第91話 大団円 (Side:アルヴィン)
差し込んできた朝の光に、僕は目を開けた。
天蓋の布地が、見慣れた自室の天井を縁取っている。
人の寝台で、人として迎える朝。もうすっかり慣れたはずのその当たり前が、今でもときどき、ひどく尊いものに思えて仕方がない。
寝返りを打つと、首元でひやりと硬いものが肌に触れた。涙の形をした、大粒の青い宝石――ドロテアの涙。これを提げているかぎり、僕はもう二度と、あの異形の巨体に戻ることはない。
僕は指先で石をなぞってから、ゆっくりと身を起こした。
――今日は、待ち望んだ、大切な一日。
支度を、始めなければ。
使用人を呼ぶために、サイドテーブルに置かれた呼び鈴に手を伸ばしながら、僕はぼんやりと、この数か月のことを思い返していた。
あの雪山で、カルロとシャロンが僕を人に戻してくれたあの日から――世界は驚くほど大きく、静かに、姿を変えていったのだ。
◆◆◆
まず変わったのは、この世界を長く蝕んできた、恐化そのものへの向き合い方だった。
竜の力を取り戻した僕は、これまで犬猿の仲を演じてきたガードナー家と――そして、その裏に連なる竜神教の面々と――手を組んだ。特にガードナーとの関係改善については、世間では「建国以来敵対していた大貴族が和解した」と大事件のように報じられたが、元々、彼らは宗家に準ずる意向だった。彼らに否やはない。
恐化への対処は、単純だった。僕や竜神教の幹部らが瘴気の凝った土地へ赴き、古代魔法や禁術で浄化する。かつて、竜の一族がそうしていたように。
核の在り処を見つけ出すのは、シャロンの力を借りた。”贄姫”の素質が元々あったのだろうか。核を見つけ出すのは僕よりもシャロンの方が長けていた。恐化は根から断つため――という名目で、シャロンと一緒にいくつもの土地を回れるのは役得だった。各地を臆せず回るシャロンを見ていると、屋敷に引き籠っていたか弱い少女が、随分と成長したものだと感心する。
誰も生贄にせず、世界の穢れを消していく。
かつては絵空事だったその道が、今は、少しずつ現実として回りはじめている。
フロスト家の立て直しは、もっと呆気なかった。
何せ、僕の手には、切り札がある。竜の一族の来歴、魔法の由来、そして――王家が長きにわたって都合よく覆い隠してきた、歴史の真実。それらをそっと卓の上に並べてやるだけで、今の権力者の殆どは、面白いほど青ざめた。
あとは、簡単だ。意味深ににっこりと笑うだけで、失墜していたフロスト家の名誉と地位は、何故か一瞬で元通りに――いや、以前よりずっと確かなものになった。
もっとも、真の歴史が誰にどこまで正しく伝わっているのかは、僕にもわからない。ひょっとすると、真相を知るのはガードナーだけで、あとは古代魔法を自在に操る僕を、ただ恐れただけなのかもしれない。
理由はどうだっていい。――シャロンを守るためならば。
「相変わらず、お前だけは絶対に敵に回したくねぇな」
事の顛末を聞いたカルロは、呆れた顔でそう言った。誉め言葉として受け取っておくことにする。
これはフロスト家嫡男としての仕事ではない。そもそもこの一年の名誉の失墜は、シャロンの事件に端を発していた。彼女の風評被害につながる事象を、そのままにしておくわけにはいかない。――妹のためなら、僕は王家だって笑顔で脅せるのだ。
そのカルロはといえば、僕らのごたごたに付き合い散々後回しにしていた進路を、魔塔所属に決めた。
黒騎士団は涙を流して悔しがり、何度も考え直すようにと説得されたようだが、カルロの意思は変わらなかった。
アーノルドやダミアンといった既知の顔ぶれの力も借りながら、カルロは古代魔法の秘密を解き明かそうとしている。神器に頼らず、誰の血も贄も差し出さず、恐化に抗う術はないか――後の世に、二度と僕らのような犠牲を生まないために。
地道で、気の遠くなるような研究だ。だけどあの男なら、いつか答えに辿り着くのだろう。そういう星のもとに生まれた男だと、親友の僕が、誰よりよく知っている。
◆◆◆
そして――今日を、迎えた。
