第90話 竜の帰還 (Side:シャロン)
光の鎖が、竜の巨体を四方から縛り上げていた。
それでも枷は軋んでいる。搦め捕られた四肢が、みしり、みしりと鎖を軋ませ、今にもほどけそうに震えていた。古代魔法を宿した体を、禁術の拘束だけで抑えきれるものではない。それは予想していた。
カルロが、雪の下に仕込んでいた魔道具を次々と発動させる。地に描かれた紋様のあちこちで光が弾け、鎖が二重、三重へと編み増されていく。それでも足りないとばかりに、彼はありったけの魔力を注ぎ込み、両腕を突き出して竜を押さえつけていた。額に汗を滲ませ、歯を食い縛っている。
――ここまでしても、竜を鎮められるわけではない。
枷が保つのは、きっとほんの束の間。迷っている時間はない。
私は雪を蹴って、巨大な竜へ、まっすぐに駆け出した。
近づくほどに、竜は大きかった。見上げるほどの巨体が、鎖の中で身をよじり、苦しげに喉を鳴らしている。
その一つ一つの鱗が、光を鈍く弾いていた。かつて、私を膝に乗せて本を読んでくれた人が、今はこんな姿で苦しんでいる。胸の奥が、ぎゅうと絞られた。
けれど、哀愁に囚われている場合ではない。
私は鎖の隙間を縫って、躊躇うことなく竜の傍らへ駆け寄った。ざらついた前脚に、そっと手を伸ばす。
――手が触れた瞬間、竜が、びくりと身を引いた。
喉の奥から、地を這うような唸りが漏れる。鎖を軋ませ、大きな体をよじって、竜は距離を取ろうとした。まるで、自分の爪が、牙が、うっかり私を傷つけてしまうのを恐れるように。
それは、決して払いのけようとする動きではなかった。
振り上げた爪を寸前で止めた、あの時と同じ。竜は――兄は、私を害することを、拒んでいる。
「……大丈夫です、お兄様。どうか、逃げないで」
異形の姿になっても、兄は兄のままなのだ。世界で一番私を愛し、あらゆる害悪から守ろうとしてくれる、私だけの英雄。
つんとする鼻の奥をごまかしながら、私は逃げる巨体を追って、もう一度手を伸ばした。
指先が、鱗に触れる。
――冷たい。
硬く、大きな鱗。生まれて初めて知る感触。
その冷たさへ、私の掌から、熱がひとりでに滲み出していく。器に変えられた私の内側から、行き場を失っていた竜の力へと、道が繋がっていくような――そんな感覚。
乱れた力が、正しい器へと収まっていく。
けれど、力を収めるだけでは足りない。竜の意識に呑まれかけているお兄様自身が、帰ってこようと思ってくれなければ。
私は、そっと鱗に額を寄せた。
「……お兄様」
覚悟と共に切り出したはずなのに、喉の奥が、ひくりと鳴った。
私は、震える声を無理やり笑みの形に均す。
本心を押し殺す貴族の仮面ではない。――兄への信愛を心から示すための、笑み。
「ありがとうございます。私はずっと、ずっと、お兄様に守られてきました。一年前の、あのときも――」
鱗の下で、竜の呼吸が、わずかに揺れた気がした。
この一年、何度も夢に見た。
あの儀式の日――何が起きているかなんて、微塵もわからなかったはずなのに、兄は迷わず身を投げ出して、私の代わりに竜になった。自分の一切を差し出して、私を生かした。
ずっと、そうだった。
兄だけではない。私の周りでは、いつも誰かが、私の代わりに傷ついてきた。
でも――守られるためだけの存在では、もう、いたくない。
「私……成長、したんです。強くなったんですよ。剣を帯びて、カルロと一緒に国中を回りました。初めての人とも、臆せず話せるようになりました。レーヴ家の御令嬢とは、お友達になったんですよ」
竜の目が、ゆっくりと私を捉えた気がした。
優しい、大好きな、兄と同じ、薄青の瞳。
「社交デビューだって乗り越えて――お兄様の代わりに、当主を務める覚悟を決められるほどになったんです」
ぎゅっと瞳を閉じる。
「もう、お兄様がいないと何もできない子供じゃないです。でも……それは、お兄様がいなくてもいい、ってことではないんです」
竜が、低く喉を鳴らした。
拒むでも、応えるでもない、迷うような音。
少し離れた場所で、カルロが呻いた。食い縛った歯の隙間から、荒い息が漏れている。軋む拘束を、彼が渾身の魔力で繋ぎ止めているのが、見なくてもわかった。
――まだ、足りない。
私は、鱗に添えた手に、そっと力を込めた。
伝えなければならない、一番大切な言葉が、まだ残っている。
私は、鱗に額をつけたまま、口を開いた。
――誰よりも慕う兄に、ずっと、伝えたかったこと。
「お兄様には――私の隣で、笑っていてほしいんです」
風が、止んだ気がした。
「私が助かればいい、なんて思わないでください。私が助かっても、そこに笑顔のお兄様がいなかったら――私は、幸せになれないんです」
声が、震えた。もう、笑みの形に均すことも、できなかった。
「大好きです、お兄様。――カルロと三人で、一緒に、帰りましょう……?」
その時――掌の下で、鱗が、じわりと熱を持った。
私の内側から溢れた熱と、竜の暴れる力とが、混じり合い、溶け合っていく。行き場を失っていた力が、正しい器へと――私の中へと、静かに流れ込んでくる。
薄青の巨体が、光にほどけはじめた。
鱗が、翼が、鋭い爪が、粒子になって崩れ、渦を巻いて、みるみる小さくなっていく。あれほど大きかった竜が、光の中で、人の形へと縮んでいった。
拘束の鎖が、役目を終えて消える。
やがて――光が、晴れた。
雪の上に、崩れ落ちるように膝をつく人影。
眩い金色の長い髪。優しい薄青の瞳。一年前と、何も変わらない、大好きな人。
「……シャロン」
掠れた、けれど確かに人の声で、兄が私の名を呼んだ。
私は、もう堪えられなかった。
目の前の兄に、力いっぱい抱きつく。
「おかえりなさい、お兄様」
冷たかった体に、少しずつ、温もりが戻っていく。
腕の中で、兄が、いつもの優しい声で笑った気がした。
「――ただいま」
穏やかな声音は、長く続いた宿命が一つの終わりを迎えたことを知らせてくれた。




