第89話 逆鱗 (Side:カルロ)
レーヴ領まで再び鉄道に揺られ、三日。レーヴ家で一泊させてもらい、準備を整えてから、さらに半日、雪を踏んで山を登った。トビアスの協力で、山道の雪は俺たちの到着前に魔道具で溶かしてあった。おかげで道に迷うこともなく、快適に登れたのはありがたい。
目当ての場所は、山頂ではなく中腹だ。木々がぷつりと途切れ、開けた雪原がぽっかりと広がっている。頭上を仰げば、白く霞んだ稜線の向こうに、アルヴィンが眠っているであろう山頂が見えた。
「……ここで、いいんですね」
シャロンが息を吐いた。吐いた白が、すぐに風にさらわれて消える。
「ああ。マダムの手はずで、昨夜の内に魔方陣はもう描いてある。あとは雪を被せて隠すだけだ」
俺は膝をついて、手袋の指で雪をどけた。地面に刻んだ陣の縁が、うっすらと覗く。ひと晩越しでも、線は崩れず残ってくれていた。詰めていた息が、そっと緩む。
仕上げに、上から新しい雪を薄く撒いておく。これで竜の目には、ただの雪原にしか映らないはずだ。
「寒いか」
「平気です。……カルロこそ、指がかじかんでいるでしょう」
言うが早いか、シャロンが俺の手を両手で包んだ。
シャロンは包んだ手にはぁっと息を吹きかけ、それから目を閉じた。
「『加護の章』――この者の腕に力を、足に速さを与えたまえ」
指先から、じんわりと熱が広がっていく。かじかみが解けて、代わりに芯の通った力が巡り出すのがわかった。白魔法の、守りの祈りだ。
「……無事に、三人で、帰りましょう。約束です」
「誰に言ってる。こんな可憐な天使に無事を祈られたら、百人力だ」
包まれた手をぎゅっと握り返す。いつもの軽口と思ったのか、シャロンはふふっと朗らかに笑ったが、割と本気だ。
これから、三人で――必ず、帰る。
覚悟を決めると、シャロンを魔法陣の際に立たせ、俺は数歩離れた。
「いいか。竜を陣の上まで運ぶのは俺がやる。お前は、拘束の呪文に集中しろ」
「……はい」
シャロンが頷く。細い喉が、こくりと上下した。
シャロンは小さく息を整え、目を伏せた。唇が、聖典のどこにもない言葉を、低く紡ぎ始める。今日のために彼女が必死に練習してきた、禁術の詠唱だ。分家の――竜神教の、魔法。
空気がぴりっと張り詰めていく。陣の縁が、ほのかに光を帯びた。
あとは、俺の仕事だ。
暴れる竜を人の形に戻せるのは、この世でシャロンただ一人。天才だなんだと持ち上げられた俺にも、それだけは、逆立ちしたってできはしない。
――だから、必ず陣まで運ぶ。
俺は雪を蹴って、山頂へ続く斜面へ向き直った。
遥か高みにある頂を睨み、俺は静かに魔法を展開する。肉声をしっかりと頂上まで届けられるよう、音の伝達を長距離へと伸ばす魔法だ。
シャロンにまで大音量を届けないよう方向を正確に調整してから、俺はすぅっと大きく息を吸い込む。そのまま、ありったけの声量を山頂へ向かって叩きつけた。
「おーい、アルヴィン! 俺だ! カルロだ! 来てやったぞ!」
まずは、正攻法で、様子を見る。シャロンも呪文を唱えながら祈るような顔をしている。
「聞こえてるんだろ! シャロンも一緒だ! 降りてこいよ!」
びりびりと音が空気を震わせるが、山の澄んだ冷たい空気は、竜の羽音一つ拾わない。
呪文を唱えながら心もとなげにこちらを窺うシャロンに、大丈夫だ、と視線だけで頷く。
最初から、正攻法で攻略できるだなんて思ってない。
一年間、討伐隊を退けてまで引き籠っているからには、アルヴィンは自分の意志で世界に関与しないと決めているのだろう。あるいは、俺の呼びかけすら、自身を討伐するための罠と考えているのかもしれない。
そんなあいつを引きずり出すには――奥の手を出すしかない。
俺は、もう一度大きく息を吸い込んだ。
「降りてこないなら、それでもいい! 別に、お前を討伐しようとか、会いにきたとか、そういう訳じゃないからな!」
雪をかぶったまましんと鎮まった稜線に向かって、俺は構わず続けた。
「今日は、報告に来ただけだ。――ついに、シャロンと結婚することになった!!」
「――!?」
背後で、詠唱が乱れる気配がした。動揺が伝わるが、俺は堂々と宣言を続ける。
「よくも五年間、散々邪魔してくれたな! お前、シャロンも俺に惚れてるって知ってて黙ってただろ! だけど一応、お前もシャロンの家族だ。結婚式の前に、義理だけ通しておこうと思ってなぁ!」
