はあまり分かっていないようだったが。

「今日は午前中に、網戸の張り替えが一件。午後から家具の移動が一件です」

明里は予定表を確認しながら言った。

「噂の方は?」

「予約はありません」

「予約制ではないけどね」

「だから困るんです」

明里は小さくため息をついた。

「できれば、普通の便利屋だけで回せるほうがいいと思います」

「そうだね」

「片桐さんが素直だと、少し怖いです」

「では、なかったことに」

「しません」

そのやり取りにも、少し慣れてきた。

明里は湯呑みを二つ並べた。

片方は片桐のもの。

もう片方は明里のもの。

来客用の湯呑みは、その横に三つ。

お茶請けの缶には、今度こそせんべい以外のものも入っていた。小さな羊羹。個包装のクッキー。甘いせんべい。しょっぱいせんべい。

片桐が選んだものではない。

明里が買ってきた。

片桐に任せると、世界がせんべいで埋まる。

ドアベルが鳴ったのは、明里が缶のふたを閉じた時だった。

ちりん、と音がした。

いつもの音だった。

けれど、事務所に入ってきた空気は、少し違っていた。

「いらっしゃいませ」

明里が顔を上げる。

入口に立っていたのは、三十代前半くらいの女性だった。

薄い灰色のカーディガン。白いブラウス。膝丈のスカート。髪はひとつに結ばれているが、結び目が少し緩んでいる。

身なりは整っていた。

頬はこけている。目元には濃い隈がある。唇の色も薄い。

腕には、小さな柔らかそうな布の袋を抱いていた。

「あの」

女性は、事務所の入口から動かなかった。

「ここで、ひとつだけ、なかったことにできるって」

声がかすれていた。

明里の手が、湯呑みの上で止まった。

片桐が立ち上がる。

「片桐です。どうぞ」

女性は小さく頷き、事務所の中へ入った。

歩き方が、ひどく静かだった。

まるで、自分の足音で何かを起こしてしまうのを怖がっているようだった。

明里がソファへ案内する。

女性は座る前に、一度だけ布の袋を抱き直した。それから、ゆっくり腰を下ろした。

明里はお茶を淹れた。

熱すぎないように、少しだけ冷ましてから持っていく。

湯呑みの横には、小さな羊羹を一つ添えた。

「熱くはないと思います。でも、無理に飲まなくて大丈夫です」

女性は湯呑みを見た。

それから、かすかに頭を下げた。

「ありがとうございます」

片桐が向かいに座る。

「お名前を伺っても?」

女性は、布の袋を膝の上で抱いた。

「五十嵐です。五十嵐、麻美」

「五十嵐さん。今日は、どういったご依頼で」

麻美は、すぐには答えなかった。

その沈黙は、これまでの依頼者とは少し違っていた。

言葉を探しているというより、言葉にしてしまったら何かが決まってしまうことを恐れているようだった。

片桐は待った。

明里も待った。

窓の外を、路面電車が通る。

その音が遠ざかってから、麻美はようやく口を開いた。

「死んだ人は」

明里の息が、ほんの少し止まった。

麻美は顔を上げなかった。

「戻らないって、本当ですか」

片桐は、すぐに答えた。

「本当です」

短く、誠実な答えだった。

麻美の指が、布の袋を握りしめる。

「そう、ですか」

「亡くなった方を、生き返らせることはできません」

片桐は言った。

「起きたことも、残った結果も、変わりません」

「結果」

麻美はその言葉を小さく繰り返した。

明里は、片桐を見た。

片桐の声は静かだった。

冷たいわけではない。

けれど、逃げ場を作らない声だった。

「なかったことにできるのは、あなたがした選択です。その選択が、あなたの中でどんな後悔として残っているかです」

麻美はしばらく黙っていた。

それから、ゆっくり頷いた。

「分かっています」

声が震えていた。

「分かって、来ました」

明里は、湯呑みの湯気を見ていた。

消えそうなほど薄い湯気だった。

「それでも、いいんですか」

明里は、気づいた時には口を開いていた。

麻美が、初めて明里を見た。

明里は自分の声が少し強くなったことに気づいた。けれど、引っ込めなかった。

「亡くなった人は戻りません。昨日のことが変わっても、今ここにある悲しみは消えないかもしれません。それでも、いいんですか」

麻美は明里を見ていた。

怒るでもなく、責めるでもなく。

ただ、ひどく疲れた目で。

「いいんです」

麻美は言った。

「悲しみが消えないのは、いいんです」

布の袋を抱く手に、力が入った。

「悲しさをなくしたいわけじゃないんです」

明里は何も言えなくなった。

「私が」

麻美の声が、細くなった。

「私が殺したって思うのを、なくしたいです」

事務所の空気が、少しだけ重くなった。

片桐は表情を変えなかった。

けれど、机の下で握った手に、わずかに力が入った。

「何があったのか、伺っても?」

麻美は、目を伏せた。

「昨日の朝です」

昨日。

片桐はその言葉を、頭の中で受け止めた。

「息子が、泣いていました」