王都の大聖堂に隣接する控室は、朝から柔らかな光で満ちていた。
僕は、花婿の正装に身を包み窮屈そうな顔をしているカルロへ、冷ややかな視線を向ける。
「ねぇ、カルロ。今からでも遅くはない。この後の式典も全て、辞めてしまってもいいんだよ。誰も君を責めやしない」
「……おい」
「よく考えてごらん。君ごときが、シャロンを幸せにできるとでも? 昔、言っただろう。シャロンを少しでも傷つけ、怯えさせる存在はこの世から排除するべきだ。今の僕にはそれができる。例え君が、世界一の黒魔導師だとしても」
「神器に手を当てて言うな、洒落になんねぇだろ。……つーか、ここまで来て破談を唆すな」
カルロが、心底うんざりした顔で溜め息をつく。
僕としては、決して洒落を言ったつもりはないのだけれど。
「お兄様。来てくださったのですね」
鈴を転がす美声に振り返って――僕は、息を呑んだ。
そこに立っていたのは、純白の花嫁だった。
肩をあらわにした総レースのドレスが、幾重にも咲いた白い花の刺繍をまとって、床へと長く裾を引いている。結い上げた金の髪にはティアラと、霞のように薄いベール。真珠の連なる首元も、腕に抱いた白百合と白薔薇の花束も、何もかもが、まるで彼女のために生まれてきたかのようだった。
「シャロン――! びっくりした、天使が翼を忘れて降りて来たのかと思ったよ……!」
「お、お兄様……」
「ああ、本当にきれいだ。君は昔から、日ごとに美しくなっていくのだから……! これ以上可愛くなられると、僕の語彙では褒めきれなくなってしまうよ」
「もう……大袈裟です」
昔なら、ここで顔を真っ赤にして俯いていた妹が――今日は、困ったように、けれど確かに嬉しそうに、ふふ、と笑った。
「相変わらずですね。……でも、ありがとうございます。レイアや侍女たちが、一生懸命着飾ってくれたのです。一日千秋の気持ちで臨む、晴れの日なのだからと」
柔らかな微笑を湛える妹が眩しくて、目を眇める。
幼い頃、いつも僕の後ろに隠れてびくびくしていたシャロンは、もうどこにもいない。ここにいるのは、自分の足でまっすぐに立つ、一人の美しい淑女だ。
「……本当に、綺麗だよ、シャロン」
今度は、飾りのない言葉が、するりと零れた。
周囲に護られるだけだった小さな子が、自分の足で立ち、自分の意志で、生涯を共にする相手を選んだ。その事実が、なぜだか無性に、僕の胸を締めつけた。
――本当は、とっくにわかっている。
カルロは、シャロンを任せるに足る、世界で唯一の男だ。彼以外の誰が名乗りを上げようと、僕はどんな手を使ってでも縁談を破談にしただろう。
一度僕は、諦めた。カルロにすべてを託して、雪山で責務を投げ出し、消えていくことを望んだ。
そんな選択を考えることができたのは、カルロが唯一信頼できる男だからだ。
「シャロン。一つだけ、聞かせておくれ。君は今――幸せ、かい?」
シャロンは、長い睫毛を上下させ、きょとんとした。
そのまま、頬を上気させ、嬉しそうに微笑む。
「……はいっ。もちろんです」
太陽の輝きが霞むくらいの笑顔で、シャロンははっきりと言い切る。
あの雪山で、世界のことなど知ったことかと――シャロンさえ無事なら、自分の命さえどうでもいいと投げ出した僕に、彼女は言った。
『私の隣で、笑っていてほしい』と。
笑顔の僕がいなければ、彼女は本当の意味で幸せになれないのだと――
だから僕は今日、こうしてここに立っている。花嫁の兄として、この幸福な一日を、見届けるために。
彼女の人生を、真の意味で『幸せ』なものにしてやるために。
やがて、鐘が鳴った。
扉が開き、春の光が、まっすぐに差し込んでくる。
その光の中へ、二人が――そして僕らが、そろって歩き出す。
長く閉ざされていた冬は、もう、とうに明けていた。
これで完結です!
連載版投稿開始から約1年、最後までお付き合いいただき、誠にありがとうございました。
ぜひ、読み終えての感想やレビューなどいただけますと幸いです!
次回作もただいま構想中……お楽しみに!