視界の端で、シャロンがオロオロとしているのが目に入る。唇は辛うじて動き続けているが、困惑は隠しきれていない。
シャロンは、意味が分からないだろう。ただの結婚報告を、どうして今、このタイミングで――と思っているはずだ。
だが、シャロンは知らない。自分が兄に愛されている自覚はあるようだが――その度合いが、常軌を逸しているだなんて。
シャロンが誰か男の元に嫁ぐ――その事実を聞かされたアルヴィンが、どんな反応をするかなんて。
「社交デビューも済ませた! この世のものとは思えないくらいの美少女だったぞ! 手を引いて、腰を抱いて――国中の男の羨望を一身に集めて、いい気分だった!」
「!?」
だが、俺は、知ってる。
もしも、竜の意識の中に、ほんの少しでもアルヴィンの意識が残っているならば――
シャロンに手を出す不届き者を、許すはずがない。
「安心しろ! お前が山頂に引き籠ってる間に、可愛い妹は俺がもらうぜ! 世界一綺麗なシャロンの花嫁姿を見られないなんて、残念だったなぁ! お義兄様よぉ!!」
締めくくると同時。
――地面が、揺れた。
どぐん、と腹の底に響く重い震動。稜線の雪が、音を立てて崩れていく。白い山肌の奥から、ぎょろりと、巨大な薄青の眼が一つ、開いた。
明確に怒気を孕んだ瞳が、まっすぐに俺を射抜く。
背後で、シャロンが息を呑むのがわかった。まさか、こんなことで、と言いたげに。
――が、それが竜を引きずり出したのは、紛れもない事実だった。
「はっ……筋金入りの、シスコンが」
思わず、笑いが漏れる。
――効いた。つまり、あのばかでかい図体の中には、まだちゃんと残っているわけだ。
最愛の妹への狂気じみた独占欲をむき出しにする、あいつの意識が。
薄青の巨体が、雪煙を巻いて斜面を滑り降りてくる。
でかい。改めて、圧倒的にでかい。翼を広げれば、山肌の半分が影に沈むほどに。
竜が大きく口を開けた。喉の奥に、眩い光が渦を巻いて集まっていく。
――来る。
俺は魔力を一息に編み上げた。俺と竜の間に、分厚い氷の壁がせり上がる。
次の瞬間、閃光が壁を撃ち抜いた。氷はあっけなく蒸発したが、一拍は稼げた。その隙に、俺は横っ跳びで雪原を駆ける。
脚が、驚くほど軽い。シャロンの白魔法だ。踏み込むたび、雪を蹴る力が普段の倍は出ていた。
走りながら右手に魔力を凝らし、黒い刃の群れを竜の側頭部へ撃ち放つ。
だが、竜はこちらを一瞥しただけだった。刃は届く前に空中でほどけ、霧のように掻き消える。――やはり、まともには通らない。
だが、それでいい。狙いは、当てることじゃない。
消えた刃に気を取られた竜の足元へ、俺はすかさず次の魔法を滑り込ませた。雪原が爆ぜ、氷塊がせり上がって、巨体の進路を塞ぐ。舌打ちでもするみたいに、竜が首を振って向きを変えた。
――そう、そっちだ。
誘い、躱し、揺さぶる。通じない魔法で気を引き、通じる魔法で足元を削る。俺の間合いへ、少しずつ引きずり込む。
巨体は苛立ち、暴れ、それでも確実に――陣の中心へ、中心へと、追い込まれていく。
目標まで、あと少し。
俺は竜を引きつけたまま、陣の際すれすれを駆け抜ける。
と、竜が痺れを切らしたように前脚を振り上げた。俺めがけて、鉤爪が唸りを上げて振り下ろされる。
だが、その一撃の軌道の先には――俺だけでなく、詠唱を続けるシャロンがいた。
「シャロン……!」
俺の声が、悲鳴になりかけた、その時。
竜の腕が、びくりと止まった。
振り下ろされる寸前で鉤爪がぐにゃりと逸れ、シャロンの数歩手前の雪を、深々と抉る。白い雪煙が、派手に舞い上がった。
その時、俺は確かに見た。獣の狂気の底で、あいつが、妹を傷つけまいと腕を止めた、その一瞬を。
やっぱり、いる。まだ、そこにいる。
だが、感傷に浸る暇はない。狙いを逸らした竜の巨体は、勢いを殺しきれず、魔方陣の中心へたたらを踏んでいた。
「シャロン、今だ!」
叫んだ時にはもう、シャロンは最後の一節を言い切っていた。
瞬間、陣が眩い光を噴き上げる。
地に刻まれた紋様から、幾条もの光の鎖が奔り、薄青の巨体を四肢から搦め捕った。竜が、初めて苦悶の咆哮を上げる。雪原が、びりびりと震えた。
光の枷が、軋みながら――確かに、竜を、繋ぎ止めた。