麻美は言った。

「まだ、四か月で」

明里は、膝の上の布の袋を見た。

小さな袋だった。

四か月の赤ん坊のものなら、服も靴下も、きっとそこに収まる。

「夜中から、何度も起きて。泣いて、授乳して、寝たと思ったらまた泣いて。夫は夜勤でいなくて。私も、ほとんど寝てなくて」

麻美の声は、淡々としていた。

淡々としているからこそ、今にも崩れそうだった。

「朝方、また泣いたんです」

彼女は唇を噛んだ。

「分かってたんです。起きなきゃって。抱っこしなきゃって。おむつかもしれないし、暑かったのかもしれないし、苦しかったのかもしれない」

明里の手が、無意識に膝の上で握られる。

「でも」

麻美の声が、かすれた。

「もう少しだけ、って思ったんです」

その言葉は、小さかった。

けれど、事務所の中にはっきり落ちた。

「もう少しだけ寝かせて、って。泣いてるの、聞こえてたのに。すぐ隣の部屋だったのに。私、目を閉じて」

麻美は喉を鳴らした。

「気づいたら、静かになっていました」

明里は息をするのを忘れた。

「静かになったから、寝たんだと思いました。安心したんです。よかったって。やっと寝たって」

麻美の目に、涙が浮かんだ。

それでも彼女は泣かなかった。

泣く力も残っていないように見えた。

「それから、しばらくして見に行ったら」

言葉が途切れた。

片桐は待った。

三秒どころではない。

何秒でも、何分でも、待つ顔だった。

「息を、してなくて」

麻美は膝の上の袋を強く抱きしめた。

「救急車を呼んで。心臓マッサージも、教えてもらいながらやって。病院にも行って。でも、駄目で」

涙が一つ、頬を伝った。

「お医者さんは、私のせいじゃないって言いました。誰のせいでもないことがあるって。夫も、責めませんでした。母も、責めませんでした」

麻美は笑った。

笑おうとして、失敗した顔だった。

「でも、私が聞いていたんです」

声が震えた。

「あの子が泣いていたのを」

明里の胸が痛んだ。

片桐は静かに言った。

「あなたが、なかったことにしたいのは」

麻美は、顔を上げた。

「昨日の朝、泣いていたあの子を、すぐに抱き上げなかったことです」

片桐は黙っていた。

「それを、なかったことにしてください」

麻美は言った。

「あの子が戻らないのは、分かっています。でも、私があの子を見殺しにしたって、毎秒思うのを、もう」

そこで、初めて声が崩れた。

「もう、やめたいんです」

明里は、喉の奥が熱くなるのを感じた。

何か言いたかった。

やめた方がいい、と言いたかったのかもしれない。

それでもいいと思います、と言いたかったのかもしれない。

どちらも違う気がした。

片桐は、契約書を取り出した。

その動作は、いつもと同じだった。

けれど、明里には、その紙がいつもより重く見えた。

「依頼料は先払いです」

片桐は言った。

「説明を受けたこと、事実そのものは変わらないこと、望んだ結果が保証されないこと。その確認として、契約書にサインをいただきます」

麻美は頷いた。

明里は封筒と万年筆を用意した。

指先が少し震えていることに、自分で気づいた。

「ゆっくり読んでください」

明里は言った。

声が、少し震えてしまった。

「分からないところがあれば、聞いてください」

麻美は契約書を読んだ。

その目は、文字を追っているようで、どこか別の場所を見ているようでもあった。

布の袋は、ずっと膝の上にある。

明里は、その中身を見ないようにした。

見てはいけないもののような気がした。

麻美は財布を取り出した。

封筒に依頼料を入れる。

明里が受け取り、金額を確認する。

封筒に日付と名前を書いた。

五十嵐麻美。

金庫に入れる時、鍵の音がやけに大きく響いた。

麻美は契約書にサインをした。

字は震えていなかった。

震えないように、強く押しつけて書いた字だった。

片桐は契約書を確認した。

「最後に、もう一度伺います」

「はい」

「あなたが、なかったことにしたいのは何ですか」

麻美は、布の袋を抱いたまま答えた。

「昨日の朝、泣いていた息子を、すぐに抱き上げなかったことです」

「それを、なかったことにする」

「はい」

「亡くなった息子さんは、戻りません」

片桐は言った。

明里は息をのんだ。

けれど、麻美は目を逸らさなかった。

「はい」

「昨日の朝に起きたことも、今ここにある結果も、変わりません」

「はい」

「本当にいいですね」

麻美は、一度だけ目を閉じた。

そして、頷いた。

「お願いします」

片桐は目を閉じた。

明里が一歩下がる。

事務所の空気が変わる。

雨が降っていないのに、雨の匂いがした気がした。

片桐は、麻美の言葉を頭の中でなぞった。

昨日の朝。

泣いていた息子を、すぐに抱き上げなかった。

それを、なかったことにする。

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