10話 憂鬱な雨
隣町にレモンを売りに行った翌日。眠りから目覚めたばかりのぼんやりとした頭で、今日のアリーチェは機嫌が悪いのではないだろうか、と考える。
なにしろ好きでもない相手と婚約者だと勘違いされてしまったのだ。...それも、町中の人々に。
機嫌の悪いであろう魔女サマを思うと足取りは重かったが、支度をしてのろのろと城の居間へと向かう。
「あれ、君1人かい?」
居間にはナタリーナがポツンとテーブルに肘を着いて座っていた。
「......」
相変わらずナタリーナは俺のことが嫌いらしく、素っ気ない。返事が返ってくればいいほうだ。その返事も憎まれ口なのだけれど。
「ナタリーナ、アリーチェはまだ寝ているのかな?」
返事は期待していなかった。会話をしようというただのポーズだ。
「………今日は、雨だから」
予想外に返事が返ってきたので、逆にこちらが驚いてしまう。
「雨?アリーチェは雨が嫌いなのかい?」
「………」
ナタリーナはまた黙ってしまった。しかし、何故か俺の目をじっと見た後、深く息を吐き出して椅子から立ち上がった。
「...着いてこい」
そう言うと、もう視線も合わせずどこかに向かって歩き出す。よく分からないがついて行くと、部屋の扉の前で立ち止まった。
「アリーチェはこの部屋にいる...お前なら、もしかしたら」
目を伏せたナタリーナは憂いを帯びた眼差しで、言葉の途中で口をつぐむ。
「なんだい?」
「いや、なんでもない。早く行け、人間」
いつもの口調に戻った彼女は会話を打ち切ると、居間に向かってずんずんと歩いていってしまった。
他にどうすることも出来ないので、とりあえず目の前の扉をノックする。
「リーナか?入っていいぞ」
ナタリーナが来たと勘違いしているようだが、とりあえず話をしようと少し扉を開けた。
「...司教様?」
窓辺の椅子に腰掛けて憂鬱そうに窓の外を眺めていたアリーチェが、こちらに振り向く。そして、入ってきたのがナタリーナでないと分かると、驚いたように目を丸くした。
「ごめん、アリーチェ。ナタリーナに案内されてここに来たんだけど...。来たのが俺だと分かると開けてもらえない気がして、声をかけそびれてしまったんだ」
「開けてもらえないって、どうして?」
「いや、昨日の今日だからね。婚約者なんかに間違えられて怒っているんじゃないかと...アリーチェ?」
俺の言葉を聞いてアリーチェは笑い始める。何かおかしなことでも言っただろうか?
「おかしな奴だな、司教様は。そんなことで怒ったりしない。...それにしても、リーナが案内してきたのか」
アリーチェは思案するように少し目を閉じて、息を吐き出した。
「...リーナには心配をかけてしまったみたいだな。司教様、扉の前で立っていないで私の隣に来たらどうだ?」
アリーチェは隣の椅子を指さしてみせる。
「いいのかい?」
「駄目だったらこんなことは言わないだろう。早く座るといい」
その言葉に甘えて、アリーチェの隣に腰を下ろすと静かに質問を投げかけた。
「ナタリーナに聞いたんだ。アリーチェが来ないのは雨だからだって。君は雨が嫌いなのかい?ああ、勿論答えたくなかったら答えなくていいよ」
「司教様、そんなに気を使わなくていい。別に雨は嫌いじゃないぞ?作物にとって恵みの雨だ。...ただ、私は自分が濡れるのがどうしようもなく嫌なんだ」
アリーチェは俺の方を見て、弱々しく笑った。
「...私が異端者だと言われて捕らえられ、異端審問にかけられた時。私の家族は必死に抗議してくれたんだ。父さんも母さんも兄さんも、弟まで、皆。皆、私のことを深く愛してくれていた」
そこで言葉を区切ると、アリーチェは口を手で覆った。
「私の審議は『水審』だった。3回水につけられて、私は苦しくなってもがいてしまった。そして引き上げられた時には周りはゾッとするほど冷たい目をしていた。そして私に言ったんだ、お前は“魔女”だと」
「君は本当の魔女なんかじゃなかったんだね」
「魔女じゃない、か。司教様のような事を言ってくれる人は誰もいなかった。私の家族だけはそれでもなんとか助けようとしてくれていた。なのに」
アリーチェはしゃっくりあげて言った。
「私が壊したんだ、街も、人々も、助けようとしてくれた家族さえも!私は本当に魔女になってしまった。大切なものはもう何一つ残っていないんだ」
「アリーチェ...!」
大きな碧の瞳からとめどなく涙を流すアリーチェを見て、俺は無意識に彼女を抱きしめていた。
「君は悪くない。誰も言ってくれないなら俺が言うよ。教皇である俺が、君を赦すと」
「駄目だ、ロレン。私は赦されない。赦されてはいけないんだ...」
しとしとと雨が落ちる音が静かな部屋にやけに響いた。アリーチェが泣き止むまで俺はずっと彼女を抱きしめていた。




